27 / 72

【第2部 ハウス・デュマー】10.空の漏斗

 車は閑静な住宅街で止まった。運転手がドアを開けに立つ。加賀美の手が俺の両肩を一度抱く。 「零、また連絡する」  俺は低層マンションのエントランスをくぐる加賀美を窓の中から見送った。彼が扉の向こうに姿を消すまで運転手は礼をして待っている。加賀美や藤野谷のようなアルファは慣れているのかもしれないが、ハウス・デュマーの送迎は俺にとっては分不相応に丁重で、毎回気恥ずかしいくらいだった。なのに今日の俺は上の空で、運転手が戻り、送り先は自宅でいいかとたずねたとき、反応が遅れた。  分不相応といえば加賀美もそうだった。彼のような男は誰にでも、どんなオメガにも好かれるのではないだろうか。それなのに彼は俺の中に何かをみつけた、という。  加賀美と一緒にいることができればきっと優しい時間を過ごせるだろう。長くは続かないかもしれないが、それでも彼の平和なぬくもりがここにあればと考えるだけで、心が揺れた。  タイヤが小石をはねとばして止まる。オレンジ色の門灯のむこうで俺の家は暗い箱のようにみえた。夜の空には昼間とちがい雲が厚くかぶさり、地上の光を反射して淡く光っていた。風がなまぬるく吹く。  カーテンを開けっぱなしにしたリビングで、俺は電気もつけずにしばらくぼうっとしていた。停電のことを考えていたのだった。俺と藤野谷が講堂にいたあの日、加賀美はいまの俺くらいの年齢だったのではないだろうか。  やっと立ち上がると俺は加賀美に今日はありがとう、という簡単なメッセージを送った。不在着信のランプが光っていたが、誰からのものか確認する気になれなかった。  何かしなければならない。急にそう強く思った。いつもなら絵を描くところなのに、どういうわけかその気になれなかった。うろうろと家の中を何周かして、しまいに俺はガレージに行った。ロードバイクのLEDライトと反射板を確認してシャワーを浴びる。  全身を洗い、抑制剤の分量を確認し、中和剤のパッチを貼って、香水をすりこんだ。デュマーで飲んだウイスキーはもう抜けたころだろう。パッド付のインナーの上にバイカーズパンツを履き、ジャージにヘルメットとグローブ。とはいえ遠出するつもりはなく、カフェ・キノネまでのつもりだった。土曜だから夜も営業しているはずだ。  夜道を走るのはひさしぶりで、最初の下り坂ではすこし緊張した。風がななめから吹き、ロードバイクを止めるとうっすらとかいた汗がさっとひいて寒くなる。  カフェ・キノネの扉を開けると、マスターのパートナーの大きな影がぬっと立っていた。 「黒崎、クマみたいに立つなよ」  マスターの快活な声がきこえた。 「客が怖がったらどうするんだ――おや、ゼロか。ひさしぶり。夜に珍しいね」 「たまにはね」  店内は閑散としていた。というより、黒崎さん以外は誰もいない。 「しばらく展示やライブがないんだ。そしたらこれだからさ」  とマスターが笑った。 「バー営業はやめてもいいかもしれないよね。黒崎がやれっていうから、続けてるけど」 「そうしないと俺が来る前に寝るだろうが」  黒崎さんがぼそっという。 「おまえが忙しいのがよくないんだろ。働きすぎると死ぬぞ」  マスターはカウンターに座った俺にナッツの皿を出した。 「ゼロは何を飲む? いや、飲まないんだっけ。黒崎はさ、またギャラリーを開くらしいよ」 「それはおめでとうございます。どのあたりですか?」  黒崎さんはマスターの方へしかめっつらをしてみせてから、このごろ再開発が進み話題になっている地区の名をいった。 「月末には竣工でね」 「なんと、テナントじゃないんだ。自社ビルだって」  マスターが眼をまわしてみせる。 「黒崎のやつ、悪い事でもしてるんじゃないかと心配になるよ」 「それはますますおめでたいですね」  俺はアーモンドをかじりながらメニューを眺めた。 「ギャラリーの名前は決まっているんですか?」 「ああ。ギャラリー・ルクス。事務所も移して本拠にするつもりなんだ。イベントスペースとブックカフェも作る」  黒崎さんの低い響きに「黒崎のやつ、キノネに飽きたって」というマスターの冗談めかした声がかぶった。 「そんなこと、いってないだろう」 「そうかな。この店を人に預けて僕にそっちへ移れっていうの、そうじゃないの?」 「え?」  俺は驚き、はずみでメニューが閉じた。 「おまえがよければ、だろう」といって、黒崎さんが渋い顔をする。 「決めるのはあとでいい」 「竣工も近いのにそんなわけにはいかないだろ」  マスターはそっけなく返し、俺の方を向いて笑う。 「悪いね。客がいないのをいいことに徹底討論の最中だった」 「俺は客に数えられてないわけ」 「はは。ごめん。で、どうする? コーヒー? 何か作る?」  俺はもう一度バーメニューを眺めた。 「甘いホットコーヒーとウイスキーを混ぜたのに生クリームをのせたやつを飲みたいんですけど」 「それはアイリッシュコーヒーっていうんだよ。知ってるだろうけど」  マスターはかすかに眉をよせたが、容器をあけてコーヒー豆を計る。 「自転車なんだよね? ウイスキーは香りづけくらいにしておくよ」  黒崎さんはわずかに背を丸めるようにしてカウンターの端にすわり、マスターがてきぱき働くのをみつめている。大柄な彼がそんなふうに小さな椅子に座っているのはすこし場違いな感じがした。  ふたりして黙っていると、マスターが「どうしたの? 辛気くさいよ?」という。 「ゼロがこんな時間に来るのも珍しいけどね。何かあった?」 「俺もたまにはこんな時間に来ますよ」 「この頃は仕事、どうなの?」  コポコポとコーヒーをドリップする音が心地よかった。マスターは生クリームを泡立てている。 「一段落して、今はけっこう暇」と俺は答えた。 「そろそろ次を入れないと食いはぐれるけど」 「ゼロ、最近すこし雰囲気変わった?」 「それ、別のひとにもいわれたけど」  俺はピスタチオの殻を割る。 「どんなふうに?」  マスターは取っ手がついたグラスの底にザラメを敷いた。ウイスキーを小さな鍋に入れ、弱火で温めて、最後に火をつけた。ぱっとフランベの炎があがる。  グラスのザラメにウイスキーを注ぐあいだもきれいな青い火が燃えていた。マスターは満足げにそれをみながらいった。 「うーん。なんていうのか……美人になった気がする」  俺はあっけにとられた。 「何それ」 「うまくいえないけど、前にくらべてぱっと明るく見える感じかなあ」 「意味がわからないよ」 「数年ぶりに親戚の子や、若い頃の知り合いに会って、たいして顔なんて変わってないのにあれ、こんな子だったっけ、って思うのに似てるかな。……そうそう、「匂い立つ」って言葉があるでしょ? しいていえばそんな感じ」 「へんなの」俺は苦笑した。 「俺はこの店に月に何度か来てるはずだけど」 「でも、ひとの顔や雰囲気って突然変わることあるからさ。良い事があっても、悪い事があってもね」  マスターはドリップしたコーヒーをグラスに注ぎ、上に生クリームの層を慎重にこしらえる。ここが難しいのだという。やっと黒と白、きれいな二層に分かれたグラスを俺の前に出した。 「ゼロはラッキーだ。成功したよ」  彼は得意げに笑い、黒崎さんはすこし呆れた表情になった。 「もし僕が新しいところに移っても、この店には来てよ」 「もう決定なんですか?」  俺はウイスキーの香りのする生クリームの層をすする。 「その……新しいギャラリーの方」 「だって、黒崎がそう望んでる」  マスターはやや芝居がかった、恨めし気な声色を出した。俺は思わず黒崎さんの方をみた。  黒崎さんは低い声でぼそぼそと、うしろめたそうにいう。 「キノネは来年で十年になるし、ここはここで続けるが、都内なら一緒に住めるから……」 「何、外堀から埋めてるんだよ。どうせ出張ばかりのくせに」  マスターはそっけなくいって肩をすくめたが、黒崎をみる視線は暖かかった。  何となく羨ましい気分になりながら、俺はもうひと口飲んだ。 「どう?」 「美味しい」  こっくりとした濃い感触を味わいながらふと眼をあげると、マスターはじっと俺の顔をみつめている。 「ねえ、ゼロがこの店やるっていうのはどう」 「冗談。俺は料理できないし」 「嘘。僕が仕込んだでしょ? それにほら、料理好きな叔父さんもいるし」 「一年か二年か、そんなもんじゃないですか」  このカフェで俺がバイトをしていたのは大学を出てあの家へ住みはじめたあとだった。通してもせいぜい二年弱ほどのはずだ。しかも最初はカフェではなく、黒崎さんが募集した週末のギャラリー展示の手伝いだった。店はオープンして一年ほどしか立っておらず、マスターも素人同然の状態からやっと店に慣れた頃だったらしい。  展示が終わってもウエイターを募集しているといわれて、俺はカフェへ居残った。その後デザインの仕事が増えたので辞めて、今ではただの客のはずだが、そうこうするうちに俺より何歳か年上のマスターとは友人のようになったのだ。  クリスマスツリーを飾ったときのように今でもときおり気安く手伝いを頼まれるし、俺もそれが嫌いでなかった。それにマスターのコーヒーは美味しい。 「ひとりじゃ無理っていうなら、つきあっている相手を巻き込んでいいよ」  え、と俺は思う。 「勝手に人の職業変えないでくださいよ。それにそんな相手いないし」 「なんで?」マスターはおおげさに眉をあげる。 「あの彼は?」 「どの」 「決まってる。金だか銀だかのスプーンくわえてそうな、あの彼だよ。たまにひとりでここに来るの、ゼロに会いにでしょ」  俺はほとんど空になったグラスを置いた。 「……いつ?」  声がおかしなふうにかすれる。マスターは一瞬不思議そうな顔をして、次にひどく慌てた。 「ちがうの? ごめん、じゃあ――僕はてっきり……」 「何回くらい?」 「えっと……先月、週一回くらいかな? 平日にスーツだし、時間はバラバラだし、ひとりで車だし、仕事のついでに会いに来てると思いこんでいたよ」 「おい」  黒崎さんが低い声でぼそっといった。 「いつもそうだが、おまえの好奇心と早合点は――」 「災いのもと? ごめん、自分の勘を信用しすぎた。この店は常連ばかりだから、たまに違う感じの人がいると記憶に残るんだよ。何しろ平日は学生か教授連中がほとんどじゃない? 最近は例の彼だけじゃなくて他にも……」  俺は遠くで黒崎さんとマスターの会話を聞きながら、奇妙なショックを受けていた。でもいったい何にショックを受けているのかが自分でもよくわからなかった。単に、うっかりすれ違うかもしれないくらい近くに藤野谷がいたと、今になって知っただけの話にすぎないのに。 「ゼロ?」 「ああ、気にしないで」俺は財布から札を出した。 「暖まったし、帰ります」 「ごめん、なんか勘違いしてて」  キノネを出るとき、マスターと黒崎さんは並んで立ち、そろって俺の方を気がかりな顔つきで見ていた。俺は笑ってヘルメットをかぶり、手を振った。  コーヒーと一緒に飲んだわずかなウイスキーが体を熱くする。中和剤のパッチを貼ったあたりが少し痒い。季節の変わり目はかぶれやすいのだ。まだ夜中というほど遅くない時間で、車はそれなりに走っている。俺は慎重にペダルをこいだ。操作パネルが光り、バッテリーの残量を示す。家に帰るまではもつだろう。  街灯がぽつぽつと道を照らす中、ロードバイクのLEDライトが光の筋を作った。信号が変わる。黄色。赤。青。ぼんやりしていたつもりはなかったが、肌の痒みがもっと気になってきた。体が暖かいせいかもしれない。多少いらつきながらゆるい上りのカーブを曲がる。この先は下りになる。明るい時間なら問題はないが、道幅は狭く、ガードレールは要所にしかない。  そのときカーブの先にトラックのライトがみえた。  対向車線とはいえ大型車は怖い。俺は体を傾けて道路脇すれすれに寄った。このあたりはずっと、道の片側は凸凹にコンクリートで固めたのり面に覆われている。後ろからも車の音がする。  とその時、LEDライトの光の中に影がみえた。犬だ。それに引き綱を持った人。  スピードを落とそうと思った瞬間ペダルに置いたはずの足が空を踏んだ。俺は思わずフロントブレーキを握り、即座にしまったと思った。前輪に突然ロックがかかり、路面の砂を噛んだタイヤがずるりとすべった。  クラクションを鳴らしながら前方からトラックが通りぬけ、俺の後ろの車がガードレールの横をすり抜けた。犬が吠える。後輪が浮いてロードごと前転する。  一瞬ふわっと体が浮いた気がしたが、路面に倒れたわけではなかった。俺はサドルから放り出され、のり面に左半身を大きく打ちつけて止まった。胸の下あたりに痛みが走り、ハンドルが手から逃げる。ロードが転がってガチャン、と大きな音がした。  犬が吠えていた。  ヘルメットがずれている。俺はよろよろと立つ。頭は打たなかったようだ。ヒリヒリした痛みが手首に走り、コンクリートですりむいたな、と思う。グローブをはめた手は無事だ。 「大丈夫ですか?」  中年の男性が犬を叱り、そして俺に話しかけている。  車が通らないのにほっとした。俺はうなずいた。男性には漠然としか記憶がないが、白い毛の長い犬なら覚えていた。朝ここを走った時、何度か遭遇したことがあるのだ。 「大丈夫です。すみません」 「うちのせいで転んじゃったのでは? 脅かしてしまって」 「俺が勝手に転んだだけですよ。タイミングが悪くて」  俺は転がったロードバイクへよちよちと歩いた。心臓がばくばくいい、脇腹や左肩、腰に違和感があって、足首も少し変だが、激痛というほどではない。  ぱっとみてロードバイクは俺よりも重症のように思えた。俺の代わりにガードレールに激突したようなものだ。 「ほんとうに大丈夫ですか? 救急車とか……」 「いえ、大丈夫ですから」  俺は首を振った。 「家は近いので、帰って消毒します」 「暗いからよく見えないけど、早く病院に行った方がいいですよ。うちも近いし、ここで待ってもらえれば戻ってくるから、車を出しましょう」 「いえ、ほんとうに大丈夫です。ありがとう」  急激に恥ずかしさがつのってきて、俺は重ねて断った。 「一度帰ります」  男は首をかしげたが、犬がさらに何度か吠え、俺がもう一度固辞すると、じゃあ……と行って、道を先に進んだ。  俺はロードを起こして様子をみた。もっと早くメンテナンスに出せばよかったと後悔した。ブレーキの調整がまずかったのだろう。効きすぎても効かなくてもまずいのだ。  ひとまえで転ぶなど子供の頃以来だった。あらためて道を眺め、俺はぞっとした。ガードレールが少し先で切れていた。もしここで転んでいたら、のり面ではなく車道へ投げ出されて後続車に轢かれていたかもしれない。  そうならなかったのなら、少しはましだ。  俺はロードバイクを押しながら歩きはじめた。ヘルメットのストラップを締め直そうとしたが、手が震えてうまくいかない。あきらめて脱ぎ、ハンドルにぶら下げた。ウエストポーチも邪魔な気がして、はずして車体にひっかける。とぼとぼ歩いたが、電動アシストの重さはこういうときは仇になる。  フレームやタイヤ、モーターや精密機械の損傷は戻ってから確認するほかはない。LEDライトは割れていなかった。街灯の光とライトの光が重なって縞になるのを眺めながら淡々と歩く。  きっと転んだショックでアドレナリンが出たのだろう。のろのろ歩きとはいえ、それ以外は平気だった。やがてコンクリートで擦った首や肩がズキズキしはじめた。息をするたび脇腹がひくひく痛み、足首や股のあたりもおかしいようだ。背中に冷たい汗をかいているのがわかった。  やせ我慢はよくないな、とぼんやり思った。やはりさっきの人に車を出してもらうよう頼めばよかった。うしろから車の音が聞こえ、数台のヘッドライトが俺を追い越していく。道はゆるやかに登りに変わっている。  前方で俺を追い越した車のハザードランプが光って、なめらかに路肩に寄ると、停止した。  俺はあいかわらずロードを押してのろのろと歩いていたが、急に、ここまでの道でほとんど感じなかった恐怖が襲ってきた。この峠道には、何十年も昔はいわゆる「走り屋」がたくさんいたというが、最近はそんな話は聞かない。  ともあれこれ以上の面倒はごめんだ。俺は家に帰って体を洗い、擦り傷の様子を見て、休まなければいけない。  それともこの車は親切で止まってくれたのかもしれない。  LEDライトの光の縞に車体の深く鮮やかな青色が浮かび上がる。  運転席と助手席、両方のドアがはねあがるように、同時に開いた。  俺は立ち止まった。ちらちらと光が落ちてくる。粉雪や星が光っているみたいに。光の粒はふわっと伸びあがってはこちらめがけて降ってくる。俺が目線を動かすと光も動いた。夜の藍色にまじって、俺にしかみえない色が舞っている。その色は俺の方へ向かって流れ、瞬きながら渦を描いて俺を包もうとする。 「サエ!」  耳元で声がきこえ、俺はよく知った匂いに包まれていた。藤野谷が俺の肩をささえている。

ともだちにシェアしよう!