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【第3部 ギャラリー・ルクス】4.針穴の焦点

 目覚めるといつものようにシャワーをあびる。髪を拭きながら鏡をみる。  ここ数日鏡を見るたびに、自分の外見がすこし変わったような気がする。  ロードバイクで転んだ怪我の痕はもう消えていた。折れた肋骨のあたりは多少痛むものの、見た目にはわからない。自覚したのは何気なく触ったときの肌の感触だ。なめらかで、これまでこんなことを気にかけたこともなかったが、驚くほど柔らかかった。一方で峡やマスターにあれこれいわれたおかげで自意識過剰になっているのだとも俺は思っていた。  俺の顔? たしかに前よりも輪郭が柔らかくなった気はした。俺の中にある俺のイメージとは微妙にずれていて、変な気分だ。整形したわけじゃなし、顔立ちそのものが変化するはずもないのに。  名族の会合の前に峡は俺をみて「オメガらしい」といったが、それはこういうことなのだろうか。  俺はカレンダーをたしかめて抑制剤を飲んだ。昨年の冬にはじまった周期の乱れはいまやもう完璧で、完全に予測がつかなくなっている。ヒート期の休薬ペースも狂っていた。しかし中和剤をやめたことで、今度は抑制剤は本来の調節ホルモン剤としての役割だけを果たすことになるはずだ。峡はあらためて処方箋を出した。  標準的なオメガならヒートは年に四回程度だ。しかし昨年の十一月から数えて俺にはすでに四回ヒートが来ている。体質で前後するとはいえさすがに多すぎた。俺の場合は攪乱要素が多すぎるのだと峡はいう。中和剤と抑制剤の併用でオメガ性の本来の成熟を中途半端に止めていたこと。藤野谷と接触したこと。そして今になって中和剤をやめたこと。加えて藤野谷と――「適合者」とセックスしたこと。  おかげで朝の儀式がひとつ減った。最後に俺はTEN-ZEROの香りをつけて、シャツのボタンをとめる。たとえ何が変わっても、この香りはまだ俺の一部だった。  ロードバイクはまだ修理中で、肋骨も完全に治っていないからジョギングもためらわれ、何となく体が重かった。簡単に朝食を食べると仕事用のパソコンの前に座り、エージェントAI経由で契約した仕事をこなす。予定まで終えると休憩がてら、皺をよせた紙の影をペンでなぞったり、スケッチブックに落書きをしたり、気が向くと色を塗ってみたりした。  自転車でカフェ・キノネまで走ってコーヒーを飲むことこそなかったが、それ以外は昨年の十一月に藤野谷に再会する前と同じ日常だ。  カフェ・キノネは四月から一時閉店するらしい。マスターは都内のギャラリーへ移ることになり、準備で後継者探しもおぼつかないのだという。  午後を過ぎたところで適当な昼食をとる。その後はエージェントAIを通して受けたデザインやイラストカットのスケジュールを組んで、片づけていく。たいていは海外からのオファーだ。小さい仕事だから楽というわけではないが、TEN-ZEROの案件での制作に比べると当然、手ごたえはない。  今日はふと思い立ち、俺は暁に連絡を取った。パソコンの画面でカレンダーやタスクリストを眺めるうちにつながったので、音声のみに切り替える。暁とはメールのやりとりはあったが、話すのはひさしぶりだった。 「何か俺がやれそうなのない?」  たずねると暁は『それがなあ』とのんびりした口調でこたえる。 『去年から話を聞いていた企画がいくつかないこともないんだが、予算が決まらないらしい。国会審議が長引いているだろう?』 「そうなのか」 『そうなんだよ。来年度予算が決まるまで入札も発注もなしだ。暇なのか?』 「AI経由の小さいのを何件かやってるが、全部海外だし、かなりゆとりはある」 『TEN-ZEROの方は終わったのか?』 「俺の仕事はね。もうすぐ暁にもプレスの案内が行くと思う」  TEN-ZEROの新製品は発表までもう秒読み状態だ。 『そうか? 楽しみだな。ともかく、何かあったら連絡するよ』  俺のようなフリーランスの|代理人《エージェント》以外にも暁には仕事があるはずだが、俺はよく知らなかった。暁と知り合ったのは当時峡が勤めていた大学だ。抑制剤の服用がらみでラボへいった時に峡の同僚と時間待ちに雑談をしていたとき、当時エージェントAIで起きたトラブルについて話したのをきっかけに紹介してもらったのだった。以来、エージェントといっても直接会う機会はほとんどなかったが、これまでメールや通話で頻繁に話はしているから、ほどよい距離感のある友人だと俺は思っていた。数少ない俺と世間との接点のひとつでもある。  しかし――ふと俺は思い当たった。外見もはっきりオメガに見えるのなら、暁に今後会った時のことも考えなければならないはずだ。何年も同じベータと信じていた男がオメガだったとわかったとき、暁はどう思うのだろうか?  ぼんやりしているとドアチャイムが鳴った。  俺は時計をみた。二時。昨日これが鳴ったのはもっと遅い時間だった。これで連続何日目になるだろう。  ガレージに出るとシャッターの穴からまっすぐに光が射しこんでいた。ビームとなった光の筋に空中を舞う埃が照らされる。俺はこの前の親睦会の余興だった「カメラ・オブスキュラ」を思い出しながらガレージの扉をあけた。完全な暗室ならこの穴を通して外の光景を映し出せるのだろう。光を印画紙にあてれば、ピンホールカメラのように写真が撮れるのかもしれない。  外に出ると空はぼんやりした春がすみで覆われている。玄関の前には黒のミニバンが止まっていた。運転席から渡来があらわれて俺に軽くうなずき、後部から藤野谷が降りてくる。ビジネススーツのままで、つまり仕事中ということだ。  俺は内心ためいきをついたが、渡来がロードバイクを地面に降ろしたとたん、その気分は瞬間的に蒸発してしまった。 「サエ」 「直ったのか」  俺がころんだせいでひどいありさまになった自転車は完璧によみがえっていた。生まれ変わったようにホイールもフレームもピカピカで、サドルの革も柔らかい光沢を放っている。 「電子部品は交換したそうですよ」  渡来が予備部品の入ったビニール袋や書類を差し出す。俺はありがたく受け取って上の空でまず礼をいった。ガレージへ押していく間も金属の重みやサドルの感触がうれしくてたまらない。それに、これでやっと走りに行ける。 「ありがとう」  ガレージの中へ安置し、あらためて藤野谷家のふたりにいうと、温度のちがう目線が返ってきた。渡来は「どういたしまして」といいながら珍しい動物でもみるように俺をみていて、藤野谷は微笑んでいた。俺よりもうれしそうだ。 「何かおかしいか?」 「サエが喜んでいてよかった」  そのとたん音楽が鳴って、藤野谷はモバイルを取り出してちらりと眺め、ガレージの外に小走りに出る。話し声が聞こえる。 「仕事中に届けなくてもいいのに」  会話を中断され、思わず俺はつぶやいた。 「また喧嘩になるかね?」と渡来がいった。  俺はどきりとして年配の家来筋に目をやる。彼のような落ち着いた男に俺と藤野谷はどう見えているのだろう。 「聞いたんですか?」 「聞かなくても天藍の様子をみれば見当がつくよ。どうせ、毎日来るなとでもいったんだろう」 「ええ。いや――忙しいのにこんなところまで来るなとはいいましたが」 「おまけにすぐ帰るときている」  その通りだった。  名族の会合で予告した通り、藤野谷は翌日の夕方ひとりでここにあらわれたが、ごく短い時間だけだった。ガレージの中で抱きしめられてキスをされ、キッチンでコーヒーを入れている間も藤野谷は俺のうしろにまとわりついていたが、意味のある話などほとんどしないまま藤野谷のモバイルが今のように鳴って、コーヒーを飲むとすぐに出て行ったのだ。おまけに脱いだジャケットを忘れていった。そのジャケットはまだここにある。  同じようなことが三日続いた。  四日目、藤野谷があらわれたとき、俺は毎日来なくていいと怒鳴ったが、藤野谷は聞かなかった。こいつが話を聞かないのはいつものことだが、さらにその次の日、藤野谷は俺が昼食のパスタソースを煮ているときにあらわれた。俺のすぐそばでパスタを食べてシャツの袖にトマトソースを飛ばし、あわてて拭いたハンカチに染みをつけ、食べ終わったころにまたモバイルが鳴って、今度はハンカチを忘れて出て行った。  喧嘩というには馬鹿馬鹿しいものだが、そういえなくもなかった。 「忙しい時期でね。騒がせてすまない」と渡来がいう。 「だから来なくていいといったんです」俺は答えた。「突然やってくるし、俺は足も用事もないからほとんど出かけないとはいっても、もしいなかったときを思うと……」 「そこを考えてくれているならよかった」渡来は冷静にいう。 「実際そんなことでもあったら今度はきみにGPSをつけかねない勢いになる。モバイルくらい持ち歩いてくれれば私もありがたいが」 「ええ。出かける時はそうします。でも時間がないのなら、ほんとうに無理してここまで来なくても……ロードは配送してもらえばよかったんだし……」 「そうはいかないだろう。天藍は不安なんだ。つがいに対するアルファの執着なら何十年も見てきたが、名族はとくに厄介だ」  渡来は解剖でもしているかのような眼つきで俺をみた。 「しかしきみが行方をくらましていた数年間よりは今の方がましだ。佐枝零君。きみにしたっていまだに受け入れられないこともそれなりにあるだろうし、だったらはるばるやってきて五分で帰るくらいの方が、まだいいんじゃないか」  渡来の口調は非難がましくはなかった。なのに俺はうしろめたい気分になった。 「むしろ俺の方が悪いと? こんなところに住んでいるのが?」 「私はそうは思わない。それに天藍は実家の過ちを繰り返したくないはずだ。会えるだけまし、くらいに思っているだろう。今はね」  ガレージの外の話し声が止む。俺はあらためて渡来に向き直った。射しこむ光に自転車のフレームがつやつやと光る。 「ロードバイク、ほんとうにありがとうございました」 「修理ができてよかったよ。直せないものもたくさんあるからね」  そのとき藤野谷が駆け込んできて、入れちがいに渡来は出て行った。車のドアを開ける音が聞こえる。藤野谷の姿は俺の視界で逆光になっていた。包むように細かな光の粒が舞っている。 「サエ、」  ささやきながら肩を抱いてくるのを俺は受けとめる。見上げた藤野谷は顔をしかめていて、やや険しい表情だった。問題でも起きたのだろうか。俺も藤野谷の腰に腕をまわして背中を軽く叩いた。なぜかため息が出た。 「すぐ行くんだろ?」 「……ああ」  俺と同じように藤野谷はため息をつき、俺の髪を手のひらでまさぐる。外の車で渡来が待っているのがわかっていた。俺たちは長いキスをして、そして離れる。  アルファはつがいと見定めたオメガに執着する。  アルファはつがいにしたいオメガを自分の匂いがついた物で囲い込もうとする。アルファが裕福な場合はとくにそうだ。オメガはアルファの匂いに囲まれて――やがてそのアルファに慣れる。  世間ではほとんど冗談半分でいわれていることだ。だが名族の会合が終わったあと、俺はこれが事実なのだと驚かざるをえなかった。藤野谷は毎日俺の家にやってくると、ほんの短い間でも俺にべたべたと触り、キスをして、あげく何か忘れていくか置いていくのだ。これが何度も続き、実際に俺は藤野谷の匂いや存在に慣れた。  慣れた、としかいいようがなかった。あいかわらず藤野谷のまわりに俺はあの形容しがたい色をみて、匂いを感じると動悸が速くなったり、逆に安心したりするが、身構えて緊張することはなくなった。何年もかけて慎重に築いてきた警戒の壁がこんなにあっさり消えてしまうなんて、おかしな話だ。さらにここ三日くらい、ガレージから藤野谷の姿をみると、俺の足はふわふわとおぼつかなくなってくる。  今日の藤野谷はいつもの青いSUVから降りてきたが、大きな紙袋を両手に下げていた。三つ。いや四つ。いったいどうしたのか。俺の怪訝な眼つきに気づいていたに違いない。ガレージに入ってくると開口一番「プレゼント」といった。 「何」と俺は聞き返した。 「来週のプレス発表のときに着て」  紙袋のふたつには高級ファッション誌でみるブランドロゴがついていた。その場で上から中身をのぞくと下着からジャケットまでひとそろいで、怪我をしたときに渡来が持ってきた服を思い出させる。ブランドはちがうが、値段の桁はたぶん同じだろう。  俺は顔をしかめたが、藤野谷の表情は否定的なことをいうにはあまりにも期待に満ちていた。 「わかった。ありがとう」  藤野谷は心底うれしそうな顔をして微笑んだ。 「やっと終わりだ。いや……はじまりというべきだな」  日が暮れかけていた。ガレージの中はもう薄暗い。藤野谷は紙袋を俺の手から奪うと、するりと俺の肩に腕をまわす。くつ脱ぎへ俺の体を押しやるようにして、上がり框に紙袋を置くと、俺の首筋に顔を埋めた。そのままの姿勢で「上がっていいか?」と聞くので、俺は思わず笑った。 「またすぐ帰るんだろう」 「今日は大丈夫だ」  家に上がると俺はリビングに紙袋を置いて作業部屋へ戻った。今日の藤野谷は俺が納品を終えたところであらわれたので、悪いタイミングではなかった。  作業用パソコンの電源を落としていると藤野谷は入口をふさぐように立ち、部屋の中を見まわしていた。スケッチブックを並べた棚の扉が開けっぱなしで、息抜きに落書きをしたクロッキー帳も広げてある。俺はクロッキー帳を閉じ、棚の扉を閉めた。ふりかえると藤野谷はまだ同じ場所にもたれていた。リビングの方へ行けと手で示しても動かない。 「天?」  ふうっと息を吐く音が聞こえた。 「サエ」 「何?」  腕が伸びて俺の背中に触れる。 「あれ、何が描いてあるんだ?」 「あれって」 「あの棚の中。絵だろう? サエの」 「そうだけど……いろいろだよ。落書きが多い」 「見たい」  俺は一瞬固まって、それから小さく首を振った。 「そのうちな。気が向いたら」  藤野谷は長く細く、息を吐きだした。 「たまに考えるんだ。サエを……」  小さくささやく。手のひらが俺をひきよせ、背中を撫でている。 「どこかに閉じこめて……俺だけをみているようにできたらいいのに」  俺はまた首を振った。 「そんなの無茶苦茶だ」  藤野谷はうすく笑った。 「そうだな。俺もそう思う」  俺は言葉を探した。 「いまおまえを見てる。それじゃだめなのか?」  藤野谷は眼を細めた。かすかに目尻に皺が寄る。とても優しい眼つきだった。光線のためか疲労の影が濃くみえる。俺たちはもう学生ではないのだ。  俺は思わず眼の前の顔に手を伸ばしたが、藤野谷は避けなかった。目尻をなぞって藤野谷の髪に触れる。どちらからともなく顔を近づけて、唇を重ねた。  このごろは毎日、藤野谷に会うたびにキスをしている気がする。そんな内心のささやきも唇と舌の感触に消え失せる。チュッと小さな音が鳴る。 「骨は大丈夫か?」藤野谷がささやく。 「たまに痛むくらいだ」  胸の下、左の脇腹にはまだサポーターを締めていた。痛むたびに湿布を貼っているが、それだけだ。藤野谷の腕がいたわるように俺の背中を抱く。服ごしに感じる体温が心地よかった。何年ものあいだ藤野谷に出くわすたび、彼に触れるたびにヒートが来て、それをずっと恐れていたのに、今は平気なのが不思議なくらいだった。  藤野谷は俺の頭を手で支えながらまた唇を押しつけてくる。ヒートでないときにこうしてキスができるのがうれしかった。このままセックスしたらどうなのだろう、という考えが頭をかすめる。ヒートの時期は熱っぽくなっていつも頭がぼうっとしているし、かならず体の欲望に負けてしまうから、そうでないときに藤野谷と……  はっとして俺は唇を離した。顔に血が上るのを自覚する。 「サエ……?」  藤野谷がいぶかしげな声を出す。 「なんでもない」  俺は背中にまわった腕をほどき、藤野谷の肩を押した。 「リビングへ行けよ。晩飯はどうする? 食べたいなら――」  俺に最後までいわせない勢いで藤野谷は返事をした。 「食べたい」 「俺が作るけど」 「断然食べたい」  リビングへ行けといった俺の話をまったく聞かずに藤野谷はキッチンについてきた。俺はストックした食材で夕食を作った。ジャガイモといんげんをつけあわせにした鶏のソテー。トマトのサラダ。コンソメスープ。  換気扇を回す音や肉が焼ける音でキッチンはうるさく、俺も藤野谷も何も話さなかった。それでも俺は背中にずっと視線を感じていた。ふりむくとテーブルに肘をついた藤野谷と眼が合う。そのたびに藤野谷は口元をゆるめて笑い、俺の胸の内側はふんわりと暖かくなった。悪くなかった。峡と料理をするときともちがう居心地の良さだ。  料理ができあがるとそのままキッチンのテーブルで食べたが、俺たちはあまり話さなかった。あの朝もそうだったと俺は思いだす。目覚めたとき、藤野谷が俺の隣にいた、あの朝だ。  食事を終えると藤野谷は帰った。明日は五時起きで飛行機に乗るという。戻りはプレス発表の日になるらしい。  とっくに外は暗くなっていた。藤野谷は運転席から手を振った。俺は庭で車が出るのを見送り、門扉をしめた。急に体の半分が空になったような寂しさを感じ、足早に家に入った。

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