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【第3部 ギャラリー・ルクス】15.鷲の爪痕

 薄闇の中でふるえるように音が響く。  三六〇度、上と下と左右の壁から音が降ってくる。壁の上方にならんだ液晶モニターに光の図形が描かれる。奥の暗がりに大きな影が座っている。ゆっくり近づくと、鍵盤の上に自動演奏の装置を仕掛けたピアノだった。部屋の一部にスポットが当たると観客はみなそちらを向く。暗い照明に照らされた古いラジオ、音響装置が途切れがちの音を鳴らす。突然ピアノの鍵盤が動いて和音を鳴らし、頭上から降る音楽とまざった。  もし自分の作品を三次元に展開するとしたら、俺もこんなインスタレーションを考えるだろうか。  影がちらちらと動くのをみつめながら想像してみたが、それ以上の思考は動かなかった。展示は国内ではマニアックすぎてあまり知られていないが海外では著名な音楽家と技術者のチームによる作品で、ギャラリー・ルクスの空間にぴったりはまっている。TEN-ZEROがプレス発表をした、同じ場所だった。  俺は通路を抜け、ギャラリーの吹き抜けの階段をおりた。踊り場にしつらえられたテーブルで黒崎さんと向かい合っていた藤野谷がふりむく。俺に付き合って一緒に来たのだ。 「カフェにいる」  俺は短く告げた。藤野谷はちらりと俺をみてうなずいただけだが、問題がないのはわかった。  このごろ藤野谷が以前より格段に近くなった気がする。ほぼ毎晩隣にいるせいかもしれない。すぐ近くにいるのが当たり前だと思っている自分に気づいてはっとすることもあるくらいだ。  一週間ほど前、藤野谷が出張で三日現れなかったことがあった。俺は視界に何かが足りないような気分で、ずっと部屋の中を歩き回っていた。三日目はじっとしていられず、渡来に頼んで(今の俺は藤野谷家に護衛を手配してもらわないと外へ出られないのだ)丸一日博物館と美術館にいたが、何を見てもぱっとしなかった。スケッチブックもクロッキー帳も白いままだ。  俺は描いていない。あれからずっと。 「いくらゼロでも、描かなかった時期くらいあったんじゃないの?」  Cafe(カフェ) Nuit(ニュイ)のカウンターでカップの持ち手をくるくる回していると、マスターが慰めるような声で訊ねる。コーヒーに注いだミルクが渦を巻くのを俺はみつめていた。 「……ない気がする」 「ゼロ、それいつから数えてる?」 「最初にチョークをもらったときから……覚えているかぎりだけど」 「チョーク?」 「家かな? それとも保育園か幼稚園か、どこかで……地面に描いていいって渡されたんだ。ピンクと白と黄色で、線を引きまくって……楽しかったな、あれ」  マーブル模様が半分茶色の霧に変わったところで、俺は角砂糖をおとし、スプーンでかき混ぜた。そういえばマスターにもらったスプーンは俺の家に置いたままだ。もったいない。俺は何も考えずに頭に浮かんだことを口に出す。 「渦の回転の方向って、北半球と南半球で変わるとかそんな話、なかった?」  返事はなかった。忙しいのだろうと俺は気にしなかった。客はそこそこ入っているが、店内は静かだ。ここはカフェ・キノネとはかなり雰囲気がちがう。甘ったるいコーヒーを口にふくみ、ふと見上げるとマスターの眼と眼があった。 「ゼロ、大丈夫?」 「何が?」 「――大丈夫じゃなさそうだね」 「そんなことないよ。仕事もしていないし……何もする気になれないだけで」  描かないというより、むしろ描けないのだ――とは口に出したくなかった。物心ついてからずっと、呼吸をするのも同様に線を引いて生きてきたはずなのに、例の事件以来まったくその気にならない上、白い紙を前にしても自分を奮い立たせることもできないし、指がぴくりとも動かない、とは。  スケッチブックを開いてもまるで他人のもののような気がする。今日に至っては、以前自分が描いた絵を見るのもいやになって、俺は落書き用のノートを持ち歩くのもやめていた。 「まあ、ゼロは去年の冬から根詰めて働いていたんだし、例の彼のせいで人生ががらりと変わることもあったわけだし、その後は巻き込まれて大変だったわけだよね。休めってサインなんじゃないの? 最近あのうるさい連中は?」 「マスコミならいなくなった。少なくとも俺の見える範囲には」  アルファ名族の伴侶を襲撃していた一団が逮捕されたことでマスコミの視線は一気にそちらへ向いた。おまけに藤野谷グループとライバル関係にある製薬会社の社員が犯罪グループに関わっていたことがわかったとか、派手な言動で有名なベータの議員が新薬承認がらみの汚職問題でスクープされた上にオメガ差別発言でさらに槍玉に挙げられているなど、話題には事欠かない。  その一方で名族は、俺や、他の名族の伴侶が拉致された原因――オメガがアルファ名族の金融セキュリティ上の弱点になる――を解決するために、まるっと他のシステムに変更することを決めたらしい。こういった情報は慎重にコントロールされた範囲でマスコミに流されている。  そして俺の周辺は忘れ去られたかのように静かだった。もちろんそこには藤野谷家の意向も関わっているのだろうが、俺は考えないようにしていた。  気にすれば最後、行き場のない考えが止まらなくなるのは目に見えていた。いつまで俺はだらだらと「休養」することになるのか。閉め切ったままの俺の家はどうするのか。俺は藤野谷とこの先どうするのか。あいつの家は俺をどうするつもりなのか。 「藤野谷家」について考えはじめると、自然と自分の産みの親、葉月の連想も浮かんでくるが、彼のこともできるだけ意識から締め出したかった。なのに俺は最近、ひとりになると家から持ち出してきた葉月のポートフォリオを繰り返し眺めている。何回みても同じことなのに。  アマチュア写真家としては悪くない線をいっていたはずの葉月は、運命のつがいの空良に出会ってから、ろくな写真を残していなかった。そして空良と一緒に行方をくらまし、俺を産んだあとで藤野谷家に連れ戻されてから、葉月はあまり長く生きなかった。 「これからどうするの?」とマスターがたずねる。 「ゼロの家に帰る?」  俺は首を振る。 「荷物は置きっぱなしだけど……あそこは離れすぎだから」 「彼と?」  俺は小さくうなずいた。 「しばらくはあいつの部屋に居候することにした。俺の実家はもっと遠いし、叔父には迷惑かけてばかりだ」  マスターはしげしげと俺を眺めた。 「ほんとに大丈夫?」  俺はコーヒーカップのふちを指でなぞった。一周、二周、三周。 「たぶん……あいつに寄生していいのかどうか、わからないけど……そばにいたいし……」 「ゼロ」  マスターはカウンターに乗り出すように顔を突き出す。俺のカップを手のひらで覆う。 「前にいったよね? ここに来てもいいよ。スペースは空いてる」 「まさか」俺は思わず笑った。「そんな」 「いや、本気だって。アルファがどんなに面倒な生き物か僕はよく知ってるからさ――あの実例のおかげで」  そういったマスターの視線の先では扉がひらき、黒崎さんと藤野谷が並んでこちらへ向かってくるところだった。以前黒崎さんに誘われた、秋のはじめに予定された新人作家展についても俺は考えないようにしていた。もうすぐ梅雨に入る時期なのに、今このていたらくなら、見送りになりそうだ。 「何かあったらいつでも連絡して」  マスターの声は真剣だった。俺はうなずき返して席を立つ。藤野谷が大股で俺のそばまで来て左側に立った。肘を軽くつかまれる。 「待たせてごめん。行こう」  俺はコーヒーの代金を払おうとしたが、マスターは首をふった。  藤野谷が住むマンションは、以前渡来に匿われた寺を見下ろす一等地にあった。  広いロビーを横切って、藤野谷は受付カウンターのコンシェルジュと話し、受け取ったカードキーを俺に渡した。セキュリティ完備のマンションで、ドアマン兼警備員がロビーの先に立っているし、居住者以外はカードキーなしだとエレベーターにも乗れないという。  中層階の奥のドアを藤野谷が開けたとたん、俺は息をのんだ。前にいる藤野谷は俺の様子に気づいていない。当たり前だ――自分の匂いなんて、自分では気づかない。でも俺はというと、閉じた空間に漂う藤野谷の香りに酔いそうになっていた。まるでギャラリー・ルクスの音響空間のように上下左右から包み込んでくる。もう慣れたと思っていたのに。 「サエ?」  藤野谷が靴を脱ぎながら怪訝な顔をする。玄関は片付いていたが殺風景だった。廊下の突き当りのドアをあけると、広い窓から光が差しこむLDKだった。一方の隅に雑誌や本が積まれた棚とパソコン、デスクがあり、もう一方の隅はテレビにステレオセットとソファ、ローテーブルが占めている。小島のようなシンクにつながるキッチンカウンターには汚れたカップが置きっぱなしだった。 「コンシェルジュに頼んで週に一度掃除を入れているけど、気になる?」 「いや……掃除くらいなら俺がするけど」 「そんなつもりでサエを連れてきたわけじゃない」  藤野谷の口調は硬かった。俺と同じように緊張しているように思えた。LDKの奥、ブルーグレイに塗られた扉のひとつをあけ、早口でいう。 「ここに荷物を入れた。掃除はしてもらったが、物置みたいなものだったから家具が何もなくて……」 「天」 「寝室はこっちだけど、もし自分のベッドが欲しかったらすぐにでも――」 「天、こっち向けよ」  俺は藤野谷のジャケットの袖をつかんだ。ふりむいた藤野谷は初めて見る表情をしていた。こわばって、自信なさげだった。 「なんて顔してるんだ」  俺は思わず笑った。藤野谷の口元がゆるんだ。 「ふつうの顔」 「嘘つけ」 「ちょっと……緊張してる」 「なんで」 「サエにがっかりされたらどうしようと思って」 「何にがっかりするんだよ」 「俺の家は……感じがよくないから。サエの家は感じがいいし、サエの匂いがするけど」  俺はいささか呆れながら藤野谷の手首をにぎる。 「何いってるんだ。住んでいる人間の匂いがするのはあたりまえだろう」 「そうとも限らない。俺が育った家はこんな感じじゃなかった。藤野谷の本宅もそうだ。父の部屋も……無趣味というか、無色無臭だな。昔から」 「でもおまえの部屋、高校の時すごくなかったか? 壁じゅうにポスターを貼ってさ……大学のときもパネルがたくさん置いてあって……」  藤野谷は意外そうに俺を見返した。 「覚えてるのか」 「そりゃ、覚えてるよ」  寝室はブルーグレーの落ちついた色合いでまとめられている。ベッドの横の壁にかけられた絵に俺の視線は止まった。 「あれ――もしかして高校のときの俺の……おまえが持ってたのか? なくなったと思ってた」  とたんに藤野谷はしまったといいたげな、うしろめたそうな顔をした。それは美術の授業で俺が描いた水彩で、校内コンクールの優秀賞をもらったあと、文化祭で他の作品に混じって掲示されたものだ。撤収のとき誰かがへまをして、俺の手元に戻ってこなかった。  たしか藤野谷もあのとき一緒に探したのに、みつからなかった。自画像の課題だ。窓ガラスに映った俺の顔と背景に映りこむクラスメイトが描かれている。藤野谷の姿も俺の近くに影のかたちで描きこまれている。 「サエが転校したあと……二年の春に生徒会の倉庫から出てきた」 「え?」 「文化祭でクラスの出し物とかサエの絵、話題になっただろう。生徒会周りの誰かが盗んで隠していたらしい。返すべきだとは思ったんだ。でもサエの行方はわからなかったし、痕跡が何もなかったから――」  藤野谷の声が小さくなる。 「当時はその……俺が……預かっていてもいいだろうと思った。なのに大学で再会した時は実家に置きっぱなしで、ずっと忘れていたんだ。で、卒業してこの部屋に越したときは――サエにまた会えるかどうかわからないから、せめて持っていようと思った。ただこんなに時間が空くと……」 「たしかに今さらって感じはあるな。いいよ。おまえが持っているのなら」  ずっと昔に忘れていた自分の影が眼の前に立っているような気分だった。絵に描かれた高校生の俺はかすかにうつむいているが、視線がどこを向いているのかはわかっている。窓ガラスに映った藤野谷の影を見ているのだ。  藤野谷の部屋に居ついて、俺はあいかわらず葉月のポートフォリオを眺めながら無為に過ごしている。窓からは電波塔や公園が見下ろせた。景色はいいが天気はぱっとしなかった。空に厚く雲が垂れる日が続いている。  渡来が以前俺に渡してくれた写真――藤野谷本家に残されていた葉月のもの――はポートフォリオの最後のページへ入れた。どれも風景写真だから、空良と出会う前に撮ったものかもしれない。望遠レンズで撮影された蓮のシリーズは悪くなかった。  藤野谷は生活必需品の買い物をすべて宅配ですませている。ふだんの夕食はTEN-ZEROの社内か外食、あるいは弁当を買って持ち帰るかで、朝と休日に多少料理をする程度だという。キッチンには包丁、鍋、まな板、フライパンといった基本的な道具や最低限の調味料はあったが、スパイスはない。掃除を人に頼んでいるせいだろう、マンションは清潔で、IHコンロはピカピカだ。  最初の夜は俺も藤野谷も妙に緊張していた。しばらく続いた俺のゆるいヒートはほぼおさまっていて、俺たちはぎこちなくベッドに入り、もごもごと話をし、キスをかわし、いつのまにか眠っていた。眼を覚ますと俺は藤野谷にぴったりくっついていて、俺たちはまたキスをしたが、最中にモバイルが鳴って藤野谷はあわててシャワーを浴び、仕事に行った。  料理をして藤野谷の帰りを待つなんて柄ではない。でも俺はあいかわらず何のやる気も感じなかったので、何となく過ごして一日が終わるよりはましだと思った。ありあわせの食材で夕飯をつくり、夜、玄関で「お帰り」と出迎えると、藤野谷は顔を崩し、心底嬉しそうに笑った。  そんな毎日がつづいた。藤野谷の帰宅はまちまちで、あいつの笑顔をみるのは悪くなかったが、これがずっと続けばどうなるのだろう、とも思う。俺のためにあけてくれた部屋にパソコンやデスクを持ち込めば仕事もできるはずだ。そろそろ社会復帰しないとまずい。  昼間はそんな焦りを感じる一方で、夜は自分でも驚くほど満たされたような、雲を踏むようにふわふわと暖かな気分だった。ゆるいヒートもおさまって、毎晩キスをしてベッドで抱きあって眠る以上のことはないが、たがいに腕を回して眠る瞬間の幸福は代えがたかった。  なのに、昼と夜のギャップはしだいに俺を落ちつかなくさせた。葉月の写真を繰り返し眺めてしまうのはそのせいかもしれない。俺はいまだに線の一本もひいていない。おかしな話だ。眼の前に俺が長年描きたいと焦がれつづけた存在がいて俺に向かって笑うのに、描かない――描けないなんて。  スランプというのはこんなものなのかもしれない。俺はそう考えようとしたが、空良と出会ったあとのあまり出来のよくない葉月の写真をみるにつけ、心の奥に恐れが溜まるのを自覚した。だいたい、藤野谷は描かない俺をなんと思うだろう? 「俺の家の機材とか、道具だけど……」  週末を控えた夜、早めに帰宅した藤野谷と夕食を囲みながら俺はためらいがちに話を持ち出した。藤野谷の反応は速かった。 「運ばせようか? いや、サエが自分でやった方がいいのか。車を手配して――」 「全部持ってくる必要はないんだ。多すぎる」俺はあわてて口を挟む。 「最近――スランプ気味だから、気分を変えるものを持ってくればいいのかと思って。仕事も再開できるし……」 「サエ、有象無象が引き受けるような仕事ならする必要はない」  藤野谷がきっぱりという。 「才能を生かすものに絞るべきだ。ルクスの黒崎さんもアーティストとしてのサエを買ってる」 「でも」俺はどんな風に話せばいいかと迷った。 「俺はしばらく描いてない。描く気に……なれなくて。それならルーティンワークみたいなデザイン仕事でも、ないよりはましだ」  藤野谷は箸を置き、俺をじっと見た。 「気が乗らないなら休んだっていいじゃないか。サエは何年もフリーでやってきただろう。充電だと思ってすこし休めばいい。無理しなくていい」 「無理しているわけじゃない」俺は語気を強める。 「ただ……不安になるんだ。俺はただの……絵描きで、フリーのデザイン稼業で飯を食ってきて、業界には俺みたいなのはたくさんいる。それにただの絵描きが描かなくなったら――」 「それでもサエには変わりない」 「おまえはTEN-ZEROがあるからいいよ。俺はこれまでこんな風に描けなくなったことなんて、ない」  俺は自分でも思いがけず強い口調でいい放ち、すぐに後悔した。  箸を置いて立ち上がる。リビングのソファに腰をおろしてテレビをつけた。拉致されてから俺はネットをほとんど見なかった。モバイルでメールや通話の確認はするが、それだけだ。テレビで見るのは映画チャンネルばかりで、たいていはモノクロの古い映画を選ぶ。  適当に番組を探し、リモコンを置いて眼を閉じる。藤野谷に何をいってもやつあたりにしかならないのはわかっていた。子供じみていて、恥ずかしかった。  クッションの横に重みがかかった。藤野谷の匂いが俺を包む。  あいつがすぐそばにいる。  それだけで安心してしまう自分が怖かった。何もしなくても、描かなくなってもかまわないと納得しそうな自分が怖かった。頭の片隅にはそんなのは断然間違っていると叫ぶ俺がいる。どれだけ藤野谷が俺を好きだといい、運命のつがいなんて絆があるのだとしても、それだけではだめだ。 「天」  俺は眼をとじたままつぶやいた。 「このままずっと……何もやる気になれなかったらどうしよう」 「サエ」 「おまえは休めばいいというけど、俺は……不安でたまらない。単におまえにくっついているだけなんて……」 「大丈夫だ」  俺は藤野谷の吐息をひたいで受ける。肩と背中に手のひらの温もりを感じる。 「十分休んでないからそんな風に思うんだ。サエがここ数カ月、どれだけ大変だったかわかってる。夏には俺も休暇をとるから、旅行にでもいこう。気分転換になる」  俺は藤野谷の言葉を耳半分で聞いていた。 「天、俺は……葉月みたいになってしまうのかもしれない」 「葉月?」 「俺が……ろくに何も描けなくなっても、おまえは大丈夫?」  閉じた目尻に藤野谷の指がそっと触れた。抱きしめられ、耳の裏側を愛撫される。穏やかで心地よく、なのに不安だった。 「馬鹿サエ。当たり前のことを聞くな」  きっと俺は、ほんとうはそんなことを聞きたかったわけではなかったのだ。ずっと長い間、離れていたあいだも、俺はひそかに藤野谷を自分が絵を描くための動機のように、導火線のように思っていた。いまだにそれは変わらないはずだ。藤野谷が話をもちかけ、俺はそれを実現するために描く。運命の番なんて関係なく、そんなつながりは何よりも俺にとって大切だったはずだ。  なのに今俺は何も――まったく何もやる気になれないと来ている。ただ藤野谷に抱きしめられて、それ以上は何もいらないと思っている。  藤野谷の匂いが強くなるのを感じた。唇が重なってくる。おたがいの舌が触れあい、口の中を愛撫される。背筋がぞくぞくし、うなじの奥をひくひくと押されるような感覚がやってくる。俺はソファに沈みこみ、藤野谷の髪に指をからめてキスをもっと深くする。ずれた藤野谷の唇が俺の耳のうしろから首のうしろにおりてくる。甘い匂いに包まれて俺の中に渇望が頭をもたげた。もっと激しくそこ、うなじの―― 「天……?」  眼を閉じたまま俺はつぶやいた。 「何?」  藤野谷の吐息は熱かった。 「前におまえ――いったよな……落ち着いたら……俺たち――」  ふいに藤野谷のモバイルが鳴った。  眼をあけると藤野谷はいらだちを隠しもせずに機械を取り出した。一瞬ためらったようにみえた。眉をひそめて体を起こし、通話に出る。 「はい。めずらしいですね。ええ。え? ――そうですか。でもまだはや……待ってください。確認して折り返します」  通話を切った藤野谷の表情はこわばって、困惑した様子だった。 「どうした?」と俺はたずねる。 「今のは……父からだ。明日はふたりとも本家にいるから、サエと一緒に来ないかと」 「……藤野谷家の当主?」  自分の父親なのに、藤野谷の口調はひどくよそよそしかった。 「ああ。サエの診断が出たら報告に来いとは一度いわれていたんだ」 「――俺の検査結果のことか?」  最後に病院を出る前に、俺はオメガ性機能について最先端の検査を受けていた。 「サエが嫌なら断る。まだ休養中だといってある」  俺は体を起こした。乱れたシャツの裾をひいて直す。 「大丈夫だよ。行こう」 「いいのか?」  俺はうなずいた。 「どうせいつかは――会わないと。おかしいだろう?」  藤野谷は黙ったまま眼を細め、俺の髪を撫でた。立ち上がると棚で仕切った書斎スペースへ歩きながらモバイルをタップする。俺は首のうしろを手でこする。ついさっきまでここを噛んでほしいと思っていたのに、すっかりそんな雰囲気でなくなってしまった。  俺と藤野谷はまだ、本来の意味でつがいになっていなかった。  キッチンへ汚れた皿を運びながら、俺はまた葉月のことを考えていた。藤野谷の両親――当主と妻の紫は俺のことをどう思っているのだろう。俺は一度藤野谷家に嫁ぎながら、藤野谷家の子供を産まなかった葉月の息子だ。葉月は本人の希望で、亡くなる直前に佐井家の姓に戻っている。もし葉月が藤野谷藍閃との間にアルファの子供を産んでいれば、現当主――藤野谷藍晶や紫の立場は今とはまったく違っていただろう。  最近の俺には葉月の亡霊がつきまとっているような気がする。痕跡はわずかなのに、彼はいたるところにいる。

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