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【第3部 ギャラリー・ルクス】2.鉄と銀(後編)

 加賀美はまっすぐ俺に向かってきた。長身を少しかがめ、正面から俺の顔をのぞきこんだが、逆光で眼のあたりはよく見えなかった。 「ひさしぶりだ。ここで会えるとは思わなかった。怪我は大丈夫?」  急に唇が渇いたような気がした。 「ええ。連絡をくれたのに……すみません」 「他人行儀だな」加賀美はふっと唇をほころばせて笑った。 「大事なさそうでよかった。安心したよ」  背後がざわつき、大広間に人が集まってくるのがわかった。総会がはじまるのだ。俺は銀星がいるはずの昼食会の会場へ視線を走らせる。加賀美は俺のそんな様子に気づいたように「僕はどのみちあそこに行かなければならないが」と大広間をさした。 「零は?」 「俺は付き添いで来ているだけなので、迎えにいかないと」 「親睦会のとき、話ができるとうれしい。かまわない?」  ためらいながらうなずくと、加賀美は俺の顔をみつめたまま微笑んだ。逆光がはずれ、正面から彼の眸に内心を見透かされたように感じて顔をそむけようとすると、加賀美は俺の肩に一度手を置き、それから大股に歩き去った。 「加賀美さんと知り合いなの?」  マスターがすぐ横に立っていた。黒崎さんはみあたらない。 「ええ、まあ……。黒崎さんとも?」 「加賀美家はもともと黒崎の親父さんの画廊の顧客なんだ」  マスターの視線の先に黒崎さんの大柄な姿があった。数人の輪の中に立ち、名刺を差し出している。 「コレクターの家系らしいね。特にアルファはみんな専門分野を持ってる。黒崎の親父さんの専門は絵画でクラシックだけど、黒崎は主にコンテンポラリーで、絵のほかに写真も扱うし、モダンも一応得意だから、加賀美さんは独立したとき黒崎の客になってくれたらしいよ。新しくオープンするギャラリーでも力になってくれている」  考えてみれば当然のつながりだった。数年のあいだカフェ・キノネに通って何度も顔を合わせているのに、俺は黒崎さんを画商だと考えた事はなかった。キノネは貸しギャラリーだが、都内では企画展を開催していると聞いたこともあったはずだ。  俺はぼうっと大広間の入り口を眺め、杖をついた銀星が他の名族の当主に挟まれて歩いているのをみてあわてた。急いでそちらへ向かおうとしたとたん、祖父は俺に顔を向け、首を振った。来なくていいということらしい。 「ゼロ、大丈夫?」  マスターがたずねた。 「今のところ俺は用無しみたいだ」  それでも俺は増えてくる人に紛れて大広間の入り口近くまで行った。暇なのか、釣られたのか、マスターも隣にいる。俺は銀星が着席するのを見届け、またロビーの窓際へ戻った。来場者の服装はみるからに上質なものばかりだ。俺のスーツも今日はそれなりだが、あきらかに見劣りがする。とはいえ家来筋の付き添いならこんなものだろう。 「ゼロ、やめたんだね」  ひとの流れをぼうっとみていると、マスターがぽつりといった。 「え……」 「ベータのさ。薬、使ってた?」  俺はどきりとして横をむいた。  いまのいままで失念していた自分自身に驚いていた。ヒートがはじまった十代からは特にずっと神経をはりつめて暮らしてきたのに、藤野谷と――ああなってから、俺は完全におかしくなっている。 「いつ気づきました?」  口の中がからからにかわいていた。マスターは窓枠にもたれ、ポケットからガムを取り出している。俺にパッケージをさしだして「いる?」とたずねる。  いつもの柔らかで気軽な雰囲気に変わりはなかった。黙ったまま俺がひとつガムを取ると、マスターは自分も銀紙を剥いて口に入れ、噛む。 「最初に変だなと思ったのは去年の十二月かな。それまでは考えもしなかったし、ゼロの匂いなんて気にしたこともなかった。僕はコーヒー屋だしね。十二月、ツリー置くの手伝ってもらったときがあったでしょ? あのときに違和感を感じて、今年になって二月に例の彼が何度も店に来てから、いろいろ考えちゃってさ……そして先週の夜、確信したのはあの時で……ゼロの顔が変わったなと思って、しばらく考えていたら、ひらめいた」  辛いミントが舌の上ではじけた。 「ごめん、詮索して。ほんとに悪かった」  マスターはそういってガムを噛む。 「どうして」と俺はきく。うしろめたいのは俺の方だと思いながら。 「いろいろ余計なことをいったから。あとで黒崎にマジで怒られた。いやほんと」 「そんなことないですよ。俺も……すみません。その……」 「謝ることじゃないよ。偽装パッチを使っていた知り合いは何人かまわりにいてね。だいたい事情があるんだ。ゼロみたいに完璧にごまかしていたのなら、なおさらだろう?」  マスターのミントは俺には辛すぎた。まだ味が残っているガムを俺は紙の上に吐き出す。 「物分かりよすぎませんか」 「そうかな」マスターは横目で俺をみて、視線を戻した。 「何もない人なんていないんじゃない? 僕だって一足飛びで今みたいになったわけじゃないし。黒崎ともよくもめてるし」  ふっとため息をつく様子がマスターにしては珍しかった。あの夜カフェ・キノネへ行ったとき、彼が黒崎さんと「徹底討論中」だと冗談めかしていったのを俺は思い出した。 「何をもめてるんですか」 「新しいギャラリー。……あいつの念願なのは昔からよく知ってるんだけどね」声とともにミントの香りがふわりと立った。「ただの貸し画廊屋でも、単に商品の取り次ぎをする行商人でもない、作家と世間のまともな橋渡しとして、海外にあるような本格的な画廊にする。いずれは自分が見込んだ新しい作家を世に送り出したいっていうのが黒崎の夢なんだ。コンテンポラリーはいい作品でも知られていないことが多いし、新しい作品には既存の市場がないから自分で作らないと、だって。これ全部黒崎の受け売り」  マスターは紙にガムを吐き出して丸め、俺をちらっと見て照れくさそうに笑った。 「熊みたいな外見のくせに、繊細なことをいうよね」 「いや――すごくいい夢だと思いますけど……何がまずいんです?」  大広間の扉が閉まり、総会がはじまったようだ。次の親睦会に向けてだろうか、スタッフがロビーで待機している。マスターはぼんやりした眼つきで黒服のウエイターを追っていた。 「まずいっていうか……。あいつ、今は匿名の出品者から送られてきた写真のサンプルプリントに夢中なんだ。無名の写真家のネガをいくらで買うかで悩んでて、僕は毎晩それにつきあってるけどさ……ほら、パートナーの夢に黙ってついていきます、なんてのは美談というか、むしろ親族の間では当たり前に思われていたりもするけれど、パートナーの夢のために自分が何かを覚悟しなきゃいけないとか、試されるような状況になることもあるからね。それにキノネは――オーナーはあいつでも実際は僕の城だったから、勝手にやってたけど、ルクスじゃあいつが王様になる。今日みたいに僕も接待役に駆り出されるのが当たり前になるだろうし、これまでは黒崎がアートフェアでしばらく海外へ出かけても、店を開けて多少さびしいくらいに思っていればよかったけど、王様の城じゃあそうはいかないよね」 「ルクスって、新しいギャラリー?」 「そう。光。明るさの単位。名前はともかく、ハイハイ王様についていきますって思い切るには、僕もひねくれているところがある」  マスターは窓枠にもたれなおし、ふと俺を上から下までじろじろみた。 「そういえばゼロはどうなの」 「どうって」 「どうもなにも、ゼロも絵を描くでしょ。その――広告のイラストみたいな仕事じゃなくて、美術家として作品展を開いたり、こういう場所にいる名族のお屋敷や会社の社屋に飾る作品をさ」 「俺?」  俺は苦笑した。 「俺のは――そんなのじゃないよ。絵の先生についたことも美大を出たわけでもないし――公募に出すのを考えたことも昔はあったけど、今はもう……ネットにあげてたのは映像だし……」 「でも今はメディアアートの公募もあるんじゃないの? それに例の彼が持ってきた仕事はゼロの名前で作品が出るんじゃない? だったら作家デビューってわけだ」 「だけどあれは結局広告だよ。新製品に向けた……」 「それだけじゃないでしょう。新興の会社が若手のアートを取り上げるなんて、冒険じゃない」  俺は返事に困ってあいまいに笑った。  たしかに、エージェントの暁が紹介する企画のデザインやAIを介して請け負っている仕事――名前が出ない仕事――と、TEN-ZEROのプロモーション映像のクレジットにアーティストとして名前が載ることは、俺にとってかなり次元がちがった。なぜなら藤野谷がここで拾い上げたのは、眠れない夜に俺がひたすら線を引き、皺をなぞった結果できた断片(フッテージ)だったからだ。  藤野谷はあれを俺が作ったものと知らずにオファーしてきた。運命だのオメガだのといった、もともと藤野谷と俺のあいだにある因縁じみた話と、このオファーは一切関係がない。  加えてTEN-ZEROの企画について、俺は別の意味での緊張も感じてもいた。いちスタッフではなくクレジットに大きく自分の名前が出るのは、盗作騒動でもめた学生時代のコンペ以来で、きっとそのせいだろう。来月の製品発表ではプレスリリースと記者会見が予定されているとの連絡は昨日メールで届いた。記者会見には俺も出席することになっている。  そのせいか俺は今週、紙の皺をなぞり線を描く作業を一度もやっていなかった。スケッチは習慣で描いているが、肋骨を折ったおかげで、長時間同じ姿勢で線を引くのがつらいからでもあった。ここ数日は、ビデオ通話で藤野谷と話した後になるとなぜかその気になれなかったから、というのもある。 「これも黒崎の受け売りなんだけど、美術に関わる商売をする人間が失ってはならないのは、ゆとりや距離感なんだってさ」  黙ってしまった俺をマスターが面白そうにみた。 「ゆとりって、お金の話だけじゃなくて精神的なゆとりのことで、距離を置いて作品をみることが大事らしいよ。面白いことに人間もそうでさ。黒崎やあいつの親父さんとか、画廊主って変な人が多くて、おまけに客も作家も変わったのが多いから、表面的なところだけ見ているとあまり本当の良さはみえてこない」 「結局、のろけみたいに聞こえますけど」 「そうかな」  はぐらかすようにマスターは肩をすくめ、実際話をそらすことにしたのか、突然「そういえばゼロ、今日はいい匂いがするね」といった。 「それって」 「オメガらしいとかではなくて、単にいい匂いだよ。似合ってる」 「新しい香水を試してるから、そのせいかな」 「そうなの? ゼロらしい感じだ」  マスターはそういってから、うまくない冗談でも聞いたような苦笑いをする。 「ごめん。ゼロらしいって何なのか、僕にもわかってないな」  銀星と峡があらかじめ教えてくれた通り、総会はたいして長いプログラムではなかった。拍手が鳴って大広間の扉があき、待ちかまえていたスタッフが中へ入っていく。  黒崎さんがどこからかあらわれてマスターと合流したので、俺はスタッフの後に続いて銀星のそばへ行った。ウエイターがグラスを渡そうとするのを固辞して、峡の忠告通りに椅子に座った銀星の斜め後ろに立つ。  家来筋とはもとより影のようなものだという。つまりふつうは注目されない。それに佐井家は銀星の代で事実上終わる。銀星はつがいのアルファ――すでに物故者だ――を佐井家の籍に入れず、葉月以外に子供を持たなかった。そして葉月の子供の俺は生まれた時にいくつかの書類の操作をへて、結果的に佐枝姓になっている。自分を最後に〈オメガ系〉の佐井家は終わりになる――そんな銀星の決定を、俺は最初のヒートがきた後で銀星本人から聞いていた。  もともとオメガ性が一定割合で生まれるような遺伝的性質は近親婚ぎりぎりの血統管理で成り立っていたから、銀星は自分の代になったときにそれを完全にやめ、自分の意思が及ぶ範囲の傍系はすべてベータの男女へ嫁がせるという荒業に出たという。オメガが生まれやすい遺伝的性質もベータの中に分散すればたどれなくなるから、ということらしい。  加えて母屋のある地所など、いくらかある資産は毎年少しずつ佐枝へ贈与して移転し、遺言も前から作成済みだ。おまけに他の名族とちがい、佐井家は資産家でも企業家でもない。といった事情だから、今日のような名族の集まりでの影響力など皆無にひとしい。  ――と、俺は峡からレクチャーされていたのだが、その割に銀星に近づいて挨拶する人は多かった。俺が話しかける暇もほとんどないくらいだ。堂々とした年配のアルファが小柄な祖父に敬意をあらわすのをみていると悪い気持ちはしなかったが、疲れないだろうかと気になった。  白髪の男性がいかにも内密な雰囲気を漂わせながら耳元で何かささやきはじめると、祖父が片手をあげて合図する。 「零、私は大丈夫だから、しばらくゆっくりしてきなさい」  俺はうなずいてその場を離れた。漏れきこえた単語から、理事会の議題について話があるようだと見当をつける。  会場は賑わっていた。総会の後でパートナーを同伴してきた面々は会議にいた人々よりもドレスアップしている。いったい彼らは何を話しているのだろう。高い天井からシャンデリアが下がり、広間の一方の壁は吹き抜けの屋内庭園に面していて、ところどころに切られた窓には緑の影が立つ。  一瞬、ざわめきのあいまに三波のシルエットを見たような気がした。そういえば藤野谷が鷹尾と三波も来ると話していて、藤野谷も午前中に出くわした彼の母もどこかにいるはずだ。  三波たちに会ってしまえばベータへ偽装していたことが彼らにばれてしまう。みんながマスターのような受け止め方をするとは思えず、考えると気が重かった。とにかく峡が迎えに来るまで隠れているに限る。部屋の広さと人の多さのおかげか、それとも周囲にいるのがアルファとオメガばかりのせいか、藤野谷の気配もわからない。  俺は目立たない場所を探して会場を一周し、まだ銀星がさっきの男性と話しているのをたしかめた。男性は椅子に座って熱心に祖父に話し続けている。この調子だと長引きそうだ。  近い壁沿いに屋内庭園を見下ろすバルコニーがしつらえてあったが、そこへ通じる大きなガラス扉は施錠されていなかった。俺は堅い把手をまわし、意外に重い扉を引く。肋骨にひびいたのか脇腹が痛む。ふいに手ごたえが軽くなる。 「零」  ふりむくと加賀美が扉の上の方へ手をかけていた。 「ここへ出る?」 「――ええ」 「ちょうどよかった」  加賀美は俺のうしろから長身をすべりこませた。扉は金属のうなる音を立ててゆるやかに閉じた。バルコニーは思いのほか広かった。サンルームのようにどこからか照明がさしこんで十分に明るい。加賀美が俺を点検するかのように凝視する。 「加賀美さん」  俺は口をひらいたものの、何をいえばいいのかわからなかった。 「零は――不思議だね」  加賀美の声は穏やかだった。 「最初に会った時もそう思ったが、いまも不思議だ。仮面をつけていた時と外したあと。先週の午後と、今日……会うたびに変わっている気がする」 「どういう……意味ですか?」  加賀美はにこりと笑った。 「またきれいになったよ。単に僕がきみのことを好きだからそう思うのかもしれないが。本当に、怪我が大事なさそうでよかった。連絡がなかったから心配した」  言葉はさらりと口に出され、俺はますます、どうしたらいいのかわからなかった。藤野谷が俺の家に来たあの日のあとも加賀美は何度か連絡をくれたが、俺は通話を受けることも返事をすることもできなかった。  加賀美はバルコニーの手すりから庭園を見下ろし、俺は彼の横にならぶ。庭園の人工的な斜面に植えられているのは桜の木のようにみえるが、本物だろうか。蕾はふくらみかけているが開花にはまだ早い。 「加賀美さん、あの……」 「先回りされるのは嫌かもしれないが」  焦った俺をさえぎるように、加賀美は口をはさむ。声の響きはやはり穏やかで平静だ。 「僕が連絡したり、会いたいといったら、いまの零は困る?」  俺は眼を細めて遠くの桜の枝に蕾を探す。加賀美が俺をみつめている。視線を痛いほど感じる。言葉に窮してただうなずくと、隣でふっと息が吐きだされた。  これまで何度か、同じように加賀美が微笑むのに出会った気がする。 「そうか。僕は残念だが、きみが」  その時うしろで金属音が響き、俺は不意打ちに驚いてふりかえった。加賀美も同時にふりむいたが、俺は見慣れた長身がバルコニーにあらわれる前にあの色をみていた。  藤野谷が格子を刻んだ床に立っている。俺を呼ぶ。 「サエ」  引き寄せられるように俺は足を踏み出しかけた。が、「きみは藤野谷家の」という加賀美の声に我にかえった。 「藤野谷天藍です。加賀美光央さん。はじめてお会いします」  藤野谷は儀礼的な笑みを浮かべて加賀美の前に出ると会釈した。  加賀美の方がわずかに背が高いとはいえ、どちらも長身のアルファだ。並ぶと迫力があり、どちらも強い雰囲気を漂わせている。なんとなく俺は一歩さがった。 「やあ。はじめまして。先代はたしか天青氏といったね」と加賀美がいう。  言葉は変わらないのに口調が高圧的で、俺が聞いたことのない響きだった。しかし藤野谷は平然としている。 「ええ。うちの家系は名前をつけるとき、先代から一字取るのが習慣のようです」 「現当主の藍晶氏はお父上か。一度お会いしたことがある。今日はいらしていないようだが」 「父は別件があるそうです。加賀美さんは大学で教えてらっしゃるとか」 「加賀美家は道楽ものの家系なんだ。社会貢献といっても芸術だの文化だの、心もとないことしかやっていない」 「まさか。重要なことでしょう」  どちらも平然とした顔をして、社交辞令程度の会話なのに、どういうわけか俺はうすら寒くなった。バルコニーの縁に寄ったが、加賀美と藤野谷はなぜか同時に動いて俺の左右に立つ。 「事業を起こしているそうだが、そろそろ当主の仕事も手伝っているのかな? 藤野谷の医薬系のファミリーを束ねているとなると、政財界のゆくえも見ながら投資や開発の方向を決めなくてはならないし、苦労も多そうだ。パートナーにも仕事が多いだろう。もっともご母堂はずいぶん才覚がおありらしいが」 「母はこういったことが得意ですから」 「先ほどお会いしたよ。きみを探していたようだった」  藤野谷は首を軽く左右に振って微笑んだが、仕草も表情も雰囲気を和らげることはなく、逆に敵意のようなものがにじみ出る。 「いえ、私は自分の城の方が重要なので。TEN-ZEROは藤野谷本家からみると軽薄な事業ですが、だからこそ独立資本で勝手にやれる」 「ああ、学生にもTEN-ZEROブランドは好まれているようだね。TEN-ZEROといえば――」  加賀美はふと言葉をとめた。「なるほど」  藤野谷が眉をあげる。「どうしました?」 「いや」加賀美はさっきの藤野谷のように首をふり、口元を緩めた。 「それにしても本家が医薬だと、パルファンなんて筋違いといわれないか? 父上のあとを継いだら売却して人に任せるのかな」 「いいえ」  藤野谷はかすかに鼻で笑った。 「TEN-ZEROは私の夢を実現する場所だ。他人には渡しませんよ。将来譲渡するとしても信頼できる人間にしか預けません」そう話しながら俺の手に触れる。 「サエ、行こう」  俺は首を振り、藤野谷の指を避けた。「だめだ。祖父を見ていないと」  俺は扉のガラスごしに銀星の姿を探した。相手を牽制しあっているようなふたりの間にいたくなかった。広間の中で、さきに祖父と話していた相手は去っていたが、同じ椅子に恰幅のいい別の影が座っている。午前中、理事会に遅れてあらわれた男性だ。葉月のことを知っている人だ。彼は俺に会ったことを祖父に話すだろうか。  そう思いながらバルコニーの縁へ戻ったそのとき、加賀美が藤野谷にたずねた。 「零はきみの友達?」 「まさか。それ以上のすべてですよ」  藤野谷の声がきっぱりと響いた。  俺は顔をあげた。加賀美と視線があった。彼の匂いを意識する。加賀美は俺をみつめたまま、ふっと口元をゆるめた。優しい微笑みだった。 「なるほどね。わかった」  藤野谷がまた俺を呼ぶ。 「サエ、」  ふいに加賀美はにやりと笑った。なんだか挑発的な表情に思えた。長身をかがめて俺に顔を寄せる。吐息が俺の耳をかすめる。 「零。僕ならいつでも、きみを噛んであげられる」  俺はどきりとして顔をあげたが、加賀美はもう扉を押していた。藤野谷が俺の腕をつかんでいる。 「あいつに何をいわれてる」 「ほっといてくれ。個人的な話だ」 「俺にいえないのか?」  いえるか馬鹿。俺は唇をなめた。 「加賀美さんは友人なんだ。おまえにそんな風にいわれる筋合いはない」 「友人? あんなに馴れ馴れしくて――」  突然苛立ちがわきあがり、胸の内側が熱くなった。俺は熱を抑えこみ、できるだけ平静な口ぶりを保つ。 「おまえだっていろんな連中と馴れ馴れしくやってたくせに、何いってる」  口調とは裏腹に手が震えた。苛立ったまま俺は藤野谷をにらみつけた。眸にどこからか落ちてくる光が映っている。みつめると虹彩の真ん中に琥珀色が一瞬ひらめいて消える。俺は衝動的に手をのばし、藤野谷のスーツの襟をつかんで引き寄せた。踵をあげて乱暴に唇を重ねると歯がぶつかってカチカチ鳴る。かまわず首に腕をまわし、舌を押しつけるようにしてキスをする。  一瞬の空白のあと、いきなり腰を抱き寄せられた。まるで食われるのではないかと思うような勢いでキスを返される。息が苦しく、鼻で呼吸すると藤野谷の匂いが脳髄を直撃してくらくらした。  どちらからともなく唇を離したとき、俺たちはふたりとも肩で息をしていた。 「サエ……」 「天は――」  口に出したものの、何がいいたかったのかわからなくなってしまった。俺は背中に回された藤野谷の腕をほどく。見苦しくなったシャツを整えながら、やっと続く言葉をみつけた。 「俺はおまえが好きだけど……おまえの持ち物じゃない」  スーツもこの場所も苦手だ。ネクタイは曲がっていないだろうか。そんな俺の心配を読み取ったように藤野谷の指が結び目に触れる。 「わかってる」と俺にささやく。 「嘘つけ。わかってない」  俺はつぶやいて、ガラス扉へ向かった。

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