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【第3部 ギャラリー・ルクス】5.明るい鏡
「どこへ行けばいいですか?」
「佐枝様。控室を三階にご用意していますので、ギャラリー奥のエレベーターへどうぞ」
受付の女性にIDを見せると、エントランスの奥を示された。
オープンして間もないギャラリー・ルクスの内装はさまざまな風合いの「白」の組み合わせだった。壁や床は異なる風合いの白い素材の組み合わせで、間接照明にそのテクスチャーが浮かび上がる。
俺が足をふみだすと正面の壁の照明がゆるやかに落ち、光で細字のロゴが浮き上がった。
TEN-ZERO/Singularity
同じロゴが入った紙袋を渡されて奥に進む。エントランスに設置されたブースでは製品のサンプル配布や、オーダーに必要な計測キットの解説が行われていた。さらに続く吹き抜けの空間はギャラリー・ルクスのオープニング企画展で、壁にゆったりと絵がかけられている。
空間の中央から上に階段が伸び、回廊となって、中二階、中三階の展示室へ続いていた。吹き抜けの最上部には橋のような通路が渡され、プレス発表は橋の先のスペースで開かれるという。
案内されるまま俺はガラス扉のエレベーターに乗った。三階で降りるとTEN-ZEROのIDをつけた社員が一礼する。本社の中間発表会で見た顔だった。
四月初めにオープンしたばかりのギャラリー・ルクスでTEN-ZEROのプレス発表をすることを、俺は直前まで知らなかった。だが藤野谷は昨年カフェ・キノネでオーナーと話したときから候補のひとつに数えていたらしい。今回TEN-ZEROの製品が打ちだしたコンセプトに、伝統的な画廊と違う方法を模索するギャラリー・ルクスの方向性が一致したという理由がひとつ。ルクスがコマーシャルギャラリーとしてはめずらしく、映像や音響メディアの展示に特化したスペースを併設したという理由もひとつ。
控室には誰もいなかった。設置されたモニターに完成したプロモーション映像が流れている。同じ映像を俺は今日、ここへ来る途中で二度目撃していた。一度は地下鉄車内の広告画面で、もう一度は乗換駅の太い柱に設置された動画広告だ。
奇妙な気分だった。素直にうれしいと思い、誇らしくもあったが、まだ信じられないような気持ちもある。映像の最後では小さく俺の名前がアルファベットであらわれ、TEN-ZEROのロゴとかぶるように消える。
昔コンペで優勝した作品も、何事もなければこんな風に街中で人に見られていたかもしれない。そうならなかった代わりに今これがあるのなら、悪くはなかった。
隅に置かれたラックにギャラリーのパンフレットとチラシが数種類刺さっていた。この控室は展覧会やワークショップスペースとしてレンタルできるようだった。ビルは七階建てで、一階と二階がギャラリー・ルクスの企画展示に、三階と四階は貸しギャラリーやイベントスペースとして使われるらしい。
竣工したてのビルだけあって、窓は鏡のようにピカピカで、俺の姿を映していた。無意識にジャケットの裾を引いて整えながら、すぐそばの緑道公園をみつめる。週末にかけて続いた好天で桜がひと息に開花し、俺がここに来るあいだも、ベンチで飲み物を片手に花見をする人や、犬を連れて散歩する人、桜に向けてカメラを構える人がいた。俺が道を横切ったときは、はやくも散りはじめた枝の下を猫が悠然と歩いていた。
いいロケーションだ。このビルは角地にあって、ギャラリーのエントランスを曲がったところにカフェの入口がみえた。時間を気にしていた俺はガラス扉の前を通りすぎたが、中にはきっとキノネのマスターがいるだろう。
「サエ」
うしろから呼ばれるのを俺は聞く。ふりむくまでもなく、すぐ近くに藤野谷が立っているのはわかっている。
「もう始まるのか?」俺は窓の外を見ながらいった。
「何かついてる」
藤野谷の声とともに肩甲骨のあたりを指でなぞられた。ぞくりとして俺は部屋の中を向く。ほとんど白に近い薄紅の花びらが藤野谷の指にはさまれている。
「公園を通ってきたんだ」
「ここにもついてる」
俺の背中を手のひらが撫でおろすのを感じたとき、三波の声が戸口から聞こえた。
「――ボスここですか? 探されてますよ」
藤野谷は一瞬残念そうな眼つきをして俺から手を離した。「あとで」といいながらスーツの襟のインカムに返事をし、三波と入れちがいに控室を出ていく。三波は俺をみて妙な表情をうかべた。
「佐枝さん、どうも……」
「今日はよろしく」
「格好いいですね」
「え?」
俺は自分の服を見下ろした。靴以外は藤野谷がこの前持ってきた紙袋の中身だ。三波はモニターをのぞいている。プレス発表の会場がここから見えるらしい。
「行きましょうか。緊張してます?」
「かなり」
「どうってことないですよ。紹介しますって呼ばれたら立って、前に出て適当に頭を下げれば終わりますから」
「三波は?」
「僕は今日はただの雑用スタッフなんで、佐枝さんが恥ずかしそうにしている顔をズームで撮って、後でボスに売ります」
「おい」
「クローズドオークションにして値を吊り上げるという手もありますね。――冗談です」
歩きながら話す三波はすっかりいつもの――プロジェクトを進めていた間、チャットで軽口を叩いていた頃の口調だ。先月からのいきさつを思い起こして俺はなんだか安心したが、それでも動悸は速くなった。
「すみません。ほんとに冗談ですから」
俺のとまどいをなだめるように、三波はにやにや笑いをやめて真顔になる。
「それはともかく、ボスの苗字の関係で、今日のプレスにはそっち系がまじってるみたいです。前の製品発表ではこんなことなかったらしいんですが、少し気をつけた方がいいかもしれません」
「そっち系? 気をつけるって?」
わけがわからずに俺はたずねた。
「名族のゴシップ関係ですよ。招待はしてないんですが、入りこんでるのがいそうなんで。写真勝手に撮られたら近くの社員にすぐいってください」
「……冗談だろう」
「それがね、今の佐枝さんだと、冗談にならないかもしれないので」
どういう意味だと聞きたかったが、三波は俺を会場に押しやった。
『singularity――シンギュラリティという言葉は近年、技術的特異点についてのみ取りざたされていますが、本来の意味はたぐいまれなことや、非凡さ、単独性を意味する言葉です。今回のTEN-ZEROの製品は、人それぞれが本来もっているオリジナルな匂いを直接解析、拡張して、個人の存在を〈匂い〉という概念において拡張するもので……』
いざはじまると俺は司会者の言葉を半分うわのそらで聞いていた。俺のいる関係者席からは知っている姿がいくつか眼につく。ギャラリーオーナーである黒崎さんが会場の端に立ち、並べられた椅子に峡が座っている。アナウンスの途中で見覚えのある長身がすべりこみ、後方に腰をおろす。加賀美だった。
俺は一瞬はっとして、つぎに自意識過剰だと自分にいい聞かせる。名族の会合でマスターがいったように加賀美は黒崎さんが独立して以来の顧客で、このギャラリーにも協力しているという話だから、ここにいても不思議はない。
会見自体はあっさりと終わった。もっとも、最後の方で司会者に参加アーティストとして紹介されたときはすこし足が震えて、その瞬間はもう帰りたいと願った。手招いている藤野谷の横に出て、俺は軽く頭を下げる。それだけのことに震えてしまうのは、こんな風に人が居並ぶ場所に立つ機会などないせいだ。
顔をあげたとき、眼の前にずらりと座る見慣れぬ人々のなかに暁の顔が浮いて見えた。一瞬眼が合ったと思ったが、暁は眉をあげていぶかしげな表情をしている。なんとなく胸騒ぎがした。会見が終わると人々はざわめきながら立ち、その中で俺は暁の姿を探したが、みつからなかった。
かわりに寄ってきたのは叔父の峡だ。「よかったな、零」という顔に満面の笑みを浮かべている。峡がこんなにうれしそうなのは何年ぶりだろうと俺は思い、内心反省した。なにしろ、峡が渋い顔をするのはたいてい俺に原因があるからだ。
「佐枝さん、控室に戻りますか?」
「鞄をとりにいくよ」
俺は声をかけてきた三波をふりむく。思いついて紹介することにした。
「三波、彼は叔父の佐枝峡。峡、彼は三波――」
何だっけと困惑したとき三波から口を出してくれた。
「|朋晴《ともはる》です」
「TEN-ZEROのエンジニアで、今回のプロジェクトのチームメンバーなんだ。若いけど凄腕で、三波がいないとこんなにうまくいかなかった」
俺の説明に「それはすごいな」と峡が三波に笑顔を向け、手を差し出した。
「どうもありがとう。叔父の峡です。零が世話になったようで」
「いえ――まさか。僕は零さんのファンなので……」
どういうわけか三波の声は小さく、自信なげな調子に響いた。俺とちがって初対面の人間にも気おくれしないたちだと思っていたので意外だった。しかし峡にわざわざ来てくれた礼をいって別れ、エレベーターに乗ると、三波は「叔父さんって何をしているんですか」と聞いてくる。
「峡? 医者だよ」
「名前で呼ぶんですか?」
「変かな。習慣なんだ。俺は養子だし、叔父甥って関係も書類上そうなっているだけで、実際は兄みたいなものだから」
そうですか、と三波は小さな声でいった。
「どうした?」
「なんでもないです。それより佐枝さん、僕の名前おぼえてなかったでしょう」
ズバリといわれて俺はどきっとした。
「ばれてた?」
「かまいませんけどね。鷹尾の名前も覚えてないでしょう?」
「うん。ごめん」
「ばらしはしません」
にやにやしている三波と別れて、最後にコーヒーでも飲もうと俺はひとりでカフェに入った。久しぶりに顔をみたマスターはいそがしそうで、とても話しかけられる様子ではなかった。フロアのアルバイトもまだ慣れていない様子だ。
店の名前は「Cafe Nuit 」となっている。ルクスは光を意味するが、こちらはフランス語で夜というわけだ。それを狙ったかのように壁には小さな窓しかなく、キノネのように明るい店ではないが、テーブルの広さも間隔もゆったりしていた。
ひとつの壁は書棚で覆われて写真集や画集がディスプレイされ、上部のスクリーンにはゆっくりした動きの映像が流れる。奥の席にはデスクライトがキリンのように首をのばし、その下で読書中の客もいる。
コーヒーの味はキノネと同じだった。俺はしっとりした光沢のあるテーブルの暗い木目を指でなぞる。気配を感じて眼をあげる。
「疲れた?」抑えた声で藤野谷がいった。
「いや。発売おめでとう」と俺はいう。
「まあ、これからが本番だろうけど」
「そうだな」
藤野谷は椅子をひいて座りながら「もう帰るのか?」と聞く。俺がうなずくと「夜に本社で軽く打ち上げるが――」といいかけた。俺は手をあげてさえぎった。その話なら三波からも聞いていた。
「俺はいいよ。遠いし」
「送る」
「やめとけって。だいたいおまえ、今日帰って来たばかりなんだろう」
藤野谷の眼のしたにうっすらと隈がみえていた。心配になって俺はたずねた。
「明日は休めるのか?」
藤野谷は俺の眼をじっとみながら答える。
「明日も早朝の飛行機で出張」
「国内?」
「いや。戻りは五日後。時差は九時間」
藤野谷は俺の前のコーヒーカップを断りもなく持ち上げると口をつけた。
「全部飲むなよ」と俺は釘をさす。
「サエ、飲み終わったら行く?」
「ああ。おまえは?」
「一緒に出る。明日も連絡する」
「無理するなよ。時差九時間だと……」
藤野谷の指がカップのふちを叩いた。
「ヘンな時間にかけたらごめん」
俺はそっと息をつく。「天、気にするな」
カフェの外に出ると風がすこし強く吹き、桜の花びらがはらはらと舞っていた。藤野谷は俺の背中に腕をまわして耳元にかするようなキスをおとし、すばやくギャラリーの方へ歩いて行った。俺は緑道を横切ったが、ふとシャッター音を聞いた気がしてあたりを見回した。
花見酒こそ見当たらないが、緑道をそぞろ歩く人々の数は増えているようだ。花盛りの枝にカメラを向ける姿もある。俺は肩に落ちた花びらをはらった。
新製品「TEN-ZERO/Singularity」の売れ行きは好調のようだった。
プロモーション映像も、業界内部だけでなくSNSで一般に拡散された。普通はあまり接点のないアートやファッション系のウェブサイトで取り上げられたせいか、直接の取材の申し入れがTEN-ZEROまで来たと連絡があった。
俺は迷ったが、TEN-ZERO広報部の勧めで取材に応じることにして、いくつかのメディアでインタビューを受けた。
ウェブや雑誌に公開されたものを読むと、藤野谷が自社の製品をきちんと説明しているのに対し、俺はしどろもどろで、どうしようもないことしか喋っていない愚か者に思えた。作品映像と並べて俺の写真も載ったが、メディアのカメラマンに撮られた自分の顔に俺はいまだに違和感を持っていた。
あまり気にすることではないのかもしれない。写真うつりがよくなった程度に思っておけばいいのだろうか。
藤野谷は取材のたびに自分で俺を迎えにきた。一度はどうしても都合がつかなかったといって渡来が迎えにきたが、俺が自分で本社へ行くといっても藤野谷は頑としてきかなかった。
新製品の発売から藤野谷はますます忙しくなり、三月の一時期のように、たとえ五分だとしても、俺の家へ立ち寄るのは厳しい状況になったらしい。その代わり頻繁に俺のモバイルへ連絡を寄こし、たまに俺を脱力させる駄洒落をいう。
「天」
今日も迎えにきた車の中で、信号待ちのあいだ、俺は口をひらく。午後の早い時間だが、空は雲が厚くかさなり、重苦しい印象だった。
「何?」
「おまえ、大丈夫?」
「何が?」
「寝落ちしただろう。昨日の夜」
藤野谷の車はいつもラジオが鳴っている。何か月もチャートのトップにいるラップのリズムに合わせてハンドルを叩く藤野谷の指が止まり、また動いた。
「そうだな。ごめん」
なめらかに発進して答える。
「そうじゃなくて、俺と電話で話すのもいいけど、ちゃんと寝ろよ」
「サエと眠れないから、無理」
「天」
「それともサエが俺の家に来る?」
俺はポケットに手をつっこんだ。飴のパッケージが指に触れる。紙を剥がして口に放りこんだ。
「――いいよ」と答えた。
「サエ、飴くれよ」
俺の方を見もしないで藤野谷がいった。俺はあきれた。
「おまえ昔から俺に飴をたかるけど、ほんとは好きじゃないんだろ?」
「サエの飴は別」藤野谷は俺にちらりと流し目をくれる。
「サエが今舐めてるのでいい」
「新しいのをやるって」
「今サエの口の中にあるのがほしい」
本気の声だった。俺はためらい、それから急に馬鹿馬鹿しくなって自分の口に指をつっこみ、飴を取り出した。チェリー味。濡れて艶のある珊瑚のようなピンク色だ。藤野谷の口元に差し出すとおとなしく唇をひらくので、そのまま放りこむ。
藤野谷は黙って飴を舐めていた。
「やっぱりいい」と、唐突にいった。
「何が?」
「俺の家に来なくていい。俺が行くから」
「どうして?」
「俺の家に来たら――俺はきっとサエを帰せなくなる。サエが嫌がっても、閉じこめてしまう」
俺が黙っているあいだに藤野谷はワイパーを動かした。雨が降りはじめていた。フロントガラスにぽつぽつと落ちた雫をワイパーが拭っていく。
この日の取材は海外メディアのインタビューで、新製品のコンセプトと俺の映像作品にどういった関連があるのかといった、つっこんだ内容をたずねられた。インタビュアーは灰色の眼をした金髪の女性で、彼女の進行が上手かったのか、俺はひさしぶりにきちんと話ができたような気がした。持参したポートフォリオも熱心に見てくれて、これまでのメディア取材とは段違いの充実感があった。
取材が終わると藤野谷は送ると主張したが、俺は断ってTEN-ZEROを出た。相変わらず雲は厚く、雨粒がたまに落ちてくるような天気のままで、空気は湿ってむっとしている。薄暗く、もう夜になったように街灯が道を照らしている。俺はギャラリー・ルクスへ寄って帰るつもりだった。ここからなら地下鉄を一度乗り換えるだけで、三十分もかからない。
社屋の正面玄関を出て数歩進んだとき、視界のはしを不自然に通る影をみたように思った。俺はあたりを見回し、植込みのすき間に目立たない風体の男が立っているのに眼をとめた。顔をそらし、俺の方を見ているわけでもないが、首にカメラを下げている。
俺はプレス発表の日の三波の言葉を思い出した。それだけでなくもっと昔のことも思い出した。大学四年の最後の日々に俺につきまとっては隠し撮りをし、匿名で中傷してきた連中のことを。
ぞっとして俺は足早に通りへ出ると地下に降りた。電車を乗り継いで地上へ出たとき、ギャラリー・ルクスが面する緑道公園にはしとしとと雨が降っていた。ほとんどの木が葉桜に変わるなか、枝にしがみつくようにして残った花が、雨に白くにじんでいる。
俺は神経質にあたりをみまわした。誰もいない。当然だ。
なのに不安は去らなかった。散り落ちた桜の花びらは茶色になって、アスファルトの上でひしゃげていた。
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