43 / 72
【第3部 ギャラリー・ルクス】11.ゴーストの腕(前編)
「天、休めているか?」
眼の下に濃い影を浮かべている相手にかける言葉じゃない。そうは思いながらも、俺は画面の向こうの藤野谷に聞く。深夜だった。部屋にはパソコンが唸る音しか聞こえない。
『サエは?』
ビデオ通話で聞く藤野谷の声は低く、すこしかすれ気味だった。
「俺は問題ない」
『だったら俺も問題ない』藤野谷は疲れた顔で笑った。
「まだ――いるのか、その……」
そう俺はいいかけて、どう言葉をつなげればいいのかわからなくなる。治験から戻って一週間たつが、藤野谷家の周辺にはまだリポーターが張りついているらしい。アルファの名族がタレントや芸能人さながら新聞や雑誌の社交欄でゴシップを流されるのはそんなに珍しくもないことだ、そう藤野谷も渡来も口をそろえるのだが、俺にはまともな事態には到底思えなかった。
藤野谷は肩をすくめる。
『かなり減った。特にTEN-ZERO周辺にはほとんどいない。藤野谷のグループ企業じゃないから人をつけるだけ無駄だと思ったんだろう。新製品の売上は落ちていないし、株は未公開だから』
「おまえの実家は?」
藤野谷はまた肩をすくめた。かなり芝居がかったしぐさだった。
『さあね。群がっている連中は楽しんでいるだけだ。母は後ろ暗いことなど何もないと胸を張ってる。ただ藤野谷家は報道系のベータに昔から嫌われてる。時間がかかるだろう』
「そんなこと、知らなかったよ」
『知らなくていい。それよりサエの話をして』
藤野谷が期待するように見るので、俺は話す。といっても、今日食べたものとか読んだ本とか、他愛のない話しかできない。何しろ俺はいま仕事もなくて暇なのだ。暇はあっても気持ちに余裕がないのか、家の中はいつになく散らかっていたが、掃除をする気になれなかった。絵を描いたり本を読むのに集中できなくなると手を動かせることを探し、今日など一日中、裏の壊れた柵を修理していた。明日は昼に峡が来るというから、その前にオイルステインを塗る予定だ。
俺はつまらない話をしているだけなのに藤野谷の口元が嬉しそうにゆるむ。奇妙な焦りを感じて、声に出すつもりのなかった言葉が出ていた。
「天――会いたい」
はっとして画面を見返すと、藤野谷は冷静な顔で俺をみつめ、たしなめるように『サエ』といった。俺はなんとなく苛ついた。大切なことから自分だけが置き去りにされているように感じた。
「後ろ暗いことがないのならいいじゃないか。おまえがここに来れないなら、俺がおまえのところへ行く」
藤野谷は暗い眸で俺をみつめて、それからきっぱりと首を振る。
『だめだ、サエ』
俺は眉をひそめた。
「天、俺はマスコミなんてかまわないっていっただろう。おまえが心配なんだ」
『俺も大丈夫だ、サエ』
「いったい何があるんだ?」
俺の声は苛立ちですこし大きくなっていた。藤野谷の顔が一瞬険しくなり、元に戻った。
『治験の前に名族のセキュリティが狙われている話をしただろう? 報道されていないが、警察が動いている事件がある。まだ捜査中だ。この犯人は主に名族の――伴侶を狙っている』
「……つがいにもなっていないのに」
俺はつぶやいたが、藤野谷には聞こえなかったらしい。
『だからサエにすこしでも目立ってほしくないんだ。居場所がばれたらマスコミにまた燃料をくべることになる。それで』
「わかった。でも明日は峡が来る」
話を変えたくて俺は藤野谷の言葉を途中で切った。藤野谷からは怒った様子も苛立ちも見えず、俺は逆に申し訳ない気分になった。
『峡さんか。よろしくいってくれ。俺のことは気に入らないだろうけど』
「そんなことはないよ。峡はものがわかる人だ」
『銀星氏は?』
「俺もどこにいるのか知らないが、問題ないそうだ」
俺の祖父、佐井銀星は藤野谷の実家のような隙をまったく見せなかった。俺を完璧に隠し通したときのように、祖父は家来筋の佐枝家ごと一時的に住まいを移していた。峡に張り付いていたリポーターは弁護士の警告を受けて引き下がったし、祖父には護衛もついたと聞いている。
祖父の周到さは昔からだ。俺が生まれた時の戸籍ひとつとっても、書類上は何段階も間を踏んで、家来筋の佐枝家へ俺が引き取られたと簡単にわからないよう操作しているし(佐枝家では年の離れた兄弟のように扱われたのに、俺が峡を「叔父」と呼ぶのもこのためだ)葉月も空良の元へ戻ろうとして祖父の庇護を離れなければ、そのまま藤野谷家から隠れていることもできたかもしれなかった。
もっとも、葉月には何か予感があったのかもしれない。
今回、祖父は他の名族の助けを借りているようだった。資産もなく、銀星の代で終わりの家が、誰かの好意でここまで助けてもらえるのも奇妙だった。あるいはむしろそのせいなのか。佐井家にはもう利用価値がなく、残っているのは銀星が誰かと結んでいる信頼関係のみだからか。
『鷲尾崎さん……かもしれないな。俺の実家とはまるで合わない人だから、逆にちょうどいいだろう』
藤野谷がぼそっとつぶやき、時計をみた。とっくに日付は変わっている。
薄暗いガレージにはロードバイクがひっそり鎮座している。
修理が終わったのにたいして乗る機会もない。俺はシャッターを開け、門扉の先に峡の車があらわれるのを待った。結局昨夜もよく眠れなかった。
空は俺の気分と裏腹に爽やかに晴れていた。五月の風が庭を囲む林からガレージへ針葉樹の匂いを運んで、ツーリングにいい気候だった。去年ならひとりでロードに乗り、遠出していただろう。今の俺ときたら、どうしても足りなくなった食料を買いに、二度近くのスーパーへ行ったくらいだが。
体の線が出ない服を来て自転車用のゴーグルをかけ、ヘルメットをかぶると、ロード乗りのスタイルとしてはいまいちだが、誰に振り向かれることもじろじろ見られることもなかった。TEN-ZEROの新しい香水も効いているにちがいない。
ひと混みは避け、駅にも近寄らなかったし、寄り道もしなかった。一度だけ県道脇に止まった車に道を聞かれた。国道をまっすぐ進んでいたつもりが、間違ってそれてしまったらしい。差し出された地図は日本語ではなかったが、言葉は通じた。昨今はスーパーのレジもセルフだから生身の人間と話すこともない。
ガレージの前に車をとめた峡が開口一番「変な顔をしているぞ」といったのは、誰とも対面で話をしていなかったからか。
「なんだか新鮮で」
俺は答えたが、峡は何を勘違いしたのか「新鮮な野菜ならたくさん持ってきた」といい、後部座席から段ボール箱やビニール袋をいくつもガレージに運びはじめた。
「零、何を食べたい?」
俺は思わず吹き出した。
「いきなりそれ?」
「当たり前だろう。まずは飯だ。こういう時だからこそな」
峡はさっさと家の中にあがりこみ、あたりを見回して、まっすぐキッチンへ行った。ガサガサと音を立て、テーブルに食料の袋を置く。何年も見慣れた光景だった。日常が戻ってきたようだ。
「いま峡が凝ってるものでいいよ」
「それがとくにないんだ。どうするかな。零がふだん食わないものにするか」
「じゃあ和食だな。佐枝の父さんが作るようなのがいい」
「母さんじゃなくて? ハードルを上げないでくれ」
峡はすこし裏返ったような声をあげ、慣れた仕草でエプロンを腰に巻いた。箱から食料を取り出そうとした俺の手を「そこはいいぞ」といって止める。
「それより零、リビング。俺が作っているあいだに片づけろ」
俺はうしろめたい気分でふりむいた。
「あ――あれは……」
「いま片づけるんだよ。飯ができるまでにな」
峡は流しの水道をひねると俺を廊下の方へ押しやった。しぶしぶ俺はリビングへ行き、床のゴミや放り出したままの道具、紙や本を拾いあつめた。耳が寂しいのでテレビをつけると昼のワイドショーの最中で、スタジオにコメンテーターが並んでいる。別のチャンネルに変えようとして、俺はふと手をとめた。見覚えのある女性がいる。どこで見たのだったか。
『子供を産み、育てたいと思う感情は人間にとって自然なことで、権利として認められています。一方でセックスをしたくないとか、産みたくないという願いを持つこともまともな人間的感情で、尊重されるべきものです。アルファ名族が血統を重視するからといって、アルファを産むからといった理由でオメガを囲い込むなどはもちろん認められません。一種のセクシャルハラスメントでしょう』
『それはもちろんでしょう。あ、でもセックスをしたくない、なんてことはあるんでしょうかね?』
画面の中でどことなく下品な笑いが響く。
『ヒートが来れば、それはね』
『つまり自然な欲求として――』
「零?」峡が俺の背後から手をのばしてリモコンを取る。「そんなもの、見るな」
峡はチャンネルを切り替え、映画チャンネルで画面を止めた。その時になって俺はやっと思い出した。ハウス・デュマーで俺を診た年配の女医だ。今と同じように、ゆったりとして力強さのある声だった。
テレビに出演するような立場とは知らなかったが、デュマーはなんでも一級品を用意していたから、医者もそれなりの人材なのだろう。俺を診察したとき、彼女は何といったのだったか。
「おい、まだ片付いてないぞ」
峡の声に俺は我にかえり、ゴミをかき集めた。
「零、大丈夫か? 銀星が心配してる。おまえもあっちに来た方がいいんじゃないかって」
「じいちゃんはどこに?」
「九州だ。古い知り合いの別荘にいる」
九州だって? 俺は眉をしかめた。
「そんなの遠すぎる」
「遠いからいいんだ」
「だめだ。そんなに遠いと、天に何かあったとき――」
「そうだろうな」
峡は長いため息をつく。
「どうしてマスコミの連中、あんなに藤野谷家にくっついているんだ?」
「さあ。藤野谷家は報道系のベータとそりが合わないとか」
「藤野谷天青のせいだな。圧力をかけすぎて恨みでも買ったんだろう、あのじじい」
「今の藤野谷家にとっては迷惑な話だ」
「おまえはそういうがな」
峡はあきらめたように突っ立っている俺の手からゴミ箱を取った。
「藤野谷紫はやり手すぎて引かれるタイプだ。肝心の藍晶は何を考えているかわからんようだし」
「名族のそういう事情って、この前の会合に行ってればわかってくるもの?」
「――まあな」
そういって峡はゴミ箱の底にぎゅうぎゅうに紙くずを詰めこむ。
「零。最後までちゃんと片づけろよ」
峡が変えたチャンネルからは俺の知らない古い映画が流れていた。俺は本を棚に並べ、画材を作業部屋に戻し、窓をあけて掃除機をかけた。騒音で他の音が消え、俺はホースの先を床に押し当てながら、マスコミが世間に暴露した事柄についてとりとめもなく考えた。
報道されているのはある種のスキャンダルだが、俺の両親と藤野谷藍閃のあいだが不倫関係でもつれていただけなら、もう三十年以上前の話だ。今話題にされているのはそのことではなかった。藤野谷家がかつて佐井家――つまりオメガ系に圧力を加えていた結果、俺が保護プログラム下でベータに偽装せざるを得なかった事情や、さらに藤野谷家がオメガ性に関連した製薬利権を握っていることが、一部の人々の想像をかきたてているのだ。
たぶん〈オメガ系〉の存在自体、これまではアルファ名族やオメガ性専門医の間でしか知られておらず、空想の産物だと思われていたから、好奇心の的になっているのだ。それに現代では法でも倫理でも認められていないとはいえ、アルファがオメガを所有して一方的に支配することは、いまだにフィクションのネタとして人気がある。
ネットでは人権団体から藤野谷家に対し質問状が出たらしいといった噂が飛び交う一方で、オメガのヒートについて、俺には少しも面白くないジョークも目についた。俺の父たちについて、生まれたばかりの俺を放置して無責任だ、といったコメントもあったが、そんなのは他人の知ったことではないし、そもそも俺は佐枝姓だ。
「零、できたぞ」
キッチンから峡が呼び、俺は掃除機を片づけながらすぐ行くと返事をする。マスコミにしてみると、佐井家の当主銀星や、肝心の相手である俺がつかまらないのも気に入らないようだ。おまけに大筋では俺は被害者として扱われていたものの、空良=葉月=藍閃というアルファふたり、オメガひとりの関係と、俺と藤野谷と三波――オメガふたりにアルファひとり――の関係は面白い対比に見えるらしい。あるサイトではわざわざ図で解説されていた。
三波はずっとリポーターから逃げ切っていたが、三日前、TEN-ZEROの社屋から出たところをつかまったと連絡があった。メディア報道では顔はモザイクでぼかされていたが、三波が学生時代にも藤野谷と多少付き合いがあったことや、藤野谷の母が一時、三波と藤野谷の結婚に前向きだったという話も合わせて報道され、すぐにSNSには三波を見たとか、学生時代の知人だという投稿が出て、かなり以前にハウスで写されたらしい写真が流れた。
藤野谷が手を回したらしくすぐに写真は消えたが、数年前でも三波の美貌はきわだっていて、それがまた余計な想像を呼んでいる。藤野谷にとっては運命の番とモデル並みの美貌と、どっちがいいのか、という話だ。
『いわせておけばいいでしょう。僕の知ったことじゃありませんよ』
最後にビデオ通話で話したとき、三波はいつものように快活にしゃべったが、俺が公衆の前で裸にさせられたような気分でいるのだから、彼も同じように感じていても不思議はない。
キッチンへ行くと峡がテーブルに用意していたのは「和定食」そのものだった。味噌汁、焼き魚、煮物、青菜のおひたし、細かく刻んだ二種の漬物、真っ白いご飯、そして海苔。
俺はテーブルに座り、黙って食べた。しばらくパンとパスタだったから、白く光る炊き立てのご飯は美味しかった。
「あの子は大丈夫か?」いきなり峡がいった。
「誰」
「あの――紹介してくれた子だよ。三波君」
「ああ……どうだろう」
ちょうど三波のことを考えていた俺は確信が持てないまま返した。
「三波は頭がいいからな。うまく切り抜けると思う」
「おまえが治験でいないあいだにたまたま一度会ったんだ」峡は食べ終わった皿を積み上げている。
「おまえのことを聞かれた。彼はなんだ、その、すごく――」
「何」
「すごくきれいな子だな。最初に会った時はあまりよく見ていなかったから、驚いたよ」
「ああ、うん。そうだな」
俺は上の空で漬物を噛んでいて、峡が続きを待っていることにしばらく気づかなかった。
「外見だけなら三波はエンジニアよりモデルが似合うけど、中身はかなりオタクだし、変なやつだよ。いいやつだけど」
「そうか」
「ちょっと前にここでケーキを食べた」
「ケーキ?」
「うん。ただ三波はケーキより酒のほうが好きみたいだな」
「そうか。その、たまたま会った時だが、英語のサイトにまで今回の話が出ていることをひどく気にしていた。知っていたか?」
「海外のニュースサイト? うん、知ってる。すこしだけ見たよ」
名族のゴシップは海外でも需要があるらしい。最後にTEN-ZERO本社で取材を受けたアート系メディアは好意的だったが、他は日本の報道の総まとめのようなもので、まとめられている分、厄介だった。
「零?」
気がつくと峡が立って俺を見下ろしていた。
「いちばん嫌なことはなんだ?」
「いちばん嫌なこと? そりゃ、どれも嫌だよ」
俺ははぐらかしてリビングへ行った。パソコンを弄って検索をかける。
SNSで拡散されたTEN-ZEROのプロモーション映像については、TEN-ZERO本社が行き過ぎたヘイトコメントを片っ端からスパム報告していた。うんざりするのは、学生時代のコンペ騒動が記事にされたために、またも盗作だの、俺の実力がどうこうといい立てる連中が現れたことだ。
それは俺に何年も前、藤野谷から逃げ出そうと決意した夜のことを思い出させた。藤野谷と一緒では俺は結局何にもなれないのではないか、何も描いたり作ったりできなくなるのではないか。
――やっとここまで来たのに、またあの気分を思い出すのは嫌だった。
俺はリンクをクリックする。峡がうしろからのぞきこんだ。
「おい、それはなんだ」
「今朝みつけた匿名掲示板」
〈検証!佐枝零〉スレッドとあるが、なにも検証などしていない。俺の作品はすべてパクリだといいたいだけのもので、要するに嫌がらせだ。途中から野次馬が次々に参入して、話題はヒートのオメガに何ができるんだという話に変わっていき、最後は貼り付けられた映像で終わっていた。
膝をついた細い肢体のオメガの男が、眼の前の男根をしゃぶりながら、うしろから別の男に犯されている。無料のセックス動画だろう。発情期に枕営業して仕事をとるオメガというのは、この系列のAVでよくあるシチュエーションらしい。
「零」
峡が俺を乱暴に押しのけ、パソコンの電源を切った。
「弁護士には知らせたか?」
「ああ」
「藤野谷天藍とは話しているか?」
「あいつも疲れているんだ」
俺は早口でいった。今朝たまたまこのスレッドへのリンクを踏んでから、俺はずっと考えつづけていた。結局のところベータのふりをしていようが、オメガだろうが、クリエイターとしての俺には、状況はほとんど変わらないのかもしれなかった。周囲が俺のことをただのベータだと思っていたときは藤野谷家の利権目当ての連中が足をすくいにかかり、オメガだと知ったら知ったで、今度は……
「零、あのな」
峡が何かいおうとしたとき、門扉のベルが鳴った。
「誰だ?」
「さあ」
俺は首を振る。私道の先にあるこの家まで迷いこむ者などまずいない。表札に出ている名前は佐枝でも佐井でもない。大学を出た俺が独立したいといったときも銀星は抜かりがなかった。
「見てくる」
峡が必要もないのに足音を忍ばせてガレージへ行った。隠し窓から門扉の方をのぞくことができるのだ。
戻ってきた叔父は青い顔をしていた。「まさか俺か?」とぶつぶついった。
「何?」
俺はたずねたが、峡の顔色のおかげで、聞かなくても答えはわかっているような気がした。
「門の外にTVカメラがいる」
そう峡がいったとき、またベルが鳴った。
ともだちにシェアしよう!