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【第3部 ギャラリー・ルクス】10.遠近の精度
藤野谷にこんな運転ができるなんて、俺は知らなかった。
青のSUVは時おり乱暴なほどの加速をくりかえしながら、郊外の試験センターから都内へと入った。道路掲示を俺はほとんど見ていなかった。もともと自分が車を運転できないために、自転車で走る目的がない道には疎い。住んでいる郊外ならともかく、都内となればなおさらだ。
試験センターから後を追っていた車がバックミラーに一台も見えなくなったころ、また藤野谷はSUVを地下駐車場へ入れた。隅に停車したシルバーのセダンの横につける。
渡来は何もいわずにドアを開け、俺の荷物を持って車を降りた。藤野谷はちらっとそちらをみて「車を乗り換える。ここからは渡来さんに連れて行ってもらう」と低い声でいう。
「おまえは?」俺はきいた。
藤野谷は俺の方を見ずにカーナビをタップした。
「マスコミ対策をする。済んだら行く」
「天」俺は迷ったが、何とか言葉を探す。
「俺は別に……誰に何をいわれてもかまわない」
「サエ」藤野谷はやっとこちらを向いた。
「マスコミだけじゃないんだ。俺は……くそっ」
「天」
「サエ。今起きていることが藤野谷家のせいだということはわかってる。俺がこれまで失敗したことも。ほかにもあって、でも……」
俺は片手をのばし、藤野谷の頬に触れた。
「天、俺は大丈夫だよ」
「サエの叔父さん――峡さんにリポーターが張り付いているんだ。それで俺が来た。峡さんに事情はざっと説明したが、わかってはくれなかったかもしれない……頼む。今日のところは渡来さんが連れて行く場所にいてくれ」
藤野谷は俺の指を握って、関節にキスをした。
俺はうなずいたが、いまだに状況を理解していなかった。わかったのは何かがひどくまずい、ということだけだ。藤野谷は俺の手を握ったままで、どのくらいの時間だろう、俺たちは手のひらを通してたがいの体温を感じていたが、やがてどちらからともなく離し、俺は黙って車を降りた。
セダンの助手席のドアに寄ると、運転席から渡来は手を振って後ろに回れと示す。俺はスモークがかかったガラスのドアをあけてシートに収まった。
「天藍が出たら私たちも出発しよう」
俺は黙って青のSUVが発進するのを見つめていた。家族のあいだにいるように守られている俺と違って、藤野谷の行く先が気になって、仕方がなかった。
シルバーのセダンがすべりこんだのは、高層マンションのはざまに昔ながらの構えの民家や店舗が残る地区の路地だった。渡来は古ぼけた民家のガレージに車を止めた。荷物を持って車を降りた俺にうなずき、歩き出す。見上げた空は高層ビルの角に沿い、細長く切り取られている。
渡来は路地をまっすぐ歩き、影のように突然あらわれた急な石段を上った。脇には手すりが立ち、きちんと手入れされている。片側は桜の若葉が影を落とし、反対側には楠が並んで森のように茂っている。
渡来は慣れた様子だった。石段は途中で曲がって、石碑のあいだを抜けると樹木に囲まれたひと気のない寺の境内に出た。むこう側にいま上ってきたよりも幅広の石段と門がみえる。渡来は本堂横手の和風家屋の引き戸を無造作にあけ、俺を通した。
「ここの住職は昔からの知り合いでね。境内や通り道には監視カメラがついている。この戸もカメラで認証しないと開かない仕掛けだ」
「ここも藤野谷家の……?」
「いや。藤野谷家だけでなく、アルファの名族の誰とも関係がない」
渡来は廊下をやってきた女性に頭を下げ、俺もそれに習った。住職の妻だというベータの女性は俺を八畳ほどの和室に案内した。障子の外に小さな庭がある。押し入れの布団や手洗いの場所を教えると「お気遣いなく、ゆっくりしてくださいね」といって襖を閉めた。
佐井の本家を思わせる家だった。俺は欄間の彫り物を眺め、生垣に囲まれた庭を眺めた。
「食事と飲み物を調達してくるが、他にほしいものはあるかね?」と渡来がたずねる。
「記事が載った雑誌や新聞、持ってきてもらえませんか」
そう俺が答えると賛成できない様子で鼻をうごめかせた。
「車中で少し見せただろう。間違いだらけの上に、いくらか残った事実も歪んだ視点や結論ありきで決めつける読み物など、時間の無駄だ」
「藤野谷が何と戦っているのか知りたいので」
渡来は俺を検査でもするかのような目つきでみつめたが、ふとその表情が和らいだ。
「わかった」
しばらくして、弁当やペットボトルと一緒に届けられた週刊誌やスポーツ紙は、たしかに気持ちのいい読み物ではなかった。渡来が翌日また来るといい残して去ったあと、俺は虚実いりまじっている上に、憶測まみれの記事を半分ほど読んだ。保守寄りの論調で知られるが、ゴシップも扱ってヒットを飛ばすことで有名な週刊誌に最初のルポが出たのは一週間も前で、昨日発売された号に続報が載っていた。スポーツ紙は雑誌の後追いらしい。
見出しはこんなところだ――『〈運命のつがい〉に翻弄される名族の人間模様』『藤野谷総本家の跡取りで新進企業TEN-ZEROを経営する藤野谷天藍氏。その恋人の家系に脈々と続く因縁の糸』『どうしてふたりのアルファはひとりのオメガをめぐって争ったのか、そして同時に消えたのか。藤野谷藍閃、佐井葉月、柳空良の関係とは?』『オメガ性薬剤開発に関わる藤野谷グループの黒い背景』『二世代に渡って運命のつがいを阻むのは、恋のさやあて、それとも陰謀?』『名族支配の鍵、アルファを産むために作られた「オメガ系」の存在とは』
「運命のつがい」とは、間違いなく珍獣、あるいは娯楽の対象なのだ。俺の両親の名前がこんな「読み物」として書かれることがあるなんて、思ったこともなかった。もちろん、ほとんどの人が映画やドラマのようなフィクション以外でめったに出会うことがないからだ。第一、仮にどこかで出会っていたところで、ぱっと見てそれとわかるわけでもない。
記事によっては「運命のつがい」に関する世間のロマンティックな幻想がたっぷりつめこまれていて、何度か苦笑いした。あるスポーツ紙にあった、俺と藤野谷は十六歳ですでにつがいになっていたのに、そこを藤野谷家と佐井家の対立のために無理にベータに偽装させられていたとか、そんな記述にもだ。
俺と藤野谷に関わることですらそうなのだから、俺が知らないこと――藤野谷家の者でなければ知りえないようなこと――についても同じだろう。
「独占取材」と銘打った長い記事が載っていたのは一誌だけだった。俺にとってショックだったのは、その長い記事に登場する「取材相手」のひとりが暁だったことだ。『Aさんによると、佐枝零氏はグラフィックデザイナーとして三年ほど関わりがあるが、ずっとベータだと信じさせられ……』とはじまる文章を俺は途中まで読み、我慢できなくなって閉じた。他の記事には藤野谷の|前《・》恋人として「M」とイニシャルがあげられて、これはきっと三波のことだろう。幸いにというべきか、名前は出ていない。
センセーショナルな題名や小見出しとは裏腹に「運命のつがい」に関するまともな解説もあった。つまり「適合型」についての解説だ。出会う確率や、過去にそれと知られている著名なペアについての解説。通常のアルファとオメガの番とどのように違うか。そして俺と藤野谷の「適合型」がどんな組み合わせで成り立つのか。そんなことは俺も知らなかった。
背筋が寒くなった。記事を書いたルポライターはいったいどこからこの情報を手に入れたのだろう? おそらくどこかに、守秘義務違反を犯した医者がいる。
とはいえどの記事も、何か具体的な告発や目的があるわけではなさそうだった。大半は芸能ゴシップと同じで、おもしろければいいのだろう。倫理基準すれすれなのは「オメガ系」についての記述くらいだ。
なのに全体に嫌な気持ちになるのはなぜだろうか。
夜中に俺は藤野谷へ連絡しようとしたが、モバイルはつながらなかった。
翌朝の気温はこの時期にしては高く、雲も厚くてうっとうしい天気だった。治験に持ち込んだスケッチブックや本をめくってみたものの、とても落ちつけなかった。それでも午後なかばまで何とか気持ちを静かにして過ごそうとしたが、渡来からも何の連絡もなく、藤野谷のモバイルもあいかわらずつながらない。
俺はいらいらと部屋を行ったり来たりしはじめた。夕方近くになって、手洗いを出たところで住職の奥さんを廊下の端にみとめ、庭を見たいとたずねると、本堂の表側に回らなければいいという。
許可を得て、一晩と半日をすごした和室の縁側から外に出た。頭上にもカメラが設置してある。敷地は意外に広かった。借りものの草履で本堂の方向を避けて歩いていくと、玉石敷きの小道の先に墓地がみえた。
墓石にはピカピカの御影石もあれば苔むした古い墓もあった。俺は両親の墓についてぼんやり考えた。葉月の墓は――墓石だけは――藤野谷家の墓地にあるはずだが、一度も行ったことがない。代わりに佐井家は葉月のために小さな碑を建てた。失踪宣告後、遺体がみつからないまま死亡あつかいとなった空良の墓も同様で、墓標だけが佐井家に残された。
これらはルポライターも調べられなかったのか、あるいは書くに値しないことだと思ったのか。昨日読んだどの記事でも触れられていなかった。空良と藍閃がそろって失踪したいきさつは暁のインタビューが含まれた長い記事に書いてあったし、藤野谷グループの製薬企業や病院に関する噂をめぐる、別の新聞記事にも少し触れてあった。
これらの記事には俺が知らないことも書いてあったが、どこまで信用できるものかは見当もつかなかった。葉月が一度、藤野谷藍閃の子供を流産していたとか、藍閃と葉月に子供ができないので、前当主の藤野谷天青が藍閃の弟、つまり藤野谷の父である藍晶を結婚させたとか。
空良と藍閃の失踪と同時期に、藤野谷グループの末端に属する製薬会社が品質管理基準をごまかして薬品を不正製造が発覚したことと、結婚後の藍閃に跡継ぎが生まれなかったことを並べて、相続をめぐるお家騒動や陰謀を匂わせる記述もあった。『柳空良と藤野谷藍閃、ふたりの失踪は本当に色恋沙汰の末の失踪だったのか、それとも?』という具合だ。
暇つぶしに雑誌を読む大多数にとってはこんな話はただの娯楽にすぎないだろうし、藤野谷家にいくらか関わりがある者にしても、何十年も昔の話など意味がないに違いない。しかしこんな話が藤野谷グループの医薬品事業――ヒート抑制剤や中和剤などのオメガ性に関する薬剤が中心を占める――も関係する、新薬開発競争の報道と並べられると、もっと何かあるのではないかと詮索したくなるかもしれない。
俺にはすこし意外だったが、藤野谷家に対する論調はどれもあまり好意的ではなかった。お高くとまったアルファの名族で、しかも今の当主はあまり表に出ない。オメガの妻の紫がアルファの名族を影で牛耳るように動かしている、そんな書かれようなのだ。
見知らぬひとの墓をみつめながらぼんやり考えていると、後ろで玉石が鳴った。
俺はおそらくはた目にもわかるくらい、びくっとしてふりむいた。
上品なマグノリアの香りが漂った。つば広の帽子を深くかぶった女性が立っている。藤野谷の母だ。藤野谷紫。
まさにたった今彼女のことを考えていたところだったから、俺は幻でもみているような気分になった。
「お会いするのは二回目ね。佐枝零さん」
鈴が鳴るような声だ。俺は焦り、無意識に一歩下がった。草履のしたで玉石が音を立てる。
「はい。あの……」
「息子がお世話になっております。あの時教えてくれればよかったのに。それにしても、今ならはっきりわかるわ。やはり面影が少し似ているのね」
「誰にです?」
「葉月さん」
何と返せばいいかわからなかった。困惑して立ちつくす俺の頭に浮かんだのは三波で、彼ならこんなときにうまく切り返せるのだろう、ということだ。紫は俺の内心を読みとったようにすこし微笑んだ。美貌がさらにきわだったが、俺はなぜかますます緊張した。
「こんな騒ぎになるとは思わなかったけれど、仕方ないわね。世間は運命のつがいが大好きなのよ。天藍も努力したようだけれど、ともかく、藤野谷全体であなたを保護するから」
「いりません」
言葉は俺の口から考える前に飛び出した。
「大丈夫ですから、おかまいなく」
「そうはいかないわ。あなたの体はあなただけのものではない」
「いえ、俺のことは俺が決めます」
なかばムキになってそういったとき、境内の方に見慣れた色がみえた。
「お母さん、よしてください」
藤野谷が足早にこちらへやってくる。玉石を踏む音が近づくとともに俺の中に安堵があふれ、藤野谷の方へ駆け出したいのをこらえた。
「天」
藤野谷は俺の斜め前に立った。「サエのことは俺が」
「あなたに任せておける?」
「俺たちのことですから」
紫は俺と藤野谷の顔を交互に眺め、吐息をついた。
「運命のつがいに何度も振り回されるつもりはないわ。ともかく気をつけて」
彼女は背を向けると、ヒールのかかとで玉石を鳴らしながら歩いていった。ぴんと伸びて緊張した背筋から漂う空気は、大学生の頃、たまに藤野谷がひとりでいたときと似ていた。味方がどこにもいないかのような雰囲気だ。
その後ろ姿がみえなくなったとたん、藤野谷の腕が俺の背中に回った。俺はそのままじっとして、伝わってくる藤野谷の体温を感じていた。
「サエ。おまえの家に帰ろう」藤野谷がささやく。
「大丈夫なのか?」と俺はいう。
「あそこはノーマークだ。佐井家がサエを隠し通しただけはある。渡来さんが送る」
家に帰ったのは夜になってからだった。
治験で空けていた期間も長く、いやになるくらいメールと通話の着信があった。俺はまず峡に連絡をとり、佐枝の両親と話した。藤野谷がいうには俺の家の回線なら知人に連絡を取っても問題がないらしく――以前三波がここの機材を交換したとき、TEN-ZEROの機密保持のためにセキュリティを強化したおかげらしい――おかげで逆に俺は心配になった。通信回線にまで気をつけなければならないなんて、スパイ映画じゃあるまいし、マスコミ相手としても大げさすぎないだろうか。
それでもここで暮らすのは問題がないとわかってほっとした。それに俺が連絡をとろうとする相手などたかが知れている。
三波が大丈夫かが気になっていたが、先にギャラリー・ルクスへビデオ通話をかけると、すぐに黒崎さんが出た。俺の顔をみるなり「そのままで待ってくれ」と背中を向ける。まもなくマスターが画面に映り、肩で息をしながら「ゼロ!」と小さく叫んだ。
「どこにいたのさ!」
「ちょっと入院してた」
「入院? じゃあ……」
「ネットもつながらなかったから、何も知らなかったんだ。昨日まで」
「そうか。それなら……いいんだけど……いや、良くないけどね」
黒崎さんが横から口を挟む。
「うちの前で写真を撮られたらしいな。変なのが来てね。ずっと心配していたよ」
「すみません」
「いや、あることないこと書かれていても気にしないこと。あの――藤野谷君だっけ? 彼はどう?」
マスターの口調は同情がこもっていて、俺はうかつにもほろりとした。
「あいつは俺よりずっと大変ですよ」
「でも彼はアルファでしょ」
「俺はずっと隠れていたし、今も守られているだけなんだ。アルファだからってあいつだけが矢面に立つなんて、どうかしてる」
「ふーん」
マスターは画面の向こうから俺をじっとのぞきこむようにした。黒目がきわだって大きくみえた。
「とにかく、野次馬が何をいってもゼロには関係ないから。悪いことをしたわけじゃないんだし、ベータの娯楽民を楽しませてやる義理もないんだ。家にいるのが嫌になったらここ に来てもいい。上に空き部屋がある」
途端にマスターの後ろで黒崎さんが目を剥いた。「おい、都合も聞かずに……」
「何、文句ある?」
「ないが……」
「そういうわけだから。ああそう、加賀美さんもずいぶん心配していたよ。連絡してあげるといいかもしれない。黒崎の客だし」
俺は通話を切ると少し考えた。加賀美に連絡すべきかどうかだ。イニシャルで登場していた三波と違い、加賀美はいちばん詳しい記事でもまったく触れられていなかった。それはつまり、記者たちが目をつけているのは結局のところ藤野谷――藤野谷家であって、俺ではない、ということを意味するのかもしれない。
無事を伝える程度の会話をしても、藤野谷を裏切ることになるとも思えなかった。そろそろ深夜になろうとする時間だったが、俺は加賀美のアドレスを呼び出した。
「零」
加賀美はすぐに出た。彼の顔をみた途端、どういうわけかひどく懐かしい気分になった。
「いつ連絡が来るかと思って、待っていた。今はどこだ?」
だが俺の気分と裏腹に、彼の声はせっぱつまっていて、俺は申し訳なくなった。
「家。ルクスのマスターに聞いたんだ……心配かけてごめん」
「大丈夫なのか? 変なやつらが周りにいないか?」
重ねて問いかけられる。加賀美の焦りようは俺には意外だった。
「加賀美さん、大丈夫だよ。藤野谷が――ちゃんとやってくれてる」
「そうか。だったらいいが……」
「加賀美さんこそ、俺とのことで、何もなかった?」
彫りの深い顔のなかで眉がひそめられた。
「いや。僕はいまのところ何もない。蚊帳の外すぎて苛つくくらいだよ。だからこれはたぶん、藤野谷家をターゲットにしているな。加賀美は利権と縁がないが、藤野谷家はちがう」
「そうかもしれない」
「零。嫌な気持ちになるかもしれないが……記事は読んだよ。書かれていることはほとんど嘘かもしれないが、以前きみが話してくれた、ご両親と――もうひとりのいなくなった男のことは、わかった」
そうだった。以前俺は加賀美にあの、白い蝶の話をしたのだ。葉月が死んだあと、藍閃と空良が失踪する直前の、現 とも夢ともつかない出来事のことを。
「零、僕には……」
いつもなめらかに言葉を選ぶのに、加賀美はめずらしくいいづらそうに口ごもった。
「何?」
「きみは――きみのまわりの環境もろとも、運命と名付けられた糸でがんじがらめになっているようにみえる。名族のあいだでも藤野谷が厄介な家なのは有名だ。先代からそうだった。直系のアルファを求めるあまりオメガ系に執着するのも、代々続く性格みたいなものだろう。加賀美 はそんなことはない」
「加賀美さん」
「運命のつがいは万能薬なんかじゃない、といったのはきみだ。こんなことになっているなら――僕のところへ来なさい」
加賀美のまなざしは真剣だった。俺は彼の亡くしたつがいのことを思った。もし藤野谷が同じようなことになったら、俺はいったいどうするだろうか?
「加賀美さん」
俺は首をふった。
「そんなことはできない。俺はもう選んだんです」
「藤野谷家がきみを――がんじがらめにして、押しつぶしてしまうとしても?」
「藤野谷家はそうかもしれない。でも天はそんなことをしない。あいつはずっと――俺の絵が好きだから」
家族以外で最初に俺の絵を褒めてくれた人間だから。十四歳で出会ったときから。
加賀美は俺の顔を凝視し、俺は彼と目を合わせた。先にそらしたのは加賀美の方だった。
「……そうか」
息を吐きだすようにいった。
「零が選んだというのなら、それでいい。でも、もし選択が間違っていたとか――逃げ出したくなったときは、僕に頼っていい」
「加賀美さん、それは」
あまりにも身勝手な話だと俺はいおうとした。だが加賀美は手を振り、最後までいわせなかった。
「僕は待てるといったはずだ。覚えているかい?」
ゆるやかな微笑みに、ほとんど気圧されたように俺がうなずくと、加賀美は安心したかのように目を細めた。
「おやすみ。零」
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