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【第3部 ギャラリー・ルクス】9.潜像の色
ギャラリー・ルクスの搬入口は公園の反対側の細い道に面していた。渡来が車を停めると、俺は後部座席に立てかけたキャンバス用のバッグをそろそろと引き出した。中身はキャンバスの他に、例の皺をなぞったドローイングや水彩のボード類だ。ルクスのオーナー、黒崎さんに実物を何点か見せてほしいといわれ、持って来たものだ。
渡来だけでなく、藤野谷にも俺はひとりで都内に出るなとしつこくいわれていた。そのせいだろう、黒崎さんの話を伝えるとわざわざ車を出してくれたのだ。
それにしても、何かが変だった。
雑誌やネットにあげられた写真はよくある名族のスキャンダル写真にすぎないはずだ。だが藤野谷は俺に実害が及ばないかを気にしているといい、渡来も、藤野谷家やTEN-ZEROへの影響ではなく、もっと別のことを案じているように感じられた。
加えて俺は同じような緊張感に覚えがあった。まだ中学に上がる前の数年間、佐枝の両親や峡、佐井家の祖父まで全員が、今の渡来や藤野谷のように俺に接していた時期があったからだ。
すべての事情を知ったのは何年も後のことだった。当時は藤野谷天青がまだ息災で、葉月が産んだ子供を捜索していたのだ。おかげでその危機が去っても、家族は俺を過保護に扱いがちになった。
そしていま、今度は藤野谷家に属するふたりが同じように接してくるのを俺はどう受けとめればいいのだろう。
藤野谷が俺を何かから――その中身はわからないにせよ――守ろうとするのが嬉しくないわけではない。そうはいっても過剰に守られるのは違和感があった。いくら俺がオメガだからといってもだ。意地を張るようにして何年も、藤野谷の前でベータとして通してきた俺の努力はいったい何だったのだろうか。そう考えてしまうときもある。
とはいえ、頼めば即座に動いてくれるのが嬉しくないはずはない。あまり藤野谷に甘えてはいけないと自分に何度もいいきかせていたが、このところ急激に変わってしまった環境に、やはり俺はついていけなかった。
かさばる黒いバッグを慎重に外の道路へおろし、渡来に礼をいう。彼はスキャンでもするような鋭い眼つきで俺を眺め、ついでダッシュボードから紙袋を取り出した。
「これを。天藍から頼まれた」
紙袋にはTEN-ZERO/Singularityのロゴが入っている。のぞくとサイズのちがう小さな白い箱がふたつ。
「トワレとパルファンの再オーダー品だよ。前のサンプルより今のきみに合っているといいが」
「ありがとうございます」
もう出来上がったのか。少し驚きながら俺は答えた。
先日のヒートのあと、藤野谷は俺の香水を作り直すといい、皮膚ガスの採取チップを持って帰った。TEN-ZEROの新製品はユーザーの皮膚ガスの分析結果に、どの系統の香りを好むか、その香りを身につけることでどんな雰囲気になりたいか、といった点をヒアリングして、心理テストの結果も合わせて配合をAIで決定する。
俺はニュートラルな、周囲に溶けこめる香りを希望していた。成熟期に入ったばかりのオメガはヒートが終わるたびに匂いが変化する。前の分析結果は今の俺からズレているだろうから、やり直すと藤野谷がいったのだ。
成熟期のオメガは急速に変わる。そんなことはもちろん知っていた。それでも、ただの知識でしかなかったことが自分の体に起きていると考えるのはこれまた違和感のもとだった。
香水の紙袋を鞄に入れると、俺は細縁の眼鏡をかけて帽子のゆがみをなおし、ジャケットの裾をのばした。運転席から渡来が静かな声でいう。
「帽子はもっと深くかぶりなさい。これが正しいかぶり方だ。たいていの人は通りすがりの顔など見ていないし、服の色だって正確に覚えないが、どう着るかで姿勢や雰囲気はがらりと変わって、そのあたりは忘れないものだよ。見えない色のように匂いが作用するのと同じことだ」
「こうですか?」
「そう。こそこそしないで堂々と歩くんだ。帰りも送るから連絡しなさい」
渡来はまるで佐枝の父のような口ぶりで――藤野谷にとっては実際のところ、渡来氏はそんな立ち位置らしいが――話し、ふと顔をしかめた。
「忘れるところだった」書店のマークが入った袋をどこからか引っ張り出した。「藤野谷の本家で見つかった、葉月が撮った写真だよ。まだあるかもしれないが、とりあえず渡そう」
彼が以前話していた写真だろう。すっかり忘れていた俺は恐縮して頭を下げた。
上階にあるギャラリーの事務所でたずねると、オーナーは商談中だという。持参した絵だけ預けて俺はカフェへ回った。平日の昼間で客は少なく、ウエイターも暇そうだ。カウンターに座るとマスターが寄ってきて、俺はカフェ・キノネのときのようにコーヒーを頼んだ。
「ゼロ、元気?」
「うん」
「忙しい?」
「いや、暇。ネット経由の小物しかないから」
年度も替わってしばらくたつが、暁からは何も連絡がないままだ。エージェントAIを介した仕事しかなかったが、TEN-ZEROからの収入もあったせいで金銭的な切迫感はない。しかしここで見かけたのを最後に暁と切れているのは、棘のようにずっと気にかかっていた。ネットを介してとはいえ、ここ数年の間よくやりとりしていたベータは、家族をのぞけば暁しかいなかった。
オメガだと隠していたのは俺の方なので、暁が何を考えているにせよ、それが原因なら仕方がないとは思った。一度メールで当たり障りのない説明を試みたものの返事はこなかった。仕事を通した繋がりはあやふやで、いいかげんなものだ。むしろ暁から預かった案件を残していないだけましだと考えるべきなのかもしれなかった。気まずいまま仕事の紹介をもらうのも、それはそれで苦しい。
「ねえゼロ、暇ならここを手伝うのはどう? 黒崎が買い付けに出たら僕も何だか仕事が増えるみたいなんだよ」
マスターがのんびりした口調で、今の俺にとってはとんでもないことをいう。
「無理ですよ。特にいまは」
「なんで?」
俺は返事に迷った。「その……」
「スプーンのせい? 眼の届くところにいろ、俺に勝手に外に出るなって?」
スプーン。藤野谷か。吹き出しそうになるのを俺はこらえた。マスターのあだ名のつけ方は時々反応に困る。
「いや、違うよ」
「でも今度こそほんとにつきあってるんでしょ? それに今のスタイルだって、俺のだからあまり外に見せるなっていわれてるんじゃないの?」
俺は口ごもった。「眼鏡や帽子は一応理由があるんだ」
「へえ」
マスターの相槌は半信半疑な調子だった。俺は思わず聞き返す。
「その――勝手に外に出るなとか、よくあること?」
「黒崎も最初はそうだったよ。アルファならめずらしくはない。とにかく自分の見える場所にいて欲しがるんだ」
「つがいでなくても?」
マスターは俺の顔をしげしげとみて、うなずいた。
「どちらかといえば、つがいにならない頃の方がひどいかもしれないよ。相手が他のアルファに持っていかれるかもと思って心配になるんじゃないかな。なんていえばいいのか……アルファって、一度自分の権利がおよぶと思った|相手《オメガ》と離れると不安になるらしいね、変な表現だけど。付き合いはじめて最初のうちはそうでもないんだ。僕と黒崎もだし、知り合いもそうだったけど、ある線を超えると相手に対する不安に耐えられなくて拘束がきつくなる。そこで別れずにしばらくの期間を乗り切ると落ちつくっていうパターンが多いみたいだね。僕の場合は正式にパートナーになるまでかなり大変だった。監禁されたこともあった」
「え?」
「窓から脱走したけどね」
驚いた俺にマスターはこともなげにいう。
「黒崎ってときどき間が抜けてるんだ。あいつデカいだろ? 自分が出られないサイズの窓でも僕には抜けられるって気づかなかったらしい」
「はあ……」
「好きになったアルファに囲われるのを嬉しがるオメガもいるらしいけどさ、僕はあまりね……ま、なんだかんだで今はこうなってよかったと思ってるよ」
藤野谷の憔悴した表情が頭に浮かんだ。TEN-ZEROの新製品は業界では初の試みで、一種の賭けのようなものだし、加えて俺が絡んだあれこれも、藤野谷があんな顔をする原因になっているにちがいない。
そう思うと胸の奥が一度、ずきりと痛んだ。
なんとなく会話が途絶え、黙ってコーヒーをすすりながら、俺はぼんやりと壁の上の方に掲げられたスクリーンをみつめる。ギャラリーが推している作家の作品だろう、絵画や彫刻が間隔をおいて映し出されている。
小さくドアベルが鳴って、ギャラリーにつながるドアから大きな影がカフェにあらわれ、まっすぐカウンターに歩み寄った。
「黒崎」マスターが手をあげる。「ゼロが来てるよ。絵を持ってきたって」
「事務所に預けました」
マスターに続けてそういってから、俺は大柄な黒崎さんのうしろにいる長身に気づいた。
「零」
「加賀美さん」
加賀美の姿をみるのはTEN-ZEROのプレス発表以来で、声を聞いたのはもっと前、名族の会合のときだった。彼は穏やかな顔で俺をみとめ、ふと嬉しそうに微笑んだ。ひさしぶりなのに、俺はその顔をみてほっと安心した気分になる。
藤野谷に会ったときにいつも感じる、焦りや切なさが入り交じった、ほとんど苦しいような感じとはまったく違った。
「どうしてここに?」
「黒崎さんに俺の……作品を見せてもらいたいといわれて」
声に出すと照れ臭かった。加賀美は収集家の一族出身で、おまけに目の肥えたコレクターだ。俺は彼に自分の絵を見せたことはない。だが加賀美は俺のためらいに気づいているのか、うなずくと冗談めかしてこういった。
「なるほど。僕はいずれここで見た零の絵を黒崎君に買わされるかもしれない、ということだね」
なぜか恥ずかしくなった。顔が熱くなる。
「加賀美さんは?」
「最近買ったという作品を見せてもらったんだ」
「光央さんには先代からお世話になっている」黒崎さんが口を挟んだ。「事務室に預けたって?」
「ええ」
「上に一緒に行こうか。見せてくれ」
俺はうなずいて席を立った。狭い通路ですれちがうとき、加賀美はまた俺に微笑みかける。
「零、元気そうでうれしい」
「加賀美さんも」
俺は短くこたえ、軽く会釈して黒崎さんの後を追った。
加賀美はいつも穏やかで、落ち着いているようにみえる。付き合いはじめて最初のうちはそうでもないといった、先ほどのマスターの言葉を思い出した。加賀美も亡くなったパートナーとの間に、俺と藤野谷の間にあるような嵐が起きたこともあったのだろうか。
「加賀美家はずっと父の顧客だったが、光央さんは俺についてくれている」
エレベーターを待ちながら黒崎さんがぼそぼそといった。
「昔停電事故があっただろう。あのとき光央さんは父の画廊にいて、たまたま俺もいた。真っ暗で従業員がパニックになったところを静めてくれて、助かったものだ」
「俺はまだ高校生でした。居残りで作業していたせいで、一晩学校に閉じこめられましたよ」
「俺たちもだよ。信号もつかないし、車が全部止まって帰るに帰れない。電話もネットもつながらなかった。うちの家族や店の従業員は安全だったが、光央さんの方は大変だったらしい」
「ええ。パートナーの方が事故に遭ったと伺いました」
透きとおったガラス扉のエレベーターがひらく。その向こうの部屋にはまだ段ボール箱がいくつも積んであり、新しい建材の匂いが漂う。
「気の毒な話だ。パートナーの方も名族だから、生体認証のおかげで病院ではすぐに身元がわかったらしいがね。光央さんは車が動かず、結局間に合わなかった」
黒崎さんは肩をすくめて後につづく俺をふりかえり、事務所の奥へ差し招いた。
渡来からモバイルに連絡が入ったのは、ちょうど黒崎さんとの話が終わったところで、すでに日が暮れていた。まるで見られてでもいるようなタイミングだ。搬入口で待つというので、俺はあわてていとま乞いをした。
プロの画商に作品を見られるのははじめてで緊張したが、黒崎の反応は悪くなかったし、アドバイスは役に立ちそうだった。以前彼に持ちかけられた新人の展覧会について、結局俺は新作で応募すると約束した。
外に出るとセダンが近づき、俺は後部座席をあけようとしたが、運転席で上がった手は助手席の方を指している。帽子のつばで視界が狭く、よく見えないままに俺は前の席をあけた。とたんにふわりと漂う香りが俺の意識をつつみこむ。
「天」
「帰るぞ、サエ」
藤野谷はあいかわらず疲れた顔をしていた。俺は黙ってシートベルトを締めた。ラジオから音楽が流れてくる。TEN-ZEROのロゴ入りの紙袋と葉月の写真をわきに置くと、習慣で俺はポケットに飴を探した。今日は持ってくるのを忘れていたようだ。
「治験の話だけど」
唐突に藤野谷がいい、俺は身構えた。こんな狭い車のなかで口論になるのは嫌だった。
「何?」
藤野谷はちらっと俺をみて、道路に視線を戻した。
「……他社の新薬なのに引っかかって、色々いって悪かった。渡来さんがいうには葉月も……ヒートがとても辛いひとだったらしい。サエが楽になるためなら何でも試そう」
これは思いもよらない譲歩だった。ひどくほっとした。次に暖かい気持ちがのぼってくる。
「いや……俺も悪かった。苛々してしまって……ありがとう」と俺はいう。
「隔離試験だろう?」
藤野谷は静かな口調で、念押しするようにいった。
「ああ。長くて二週間、短くて五日。初日の検査結果で期間が決まるけど、入院することになる」
「そうか」
藤野谷は短くこたえ、突然俺は気がついた。治験に参加すると藤野谷から完全に離れることになるのだ。これまで数回参加した抑制剤の治験では、期間中アルファとの接触は禁じられるのがふつうだ。
ふいに意味のわからない不安が俺のなかにきざした。藤野谷に触れられないと自覚しただけでおかしなほど頼りない気分が襲ってくる。俺はシートベルトに指をかけ、突然の不安を殺すために話題を探した。いくらでもありそうなものなのに思いつかない。
「サエ」
「天」
俺たちは赤信号でなぜか同時に名前を呼び、顔を見合わせた。思わず「疲れてるのに、悪い」と俺がつぶやくのに「勝手でごめん」と藤野谷の声がかぶる。
ふたり同時にすこし笑った。俺も藤野谷も、苦笑いのようだった。
車を俺の家の前につけると、藤野谷は俺にまだ出るなといって、一度ひとりで外に出た。林に囲まれた家は暗く、何をそこまで警戒しているのか、俺にはやはり不思議に思えた。
「天、どうしてそんなに?」
車に戻り、またシートにおさまった藤野谷に俺はたずねる。門扉の小さなあかりに藤野谷の顔が浮かぶ。
「サエは……生体認証を登録したことはあるか?」
急にたずねられて俺はとまどった。
「いや? それ、銀行の話?」
「資産のセキュリティシステムのひとつだ。二十歳を過ぎた名族はみんな生体認証や遺伝情報で鍵を作っているが、最近名族のセキュリティが狙われる事件が多発していて、対策会議も開かれている。俺は……俺と関係があることでサエのセキュリティも破られないかと心配している」
「でも、天。俺には財産もないし、そんなセキュリティなんて意味ない。おまえならともかく」
藤野谷の唇から長い息が吐きだされた。
「ああ……そうだな……」
低くつぶやき、俺の方を向く。暗がりの中でも藤野谷のまとう色はちらちらと俺の視界で点滅し、安堵と切なさに心臓がどくどくと鳴った。藤野谷は片手をのばして俺の頬に触れ、俺はじっとしたまま、藤野谷の長い指が顎をなぞり、首筋から耳たぶをいじって、後頭部に回るのを感じていた。狭い車のなかで引き寄せられると、ダッシュボードに一方の肘が当たってゴツンと鳴る。藤野谷のもう片方の手が俺の腕から肘を撫でる。
「大丈夫?」と俺にささやく。
「ん……」
俺は魅入られたように眼のまえの眸をみつめてうなずいた。藤野谷のスーツの胸に顔を押しつけられ、髪のあいだに息を感じた。
「サエ――その治験がおわったら、俺とつがいになって」
藤野谷の腕のなかで俺も息を吐いた。ヒートでない時にいわれたのが嬉しかった。俺がまともに考えられる時に。
「天、でも……わからないのに……子供とか……」
「サエ――俺のことが好き?」
問いかける声はひどく小さかった。
「ああ。好きだよ」
俺はつぶやいた。藤野谷の胸に顔を寄せているせいで、くぐもって聞きづらい声になった。藤野谷の匂いにつつまれ、腕のぬくもりにゆるやかな興奮を感じる。呼応するように、俺の髪をかき回していた藤野谷の指が顎までさがり、持ち上げて、唇にキスをした。
「だったらそのままでいてくれ。それだけでいいから」とささやく。
俺がやっと車から降りたときも藤野谷はそのまま運転席に座っていた。深夜の飛行機で地方へ飛ぶ予定だというのだ。ガレージの鍵を開けた時も車はまだそこにあり、俺は藤野谷の色をみつめて、手を振った。
翌々日、治験のために訪れた施設は、いつものクリニックとは違う場所だった。
今回は峡が施設まで送ってくれた。治験にいい顔をしなくても、それ以上口出しもしない叔父に俺は感謝した。隔離試験といっても検査のあいだは暇なのがわかっている。俺は時間つぶしのスケッチブックや本を持ちこんだ。モバイルはあっても繋げられる場所が限られている上、電波がほとんど届かない。とはいえ施設は新しく、部屋は個室だった。
初日は検査に終わった。時間がかかる上にあまり楽しいとはいえない検査だ。とはいえ何度も受けているものではある。
オメガ男性用の内診や超音波検査の器具は女性のものとは違う。子供の頃は診察用のベッドに横向きで寝ていればよかったし、看護師がなんということもない調子で話しかけてくれたものだ。だがヒートがはじまってからは、検査のたびに専用の診察台にうつぶせにならなくてはいけない。腰を持ち上げた状態で、ジェルを塗った器具を挿入される。
診察台の周囲にはカーテンがかけられ、医者にも看護師にもこの姿勢を見られているわけではない。だが今日は器具を挿入されたままの時間がいつもよりずっと長く、俺は途中で、落ちつかないだけでなくおかしな気分になっていた。興奮したわけじゃない――安っぽいエロビデオでもあるまいし。
藤野谷のことを考えなかったといえば嘘になる。電波状況が悪いから、彼にはメッセージを送るくらいしかできそうになかった。やっと解放されると、抑制剤投与期間は十日間になると告げられた。
たった十日とはいえ、単調で退屈な十日間だった。投薬、食事、検査の合間はやることもなく、俺はスケッチブックを毎日絵で埋め、持ちこんだ本に集中しようとしたが、藤野谷を思い出すのを止められなかった。治験から戻ったら番に――と藤野谷はいったが、それは俺にヒートが来たときなのか、それとも違うのか。
三波は都合よく遊んでいればいいといったが、俺はいまだに、ヒートを三波のように軽くも、楽にも扱えなかった。藤野谷とつがいになるにしても頭がはっきりしているときがいい。ヒートで自分の体の制御がきかず、ひたすら泣かされている時は嫌だった。つがいになるために噛まれるのはヒートの最中でなくてもいいはずだ。オメガの事情に俺がいくら疎くてもそのくらいは知っている。単にオメガがヒートの時期で、相手のアルファがラットすれば、前提となるセックスが容易だというだけの話だ。
施設は静かで、数名の看護師をのぞけばめったに話もしなかった。藤野谷には毎日テキストでメッセージを送ったが、送信は何とかなっても受信はうまくいかなかった。ここを出ればモバイルに一気にメッセージが溜まるにちがいない。退屈ではあったが、静かな空間で俺はせっせと鉛筆を動かし、集中してスケッチブックを埋めた。
投薬が終わった翌日、最後の検査を終えた午後、俺はやっとお役御免になった。まず峡に連絡して、施設の入り口で迎えを待ちながらこの十日間のメッセージを受信する。なかなか終わらない。
待っている間に、施設の前のロータリーを青のSUVが走ってくる。かなりのスピードで、どうしてそんな風に走るのだろうかと俺は思った。SUVにすがりつくように数台、別の車が追ってくる。俺は荷物を足元に置いたまま、ブルーの車体が自分の眼のまえすれすれに停まるのをなかばぼうっとしてみていた。後部座席のドアが開く。
「乗りなさい!」
渡来の声だった。俺は勢いに押されたように鞄をつかんで慌ただしく乗りこみ、ドアを閉めた。車はすぐに発進し、たちまち加速した。俺は運転席でハンドルを握る藤野谷の後頭部をみつめた。いつものようにまぶしい色と匂いを感じるが、今日はどこか精彩に欠ける。
「どうしたんだ? 後ろの車は?」
「リポーターだ。たぶん」
藤野谷が短くいった。
「リポーター?」
「治験で連絡がとれないあいだにまずいことになった」と俺の横で渡来がいった。「申し訳ないが、きみの家ではなく別の場所に避難してもらう」
「どういうことです?」
嫌な予感が足元から立ち上がるのを感じながら俺はたずねる。
車がガタンと揺れた。藤野谷は狭い街路を速いスピードで右に曲がり、左に曲がった。ビルの地下へすべりこみ、駐車場を一周し、また外に出て走り続ける。
「これだ」
渡来がタブレットの画面を俺へと差し出した。電子化された週刊誌の記事だ。首から上が切り取られた藤野谷の写真がまず目につき、ついで俺の顔が同じように並んでいる。巨大な文字が中央で踊る。
『運命のつがいの数奇なさだめ』
『二世代にわたる三角関係?!』
俺は細かい文字に眼を走らせようとしたが、渡来の方が速かった。すばやく機械をひいて画面を閉じる。
「読みたいなら、あとでゆっくり読める」
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