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【第2部 ハウス・デュマー】9.霧の虹
『零』
加賀美が画面のむこうで眉をひそめている。
『具合が悪そうだ』
「うん。少し」
俺はそう答えたものの、逆にそこまでひどい顔色なのだろうかと不安になった。藤野谷と三波が帰ったあとで昼食を吐いたから、シャワーで体を洗ってしばらくリビングで眠り、そのせいか夕方になると気分はかなりよくなっていた。
シャワーで中和剤のパッチを剥がすとましになったので、やはりこれが良くなかったのかもしれない。峡にガミガミいわれるわけだ。でも藤野谷は俺に触れても気づかなかった――たぶん、そうだろう。加えて俺はヒートの兆候があるのではないかと内心びくびくしていたのだが、いまのところ何も感じなかった。
『どうした? 仕事が忙しい?』
「そんなわけでも……」
『会わないか?』
前触れなく加賀美はいった。彼の背後にはいつもの書棚があり、映像モニターは今日は暗いままだ。
『明日は土曜だろう? 暖かくなってきたし、零がよければふたりで出かけたいと思ったんだが』
俺は無意識に顔をしかめていたらしい。加賀美がなだめるようにふっと笑ったからだ。彼はひとの表情を読むのが得意だった。加賀美と話すとほっとするのは、彼が俺を細かく気づかってくれるからだ。画面越しに話しているにもかかわらず、どれだけ繊細に加賀美が言葉を選んでいるのかに気づいてはっとするときが何度かあった。
年上で余裕があるから、というわけでもないのだろう。藤野谷が加賀美の年齢になったところでこんな風になるとは思えない。大学生の藤野谷の声が浮かんでくる。高校の頃のように、彼はいつも俺を外へ誘い出そうとした。何度断ってもこりもせずに。
(サエ、***へ行かない?)
(俺はいいよ)
(どうして?)
(遠いだろ)
(俺が車出すよ。ついでにドライブしよう)
何度藤野谷に誘われても俺は断りつづけた。その頃はもう、十六歳の時と同じではないとわかっていたからだ。
藤野谷を頭から締め出したいのにそれができないのが辛かった。どうして今日、俺はあいつにいいかげんやめてくれといえなかったのだろう。おまけにうっかりおかしなことを口走りそうだった。また関わってしまったなら、せめて友人としてつかず離れずの距離でいられないのだろうか。そうすればあいつがもし本当のことを知ったとしても……
『零、気が進まないか?』
加賀美がいって、俺は不自然に黙りこんでしまったことに気づいた。
「ごめん、そんなわけじゃない」とあわてて答える。「考え事をしていて」
『こういうのはどう? 外へ出ない方がいいなら、明日の午後、デュマーのレストランでランチかアフタヌーンティーとしゃれこむんだ。それからシアタールームでゆっくり映画をみるというのは。予約しておくよ』
デュマーのレストランといえば、峡が「レシピを聞いてくれ」なんて冗談をいっていた店だ。
俺はおそるおそる言葉を探した。
「ええと――俺はデートに誘われている?」
『そう思ってくれて安心したよ』
加賀美は微笑んだ。
翌日、加賀美のいったとおり天気はよかったが、空はぼんやりと霞んでいる。約束の時間を前にして、俺は何を着るか迷った。なにしろデートと名のつく出来事に俺は縁がないのだ。悩むほど服を持っているわけでもないのに、ジャケットとシャツとパンツの組み合わせに悩み、峡に貰ったものの使う機会のなかったニットタイを試し、靴をどうするか悩んだあげく、しばらく履いていなかった革靴を磨いた。
三波ならこういうときけっして困らないのだろう。そういえば彼は昨日、藤野谷のようなオレオレアルファはタイプじゃない、といっていなかったか。あらためて思い出し、俺は思わずふきだした。あんな風に藤野谷をぶった切れるのは三波くらいではないだろうか。
迎えの車でハウス・デュマーにつき、AIエージェントのサムに挨拶する。昼間のハウスは夜とは雰囲気が少しちがうが、外部から完全に切り離された高級ホテルのような印象は変わらない。
加賀美はもうロビーにいて、俺をみとめて立ち上がった。テーラードジャケットとスリムなタートルネックセーターというスタイルが休日の午後によく似合う。
「零」
加賀美は満面の笑みを浮かべて横にならび、俺はごく自然に肩を抱かれた。今日はカーニバル・デイではない。中和剤も使っていないし、仮面もなく素顔をさらしているのに、ほっと息がつけるような気がした。昼間のデュマーが夜と違って落ち着いているせいか、それとも加賀美がまったく周囲を気にせずに堂々と立っているせいだろうか。
レストランはパティオに面していた。テーブルは淡いグリーンのクロスが敷かれ、一輪挿しに黄色い花が飾ってある。遅いランチのコースは、最初に峡が喜びそうな手のこんだ前菜とスープが出た。メインは加賀美が魚を選び、俺は肉にした。最後はデザートのアイスクリーム。
最近毎日のようにビデオを通じて顔をみているせいか、向かいに座る男と距離を感じなかった。食べながら昨日の続きのようにニュースや映画について話をして、食後のコーヒーを飲み、店を出たときだった。誰かに見られているような気がした。
俺はガラスに映った自分を確認するように眺める。見慣れた自分と少しちがっているような気がしたのは、慣れないニットタイのせいだろうか。
「零?」加賀美が呼んだ。
自意識過剰だと内心自分をわらって、俺は「なんでもない」と答えた。加賀美は長身をわずかにかがめ、俺の髪に触れた。指が耳のうしろをなぞり、首筋におりる。
「シアタールームへ行こうか」
AIエージェントのサムが今回案内した部屋は、二月のあの日に加賀美を待った部屋よりも奥にあった。あのとき俺は映画どころではなく、設備もほとんど確認できなかったのだが、この中は豪華な貸切ミニシアターといった趣だ。スピーカーは高級品だし、ミニバーもある。
ふかふかのソファに腰をおろすと自然と大きな画面を見上げるような姿勢になる。ついさっきレストランで話題にした作品を加賀美がリモコンで呼び出した。昨年アワードを受賞した海外の映画で、俺は見ていなかった。
加賀美は照明を半分落とした。オープニングがはじまるとすぐそばに加賀美の体温を感じる。映画は、敵対する一族に生まれたアルファとオメガが「運命のつがい」だったという古典的な恋愛要素に、前世紀の大戦で起きた殺人事件を絡めたストーリーだ。ラストでは主人公ふたりが「運命のつがい」だからこそ謎が解ける、そんなからくりになっている。
ありがちな物語だが、主人公ふたりの目線を生かしたユニークな映像構成や俳優の演技力、ラストに仕掛けられた驚きの種明かし、といった要素でヒットして、公開時は批評家にも高く評価された。
黒の背景に白文字のクレジットが流れ、俺はソファの上で伸びをする。
「どうだった?」と加賀美がたずねた。
「まあまあかな。協力して謎を解く部分は好きだ」
そう俺は答える。途中でソーダ割りを飲みはじめたせいで、少し酔いが回っていた。
「最後の仕掛けはどう思う?」
加賀美は立ち上がってミニバーへ回った。クレジットはまだしばらく続きそうだった。エンディングテーマが一度変わり、ユニット毎にスタッフの名前が流れていく。
「アルファに見えた方がオメガで、オメガらしい方がアルファだったというオチ? 面白いといえば面白いし、外見ではわからない、というのが現代的なのかな」
「要するに、零はあまり気に入らなかった?」
「いや。ただこういう映画だと、運命のつがいって万能薬みたいに使われるな、と思って」
ミニバーの方向から小さな笑い声が立った。
「たしかにそうだ」
映画の中では、主人公のふたりは「運命のつがい」だからこそ、何でも乗り越えられることになっている。親世代の憎悪は主人公ふたりとは無縁で、どちらがアルファでオメガなのかも関係がない。
「俺の親は――運命のつがい同士だったらしいけれど、万能薬どころか、そのせいでむしろ面倒が増えたと思うよ」
ぼそっとつぶやくと加賀美は眉をあげた。
「それは?」
たぶんウイスキーのせいだろう。口が軽くなっているのを自覚したが、まあいいかと俺は思った。
「俺を産んだ人は夫がいたのに運命のつがいと出会った。一度その相手のもとに走ったけれど、夫のところへ連れ戻された。それが数年後にまた偶然再会して、彼の元に逃げた。そして俺が生まれたんだ」
「それなら零は運命のつがいの子供なのか。それは……」
「めずらしい?」
「運命のつがいなんて、それこそほとんどの人は映画の中でしか知らないんじゃないか?」
グラスに氷の音を響かせながら加賀美が横に座る。膝が触れあって温かかった。
「この先の話を聞きたい?」と俺はたずねる。
「あらかじめいっておくけど、三流の怪談みたいになる」
加賀美はうなずいた。「聞きたいな」
「いつ知ったのかも覚えていないような話なんだ。俺もほんとうは信じていない」
「話してくれ」
肩がぴたりとくっついていた。エンドロールはそろそろ終わりそうだ。サウンドトラックの一覧が流れ、スペシャルサンクスがさらに続く。
「葉月は……俺を産んだ人は、その後居所をつきとめられて、また夫の|藍閃《らんせん》の元へ連れ戻され、一年後に病気で亡くなった。運命のつがいの相手は外国にいて、葉月が亡くなったことを知らされなかった。ところがある日――」
俺は少しためらった。予告していてもこのくだりを真面目に話すのは勇気がいる。
「葉月は戻った。空良のところへ」
「空良?」
「俺のもう一人の親」
俺はソーダ割りを飲み干した。もう少し濃いものが飲みたい気がする。
「夏の朝の夜明け、空良の家で葉月の声が聞こえたというんだ。帰ったよ、と。これからはふたりで暮らそう、と」
加賀美は無言だった。
「その直後、夫の藍閃がはるばる空良をたずねてきた。彼は庭の柵の外で葉月を呼んだ。大声で。空良が庭に出ると、白い砂利が突然空中に舞い上がったように見えた。まばたきしたら、それは全部真っ白の蝶に変わった。そしていっせいに上空へ飛び立った」
加賀美が黙って聞いているので、肩に触れる温もりはあっても、俺はひとりごとをいっているような気分になった。話の内容が童話か昔話のように現実味のないイメージだからか。
「俺が思うに、空良と藍閃のどちらか、でなければこの目撃者は危ないクスリでもやってたんじゃないかな。ともあれこのあとで空良は藍閃に葉月の死を知らされて帰国し、一緒に墓参りに行った。そしてこのふたりもいなくなった」
「いなくなった?」
「死者の国から葉月が呼んだのさ」
とたんに加賀美がかすかに顔をしかめた。俺はすこし調子にのりすぎたと後悔する。
「ごめん、いまのは嘘」
あわてて話を続けた。なぜか早口になった。
「ほんとうの話はこうだ。空良と藍閃は、葉月の骨を墓から持ち出して、一緒に海へ出たらしい。空良のヨットで。葉月は夫の家を嫌っていたから、散骨するつもりだったのかもしれない。ところが海が荒れて、ヨットは港に戻らなかった。捜索隊が出て、ヨットだけがずっと離れたところへ流れついたが、死体はあがらなかった。七年たってどちらにも失踪宣告が出た。これが俺の知っている、運命のつがいの話」
加賀美は物語を咀嚼するように、黙ってグラスを傾けていた。
俺はすこし興奮していたかもしれなかった。これまで誰にも話さなかったことを一気にしゃべったせいだろうか。
空良と藍閃のあいだに何があったのかは、いまだに俺の中で謎のままだ。この怪談じみた逸話をいつ知ったのかも覚えていない。子供の頃、大人が話した言葉の断片を勝手に自分が繋ぎあわせて作ったのか、俺にもっともらしく話して聞かせた大人がいるのか。
空良たちがヨットで失踪した事実について、俺は佐枝の両親に確かめていた。でも白い蝶など、子供の思いつきにしては景色が美しすぎた。全員が死んでしまう救いのない物語で、風景だけが奇妙に明るい。誰の思いつきだろう。峡がこんな話をするとも信じがたかった。
とはいえこの物語は俺や佐井家がもっている視点から語られたものにすぎない。藤野谷にとっては藍閃の失踪はもっと暗く陰鬱な意味合いを帯びている。なぜそんなことを俺が知っているかというと、高校生の藤野谷が、俺が誰なのかも知らずに、なにかのついでに話したからだ。
藤野谷によれば「失踪した伯父の相手だったオメガ」は、藤野谷家をめちゃくちゃにした、単なるよそものだった。藍閃の失踪後、葉月は藤野谷家では「いなかったもの」とされて、持ち物や写真もすべて捨てられてしまったらしい。だから藤野谷は彼の顔も知らない。その顔も知らないオメガのことを藤野谷がどう思っているのかは、推してしるべしだ。
(母がくりかえし俺にいうんだよ。時々うんざりする。十何年も前の話なのにさ。ほんとうにいなければよかったのにって。「運命のつがい」なんて災難のもとだって)
たしかに「運命のつがい」は災難のもとだった。自分をふりかえってみてもそうだった。
俺は立ちあがり、ウイスキーを濃いめの水割りにした。少し後悔していた。
「ごめん」加賀美のうしろでそっという。
「どうして?」と聞き返された。
「いやその……俺は酔ってる。ほんとはこんな話、人にしないんだ。つい……」
「いいよ」加賀美はソファの隣を叩いた。
「零、ここにおいで」
映画は完全に終わって、画面は暗くなっていた。俺はグラスを持って加賀美の横に座る。
「僕の知っているつがいの話をしていいかな。運命なんて関係ない、よくある話だ」
加賀美はそういいながら音楽チャンネルに切り替えた。どこかで聞いたようなポップス歌手のプロモーションビデオがはじまり、遠くから響くように柔らかく歌が流れる。
「そのアルファとオメガは学生時代からのつきあいだった。出会ったのは十三歳だったかな。運命なんて関係なく、出会ってからずっとふたりでいるのが当たり前の、そんな関係だった。だからハウスにくることもめったになかった。なにしろ家は近くだったし、家族同士も仲が良かったからね」
話しながら加賀美はぼんやりした視線を画面に投げている。声は淡々として、静かだった。
「それに、一方のオメガ――男性のオメガだったが、彼はハウスの雰囲気が苦手だというんだ。たまに行っても肩身が狭そうで、少しひとりにしただけで心細い顔をする。だから他の人と知り合うこともなかった。ふたりは自然につがいになることにしたが、どちらがいいだしたわけでもなかった。一緒に暮らして、お互い仕事を持っていて、時々ささいなことで喧嘩をする、よくいるカップルだった。子どもはいなかったが不満はなかった。ところがある日、停電で信号が故障したんだ」
はっとして俺はグラスをテーブルに置いた。
「大規模な停電だった。きみは知っているかな?」
「十四年前の首都圏大停電?」
「そう。都内で信号が突然、全部消えた。大規模な玉突き事故が起きて、オメガのパートナーは追突されたタクシーに乗っていた。まるで運命みたいにね」
その日のことならよく覚えている。俺は講堂に閉じこめられていた。藤野谷と一緒に。そして……
ふわりと加賀美の腕が肩に回ってきて、俺の物思いを破った。
「きみと最初に話したとき、その雰囲気がね……彼を連想したよ。あのとき僕はすこし感傷に浸っていたんだ」
みると加賀美は照れたような微笑みをもらしている。
「仮面をつけたきみがバーでずいぶん、慣れない感じなのをみてね。声をかけたら話も合うし、嬉しかった。ゆっくりつきあいを深めていけたらとは思ったが」
「加賀美さん」
「だからきみが辛そうにしていたら、僕はたまらない気持ちになる」
俺は唾を飲みこむ。
「その人を思い出すから?」
加賀美は黙って俺の顎を両手にはさむとキスをした。さらりと乾いた唇がかぶさって離れていく。手のひらが腰にまわり、シャツの上を撫でた。
ソファの上で加賀美は俺にのしかかり、両脇に手をつく。右耳のうしろに息を吹きかけられ、耳たぶを舐められた。緊張が背中を走った。俺は加賀美の体を反射的に手のひらで押しかえした。
「零」加賀美が耳元でささやいた。
「ヒート以外の時に……セックスしたことはない?」
思わず俺は赤くなった。ヒートのときですら数えるほどしかないなど、いえるはずもない。
「すまない」
加賀美は俺の困惑を見通したようだった。ソファの上で横向きに抱き寄せられる。背中に手が回り、抱きしめられる。
「恥ずかしがらせたいわけじゃないんだ」
「加賀美さん……」
「嫌かな?」
「嫌じゃ――ないです」
「力を抜いて」
また加賀美の唇がかぶさってきたが、今度はかするようなキスではなかった。舌が口の中に入りこみ、ねぶっていく。舌先が粘膜をたどり、押して、なぞる。
まぶたが自然に閉じる。
とたんに眼のうらの暗闇に藤野谷の顔が浮かんだ。あいつの眼。あいつの唇と手のひら。指。吐息。
「零?」
加賀美の声が聞こえた。俺の頬を指がなぞる。
「何がそんなに悲しい?」
「え?」
俺は指で頬をたどる。しずくで指先が濡れ、耳の方へ流れた。眼をあげると加賀美がじっと見降ろしている。
とてもばつが悪かった。どうすればいいのかもわからなかった。
加賀美は静かにいった。
「悪かった。今日はやめよう。僕は待つのは得意なんだ」
その眼つきに見覚えがあった。彼は俺の指をつかむと頬をなでた。濡れた指先が冷たかった。
「きみはこの前も……泣いていたね」
そっとささやくと、加賀美は俺から離れた。
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