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【第2部 ハウス・デュマー】8.散乱の色

 十時三十分。時間通りだった。エンジン音のあとに小石が跳ね飛ばされる音が聞こえ、俺が玄関ドアをあけるのと、門扉の外に車がつけられたのが同時だった。深みのある青色が眼をひく。流線型の車体に、ヘッドライトは切れ長の眸のような形をしている。うとい俺でも知っている、国産メーカーの高級SUVだ。  助手席のドアが開き、スーツ姿の三波が姿を現した。俺は「私道だから道路脇にとめていい」と声を張る。  三波はうなずいた。肩から鞄を下げ、小さめの段ボール箱を胸に抱えながら門扉をあける。車はなめらかに路肩に寄り、運転席のドアが開く。三波は振り向きもせず、まっすぐ俺の方へ石畳を歩いてきた。 「おはようございます」 「遠くから悪いね」 「かまいませんよ」  三波の両手がふさがっているので、たたきの上で扉を押さえながら「上がってまっすぐ、一番奥の部屋だ」と伝えると、うなずいて靴を脱いだ。藤野谷が石畳を踏んでくる。空は薄雲がかかり、まだ春といえるほどの気候ではないのに霞んで明るい。藤野谷の周囲に空の光の一部がまとわりついているようにみえて、俺は眼を細めた。 「サエ」  扉をくぐった藤野谷は軽くうなずき、周囲を見回している。いつもガレージから出入りしているから、ここは壁にむかし描いた小さな水彩を掛けているだけで、隅には履く機会の少ない革靴が箱に入れたまま積んである。  俺は玄関の扉を押さえたまま、ふと気後れと威圧感を覚えた。これまで藤野谷に感じたことのない――いや、あまり気にしたことのなかった感覚だった。  ビジネススーツの藤野谷に会うのも久しぶりだ。一月の中間発表の時以来だろう。背筋が凛とのびて格好良い。  俺は藤野谷を凝視していた自分に気づいてはっとし、顔をそらすと「あがれよ」といった。 「僕は先に行ってますから」  三波がそっけなくいって段ボールを抱えた。俺はあわてて「持つよ」といったが藤野谷の方が早く、靴も脱がずに手を伸ばす。だが三波は肩をそらすようにして藤野谷の手を避けた。 「大丈夫です。奥ですよね」  目線で俺に確認して、靴下のまま廊下をいく。うしろ姿に「スリッパいいか?」と声を投げると「滑るので苦手なんです。ありがとうございます」と声だけ戻ってきた。 「どうしたんだ? 喧嘩でもしたのか?」  思わず藤野谷に向けてつぶやいたが、彼はまだ玄関に立ったままで、俺は突然見られていることを意識した。藤野谷の気配――あの色と匂いがふわりと大きく、俺を包むような錯覚を覚える。焦って扉を閉めるとバタンと大きな音が鳴る。閉じられた空間で俺の視界にいる藤野谷がさらに大きくなった気がした。  理由もなく怖い、と思った。だがそれは一瞬のことで、藤野谷が首をふって「いや」といった途端に消えた。 「意見の相違があっただけだ。奥の部屋?」 「作業部屋だ」 「入っても?」 「でなければ何のために来たんだよ」  いつもの藤野谷だ。俺は先に立って廊下をいく。三波はもう段ボールをあけて中身を床に広げていた。 「パソコン、動かしてかまいませんか? そこの棚も少しずらせると楽なんですが」  三波はあいかわらず藤野谷の方を見なかった。必要なことしかしゃべらないのは彼らしくない。TEN-ZEROのチームのオメガふたりは、俺がみるにボケ担当鷹尾、ツッコミ担当三波なのだが。 「やりやすいように動かしてくれ。ありがとう。どのくらいかかる?」 「つなぐのはすぐできるので、設定前にログインしてほしいんです。OSやアプリの更新によっては時間がかかるかもしれません」  三波は話しながらてきぱきと機材を接続する。藤野谷が俺のうしろに立っているのがやはり落ち着かない。久しぶりのせいだろうか、今日は藤野谷の存在感が大きすぎる。パソコンにログインするとキーボードを三波の手がすばやく動き、俺には何をするのかわからない画面を呼び出した。 「椅子に座ってくれ。コーヒー、飲むか?」  そう提案すると三波はほっとしたようにみえた。 「ええ。ありがとうございます」 「砂糖とミルクは?」 「ください」  藤野谷は腕を組んで書棚を眺めている。資料や画集、事典類、学術書に海外の写真雑誌と中身は雑多だ。スケッチブックの棚は扉つきで、いつもは開けっ放しなのだが今日は閉めてある。藤野谷がものいいたげにこちらをみるので「本は好きに見ていいぞ」と俺は声をかけ、キッチンへ行った。  ドアをしめて藤野谷の気配を締め出す。途端に体じゅうから力が抜けた。冷蔵庫にもたれて息を吐く。自分の血がめぐる音がきこえそうだ。  ああ、だめだ。  自分でもわけがわからないままにそう思った。無意識に背中に貼った中和剤のパッチへ手が伸びる。峡はいい顔をしないだろうが、今日は倍の数を貼っているのだ。妙に頭がくらくらするのもこのせいかもしれない。  ポットをコンロにかけると先日母が送ってきた豆を挽き、手でドリップした。いつもはコーヒーメーカーですませるのだが、ハンドドリップはカフェ・キノネのマスター仕込みだ。コーヒーの粉に熱湯を注ぐのに集中して、時間をかけてコーヒーを入れた。  自分の分をマグカップに注ぎ、あとは来客用のコーヒーカップを使った。木の葉のあいだに小鳥がのぞく模様が描かれている。客用ふたつをトレイにのせて作業部屋の入口までいったとき、三波の尖った声がきこえた。 「まったく、どうしてあんたはそんなクソったれアルファなんです?」  俺はびくりと立ち止まった。ソーサーが当たってカチャカチャ鳴る。ふたりが同時に俺をみて、口をつぐんだ。 「コーヒー……入れたけど」  三波が立ち上がって「すみません」といい、トレイを受け取ろうとする。 「更新がたまってるせいでかなり時間、かかりそうです」 「俺は一日あけてるからかまわないよ。昼になりそうなら飯を食べて帰るか?」  三波はトレイをデスクに置いた。藤野谷は窓際の椅子に座って本を開いている。 「佐枝さん、気を遣わないでください」 「俺も飯は食うから。どうせ適当だ」  俺はそういってキッチンへひっこんだ。ついでにカレーでも作ろうと考える。この場にいるのがいたたまれなかったし、藤野谷と三波の話を聞きたいわけでもない。  玉ねぎの皮を剥いてみじん切りにした。シナモン、クミン、カルダモン、コリアンダー、それに刻んだニンニク。鍋に冷たい油とスパイス、ニンニクを入れて弱火にかけ、香りが立ったところで玉ねぎを入れる。  俺のカレーは峡がたまにここにやってきて作るような本格派インドカレーではない。市販のルゥがないと味が決まらないのだ。玉ねぎを火にかけたまま、背伸びしてシンクの上の棚にしまったカレールゥやトマト缶を探っていたから、ドアが開く音に気づかなかった。  おまけに真後ろに立たれるまで藤野谷だとわからなかったのはスパイスの香りのせいだろう。 「取ろう。どれ?」  うなじの上でささやかれ、俺は硬直した。 「――ルゥの箱と右の缶詰」  何とか答えてコンロの前へ戻る。フライパンを強火で熱し、うすく油を流して塩コショウした肉を入れる。ジュっと大きな音が立つ。肉に焼き目がついたところで玉ねぎの鍋に加え、ニンジンの皮をむく。 「大丈夫なのか?」  そういって藤野谷の方をみると、向こうもテーブルの端に腰をのせるようにして俺をみていた。スーツの上を脱いで、ネクタイも外している。薄いストライプのシャツごしでも引き締まった体型がわかる。俺は視線をはずした。 「何が」と藤野谷がいう。 「三波」 「大丈夫だよ。腕はたしかだし、俺がいる方が邪魔だ」  だったらどうしてついてきたんだ、といいたくなったのを俺はこらえる。 「そうじゃなくて。何かもめてるのか?」  藤野谷は答えなかった。俺はニンジンを鍋にほうりこみ、トマト缶も開けて加える。水を空き缶で計って鍋にいれ、次にジャガイモを洗った。 「ここにずっと住んでるのか」  唐突に藤野谷がたずねた。 「そうだよ」 「大学を出てから?」 「ああ」 「表札の名前が違う」 「家主だよ」  この家はもとは佐井家の遠縁のものだった。俺がここに住んでいる名目は管理のためで、その前は長い間空き家だった。  俺は煮立ってきた鍋をときどきかき混ぜ、一方でジャガイモの皮をむく。大ぶりに切って鍋に入れると蓋をして火力を調節する。 「サエ」と藤野谷がいう。  俺はまな板やザルをシンクに押しやった。 「何」 「大学を出たとき――二度と会わないつもりだった?」  俺は水道をひねった。 「そうかもしれない」 「俺はサエを探した」 「そうか」  俺は道具を洗い、炊飯器をセットし、鍋をかき混ぜた。カレールゥはまだ入れていないのに、スパイスのおかげですでにカレーらしい匂いがする。俺が黙々と動いているあいだ、藤野谷は黙って立っていたが、やがていった。 「本気で探したんだ。しばらくは。父に頼んでまで。なのにみつからなかったから、俺はあきらめた。あきらめて何年もたって――なのにどうしてまた会ってしまうんだ? 運命みたいに」 「運命なんて、おまえがもっとも嫌いそうな話じゃないか」  鍋の中を凝視したまま俺はいう。 「でも、そう思った」  背後に感じる藤野谷の気配に押されていた。圧力が大きくなって、今にもはじけそうだ。俺はスパイスの匂いを嗅ぎ、正気を保とうとする。 「高校で会った時も、大学でも。サエは思わなかった? それに……それにサエは、本当は俺が嫌なんじゃない。そんなはずはない。もしそうだったら、どうしていつも断らなかった? 俺のオファーを――大学の時も、今回も」  俺はジャガイモの煮え具合をみる。まだ少し固い。ふりむいてはいけない、と頭の一部が命令する。ふりむいたら終わりだ。  それでも口は勝手に動いた。 「おまえが……友達だからだよ。おまえといると楽しいから。おまえが……好きだから、友達として……」 「友達として? だったらどうして逃げるんだ?」  藤野谷の吐息をすぐ後ろに感じる。 「サエは……俺にはわからない」  藤野谷は小さな声でいった。うなじの毛が逆立ち、手がふるえそうになって、俺はあわてて蓋をしめたが、ほとんど鍋の真上に落としたようになった。ガチャンと音が鳴る。お守りのように感じていたスパイスの香りが途絶えた。  するりと藤野谷の腕が腹の前に回る。  俺は背後から抱きしめられていた。腰を引き寄せられ、動くことができない。心臓がものすごい速さで鼓動を打った。頭の中が藤野谷の匂いでいっぱいになる。 「サエは俺に何か隠してるけど、それは問題じゃない。たとえおまえにそっくりのオメガがいるとしても……それでも俺は」 「藤野谷」なんとか俺は声を絞り出した。 「離してくれ」 「天って呼べ」耳元でささやかれた。 「藤野谷」  頭の中はぐるぐる回り、体に力が入らない。藤野谷はこんな俺をどう感じるのだろう、と思ったとたん、するどい恐怖のようなものが刺しこんで、その勢いで俺は藤野谷のシャツをつかんだ。彼の腕をひきはがし、正面を向いて向き合う。 「ふざけるな。三波がいるだろうが、そこに」  俺と眼を合わせ、藤野谷は微笑んだ。背筋がぞくりとした。俺が見たことのない獰猛な微笑だった。 「サエが俺に何を隠していてもかまわない。俺はおまえが欲しい」  藤野谷の腕が俺の背中にまわり、押されてテーブルに腰があたる。藤野谷の腕力だけでない、俺の頭がぼうっとして、ふりはらうことができない。 「はっきりわかった。今もおまえだけが好きだ。アルファだとかオメガだとか――そんなのはどうでもいい」  唇が塞がれた。あまりにも甘い、甘い匂いが触手のように俺をとらえた。押しつけられる唇をそのまま受けとめてしまい、俺は動けなくなる。  最悪だった。藤野谷に抵抗できないのも最悪だし、三波がすぐそこにいるのにこんなていたらくなのも最悪だし、何よりも俺が最悪だった。藤野谷に好きだといわれて喜んでいる俺自身が。藤野谷の腕の中で蕩けそうになっている俺の体が。 「サエ……」  唇が一瞬離れたすきに俺は体をねじって肘をうちこむ。藤野谷の顔が一瞬苦痛に歪む。胸の底がズキリと痛むが「どうでもいい?」と俺は叫んだ。 「馬鹿をいうなよ。おまえは自分の家の都合でオメガと結婚しなくちゃいけないといっただろうが。昔はあんなに――あんなにオメガを嫌ってたくせに。だいたいおまえは俺をベータだと思ってるからそんなことをいうんだ。ずっとそうだろう。ずっと――高校のときだって」 「サエ」 「俺がベータじゃなかったらどうなんだ?」  俺は少し気が動転していたのだと思う。何も考えていなかった。「もし俺が――俺がオ…」  ドアがガチャッと音を立てた。  はっとして俺は黙り、藤野谷もそちらをふりむいた。三波が立っていた。 「佐枝さん、終わりました」  俺は強烈な罪悪感に襲われた。三波は俺と藤野谷を交互にみつめ、疲れたような顔で微笑んだ。 「いい匂いしますけど、カレーですか?」  あわててふりむいて鍋をみる。とっくにジャガイモは煮えていた。俺は鍋に割ったルゥを放りこんだ。炊飯器からも湯気が立ち、スパイシーなカレーと米の香りがキッチンを満たす。まだ俺の鼻先にまとわりついている藤野谷の匂いがそこへ混ざり、薄れていった。 「サエ――今の話は……」  藤野谷が何かいいかけたが、俺は鍋をみつめたまま首をふった。 「もういい。向かいがリビングだ。そこで食おう」  俺はそっちへ行けと藤野谷に手を振る。しぶしぶといった様子で藤野谷が動くのを見送ったが、興奮でレードルを持つ手がふるえた。三波が怪訝な、あるいは不審な眼つきでみるのも無理はない。  それでも三波は「先に説明していいですか?」と聞いてきたので、俺は彼と作業部屋へ行った。藤野谷から離れられるのも、三波がインストールしたアプリや機材について明快に説明する声もありがたかった。さっきの藤野谷を思い出すたびに、俺の中にはうしろめたさがもくもくと湧き出てくるのだが、三波の方はしゃべっているうちにいつもの軽快で明るい口調が戻ってきたようだ。  俺はそれに少しほっとして、だから唐突に「佐枝さん、オメガの兄弟がいます?」とたずねられたときには虚をつかれた。 「いや」 「そうですか」  三波はあっさり答え、それ以上は聞かなかったが、表情はまだ怪訝というか、不思議そうだった。重ねていわれた。 「佐枝さん、ボスがほんとは佐枝さんのこと好きなの知ってますよね。さっきも迫られてました?」  俺は何と返せばいいのかわからなかった。  三波の眼は怒っているようにも嫌悪しているようにも見えなかった。いつもと変わらない、鋭さと柔和さが混ざった印象的な美貌の中で、薄紅い唇がひらく。 「何度かいってますけど、僕は佐枝さんの作品のファンなんですよ。だから仕事部屋に入れてもらえて光栄です。だいたいボスに最初に佐枝さんの動画のことを教えたの、僕ですから」 「そうなのか」  三波はくくっと妙な笑い声を立てる。 「これは鷹尾にも秘密なんですが、実をいうと藤野谷さんとはこの会社に入る前から知り合いだったんです。鷹尾がいじってくる通り、僕は学生の頃から遊ぶのが好きだったんで、巷のハウスでボスが悪評を立てていたころに何度か会ってて」 「え?」俺は耳を疑った。 「TEN-ZEROを創業する前だと思います。そういうときもあったって話です」  三波はキーボードをたたいた。パソコンの画面に黒い窓と文字列が出て、それを消すのをくりかえす。無意味な操作なのは俺にもわかった。 「まー……就職したらトップがまさかのその人で、それこそ運命の出会いかと」  冗談めかした口調で続ける。「僕はほんとは藤野谷さんみたいな……なんていうのかな、典型的なオレオレアルファはタイプじゃないんですよ。去年は遊ぶのにも飽きたし落ち着くのもいいかとは思ったんですが、藤野谷さんの一族とやらがどれだけ立派でも、跡継ぎが必要だなんて理由はね。まっぴらです」 「三波」 「僕が誰かとつがいになるのはそんな理由じゃない。名族なんてどうでもいいですからね僕は。そんなこんなで、少し前からもめていたんです。それと僕が佐枝さんとこに行くって直接いってなかったのもまずかったらしくて。すみません、なんだか……変な雰囲気で」  俺はぼそぼそとつぶやいた。 「いや、謝るなよ」 「そんなわけで、僕がボスと別れる可能性が今日の時点で七十パーセントくらいなので、どうなっても気にしないでください」  三波らしいせりふだった。俺は苦笑した。 「カレー喰う?」 「いただきたいです」 「期待するなよ」  カレーの皿をリビングに運ぶと、藤野谷はクリスマス以来置きっぱなしになっている流木のツリーのそばに膝をついていた。ガラスのオーナメントに反射する光が藤野谷のまとう色とまざって、俺は眼を瞬かせる。 「どうした?」 「いや、見覚えがあるなと思って」 「そのトナカイ? 俺の母の手作りだぞ」  藤野谷がつついていたのは木彫りのトナカイだ。足を躍動的に曲げて駆けている生き生きした像なのだが、子供の頃の俺はこのトナカイは一頭だけサンタの橇から脱走したのだと思っていた。 「佐枝さん、カレー食べていいですか」  スプーンを持って待ち構える三波に俺はうなずく。ジャガイモが煮崩れそうなのをのぞけば悪くないカレーに見えた。三波は美味そうに食べ、藤野谷は何もいわなかったが、スプーンを置くこともなく皿を空にした。俺には味がしなかった。  テーブルの向かい側で藤野谷が俺を見つめていたせいかもしれない。カレーを食べているはずなのに、俺が感じていたのはさっきのキスだった。さっきのキスと、藤野谷の匂いだ。 「サエ、大丈夫か?」  何を思ったか藤野谷がたずねた。俺は何でもないとうなずいた。味がしなくて食欲がない、それだけだ。  昼食を食べると三波と藤野谷は会社へ戻った。小石を散らしながら青のSUVが発進すると、俺は家に戻って玄関に鍵をかけ、トイレに入って、吐いた。

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