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【第3部 ギャラリー・ルクス】8.パノラマの境界

『佐枝さん、元気ですか?』  チャット画面に直球の文字が並ぶ。三波のアイコンが横でくるくる回っている。 「元気だよ」と俺は打ちこんだ。 『例の画像の件、うちで片付けてますから。早めに終息させるんで安心してください」 「ありがとう。俺は平気だって」  三波のタイピングはいつもの通り速かった。すぐさま返事が表示される。 『何かおかしなことが起きたらすぐ連絡してください。プレスに気をつけたつもりなのに撮られてしまって、ほんと、こっちの落ち度なんで』 「大丈夫だ」 『ほんとですか? ボスが今日やたらピリピリしていましたが』  罪悪感というほどでもないが、いくらか申し訳なさを感じて俺の指は一瞬止まった。 「藤野谷、なにか迷惑かけてる?」 『べつに。いつもの通り嫌になるくらい厳しいだけです。何でそんなこと聞くんです?』  しまった。やぶへびだ。俺はあわてて打ちこむ。 「ちょっと気になって」  三波はあっけらかんと書きこんだ。 『ボスと何かあったんですね。写真のせいですか?』 「いや、写真は関係ないし、何もない」 『それなら喧嘩』 「してない」 『そういえばボスがおかしくなるのは佐枝さんと何かあったときだけでした』 「おい」 『僕はこの点すごく納得してるんですよ』 「勝手に納得するな」 『で、なぜ喧嘩』  何秒か俺の指はキーボードの上をさまよった。 「意見の相違」 『なるほど、喧嘩したと』  たしかに何もなかったとはいえない。  原因はスピフォトに載った写真ではなく、俺のヒートと抑制剤の治験だった。医療や製薬業に関わる実家から手に入る情報があったら知らせるといった藤野谷に俺はうんといったし、最新情報を教えてくれるのは嬉しかったものの、遠回しに治験に反対しているのも感じられて、それが癪にさわるのだった。  藤野谷が俺のことを気づかっているのはもちろんわかっていた。その一方で、俺の体のことだから口出ししないでほしいという気持ちもあった。たとえ藤野谷グループがこの方面のエキスパートだったとしてもだ。  生まれた時からモニターされているせいで俺はクリニックでの検査に慣れている。なのに藤野谷にはこんな話を知られたくなかったし、口出しもしてほしくなかった。多少は自分でもよくわからない意地のせいかだろうか、とは思う。俺のヒートが特に辛かったのは、これまで常に藤野谷に触れた後だった。だからこそ知られたくないのかもしれなかった。  運命のつがい、なんていっても、まったくロマンチックじゃない。  そんなわけでここ何日か、藤野谷とモバイルで話すたび――会わない日は寝る前に通話するのが恒例になっていたのだが――話題がそっちへ流れると、俺はだんだん不機嫌になり、藤野谷も不満そうだった。 「前もいっただろう。自分の体のことだし、おまえにうるさくいわれたくない」 『サエ、抑制剤は――』 「副作用の可能性なら知ってるよ」 『いや、抑制剤だけなら治療のために処方される。ただ――』 「中和剤の長期使用のことだろう。不妊になるかもしれないとか」 『サエ』  このごろ俺は藤野谷に対して言葉を選べないことがよくあった。彼に甘えているのかもしれない、そう後で思い返して自己嫌悪に陥ることもある。このときもそうだった。俺は苛立ちにまかせて思いつくままに口走った。 「おまえの子供なんて俺は産めないだろうさ。そんなオメガなんて意味ないよな。ヒートのたびにアルファに逆らえなくなるとしたって」  機械が沈黙した。ふいに俺は恐怖を感じた。いま俺が口に出した言葉は、もちろんそのまま真実でありうる。藤野谷は―― 『サエ。俺を信じてくれ。頼む』  低い声が響き、俺は自己嫌悪と罪悪感にまみれたまま、なんとかあたりさわりのない答えを返して会話を打ち切った。  それが昨夜のことだ。俺はキーボードの上で指をさまよわせ、自分をごまかそうとしているのか、三波をごまかそうとしているのか、一瞬わからなくなる。空白をフォローしようとでもいうかのように三波が文字を表示させた。 『ああ、意見の相違のすり合わせができなくて喧嘩になったんですね』  俺はほっと息をついて返事を打ちこんだ。 「喧嘩ってほどのことはない」 『またボスがクソったれアルファらしく主導権をとろうとしたとか』 「三波って時々ひどいな」 『たしかに自慢できるくらい僕はひどい人間です。ところで明日の土曜、午後ですが、佐枝さん暇ですか?』 「何で?」 『ケーキ食べませんか』  突然変わった話題に俺の指はまた止まる。 「ケーキ?」 『鷹尾が佐枝さんと食べたいと。僕だけがカフェごはんを一緒しているのはずるいと』 「そうなの?」 『メガ会をしたいそうです』 「メガ会?」 『オメガだけで会うっ機会てあまりないじゃないですか。ハウスじゃアルファが声かけてくるし。で、僕は単に飲みたいんですが鷹尾はケーキが食べたいんだと』  なるほど、、か。そんな言葉があるとは知らなかったし、生まれてはじめての誘いに俺は画面の前で固まった。 『都合悪いですか?』  あわててキーボードを打つ。 「ありがたいけど、俺はいま、あまり出歩くなっていわれててさ」 『知ってます。だから行きますよ、僕ら』 「どこに」 『佐枝さんの家』 「俺の家?」 『だめでしょうか。押しかけ飲み会、じゃなくて押しかけお茶会ってやつです。それでケーキの好み、正確には苦手が何かを聞けと鷹尾がせっつくんですが』 「メガ会」実施はすでに決定事項らしい。俺はあっけにとられたが、三波の段取りは不愉快ではなかった。彼らに受け入れられているのだと思うとすこし嬉しかった。たぶん俺は「オメガ同士」の気楽さを求めていたのだろう。  というのも、ここしばらく、スーパーで買い物をしているだけでも知らないアルファに「見られて」いたり、ベータに避けられるのを意識することがあり、俺は自分の外見、あるいは雰囲気が変わってしまったのを自覚せざるを得なかったからだ。渡来の忠告をいれて遠出をやめ、近場に自転車で出かけてヘルメットを脱ぐだけでもそれを感じた。  アルファに「見られる」のはきつかった。以前は俺など風景の一部としか思っていなかったはずの人々が俺に視線を向けてくるのは。中和剤を抜いて何度か通ったハウス・デュマーでもこんなことはなかったと思う。他人に見られていることを意識すると、これまで自分が見ていたはずの風景もちがって感じられるときがあった。よく知っていたはずの眺望が本当は舞台の背景にかけられた幕で、切れ目をめくると違うものがあらわれるような、そんな感じだ。  加えて俺はこれまでただ一度も、ほかのオメガと友人になったことはなかった。 「マンゴーとパインは苦手だからなしで。それから、車がないと俺の家に来るのは不便だぞ」 『了解しました。十五時でどうでしょう』 「いいよ」 『ところで佐枝さんの家、お酒ありますか』 「お茶会なんだろ」 『鷹尾には内緒です。少なくとも今の時点では』  翌日ふたりはクラシックなデザインの軽自動車で俺の家にやってきた。三波は酒を、鷹尾はケーキと紅茶缶を持参している。運転席には三波がいたが、車は鷹尾のもので、帰りは「飲まない」彼女が運転するという。  三波は「鷹尾は強すぎるから飲んでも意味がないんですよ」などとのたまい、ワインやスピリッツ、炭酸水の瓶をテーブルに置いた。鷹尾が三波をおっとりとたしなめながらケーキの箱をあけ、俺は中をのぞきこんだ。 「きれいだな」 「でしょう。どれから食べます?」 「バイキング形式にしようか。つまめるものも作ったから」  俺はめったに使わない大皿を食器棚の奥からひっぱりだした。ずっと前に峡が自作ローストビーフを披露したとき一緒に持ってきた皿だ。 「佐枝さん、お菓子は作らないんですか?」  かすみのような飴細工で飾られたケーキを箱から取り出しながら鷹尾がたずねる。 「どうして?」 「料理が得意なんでしょう? カレーをご馳走になったって、三波に聞きましたよ」 「得意じゃないし、お菓子は別物だ。材料切って煮たり焼いたり混ぜたりすれば勘でいけるものじゃない」  鷹尾は色とりどりのケーキとタルトを皿に丸く並べた。どれも三口程度で食べられそうな大きさで、宝飾品のような手の込みようだ。つやつやしたチョコレートの濃茶、ラズベリーの鮮やかなピンク、薔薇の花のかたちに絞られたクリーム、金色の雲のような飴細工。 「私は好きです。こんなお店のケーキみたいなのはできないけれど、成功した時は魔法使いになった気がして、自画自賛します」 「向いてるんだよ。俺は秤が必要なものは作れない」 「あら、大袈裟ですね」 「叔父ならやるかもしれないけどね。凝り性だから」  三波が口を挟んだ。「峡さんですか?」 「彼は料理本をみて材料と時間を計って厳密に作るんだ。マスターしたら配合を変えて実験もするらしい。俺のカレーなんて峡にいわせればズボラ飯もいいところだ」 「へえ」三波はテーブルに置いたワインの瓶を見下ろした。 「ところで、最初からアルコールいきます?」 「おい、もう飲むの?」 「だめですか」 「だめです。今日は「お茶会」ですから、まず最初は紅茶です」  鷹尾がにっこり笑って決着をつけた。  お茶会が飲み会に変貌するのにあまり時間はかからなかった。  俺にとってこれは初めての経験だった。家族でない複数の他人と、こんな風にくだけた調子で飲み食いをしたことなんて、これまで一度もない。しかも自分の家の中だ。  それだけでなく、近頃の俺の周囲の展開は予想を超えた方向へどんどん転がりつづけている。どうしてこんなことになったのだろう。ほんの少し前まで、俺はTEN-ZEROのプロジェクトが終わったら前と同じ生活に戻ると思っていた。家族以外はほとんど人とつきあわず、地味に仕事をして、暇なときに絵を描き、誰にも注目されない生活に。  それがどういうわけか、隠し撮りされた写真がネットにあげられてびくびくする一方、黒崎さんは俺の絵を見たいといってくるし、リビングでは三波と鷹尾が毛色のちがう猫のようにごろごろしていて、藤野谷が置いていったジャケットはいまだに寝室にかけられている。  緊張をほぐすのにアルコールは都合がよかった。薬を気にすることもないし、偽装を気にすることもない。三波が「ねえ、そろそろ乾杯しましょうよ」といったときに止めなかったのは、ひとつはそのせいだ。 「じゃあそろそろ僕の『教えて教えて』タイムですよぅ」  三波が完全に酔っぱらった口調でいう。色白の美貌がほんのり上気している。これまでも何度か思ったことだが、きれいな顔立ちというのはあるものだ。しかし三波は酒に強いのだか弱いのだか。量が飲めることはたしかだし、語調は酔っても聞きたい話を忘れることはないらしい。 「佐枝さん、例のクソったれアルファと何がありました?」  一方俺もしらふではなかった。なので普通なら絶対に聞かないことをたずねた。 「三波ってもしかしてアルファが嫌い?」  三波はにかっと笑った。 「さあどうでしょう。苦手な人は苦手ですよ。オメガでもベータでも」 「それはそうでしょ」と鷹尾がいう。  彼女は酒こそ飲まないが、ケーキをぺろりとたいらげ、俺がつくったつまみもかなりの量をおさめているくせに涼しい顔だった。ソファにきちんと足をそろえて腰かけた様子は上品なお嬢様そのものだが、俺たちふたりが酔っているせいか、超然とした印象だった。ほとんど高貴さを感じるくらいだ。きっと俺もかなり酔っていたのだろう。  鷹尾はその超然と高貴な気配を漂わせたまま、長いまつ毛ごしに三波をすっと眺めると、単刀直入に「三波は誰が苦手?」と問いかけた。  三波はソファの背中に腕を伸ばしてへらへらと笑った。 「僕が最近会った、いちばん苦手な人は――そうだなあ、藤野谷家の奥方?」  鷹尾が眼をみひらいて俺に視線を投げたが、酔った俺は鈍感になっていた。 「ああ。藤野谷の母君ね。知り合いなんだ?」  しかも鈍感だったのは三波も同じらしい。 「知り合いっていうか……いやあ、僕は会った瞬間に無理って思いましたけどね。無理ですよ無理」 「何が無理なんだよ」 「藤野谷家であの人とやってくってことがですよ。ボスは偉大ですよねえ。久しぶりに感動しましたよほんと。鷹尾はどう?」  そういって首を鷹尾のほうへ持ち上げるのにつられて、俺も三波と同じリズムで鷹尾へと眼を向けた。鷹尾は困ったように眉を下げた。 「私の印象は、かっこいい方だな、っていう感じ? パワフルですよね。女王様みたいな」 「鷹尾も女王様みたいだけどね。僕知ってるよ? そうやってのんびりした感じに見えるけど、鷹尾はねえ、やり手なんですよ佐枝さん」 「三波、変なこと佐枝さんに吹きこまないでよ」 「鷹尾が女王様なら、僕は小姓(ページボーイ)になってもいいよ。でもどの女王様でも仕えられるわけじゃないね」 「何馬鹿なこといってるの」 「そうかな? アルファの犬っころよりマシかもしれないでしょ」  三波の口調はほとんど本気に聞こえそうなほどで、逆にそれが冗談なのだと知れた。 「それで佐枝さんですよ。何があったんです?」  不意打ちに俺は齧っていたオリーブを喉につまらせそうになる。「この前急にヒートが来たから、その……」  言葉は俺の口からうっかりこぼれたが、三波も鷹尾も気にした様子もなかった。三波はごろっとソファに寝転がった。天井を眺めながら眠そうな声でいう。 「佐枝さん、アルファなんていつもお預けくらってる犬みたいなもんですよ。ラットした相手なら問題ないでしょ。ハウスじゃ混乱することもあるけど、ふたりだけなら」 「俺が好きじゃないんだ。ヒートになるのが」 「なんで? 都合よく遊んでいればいいんですよ」 「俺の場合……ほとんど何もできないんだ。馬鹿になった気がする」 「ああ」鷹尾が同情するように眉をよせた。「辛いんですね」  三波がちらっと俺をみて、また天井をみて、それから口の中でぶつぶついった。 「だからアルファの連中はオメガのつがいを無駄に守ろうとするんでしょ? おかげで迷惑することもありますけど、もう堂々と、俺はオメガだ!好きにさせろ!……ってやってればいいじゃないですか」 「だけど絵も描けなくなる。描けないし、それに……」  三波はなめらかな動作でふいに起き上がった。手をまるめて口にあて、指笛で物悲しいメロディを吹きはじめる。指と唇で作られた即興の楽器のために、ここ数カ月で見慣れた美貌をはじめてみるもののように感じた。およそ二分程度の演奏は鳥のさえずりで締められ、そのときには俺は感心を通りこして呆れていた。 「三波、おまえエンジニアのくせにいくつ特技もってるの?」 「へへへ、うまいでしょ」 「その音、今度使わせてよ。絵を動画にするときがあったら」 「え、ほんとですか?」 「ああ。録音させて。今度」 「やたっ練習します」  三波は今度はうきうきした調子で口笛を吹きながら立ち、踊るような足どりでキッチンへ消えた。まだ飲むつもりなのだろうか。俺は用を足しに洗面所へ行き、ついでに手と顔を洗った。今日の集まりは午後にはじまったのに、外はもう真っ暗だ。風がすこし強くなって、窓枠が押されたようにかたかたと鳴る。  タオルで顔を拭いているとひとの気配がして、みると三波の顔が敷居のところにのぞいていた。 「ソーダ割り飲んでいいですか?」と炭酸水の瓶を持ち上げたが、ただの確認にすぎなかった。うなずいた俺をじっとみつめて唐突にいう。 「ねえ、佐枝さん。あなたが恐れているのは描けなくなることですか? それともボス本人ですか?」  俺は虚をつかれて首をふった。 「三波、飲みすぎじゃない? 俺もだけど」 「たぶんそうですね」そういって彼は笑った。

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