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【第3部 ギャラリー・ルクス】13.窒息点

 からからに乾き、なのに、ぺたりと足の裏に貼りついてくるようなねばついた土のうえを俺は歩いている。靴の裏に泥がからみついて一歩を踏み出すのが大変だ。遠くに白い塔のような建物がみえる。俺はあそこへ行くはずなのだが、当分たどりつけそうにない。  頭のすぐ上に白と灰色の鳥がいて、尾羽で頬をぴしぴし叩くのが不愉快だった。俺は腕をふり、鳥を追い払おうとする。大声をあげようとして眼をあけ、見慣れない背景にびくりとした。 「起きた。あー、起きました」  グレーのシャツの上に白衣を羽織った男が俺を見下ろしていた。  俺は腕をまっすぐ上に挙げた姿勢で、男の片手に吊るされるようにして、両方の手首をつかまれている。縛られているとわかるまでにすこし時間がかかった。男はもう片手でモバイルをもち、話しかけている。 「ないですね。どうみてもない」  喋りながら男はいきなり俺の膝にのしかかり、押さえつけたまま俺の髪をつかんで引く。痛みに声をあげようとして、音が出なかった。唇の周りにぺたりと何かが貼り付けられているのだ。ぬるりと冷たい感触の指がうなじを触る。気持ち悪さに鳥肌が立つ。 「はあ? 聞かれても知りませんよ。とにかく無駄です、血を抜こうが首をぶった切ろうが。嫌ですね、もったいない」  息が苦しかった。口の中が渇いてねばつき、頭の芯がガンガン痛む。顎や背中も痛く、男が何をいっているのか理解できなかった。声が出せないままもがくように体を揺さぶると、男は無造作に髪を離し、俺は反動であおむけに転がされた。体の下はマットレスのような弾力があったが、足首もまとめて拘束されているらしく、動かせない。 「で、どうします? ああ、ありますよ。それでいい? ここ、水は止まってないから四日は放置しておけますよ。そっちに戻ればいいですかね?」  男はまだ二言三言喋ったが、それは外国語のような響きで俺には意味がわからなかった。通話を切って俺の膝から降り、立って白衣のほこりを払う。俺はベッドの上に転がされていた。両腕を頭の上で拘束されたまま、首だけなんとか前に曲げる。上に着ていたパーカーがなくなって長袖のカットソーだけになり、股の間も空気が通って心もとない。カーゴパンツが脱がされているのだ。  男は俺を見下ろしてにやっとした。 「悪いな。下を脱がすと逃げにくくなるだろう? ズボンを履いていないと間抜けだもんな。上も脱ぎたいか?」  かっとして俺は腰と足を動かそうともがいたが、ベッドを転がり落ちる寸前に手首をひっぱられて止まった。鎖か紐でつないであるらしい。男はまったく動揺していなかった。こんなことはよくあること、といったような雰囲気で、袋でも動かすように俺の体をベッドにひっぱりあげると、また膝の上に体重をかけて座った。俺に覆いかぶさるようにして手をのばす。一瞬すぐ上に男の顔があり、俺は眼を瞬かせた。どこかで見たような気がした。 「―――んっ」 「あ、覚えてた?」  男はにやっとした。 「うん、俺だよ。多趣味なんでね。有名人が写ってると実益をかねて売るんだよ。あんたと彼氏の写真はここ最近何度か撮ったよ。いい雰囲気だったしねえ。この手の写真ってブン屋さんまわりに需要があってさ。スピフォトの写真みた? よく撮れてただろう」  俺の無言の抗議など素知らぬ顔で、男は手元をみながらぶつぶつ喋る。 「藤野谷家だと小遣い稼ぎになるだろうと思ったんだが、売った先では芋づるで情報山ほど出してきて、こっちのバイトにも関わってきたってわけ。タイミングがいいんだか悪いんだか」  俺は首を無理やり前に曲げ、男の手元をみる。スタンプ状の針のようなものが見える。一部の予防接種に使われる注射器だ。あのコンビニで急に意識がなくなったのを思い出した。あの時も何か打たれたに違いない。  背筋に寒気が走った。男は俺の顔をみてまたにやっとした。 「あんたを何日かここに置いておくためだよ」  俺は声をふさがれたまま体を揺らし、膝をあげて抵抗しようとしたが、男は体重をかけて俺を押さえつけている。縛られた手首がぎりぎりと痛む。男は俺のシャツの左袖をまくりあげた。ちくっと肌の上に針が押しつけられる。痛い。俺は秒数をかぞえた。一、二、三、四、五。ひどく痛い。六、七、八、九、十。  激痛に顔をゆがめていると、口をふさいでいたものを剥がされた。同時に押さえつけられていた膝も腕も解放されて、俺はそのままマットレスに転がり、叫び声をあげた。男は注射器をハザードマークのついたビニールバッグへ放りこみ、ジッパーを閉じる。 「もう少ししたら腕と足も解いてやるよ。この部屋の中では好きにしていい。すぐ外に出る気なんてなくなるから」 「……何を打ったんだ」  手足を動かせないせいもあるのだろうか、まだ痛みが残って、俺は息を切らしている。 「よくある薬だよ。オメガを足止めするために昔からよく使われたやつ。効き目を確認したら出ていくから、しばらく大人しくしていてくれ。あっちがトイレだ」 「俺をここに閉じこめてどうするんだ」 「さあ。俺が考えることじゃない。これがあんたにとって幸か不幸かはわからないが、もし藤野谷の御曹司とつがいになっていたら、今頃はきける口なんてなくなっていたところだぜ。それにしても運命のつがいってあんなに騒ぎ立てられているのに、噛んでないってどういうことだよ。ヘタレもいいところだよなあ。運命のつがいってのはこんなの、すぐ終わらせてるもんじゃないの?」  俺はもがくのをやめて男をみつめた。 「噛んでいたら――何だって?」  男は薄いゴムの手袋をはずし、別の手袋をはめた。自分の首のうしろを指さす。 「あんたのここにあるやつ。受容器」 「――それが?」 「アルファがここを噛むだろ。受容器に体液が入り、反応が起きてつがいになる。みんな知ってる。で、ここにはアルファの遺伝情報が残るんだよ。これを分析すると名族の連中の生体認証の鍵がわかる。名族の財産はグローバル金融に分散されてて、本人の生体認証でしか解除できないが、つがいのオメガからそいつを抜きだせば簡単にアクセスできることになる。これはあまり知られていない。おまけについ半年前までは生きていないと抽出できなかった」  俺の頭はゆっくりとその情報を咀嚼した。藤野谷がセキュリティのことを繰り返し口に出していたのは、このせいか。 「アルファがつがいのオメガをあれだけ必死になって守る本能の科学的根拠はこれなんだろうな。生体認証なんてなければ用無しだったんだが。それに以前は伴侶のオメガなんて、誘拐してゆすりの材料にする以外はありきたりの使い道しかなかったんだが、今は情報さえハックすればそんな面倒もいらなくなった。テクノロジーってすごいだろ。だから御曹司がヘタレでさえなければ、あんたの首があればそれで終わってたの。それが噛んでないなんて反則だよ。やっと隠れ場所をハックして流したのに」  男は早口で平坦な口調でぺらぺらと喋り、俺の頭は半分くらいしかついていけなかった。最後の方だけが意識にひっかかり、やっとのことで渇いた唇をひらく。 「あの……俺の家にマスコミが来たのって――?」  男は首をかしげた。 「ちょっと喋りすぎたな」 「待てよ、だったら――」  もっと男から話を聞きだそうとしたそのときだった。俺の腰から背中の真ん中を激しい熱のような感覚が刺した。声にならない悲鳴をあげて、俺は両手首を拘束されたまま、背中をのけぞらせた。 「あ、効いたか」呑気な声が聞こえる。「じゃあ外すか」  足の拘束がなくなったとたん、腰の熱が足指の先端まで通りぬけ、皮膚の下をびくびくと走った。自由になったにもかかわらず、俺は男に抵抗するどころではなかった。いつのまにか腕の拘束も解かれて、マットレスの上に自分からうつぶせになっている。頭から足先まで全身の皮膚が熱く、痛いほどにも感じるが、痛みではなかった。もっとたちが悪いものだ。腰の奥に感じるうねりはヒートと同じだが――もっと熱い。 「おや、あんたの反応、ちがうな」  男の呑気な声が聞こえる。 「ほかのオメガより効き目が強いのか? ヒートの誘発剤なんて最近は流行らないけどな、逃げられないのが便利なんだ。いい子にしてろ。また来るから」  遠くでそう声がいったが、俺はもう理解していなかった。完全に腰が抜け、うつぶせになったまま体じゅうを走る熱に耐えている。喉の奥からくぐもった唸りがもれ、涙がこぼれた。いつものヒートのように、触ってほしいとか、快感が生まれるどころではない。ただの苦痛だ。  マットレスのうえでどのくらいもがいていたのか、急にドサッと全身に衝撃が走る。ベッドから転がり落ちたのか。床は冷たかったが、俺の体は熱いままだ。仰向けのまま、手で闇雲に体じゅうをまさぐるが、無駄だった。  ヒートになれば逃げられなくなるなんて、それどころじゃない。こんなのは文字通り熱病だ。俺自身の体を人質にとられているようなものだ。  またどのくらい時間が経ったのか。  およそ人間らしからぬ声をあげて唸ったり、ひっくり返された亀のようにバタバタともがいたりして、ふと気づくと周囲は真っ暗だった。俺はどうにか寝返りをうち、うつぶせになって床を這った。自分の体液であたりが汚れているのをぼんやりと意識した。  あいかわらず口も喉もカラカラに渇いている。光の漏れるユニットバスの扉をみつけ、なんとか中へ這いこむと、壁にもたれながらシャワーの栓をひねる。水は口の渇きをいやしたが、体の渇きはそのままだ。頭から水をかぶっても熱はさめず、はねあがる動悸に呼吸が苦しい。  バスタブの中で俺は膝と手をつき、うつむいていた。視界がうす暗く、頭の片隅に藤野谷の顔が浮かぶ。眉をよせて俺を呼んでいる。 「天……天! 天!」  俺は喉をつまらせて咳きこんだ。  いきなり頭を殴られるような、大きな音がすぐ近くで響いた。  雷鳴のようだった。  どこかで雨が降っているのだろうか。それとも幻なのだろうか。激しく降る水の音に俺の心は流れてさまよった。こんなふうに嵐の日に雨の音を聞いていたことがある。雨が地面をたたく音のあいまに、雨樋からしたたり流れ落ちるしずくが音楽のようなリズムで響く。俺は子供で、ヒートの熱など無縁なまま、すぐ隣に立つ自分ではない存在を気にかけている。彼が俺をみる視線、一挙手一投足に気を取られて。  いつまでも雨はやまなかった。足元を濡らす流れる水が銀色の川になり、そこから舞い上がっては星になり、夜空から降ってくるからだ。俺はこんな夜にたたずむ人の姿をいつか描きたいと願っている。なのにいつになっても描けそうにない。あの色が出せないからだ。  俺の肩になにかが触れる。 「サエ」  声が聞こえる。  こんなふうに俺を呼ぶのはひとりしかいない。俺を守るようにふわりと甘い香りが覆いかぶさり、眼をつぶっているにもかかわらず俺はきらきらと光る霞を感じとる。空から降る星は大気のなかで砕け、塵のようなかけらになり、光る霞になって落ちてくるのだ。  光を浴びるうちに恐怖がうすれてくる。俺はほっと息をつく。耳を聾する雨の音が消え、背中を温かいものが覆う。俺の体はまだ熱いが、背中にあたる感触はやさしい。 「佐枝さん」  誰かが呼んでいた。  眼をあけなければと思うが、体はまったく自分のもののような感じがしなかった。まるで人形になったみたいだ。 「佐枝さん、しっかり」  俺はとうに意識を手放していた。暗闇は馴染んだ毛布のような温かい匂いがした。  目が覚めて最初に気がついたのは点滴の管だった。手首にまとわりつく感覚が嫌で、針を止めたテープを指でひっかいていたのだ。視線の先に透明なバッグの中で揺れる液体がみえた。  右肩に温かいかたまりが触れていた。馴染みのある匂いがして、俺はうっとりとそれを吸いこみ、なかば無意識のまま、管のない方の手で肩にあたるものを撫でた。柔らかい髪に指をからませる。引き寄せようとしたとき、不意にそれが動いた。 「サエ!」 「天……」  俺は眼を何度か瞬かせた。藤野谷がまるで信じられないものでもみるかのように俺をみつめる。「サエ、サエ…」ぶつぶつと口の中でつぶやき、いきなり飛び上がるように立ってナースコールを押した。  たちまち看護師がベッドの横にあらわれ、それからしばらく俺は彼らのなすがままだった。藤野谷はうろうろと部屋を行ったり来たりしていたが、看護師に何かいわれて外へ出ていった。戻ってきたとき、藤野谷の横には峡がいて、ふたりは並んでベッドの横に座った。 「良かった。やっと気がついて」  疲れた口調で峡がいう。広い窓のそとに夕暮れの光がみえていた。 「母さんが帰ったところで眼が覚めるなんて間が悪いが、仕方ないな」  俺は唇をなめ、やっと声を出した。 「えっと、その」 「ヒートの誘発剤を打たれたんだ。実は誘発剤はオメガ系には禁忌でな。零をみつけるまでに二十四時間以上かかったのもあって、一時危険な状態だった。山を越えても何日も意識が戻らないんで、どうなるかと心配していたところだ」  峡は長い息をついた。 「まあ、よかった……とにかく、生きていることが大事だ」  藤野谷は何もいわなかった。黙って俺をじっとみつめている。俺は深く考えもせず手をのばし、藤野谷の手を握った。温かかった。 「俺はその――拉致されたんだよね?」  峡の顔が歪んだ。 「ああ。三カ月前から続いていた、オメガ拉致殺害事件の一団にな。名族の伴侶ばかり狙ったものだ」 「それって……」 「主犯は逮捕された」藤野谷が突然口をはさんだ。「結果論だが、サエが――拉致されたおかげで、タイミングよく捜査班が動いた」  喉にからんだようなかすれた声だった。俺がのばした手を藤野谷はぎゅっと握りこむ。 「今回、オメガ性関連製剤を違法に流すルートが背景にあるとかで、藤野谷家は警察の捜査に協力していたんだ。いえなくて――悪かった。俺が……」  峡がなだめるように手をふる。 「零は幸運だった。目撃者も多かったし、渡来さんの尽力もあって……警察の捜査もかなり絞り込まれていたらしい。おかげでマスコミも一気に大人しくなったしな。まだ警察に話を聞かれたりしなければならないだろうが」 「当分はそんなのいい。サエが落ちつくまで、他は何も」と藤野谷がいう。 「そうだな」  峡が微笑んだ。藤野谷の肩を軽く叩き「まだいるのはいいが、夜は寝るんだぞ」という。  以前は思いもつかなかった気安い動作で、俺は驚きを押し殺した。眠っているあいだにどのくらいの出来事があったのだろう。 「気になるのは誘発剤の後遺症だな。明日は検査もあるはずだ。ともあれ、今日は俺は行く」  そういうと峡は立ち上がった。藤野谷はうなずいたが、俺の手を離そうとしなかった。峡は軽く手をあげて出ていった。俺は横になったままあらためて病室をみまわした。広いだけでなくずいぶん贅沢な部屋だった。病室? いや、ここは…… 「うちの特別室だ。特権をふりかざしてここにしてもらった」  俺の視線をたどるように追って、藤野谷がうしろめたそうな顔でいった。 「安全だし、邪魔されないし……」 「そうだな」  ここはもともと、俺が渡来に連れられて来るはずだった部屋だ。いま藤野谷と峡に説明された話によれば、俺がここにいなければならない理由はもうないが、一周ぐるりと回って俺はやはりここにいる、というわけだった。 「天」 「ん?」  俺はそっと指にからむ藤野谷の手をほどく。今度は両手をのばして彼の頬にふれた。点滴の管に気をつけながら、頬から顎に指を触れ、手のひらをそえる。ハンサムな顔はやつれているし、眼のしたは影を通りこして真っ黒だった。伸びた髭が指の腹にざらりとかすった。  俺のせいだと思うと、なんといっていいのかわからなかった。 「ひどい顔だ」  俺はささやいた。藤野谷が唇のはしをあげて微笑む。 「そうだろうな」 「ごめん……」  藤野谷は両手で俺の手を包むようにして握った。指先に唇をよせる。 「本当はサエを抱きしめたいんだけど、たぶん看護師に怒られる」 「天、」たまらず俺はつぶやいた。「……キスして」  ゆっくりした動作で藤野谷は立ち上がった。ベッドの端に座り、俺の顔の横に手をつく。髪を撫でる指がはえぎわからひたいにおり、眉をなぞる。顎をつかまれ、唇が重なってくる。藤野谷の匂いが俺の中を満たし、急激に渇きが癒されるのがわかった。藤野谷がいるだけで、小さな火が灯るように幸福感がわきあがる。窓のそとがゆるやかに暗くなる。

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