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【第3部 ギャラリー・ルクス】14.セイレーンの翼

「お見舞いにクッキーとマフィンを焼いてみました」  鷹尾がレース模様のペーパーと透明なフィルムでラッピングした包みをテーブルに置いた。 「マフィン、今回はちゃんとふくらんだので、やり直しせずにすみました」  ドライフルーツや、チョコチップ、ナッツの色がきつね色に焼けた生地と対比を作っている。クッキーにはアイシングで細かく模様が描かれている。 「ありがとう。すごい」  俺の声に鷹尾の眼が嬉しそうに輝く。淡いグリーンのワンピースにはユキヤナギのような小さな花びらが散らされて、初夏の明るい空にふさわしい。隣で三波が「僕は鷹尾みたいな特技がないので、カバン持ちと花贈呈係です」といいながら、腕に抱えた花束をもちあげた。  予想外の特技をいろいろ持っているくせに何をいっているのかと思いながら、俺は粛々と花束を受け取った。純白の大きな百合のアレンジだが、匂いはそれほどきつくない。 「そういえば三波に預かっているものがあるよ」  部屋の入口脇の狭いカウンターは、佐枝の両親やギャラリー・ルクスの黒崎さん、マスターや、祖父の知人だという名族の名前で届いた見舞いの品でいっぱいだった。俺は観葉植物の鉢と箱のあいだに埋もれた細長い箱をひっぱりだす。水色の包装紙に濃茶のリボンがかけられ、薔薇を象った留め具がついている。 「何です?」 「叔父が渡してくれってさ。お礼だって」 「峡さんが?」  いきなり三波は素っ頓狂な声をあげ、あわてたように口をつぐんだ。 「もらっていいんでしょうか?」  めずらしいくらい臆病な口調にきこえた。 「もらってくれないと俺が困るよ。三波にってわざわざ持ってきたんだから。それにお礼って、もともと俺のせいだろう」  俺が閉じこめられていた部屋を発見するために三波も動員されたのは、すこし前に藤野谷から聞いていた。俺が意識不明のあいだも三波は病院でかなり待ってくれたらしい。こちらは峡から聞いた話だ。 「え、その、佐枝さんのせいとかじゃないです……じゃあありがたく」  三波はそわそわしたそぶりで俺の手から箱をひったくると鞄にしまった。叔父といったい何があったのだろうかと俺は思ったが、三波の表情が面白すぎて、からかいたくなった。 「中、見ないの?」 「後で見ますから」 「峡は三波ほど趣味よくないから、気に入らなかったらって心配しているかも」 「そんなことはありません! 僕からもお礼の連絡します」 「お礼にお礼しなくてもいいんじゃないか」 「大丈夫です! それより鷹尾のお菓子、いいんですか」  妙に必死な声だったので、俺はからかうのをあきらめた。 「そうだな。せっかくだし食べようか」  電気ケトルで湯を沸かす。藤野谷家の「特別室」暮らしで二週間がすぎてしまい、こまごましたものが増えていた。円錐形のコーヒードリッパーはマスターがコーヒーの粉と一緒に送ってきたものだ。この部屋はホテルでいえば――病院に付属したこのゲスト棟は高級ホテルも同然だったが――ジュニアスイートで、ベッドスペースとリビングスペースの間をV字型のバスルームが区切るような間取りだ。リビングスペースのソファには読みかけの本やパズルが散らばっていた。  コーヒーの粉に細く湯をそそぐとドリッパーの中に泡が盛り上がり、ガラスのカラフェに褐色の液体が落ちる。横目で眺めていると、鷹尾と三波は自分の居場所を決める猫のようにリビングスペースをぐるりとまわり、鷹尾は窓のそばの肘掛椅子、三波はソファの端に陣取った。俺は備え付けのカップと、佐枝の母が持ってきた陶器のマグカップをテーブルに乗せた。ちょうど三波がソファの横に落ちたスケッチブックを拾い上げたところだった。 「見ていいですか?」 「ほとんど描いてないよ」    スケッチブックもクロッキー帳も、家を出た時に持ってきたものだが、少しもページが進んでいない。三波は日付の入った数枚の落書きをめくって眺め、何もいわずに閉じた。  事件から二週間たつ。俺は療養中という名目でこの部屋にいるのだが、ほとんど回復した今となっては、単に無為で自堕落な毎日を送っているだけだ。カウンセラーには軽い運動を勧められ、建物の中のジムでストレッチをしたり、エアロバイクをこいだりはしているが、仕事はおろか何一つ生産的なことはできていない。  おまけに今のように明るい昼間はこの自堕落に焦りを感じるのに、夜になるとそれどころでなくなる。医者は後遺症のひとつで、やがておさまるといったが、だからといって気楽に受け入れられるわけでもなかった。 「ボスはいないんですか?」  マフィンを割りながら三波がいう。あいかわらずの健啖家で、たちまち半分を平らげ、すでに二個目を狙っている眼つきだ。鷹尾がアルカイックな微笑みをうかべて、そんな三波を微妙に牽制している。 「来ると思うけど……夜じゃないかな」  俺は答える。藤野谷は毎日あらわれたが、時間はまちまちだった。深夜のこともある。 「休日だし、てっきり佐枝さんにべったりで僕らは邪魔かと思ったんですが」  俺はあいまいに首を振った。 「あいつ、社長だろ? 今回の件で実家ともいろいろあるみたいだし……」 「やりすぎなんですよ。アルファの仕事なんてどこの業界でもエラそうにあれしろこれしろってだけなんだから、佐枝さんほどひどいめにあったなら、ボスに横でべったりしてろっていえばいいんですよ。アルファなんて手玉にとってなんぼでしょ」 「三波、おまえいつもひどいこというね……」  鷹尾はきちんとネイルを施した指でクッキーをつまんでいた。俺と三波の顔を交互にみてニッコリ笑った。 「アルファに向いている職業って何だと思います?」  三波は一瞬めんくらった顔をしたが、すぐに復活した。 「僕はね、ひとついいのあると思います。前から思ってました」 「なに」 「電車の車内広告吊り」 「は?」  俺はぽかんとする。鷹尾が平然とした顔で「背の高さ必須の仕事ではありますね」といった。 「そう、僕のようなチビは排除される。もちろん、電子化で今後は中吊り広告なんてなくなるでしょうけどね!」 「三波、おまえそんなに小さくないだろう」 「僕のきょうだいはみんな僕を小さい奴っていうんですよ」  三波はぷっと頬をふくらませる。 「背の高さで考えれば看板描きもいいんじゃないでしょうか」  鷹尾が三波にまったく構わない口調でおっとりと自説を述べた。するとなぜか三波は誇らしげな表情で俺をみた。 「たしかに。ボスにはぴったりだ。それにしても佐枝さん、看板描いてないで早く来いってボスにいわないと」 「どうしてそんなこというんだよ。それに看板描くのはどっちかといえば俺の仕事だろう。描ければだけど」  三波は怪訝な表情になった。しまったと思った。 「どうしたんですか?」 「なんでもないよ」  俺は笑ってはぐらかした。  この部屋の窓は夕日が沈むのこそ見えないが、空の色の変化を観察するにはちょうどよかった。雲だけが西からの光に淡いピンクに染まり、その背景の薄青色がしだいに濃紺に変化する。星が光り、空港へ向けて高度を下げる飛行機の尾灯や、赤く点滅する高層ビルの屋上灯がまたたくと、夜がやってくる。  すると、体の芯のあたりがひっそりと熱を持ちはじめる。何かに呼ばれているかのように、ありもしない翼が羽ばたくように、俺の内側がさわさわと揺らぐ。  このために俺は夕食を外でとるのをやめていた。ルームサービスで簡単な食事を頼んで食べ、水を飲み、部屋の中を落ちつかないまま歩き回る。昼間のように何のやる気もしないのは同じだが、夕闇のあとは体内がしくしくうずきはじめるのだ。  ベッドから起き上がれるようになってから、毎晩のことだった。  部屋の扉は開かない。俺以外に鍵を持っているのは藤野谷だけだから、あいつだけが勝手に入ってこれるのだが。俺はシャワーをあび、湯気のたつ浴槽でぼんやりする。体が温まってくると無意識に胸の尖りを指でまさぐっていて、はたと我にかえって風呂からあがる。  パジャマ姿でソファに座り、テレビを無為に眺めていたはずが、冷たい汗をかいて目が覚めた。ガラス窓の外の遠くの地面で、ばらまかれた宝石のように夜景が輝いている。リビングスペースはオートで点灯した間接照明でほのかに明るい。俺ははっきりと覚醒していない頭でつかむものを探す幼児のように手をのばす。ひそやかに絨毯を踏む気配がして、のばした指が温もりに覆われた。 「天」  俺は安堵して両腕をのばした。藤野谷のワイシャツにパジャマを着た胸を押しつける。彼の匂いを嗅いだとたん、日が暮れてからずっと俺の体の芯を温めていた火が急に燃え上がったのがわかる。頬にクスッと笑う息が当たり、軽く唇が触れてくる。 「サエ」 「遅い……」  理性では、俺のいっていることはいいがかりのようなものだとわかっている。藤野谷は苛立つ気配もなく「ごめん」とささやいた。ソファに重みがかかり、パジャマごと抱きしめられる。内側で燃える火が激しくなり、それをまぎらわそうと俺は髪を藤野谷の首筋にこすりつけるが、むしろ炎は大きくなる。燃料を補給されたみたいだ。 「天、天――」 「安心して。ここにいるから」  俺は藤野谷の背中に腕をまわし、できるだけ密着しようとする。吐息が荒くなり、とっくに自分の股間は堅くなっていた。どれだけぴたりと肌を寄せあっても足りないと、心の一部が子供のように叫び、俺は藤野谷をソファの上に倒す。  藤野谷はおとなしく俺のするままになっていた。俺は彼の腹に乗り、シャツのボタンを外そうとする。手が震えてなかなか外れない。藤野谷の指が俺を助けるように動いた。あらわれた肌に俺は頬をよせて藤野谷の匂いを吸い込む。直接触れたいのに自分の服が邪魔だ。  パジャマを脱ぐのももどかしく、裾をまくってこすりつけるように肌を触れ合わせる。柔らかい間接照明のなか、藤野谷の眼が細められた。 「サエ」  腰に腕がまわされ、強く抱きしめられる。俺の頭はまだ焦燥でいっぱいだった。 「天、もっと近くに来て」 「落ちついて」  藤野谷は俺のパジャマを首から引き抜くように脱がせた。ズボンを下着ごとさげると、自分のベルトもゆるめ、蹴るようにしてスラックスを脱ぐ。  俺は藤野谷の上に乗っかったまま腰をおしつけ、足を絡める。堅くなった藤野谷の中心と俺のそれが触れ合い、後ろがじわじわと濡れる。これまでずっと俺が経験してきたヒートのように溶けているような感じではなく、熱にうかされるようでもないが、それでも、ヒートの一種だ。医者にもそう説明を受けていた。誘発剤の後遺症でもともと不安定だったホルモンバランスがすっかり崩れてしまって、戻るまでにどのくらい時間がかかるかはわからない、と。  おかげで今の俺は夜になると毎晩、体の芯をチロチロと熱で炙られている。排卵は必ずしも起きないらしく、藤野谷を激しく|反応《ラット》させるほどでもないようだ。それにいつものヒートと違って俺の頭はちゃんと働いている。  俺は堅くなった己を藤野谷の腹にこすりつけながらキスをする。唇をあわせたまま、藤野谷の手のひらが俺の背中を撫でおろし、尻がもみしだかれる。指先が尻から後口へと下がる。  もっと深いところまで接触したくて俺は藤野谷の唇を舌で舐め、鍵をあけるように唇の間にさしこむ。藤野谷の指は俺の後口の周囲をなぞり、まさぐって、するりと中へ入る。  耳にはくちゃくちゃと粘膜が触れあう音が響き、俺はさらに興奮する。先走りで濡れたペニスが互いの腹をこする。後ろに与えられる愛撫が深くなり、ある一点を突かれた。  快感に俺の背中は勝手にしなった。離れた唇の端から唾液がこぼれ、藤野谷の顎から胸まで垂れる。 「あ―――ん……」  たまらず声をあげたが、藤野谷は指を止めようとしない。同じ場所を弄りながら、もう片手で俺のペニスの先端をなぞる。そして自分のそれもいっしょに握りこみ、こすりあわせた。 「天、天……」  もう溶けてしまったような後ろと、前の緊張がたまらず、俺は腰を振りながらその先をねだる。 「中……お願い……」 「だめだ」  耳元で藤野谷がいう。これも毎晩のことなのに、俺も毎回ねだってしまう。 「まだしばらくだめだ。サエの体がもたない」 「でも……」 「いい子だから。先生がいっただろう?」  セックスはしてもいい――が、挿入は禁止。たしかに医者は真顔でそういったし、俺の理性も同意しているが、藤野谷が余裕たっぷりなのが気に入らない。 「あ…あ…あ…」  前をいじる藤野谷の手の動きが激しくなり、俺を追い詰めにかかる。指だけでなく、皮膚をこするシャツの袖口やボタンの肌触りに俺の背筋がふるえる。やがてどちらの吐息からも余裕が消えて、喘ぎだけが重なり、ふたりでほぼ同時に達した。  ソファの背に押しつけられ、横抱きにされる。濡れた感触が皮膚の間を垂れた。余韻でぼうっとした俺の背中を藤野谷の腕が抱きしめる。体の芯に灯った炎は熱のぬくもりを残すだけになり、俺は急に羞恥心を思い出す。顔が熱くなる。 「ごめん……」  つぶやくと藤野谷は俺のひたいに口元をよせ、唇でおちてくる前髪をかきわけた。 「どうして?」 「だってこんな……ここずっと……」 「まさか。俺は嬉しい」  眉から目尻を藤野谷の唇がなぞるようにたどっていく。 「サエが欲しがってくれて」 「でも……こんなヒート……恥ずかし――」 「馬鹿サエ」  低く心地よい笑い声が骨をつたって響いた。 「俺だからこうなるんだってわかってる。恥ずかしくなんてない」  藤野谷の指がやさしく俺の肩から上腕に触れ、なぞった。チュっと音を立ててキスをされる。そこには針を刺された跡が丸く残っている。 「俺の方こそごめん。遅くなって」  藤野谷は肘をつき、ソファの上に起き上がった。はだけたシャツだけの姿がひどく色っぽく、直視した俺はまた赤面しそうになる。 「いいんだ。俺は何もなくて……暇だし……」 「サエはしばらく休んでいればいいんだ。シャワーに行こう」  ふたりでシャワーの下に立ち、おたがいの体を洗ってからベッドに行った。藤野谷は母鳥さながら俺を羽根布団でしっかりくるみ、肩に腕をまわして抱き寄せる。藤野谷の胸に耳をつけて鼓動をきいていると、遠くから眠りの気配がやってくる。あくびをした俺の頭を撫でて、藤野谷が「おやすみ」とささやく。  この瞬間だけは、俺は間違いなく幸福だと思う。頭の中では気にかかる物事がいくつも、蜘蛛の巣のように網を広げてくすぶっていたが、今はなにも関係がない。  俺は藤野谷の首筋に鼻先をよせ、顎から頬と唇をはわせ、小さなキスをいくつも落とした。耳たぶをなぞられる感触に背筋をふるわせると、かすれた温かな笑いがきこえる。ゆるやかに俺たちは眠りにおちた。

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