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【第3部 ギャラリー・ルクス】7.濡れた硝子
俺は石畳を走って門扉をあけ、車を通した。窓からのぞいた藤野谷の顔はうす暗い門灯のために土色にみえる。鍵をかけてガレージの前に戻り、車から降りた姿に「天、いまスピフォトの――」と話そうとして、疲れた表情にはっとした。
藤野谷は低い声でこたえた。
「知ってる。今対応しているところだ」
そのままスーツの腕が俺を抱えこみ、俺も黙ってされるままになっていた。藤野谷はしばらくじっとそのままでいて、そして俺のひたいの上でささやく。
「ごめん、サエ」
藤野谷の匂いと色につつみこまれ、俺は大きく息をついたが、とたんに背筋をぞくぞくとふるえが駆け下りた。藤野谷は俺を腕の中に抱えこんだままガレージへ押しやった。自分でシャッターをおろし、壁に俺の背中を押しつけ、覆いかぶさってくる。いつものキス――のはずが、藤野谷の舌が触れたとたん、体じゅうをかけめぐる血を意識する。肌に甘くしびれがはしった。
藤野谷の腕がゆるんだ。
「……ヒート?」
頬のすぐそばでささやかれ、俺は顔が熱くなるのを感じた。こんなときにこんな風になる自分が悔しく、恥ずかしかった。
「不安定だから、最近間隔が……短いんだ。離れないとおまえまで……」
「サエ」
俺は体をねじり、藤野谷の腕から逃れる。
「緩和剤……とってこないと。中に――」
追ってくる眸から顔をそむけ、俺は飛び跳ねるように家にあがる。洗面所に駆けこみ、そのいきおいで扉をしめようとしたが、閉まらない。
「サエ、俺がいる」
狭い洗面所のなかで藤野谷の体が俺を圧倒した。緩和剤のアンプルを取り出す間もなく腕をつかまれる。洗面台に尻を押しつけられ、なかば腰かけるような恰好になった俺を藤野谷が見下ろした。
「俺がいるからそんなもの使うな」
「でも」
「だめだ」
反論が藤野谷の唇でふさがれる。もやがかかったようなヒートの熱が頭に侵食して、舌の動きでさらに増長する。俺の髪をかきまわしていた手が首のうしろをなぞるだけで背中から力が抜ける。前が張りつめて堅くなり、反対に後ろは濡れ、ひくひくと甘くうずいた。
「天、やめて……」
襟のボタンが外され、藤野谷の舌が首から鎖骨へ下りた。俺の背中を支えながら上目でみつめられる。まぶたの下に欲情の影が濃くおち、まなざしはほとんど獰猛な色をうかべている。腰を抱えられた拍子に膝がくずれた。視界がくるりと回って俺は床に倒れている。上に覆いかぶさってきた藤野谷のスラックスの前が盛り上がり、俺のそれと触れ合う。
気持ちがいい。気持ちがよくてたまらない。なのに俺は涙目になっている。
「天……」俺は手をのばして藤野谷の顔を押し戻そうとした。「いやなんだ」
藤野谷の動きが止まった。俺の顔のすぐ横に片手をつき、もう片手で俺の顎をつかむ。指が触れるだけでうなじがびくっとする。
「どうして?」低い声が俺に詰問した。
「なぜいやなんだ?」
「なぜ?」涙があふれ、耳まで落ちた。
「やだよ……当たり前だろ――こんなときに……ヒートなんて……こんなだからオメガなんて――俺は……」
そういってみても言葉とは裏腹に俺の体はもう、藤野谷の小さな動きにも反応していた。彼の吐息ひとつだけでも、皮膚の内側の脈ひとつひとつが小さな快感をひろってぞくぞくする。
藤野谷はなだめるようにいいかけた。
「サエ、ヒートは」
「ただの生理現象だろ?」
俺は吐き出すようにいった。藤野谷の指が顎をつかんだままなのでうまく喋れない。
「どうしようもないんだ。ヒートがきたら俺は何もできない。何も……それに俺のせいでおまえまで|発情《ラット》する――」
とつぜん藤野谷の唇にうすく笑みがうかんだ。俺を床に倒したまま体を起こし、上着を脱いでモバイルを取り出す。放り出されたジャケットから藤野谷の匂いがあふれた。足の上に乗られたところから甘い熱が俺の腰を伝わり、どくんと脈がひとつ打って、また下着が濡れる。
思わず漏れかけた声を俺はこらえた。藤野谷は液晶画面をみつめながら片手で数度タップし、もう片手で俺のシャツの残りのボタンをはずしていく。むき出しになった俺の乳首を指がなぞったとき、モバイルが鳴った。
「ああ。緊急だ。明日と明後日はキャンセル。だめだ、俺は出られない」
藤野谷の声は落ちついていて、冷たい水のように響いた。指が俺の右の乳首をこね、潰す。
「あっ……」
ついに声が出て、即座に俺は歯を食いしばる。
「それから渡来さんに例の件の対応をと伝えてくれ。まかせて大丈夫だ。ああ、よろしく」
藤野谷はもう一度タップするとモバイルを無造作に放った。
「サエ」俺の胸に顔を寄せてささやく。
「おまえのヒートは単なる生理現象なんかじゃない」
「だったらなんだって……」
「俺がサエを愛していいしるしだ」
ぬるりと胸をなめられた。乳首にちりちりと痛みが走る。ベルトがゆるみ、下着が中途半端に下げられ、張りつめた前が解放される。藤野谷に小さく揺さぶられるだけで甘い感覚に襲われた。薄いシャツごしに感じる冷たい床だけがかすかに残った俺の正気をささえていて、俺はなんとか言葉を絞り出す。
「でもおまえの会社……あっ……」
「大丈夫」
無駄だった。欲情がはっきりわかる低い声が俺の骨に直接響く。藤野谷の唇がぴちゃりと俺の胸のあたりで音を立てる。立てた膝のあいだに服を着たままの藤野谷の股間が擦りつけられ、激しく揺さぶられた。俺の腰の奥はとっくに蕩けたようになっていた。
口ではなんといっても欲しくてたまらない。そんな自分がたまらなく恥ずかしい。
「心配いらないから、サエ」
上から降ってくる藤野谷の声が俺の皮膚にしみこむ。
「もっと乱れて」
「あ、天、あ、あ……」
「サエが欲しがってくれないと、俺は許されない」
俺の尻を両手でつかんで、藤野谷は腰をぴったりつけて揺らしつづける。重みが胸の上にのしかかり、舌が俺の口を蹂躙し、内側をなぞって吸い上げられた。俺は手をのばしてやみくもに藤野谷の服をつかんだ。直接肌に触れたかった。もうそれ以外のことが考えられない。
ふいに背中が宙に浮いた。俺は焦って藤野谷の首にしがみついたが、抱え上げた腕は揺るがなかった。怖くなって思わず目をつむる。数歩で自分のベッドに投げ出され、マットレスの感触にほっとした。裸になった藤野谷が上にかぶさってくると、俺にまとわりついていた布をすべてはぎとる。そのわずかな手間ももどかしい。熱い手のひらが腹から太腿を撫で、焦らすように中心をかすめた。
「ああ、サエ。きれいだ……すごく甘い……」
どろっと後ろが濡れた。俺はとっくに物欲しげに腰を揺らしていた。足を曲げられ、股を大きく広げられる。藤野谷の指が俺の後口をなぞると、奥へ入りこんでまさぐる。羞恥も理性も消しとんだ。俺は藤野谷の猛った欲望をみつめ、口走る。
「天、来て、来て――」
楔が埋めこまれた瞬間、入口を抜けるきつさに息が止まりそうになって俺は喘いだ。上から覆いつくすような藤野谷の匂いに痛みがたちまち薄れて甘いしびれに変わる。藤野谷がふうっと吐息をつき――次の瞬間はげしく奥を突かれた。
「ああああああっ」
衝撃で吐精した俺のペニスを藤野谷の手がつかむ。眼を閉じたまま、俺は自分が吐き出したしずくが腹の上に垂れるのを感じるが、楔の律動は止まない。
リズムに合わせて揺さぶられ、藤野谷の太い熱を咥えこんだ俺の襞がふるえて、暖かな快感が背中をのぼっていき、さらに上へ導かれる。
「ああん、ああ、ああ――」
「サエ……ん、あ――」
内臓の奥まで貫きそうな熱さに強くひき絞られたあと、俺は光の中に堕ちた。ほとんど苦しいほどの快感に揺さぶられて、星がまたたくような絶頂に達する。
ヒートのあいだ、抱かれているときの記憶はいつもはっきりしない。途中で何回か冷たくて甘いものを食べたことや、浴室まで連れこまれ、用を足したあと藤野谷にシャワーで体をすみずみまで洗われたことはぼんやりと覚えている。密着して洗われているあいだに一度鎮まった熱がまた沸騰し、濡れたキスを交わしながらも何度か噛んでくれと哀願したのも覚えている。藤野谷は辛そうに眉をしかめ、俺の唇をふさいだ。腰を抱きかかえ、ふたたび俺の中に楔をしずめて、啼かせつづけた。
気がつくと裸で乾いたシーツとなめらかな毛布のあいだにいて、カーテンのすき間から明かりがもれていた。寝室には誰もいない。
不安に襲われて俺は体を起こした。低い話し声が聞こえて立ち上がろうとしたが、腰に力が入らない。
「ええ。ありがとうございます。ここの通信は問題ありません。前に確認しました。……はい? ああ――お断りします」
藤野谷の声だ。モバイルで話しているのだろう。耳を傾けるというほどでもなく、ぼんやり聞いているとすこし声が大きくなる。
「当たり前だ。知っていればとっくの昔に決めていました。馬鹿をいわないでください。選択もなにも、他にありえません。好き勝手?――何をいってるんですか。いいえ、藤野谷家の価値がこれ以上のものだなんて俺はこれっぽっちも思いませんね」
口調が激しくなり、最後はほとんど怒鳴るような声で、俺は思わず体をすくめる。裸の肌に鳥肌がたつ。
「当主はなんと? ええ。そうですか」
急に声は小さくなり、聞き取れないほどになった。俺はまたシーツの上に倒れた。持ちあげた手首に赤く鬱血がうかんでいる。廊下の声はささやくように低くなって、そのせいか俺は藤野谷の唇が手首に吸いつくのを想像した。
とたんに腰の奥がうずく。毛布が胸の突起をこする。俺はそっと指をはわせ、乳首を弄った。藤野谷の舌が這った感触を思い出して下半身が熱くなる。
「サエ?」
ささやき声が聞こえたとき俺は横向きに体をまるめていた。藤野谷の手がひたいにふれ、背中から彼の匂いと体温に包まれる。さっきまで自分で弄っていた場所に指が触れる。とたんに俺は小さく声をあげてしまい、耳に当たる藤野谷の吐息を聞く。
「固くなってる」
「天……触るなって……また――」
「まだ足りない?」
ああ、足りない。そう答えたい気持ちと否定したい気持ちが俺の中で闘うが、そんなものをすべてかき消すかのように藤野谷の声が背中から骨に響いた。
「俺もまだ足りない」
藤野谷は俺を背後から抱いて執拗にうなじを舐めた。コンドームのパッケージを破る音がきこえる。彼の慎重さは嬉しかったが、同時にもどかしかった。腰にあたる藤野谷の熱を俺の中でそのまま感じたい、口には出さないがそう願ったとき、濡れた後口が指で拡げられる。楔が侵入してくると藤野谷は焦らすように俺の中を進み、奥のたまらない場所に先端をあてると一度動きをとめ、ゆっくりと揺らす。
「あ、あ、あ……天……」俺は喘ぐ。
時間の感覚がおかしくなっていた。次に気がついたときは窓のカーテンがひらいていて、ベッドに俺はひとりだった。外は晴れている。ぐうっと腹が鳴った。低い笑い声が降ってくる。
「笑うな」
俺はぼやいた。寝室に入ってきた藤野谷の髪が濡れている。
「何か食べよう」
「そうだな」
「俺が作ろうか」
俺は藤野谷を見上げた。「天、料理できるのか?」
「得意じゃないけど、少しは」
「じゃあ作って」
今が何日で何時なのかは考えないことにした。藤野谷がキッチンで物音を立てている間に俺はていねいにシャワーを浴びた。見える範囲についた鬱血にぎょっとして、鏡で背中をみるともっとひどかった。シャツのボタンを首まできっちりとめてキッチンに行くと、藤野谷は皿をフライパンにかぶせ、ひっくり返したところだった。スパニッシュオムレツ。うまい具合に焼き色がついている。
「得意じゃないといったわりには洒落たもの作るな」
後ろから声をかけると藤野谷はふりかえり、なぜか哀れっぽい眼つきで俺をみた。
「サエ、俺だっていいところを見せようと努力しているんだから、褒めてくれよ」
俺は笑って別の皿を棚からおろした。
「褒めてるよ。美味しそうだ」
くし形に切ったトマトとオムレツ、トースト、インスタントスープ。食卓につく前、藤野谷はちらりとモバイルをみて「スピフォトの記事は削除した」といった。
「転載もできるだけ追ってる。うちの法務部と実家の弁護士が対処しているところだ」
「ああいう報道は……TEN-ZEROへ影響がある?」
藤野谷は首を振った。
「いや。俺が心配しているのはサエに実害が出ることなんだ。最近、名族に関係するオメガの安全について警告が出ている。それに大学の時みたいにサエを認めないやつらが出てきても困る」
俺は反射的に大丈夫だといいそうになったが、藤野谷の真剣な表情に黙った。うなずいて椅子に座った。
「わかった。食べよう」
意外にといっては申し訳ないが、スパニッシュオムレツはうまかった。俺の場合は焦がすか、逆にじゃがいもを生焼けにしがちで、自分では作ろうと思わないのだが。そう褒めると藤野谷はさらに意外なことをいった。
「父が昔一度作ったのを食べたことがある。伯父の直伝らしい」
「伯父さん? というと……」
「父の兄の藍閃。で、俺は父と同様、伯父の直伝を受けた渡来さんに作り方を教えてもらった。伯父と渡来さんは同級生なのだと」
「へえ。でもなぜスパニッシュオムレツ?」
「さあ。ただ伯父はよく自分で――料理をしたみたいだ。その……」
藤野谷の声が尻すぼみになった。怪訝な顔をしてみた俺に、彼は困ったような表情で続けた。
「食べさせるために」
俺は鈍感にも気づかずにたずねた。
「誰に?」
「つがいの相手。葉月」
俺は黙った。佐枝の母に聞かされた話を思い出す。写真を撮ること以外、葉月に特技があったときいたことはない。むしろ逆だ。
「よく知らないが、葉月は不器用だったらしいな」と俺はいう。
「母もたまにそういっていた」藤野谷は小さな声でいった。
「とっくに亡くなっているのに……ごめん」
口調からして、気持ちのいい話ではなかったのだろう。
「気にするな。俺にとってはほとんど知らない人だ」そう俺はいった。
「空良と暮らしていたときは使用人が家事を全部やっていたみたいだし」
「空良」
「俺の親。もうひとりの」
藤野谷は黙ってオムレツを食べていた。いきなり「ふたりは……どこにいたんだ?」とたずねた。
「ふたりって」
「サエの両親。俺の祖父が探していたとき」
俺は少し考えた。
「詳しいことは俺もよく知らない。最初は欧州、それから北米に渡って、南米に家を買った直後に俺を妊娠したことがわかって葉月は日本に帰った。俺を産んでから空良のところに戻る途中で、藤野谷家にみつかったらしい」
「そうか」藤野谷は苦いものでも食べたような顔をした。
「空良はそのあとも葉月と買った家で暮らしたと聞いてる。どうも日本に帰れなかったらしい」
「それは俺の祖父のせいだ。手をまわして妨害したと聞いているから」
食べ終えて俺は椅子を立った。話せば話すほど藤野谷を傷つけてしまう気がして、話したくなかった。
「天、コーヒー飲むか?」
「飲む」
リビングはキッチンほど片付いていない。俺はテーブルに積んだ郵便や雑誌を脇に寄せた。ソファに座った藤野谷が唐突に手をのばし、俺の手首を押さえる。
「サエ、これは?」
以前予約を入れた治験の案内だった。俺は封筒をひったくった。
「みるなよ。個人的なものだ」
「臨床試験センターって」
「ただの治験だ。前から時々やってる」
「サエ」
藤野谷の声が低くなった。なぜか俺は身構えた。藤野谷に限らず、アルファが得意とする声色――命令するのに向いた声というものがある。その気配を感じ取ったのだ。
「もしかして抑制剤か?」と藤野谷がきく。
「どうしてわかる?」俺は問い返した。
藤野谷は冷静に、諭すようにいった。
「藤野谷家はそっち方面が専門なんだ。抑制剤や中和剤、緩和剤……オメガ性に関する分野で……」
俺は思い出した。そういえば藤野谷はパッケージを一目見ただけで「偽装パッチ」と呼んだのだった。俺がうっかり中和剤を剥がしてしまった、あの車の中で。あれはオメガでもなければ、いやオメガであっても、一生知らずに過ごす場合もある薬だ。
「ヒートがつらい?」また藤野谷がきく。
口調は静かだったが、俺は話したくなかった。封筒を藤野谷の手の届かない場所へ置いて、立ったままテーブルに置きっぱなしのコーヒーカップを取る。
「関係ない。保護プログラムのせいで抑制剤も中和剤も昔から使っていたし、だから――」
「でも、もう必要ない」
藤野谷はコーヒーに手をつけずにゆらりと立ち上がった。テーブルの横を通って俺のすぐ前に立つ。
「俺に隠す必要もない。〈オメガ系〉はヒート困難症が多いといわれているし」
これでは落ちついて飲めない。俺はカップをドア横の棚に置いた。話を終わらせたくて早口でいう。
「天。いいからほっておいてくれ。たいしたことじゃない」
「そんなことないだろう。俺がもっと早くサエがオメガだと気づいていたら」
「知るもんか。これは俺の体のことだ」
俺はそっけなくいった。なんとなく腹を立てていたが、藤野谷の表情のせいかもしれなかった。きっとそうだ。俺の体、俺がオメガ性であることに自分が責任を負っているような、そんな眼のせいだ。
ふと最初のヒートのことを思い出した。藤野谷と講堂に閉じこめられて数日後に始まったそれは、予想していたより一年も早く、想像したよりずっと辛かった。
だがそんな話を藤野谷に知ってほしいわけではない。俺は息を吐き、冷静になろうとする。しかし藤野谷は俺の行く手をふさぐようにして肩に手をかけた。
「サエ、つがいができればヒートは楽になるといわれてる」
「そんなことくらい知ってる」
俺は藤野谷の手を払う。意識せず声が大きくなる。
「それで何だよ? 天、俺はおまえに恩着せがましく噛んでもらう必要はない」
「ちがうんだ、サエ」
藤野谷は続けて何かいおうとしたが、俺はそれをさえぎるように、ほとんど反射的に怒鳴った。
「おまえに何かしてほしいなんて思ってない」
藤野谷は口を閉じた。表情が硬くなった。
俺は一瞬のうちに後悔した。
「天。悪い――いいすぎた」
口ごもりながらそういい、藤野谷の指にそっと触れる。
「俺は――自分の体のことは自分で考えたいんだ。だから……」
「そうだな。ごめん、サエ」
つぶやいた藤野谷の人差し指が俺の中指にからんで、両手で俺の手をすくうように持ち上げる。俺はそのままじっとしていた。ふわりと藤野谷の香りがたち、指先に藤野谷の唇を感じる。こうして彼がすぐ眼の前にいて、何度も抱きあったあとは、視界で瞬く藤野谷の色はすっかり俺の感覚の一部になっている。
「気になることがあったとき、話すくらいならいい? 情報は実家からいろいろ入ってくる」
「ああ。ありがとう」
指に藤野谷の息が断続的に当たる。俺は顔をあげ、つかまれた指をのばして藤野谷の頬をなぞった。理由もわからず、ただせつない気分だった。
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