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【第2部 ハウス・デュマー】11.泥濘の星

「サエ、どうした? 何があった?」  俺の頭はうまく働かなかった。まばたきしてあの色を消そうとするが、そうすると藤野谷の匂いがまとわりつく。 「藤野谷……痛いから、そこ」  やっとそれだけいうと、藤野谷は熱いものでも触ったかのようにぱっと手を離した。 「サエ、自転車が……」 「転んだだけだ。ブレーキングを間違って。乗れないから押してた」  顔が熱かった。藤野谷が眼のまえにいるだけで、どうしてなのかわからないが、泣きそうだ。 「サエ、車に乗って」と藤野谷がいう。  俺は首をふった。「駄目だ。ロードを持って帰らないと」 「車輪をはずして積みましょう」  藤野谷のうしろで誰かがそういった。カツカツと足音がして俺のすぐそばに立つ。峡よりもっと年上だろうか。ツイードのジャケットを着た五十がらみの男性だった。街灯に眼鏡の縁が光る。かがむと慣れた動作でロードのフレームに手をかけ、自然に俺の手からハンドルが離れた。  彼は空いた手でモバイルを操作した。懐中電灯のような指向性のある光が灯る。 「外し方はわかりますから、大丈夫ですよ」 「|渡来《わたらい》さん、お願いします」  藤野谷は俺の右腕に手をかけ、車の方へ誘導しようとする。俺の頭はあいかわらず混乱していた。 「なんでおまえ、こんなタイミングでここにいるんだ」  やっとそうたずねたのに藤野谷は答えず、強引に俺をひっぱろうとする。あわてて自転車にひっかけていたウエストポーチを拾った。とたんに足首に痛みが走って妙な声が出る。  車のドアをあけた藤野谷がものすごい顔をしてふりむいた。俺は思わず首をすくめた。 「捻挫してるだけだ、たぶん」 「サエ、乗るんだ」  逆らいようのない響きだ。俺は左側を擦らないよう気をつけながら後部座席によろよろと乗り込んだ。クッションの効いたシートに背中をつけた瞬間、力が抜けたようになった。藤野谷が横につめてきて、バタンとドアを閉める。それから天井のライトをつけた。 「見せて」  ほとんど同時にジャージのジッパーを降ろされる。擦り傷がズキズキする左側の首筋に藤野谷の顔が寄せられ「血が出てるじゃないか」とささやいた。 「そうかも」と俺はつぶやく。「コンクリで擦ったから」 「他は?」 「たぶん打撲くらいはあるだろう。下っているときにのり面にぶつか――」 「病院へ行く」  俺の言葉をさえぎるように藤野谷がきっぱりといった。 「いらない」  反射的に俺が答えたとたん後ろのトランクがひらき、俺は首をまわす。擦りむいた皮膚がひきつれたようにピリピリ痛む。 「自転車、積みましたよ」  運転席にさっきの男性が乗り込んでくる。 「渡来さん、病院へ行く」 「いらないって」  俺はため息をついて繰り返した。 「大袈裟だな。明日になっても痛かったら自分で行くから、大丈夫――」 「駄目だ。渡来さん、藤野波理総合病院へ連絡をとって下さい。父の名前を出して。すぐに診てもらえるはずだ」 「そうですね。たしかに」  渡来と呼ばれた男はモバイルを操作している。カーナビの液晶が生き返った。 「大丈夫ですから」と、俺はバックミラーごしに彼に話しかける。 「すぐそこなので、家に送ってくれませんか。叔父が医者なんです。明日になったら連絡して来てもらいますから」  しかし男は運転席からふりむいて、俺に落ち着けとでもいうように手を上下に振った。 「自転車だが、きみの予想より壊れているかもしれない」  と諭すような口調でいう。眼鏡のむこうにある眸は冷静な印象だった。なんだか底まで見通されているようだ。 「下りでかなりスピードが出ていたんじゃないか。体の方も打った場所が骨折していないか、レントゲンを撮った方がいい。今は平気でもあとで腫れてくるはずだ」 「渡来さん、よろしくお願いします」  俺が返事をする前に藤野谷が引導を渡し、渡来と呼ばれた男はうなずいてまた正面を向いた。モバイルに向かって話しはじめるが、声が低くてよく聞こえない。 「藤野波理総合病院はうちの系列だから」  藤野谷が俺の耳元でささやいた。たしかにそうだろう。藤野谷家の関連グループは病院や製薬会社が占めている。三波が前に藤野谷にぶつけていたクソったれアルファという言葉が頭をかすめて、俺は笑いたくなった。連中はこうしてなんでも主導権を取るのだ。  車が動きはじめ、車内の明かりが消えた。なめらかに道を下っていく。藤野谷は俺の右側にぴったり肩を寄せてくる。俺の背中に鳥肌が立つ。予想外の場所で出会った驚きのせいで薄れていた、彼の匂いと存在感が強烈に意識に戻ってくる。  俺はそれをふりはらうようにポケットからハンカチをだして首にあてた。血が出てるなんていっていたが、うすくにじんだ程度だろう。  それより首のうしろや腋の下が痒かった。いらいらしながらジャージの下に着こんだ服の内側に手をつっこむ。インナーの下から汗で湿った中和剤のパッチを探り、剥がしてまるめ、服の上から肌を擦った。  そして自分がたった今、不用意にしてしまったことに気づいた。  藤野谷がみじろいだ。  正面へ体を向けてくるのを無視して、俺はあわててシートを見回した。ウエストポーチ。たしかに持ってきたはずだ。 「藤野谷、俺のウエストポーチは……」  ポーチは足元に落ちていた。俺は急いでジッパーをあけた。中に薬一式、パッチの予備も入っている。保険証やICつきの医療タグも。藤野谷の視線を痛いほど強く感じる。 「サエ、何を探してる?」  俺は答えずにパッチをひっぱりだしたが、指が震えた。いきなり藤野谷が俺の手首をつかんだ。パッチがシートにちらばり、ポーチが足元に転がる。中身がこぼれる小さな音がした。藤野谷が俺の右肩をシートに押し付けて、パッチを指先でつまむ。 「これは――」 「俺の薬だから。早く返せ」 「サエ、これ……」  俺は藤野谷の手をふりほどく。静かに走る車の中で、街灯の光がシートの上に縞模様に落ちては流れた。パッチを探して拾い、パッケージを破ろうとするが、なぜか指がふるえて力が入らない。体の左側はあいかわらず痛む。  藤野谷が足元に落ちたポーチの中身を拾った。抑制剤のボトル、保険証。医療タグ。ひとつひとつポーチの中に戻すと、パッケージと格闘している俺の手をつかむ。  突然視界が反転した。藤野谷が俺をシートに押し倒したからだ。膝を押さえつけられ、足が浮く。藤野谷は床に膝をついて俺の上に覆いかぶさってくると、首筋に顔をうめた。擦り傷のすぐそばを藤野谷の舌がなめ、とたんに電流のような感触が体じゅうを走る。彼の鼻先が首筋から顎、耳のうしろとなぞっていく。  俺の体から力が抜けた。動けなかった。 「偽装パッチ」  耳元でそうささやかれた。 「……返せ」  俺はまた馬鹿みたいに同じことをくり返したが、藤野谷は聞いていなかった。 「やっぱりサエだった?」  こいつはいったい何を聞いているのだろう。 「藤野谷、返して」 「あのときハウスにいたのも、やっぱりサエだった……?」  藤野谷の胸が俺の体にのしかかり、シートに押しつけた。しびれるような甘い匂いが鼻を抜けた。首筋に藤野谷の唇が触れ、俺の視界に光が舞う。 「この匂い……」 「藤野谷、俺は」 「――オメガだった」  藤野谷はぽつりとつぶやいた。  俺は体をよじり、藤野谷を押しのけようとしたが、うまくいかなかった。俺を押さえつけたままみつめてくる藤野谷の視線が恐ろしかった。加えて左の脇腹がじくじく痛む。肋骨にヒビでも入っているのだろうか。 「なぜ」  くぐもった声が俺を詰問する。  暗い車内で俺を見降ろしている藤野谷の、眼のあたりは影になっていた。何を考えているのかまったく読みとれない。 「なぜ隠してた」  唇が近づいてきて、俺の顔のすぐ上でささやく。 「なぜだ、サエ。俺は――おまえがオメガだったら――俺は……」 「……だからだよ」  俺は力なくつぶやいた。胸の奥が刺しこむように痛むのは、転んだときにできた傷のせいだろう。 「おまえ、気持ち悪いっていっただろ……昔……」 「――ちがう」  藤野谷の声が喉のあたりに響いた。 「ちがう。それはサエのことじゃ……」 「俺もオメガだよ。おまえに隠してたけど。悪いな」  泣きたくなどまったくないのに涙が出てきた。 「どうして」  藤野谷が重ねて聞く。命令するような声だ。アルファの声。クソったれアルファ。  まだ目的地につかないのだろうか。どこでもいいから俺をこの車から放り出してほしかった。ここにいたら十数年ものあいだ、ずっと隠していたことが口から飛び出していってしまう。  飛び出して行って、取り返しがつかなくなる。  俺は震えながら口走った。 「俺が葉月の子供だからさ」 「――なんだって」 「俺はおまえが大嫌いだっていってた、伯父さんを捨てたオメガの子供なんだ。おまえのじいさんが……見つけたら最後誘拐しそうなくらい、ずっと探していた子供。それに」  いったん飛び出した言葉は止まらない。飽和した水が空から落ちるように俺の口からこぼれ続ける。 「おまえもう、気づいているだろ? 天」  いつのまにか俺はすすり泣いていた。 「おまえの大嫌いな本能とか運命というのは、俺のことだよ。おまえが俺を欲しいっていったのも――全部単にただの生理的な作用でさ……」 「ちがう!」 「ちがわないよ。天、もういいだろう? 俺は嘘つきなんだよ。ずっとおまえを騙してたんだ。だから――だからさ……」  藤野谷の眸は俺を刺すようにみつめ、なのに暗すぎて、そこにあるはずの表情が俺にはまったくみえない。嫌悪かもしれないし、軽蔑かもしれなかった。  耐えられないな、と思った。もうだめだ。俺は失くすのだ。何だかわからないままにずっと守り続けてきたものを。なのに甘い匂いとあの色が俺を包みこむ。頭蓋の奥の方にぼやけた霞がかかり、ヒートのぼんやりした兆候を感じた。  。そう思うとさらに絶望がつのった。 「天、離し……」  俺はつぶやいたが、藤野谷は俺の上にのしかかったままだ。無言で体重をかけてきて、俺の頭の中を彼の匂いでいっぱいにする。俺のキッチンにいた時のように、俺から他の思考をすべて奪ってしまおうとする。 「離してくれ」  もう一度口に出すと、いきなり体を引き起こされた。俺は脇腹の痛みに息をのむ。 「痛っ……」 「天藍!」  運転席の男が鋭い声を上げた。「やめなさい」  藤野谷はやめなかった。狭い車内で、不自然な姿勢で俺は抱きしめられて、曲げられた足や体のあちこちが痛かった。藤野谷の手のひらが俺の髪をかきまわし、ひたいに押し当てられた唇が鼻先に下がって、顎をつかむ指に口をこじあけられる。舌がねじこまれて粘膜が触れあう。甘い匂いが鼻に抜けていき、唾液が口の端からもれるのを指でぬぐわれる。  やっと唇が離れたとき、ふたりとも荒い息をついていた。完全に制御できなくなっている俺の眼からはまた涙があふれてくる。車の中は藤野谷の匂いとあの色で覆われているが、藤野谷は俺の匂いを同じように感じているのだろうか。  運命のつがいの匂い。  それなのに藤野谷が感じている匂いは俺にはわからない。俺がどんな色を見ているのか藤野谷にわからないのと同じように。  車が病院の玄関へ着いたとき、藤野谷は俺を抱きしめたままで、俺は酔ったように朦朧としていた。

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