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【第3部 ギャラリー・ルクス】17.糸の出口
長い信号待ちに藤野谷の指がいらいらとハンドルを叩く。車内には英語のポップスが流れている。
「天、落ち着けよ」
俺は一度声をかけたが、藤野谷は答えなかった。信号が青になるとSUVは急発進し、マンション地下の駐車場に停まるまで、俺たちは無言だった。
「不愉快だっただろう? 悪かった」
運転席に座ったまま、藤野谷がぼそっという。
「俺は気にしてないよ」
自分の言葉に確信を持たないまま俺はいった。藤野谷はまっすぐフロントガラスをみつめている。
「あそこにサエは行かなくていい。何なら二度と会わなくても……俺は困らない」
「無茶いうなって」
どうフォローすればいいのか。俺は困惑しながら、それでも藤野谷をなだめたいと思った。藤野谷が極端な考えを弄りまわして、彼自身を傷つけるのが嫌だった。
「俺は大丈夫だから、落ち着けって。おまえのご両親だし……」
「親?」藤野谷はハンドルに顔を伏せる。
「あいつらは勝手なだけだ。そうなると決まっているからこうする、義務があるからこうする。親族もみんなそうだ。渡来さんの方がよほど……」
「俺は佐枝の両親に良くしてもらったけど、産みの親はふたりともいない。だからどうっていうわけでもないけど……実感もないし……でもおまえが自分の親をそんな風にいうのは……少しつらい。藤野谷家でなくたって、おまえと一緒にいるなら俺も関わることになるだろう?」
「あいつらのことなんか気にしなくていい」
藤野谷は俺の話を聞いていたのかいないのか。しわがれたような声でいった。
「あのふたりが考えていることくらいわかる。サエがオメガだとわかって、俺とサエが運命のつがいだったら都合がいいと思ってる――子供さえできればいいと思ってる。葉月に逃げられて、藍閃に捨てられて、藤野谷の直系は俺しかいないから、サエを藤野谷に囲ってしまえば佐井家に復讐できるくらいに思ってる。俺がそれに乗ればいいって? 名族の義務なんて知ったことか。俺は――俺はTEN-ZEROを持ってる。俺が作った。俺の会社だ。今ではおまえも」
血を吐くような藤野谷の言葉を聞くのはつらかった。俺がオメガだとわかったから、ということも。何年ものあいだベータとして藤野谷に接していたときの、自分を隠していた長い年月の記憶や、そのとき感じていたおそれが棒でつつかれるように、みえない鈍痛のようによみがえる。
藤野谷はオメガの俺を絶対に許さないだろう――俺はずっとそう思っていた。隠して嘘をついていたから? 葉月の子供だから? 都合よく子供が産める体だから? でも藤野谷も一度は……
岩のすきまから水がしみだすように、俺はつぶやいていた。
「おまえだって一度は……それでいいと思ったんだろう」
「それでいいって?」
藤野谷は顔を伏せたままきく。
「冬に結婚するつもりだって俺にいった時に……お母さんの気持ちもわかってきたからって……だから」
藤野谷はぱっと顔をあげた。俺をにらみつける。
「おまえをあきらめるつもりだったからだ! おまえがベータに偽装して……俺を拒否するから……おまえがいないならどうなったって同じことだ。誰と結婚しようと子供ができようと、おまえじゃなかったら――おまえじゃなかったら俺は……」
「でも天、それじゃ――おまえがもし三波やほかの誰か――オメガの誰かと結婚していたら、その人をそんな風に扱ってたってことか? その人にオメガの役割を負わせて――それで良かったってことか?」
藤野谷は凍りついたような無表情になった。
「天――悪い。いいすぎた。俺は」
「戻るぞ」
藤野谷は手をあげて俺の言葉をさえぎった。俺は俺で、自分が何をいいたかったのか、もうわからなくなっていた。藤野谷は助手席のシートで逡巡している俺をアルファの強引さをむき出しにしてにらみつけ、外へ出ろとうながす。びくりとして車を降りた俺の腕をからめとるように掴み、エレベーターへ向かった。俺にぴったり体を寄せて、長身の影に入れるように、囲い込むように腕を回してくる。
肘と手首を押さえる力が強すぎて痛い。顔をしかめて見上げたが、藤野谷の表情はあいかわらず凍ったようだった。ハンサムなので余計に怖かった。後悔が俺の足元から上ってくる。藤野谷はマンションのドアをあけると俺を押しこむように中に入れた。
「天――」
藤野谷は何もいわずに俺の背中を壁に押しつけ、体重をかけてくる。顎をつかまれ、俺は噛みつくような強引な口づけを受けた。つかまれたままの手首や壁と藤野谷の膝に挟まれた足が苦痛で、舌を強く吸われて眼がまわる。こんなに苦しいキスをされたことはない。
もぎ離そうとして、藤野谷の歯が下唇を強く噛み、血の味を感じた。
「――やめ……」
「違う」
藤野谷の息は荒かった。
「そうじゃない。おまえは俺のものだ。こうなる運命で――俺の光――最初からずっと」
ふいに膝にかかった力がゆるんだ。俺はバランスを崩されて床に転がされ、玄関マットに腰をうちつけて反射的に眼を閉じる。藤野谷は俺の手首をつかんで引きずりあげようとする。こんなのは違う、と心の一部がさけぶ。俺はよたよたと膝を蹴りあげて逃れようとした。どこかの縫い目がビリっと鳴った。
「天、待って――」
次の瞬間、腰を持ち上げられて俺は息をのんだ。支えられる感覚もなく荒々しく運ばれて、リビングの絨毯に投げ出される。藤野谷に獰猛な眼つきでにらまれて、一瞬背筋がすくんだ。俺はあおむけで肘をつき、腰をひきずりながらうしろに下がろうとしたが、背中が何かにぶつかった。間髪入れずに藤野谷がおおいかぶさってきて、荒い呼吸のまま俺のシャツに手をかけ、またどこかの縫い目が裂けた。
「こんなのは――や…」
「どうして? サエ」
襟をつかまれる。藤野谷は俺の膝を押さえつけて抵抗をふさぐ。横に転がされ、藤野谷の両腕が俺の胸を抱えこんで拘束する。シャツを乱暴にひきあけられた。胸からへそまで指が這い、撫でさする。乳首を強くつままれて、またも強烈な痛みが走った。
ふいに途方もなく甘い香りが立った。うなじを藤野谷の吐息が撫でる。
「噛んでくれっていっただろう? 噛んでくれって――俺とつがいになりたいって――」
うつぶせに押さえつけられ、スラックスが下げられた。むきだしの尻に藤野谷の熱さを感じる。指が強引に後口へ押し入ろうとする。ヒートは過ぎているうえ、怯えた俺の中は藤野谷の指に犯されてひきつれたように痛む。俺は声を殺して喉の奥で呻いたが、うなじにチリリと刺激が走ったとたん、おおいかぶさる藤野谷の匂いに意識が圧倒された。
まるで大きな手に頭の芯をつかまれたようだ。
「俺にはおまえしかいない」
ささやく声に頭の奥がしびれた。
うなじに歯が立てられる。痛かった。なのに藤野谷のいいなりに俺の体は動きたがった。後口をさらに押し広げられ、ほぐれていないままの穴に熱い楔が押しあてられる。灼けるような痛みが腰から背筋にかけて走り抜け、首のうしろを歯でなぞられるちりちりとした刺激がそれに続く。
水がしたたるように俺をおおいつくす匂いは途方もなく甘く、そして恐ろしかった。俺は反射的に首をすくめ、とたんに髪をつかまれ、引っ張られた。
「―――!!」
ほとんど悲鳴のような叫びをあげたが、喉がつまったようにまともな声にならない。痛みで涙がこぼれ、呼吸が苦しい。藤野谷がぴたりと動きをとめた。
「――サエ……」
髪を引かれる痛みが消え、急にのしかかる力から自由になった。俺の首のうしろを藤野谷の指がなぞっていく。断続的に、まるでふるえているように。
俺は肘をつき、咳きこむような荒い呼吸を繰り返し、力をゆるめた藤野谷から逃れた。裂かれるような痛みの余韻で体をまるめてうずくまる。藤野谷の匂いが上から降ってきて、俺を包みこむ。怖い。甘く、安堵するはずの匂いなのに。背中を撫でようとする手を反射的にふりはらい、顔をあげると藤野谷と眼が合った。
眸のなかに俺と同じような欲望と恐怖と後悔がみえた。
藤野谷も俺も、何もいわなかった。
俺はのろのろと立ち上がって服を拾った。糸が切れたシャツをそのまま床に捨て、スラックスをひっぱりあげる。とぼとぼと寝室に歩き、クロゼットに掛けた洗濯済みのシャツを着て、玄関へ行った。
「サエ!」
追ってくる足音と声を無視してスニーカーを履き、外に出た。一番近いエレベーターは止まったままだった。扉が閉まる瞬間に藤野谷が駆け寄ってくるのがみえたが、ガラスの箱はまっすぐ下へ降りていく。
ロビーを通って外に出るとちょうどタクシーが一台、車寄せで客をおろしていた。俺はスラックスのポケットをさぐった。マネークリップ、薄いコインパース、名刺――いや、カードだ。
渡来がくれたものだ。
藤野谷家の墓地は都内でもよく知られた霊園の中にあった。瀟洒な柵ときちんと整備された芝生に囲まれた広い区画だったから、すぐにわかった。大理石や御影石に碑文が刻まれている。
雨はやんでいた。
広すぎて葉月の墓標がなかなかみつからない。アルファの名族とはこういうものかと俺はあらためて実感する。それに渡来もいったように、藤野谷家に残る葉月の墓にはあまり意味がないのだ。骨は持ち出されたし、佐井家は葉月のとむらいのため、別の碑を本家の庭に建てた。夏になるとむくげが咲きほこる茂みの横に。
樹木。
ふと思いついて、俺は柵に沿って植えられたクスノキをたどって歩いていった。土を踏みかためた小道を進むと、前方ではクスノキに代わって銀色がかった樹皮をまとう桜の枝が空中にのびる。その下に長身の人影がみえた。
俺はぎょっとして立ち止まった。
緑の葉が茂る桜の下に立つ姿は、初夏もすぎたこの季節に、フードつきの長いコートのようなものを羽織っている。浮浪者だろうかと俺は考え、管理された墓地でそれはないと思い直した。たまたまここへまぎれこんだ人だろう。この霊園は観光地としても知られている。外国人かもしれないと遠目に姿勢を眺めながら、ふと、どこかで知ったような雰囲気だと思った。
そのとき向こうも俺をみた。
こちらを向いた顔は日焼けして日本人離れした浅黒さだった。サングラスをかけ、頭から顎までぴったりとフードの布におおわれていた。おかげで造作もよくわからない。おたがいに凝視していたのはほんの数秒だったのに、とても長い時間のような気がした。向こうが先にこちらへ向かって歩をすすめ、俺は一瞬迷ったが、桜の方へ歩いていった。
すれちがった時、複雑な模様が描かれた長い薄いコートがひらりとはためいて俺の足に触れた。知らない香りが漂った。スパイシーな香木のような、この国ではない場所を思わせる匂いだ。
桜の木の下に小さな苔むした墓があった。ほとんど手入れされていないのだろう。俺はしゃがんで石の表面をなぞった。刻まれた名前は緑色に染まっていた。
これからどうしたらいいのかわからなかった。銀色がかった桜の樹皮をぼんやりながめ、俺は藤野谷の眸を思い出していた。むかし俺はあいつのことを、ひらけた場所にひとりで立って、雨風に耐えている木のようだと思ったことがなかったか。
俺はあいつのそばにいなければならないのに。あいつを守ってやらなくてはいけないのに。
なのに俺は――藤野谷が怖かった。
霊園の周囲は桜並木に囲まれている。俺は方向がさだまらないまま緑の葉陰をぼんやり歩き、地下鉄の入り口をみつけて階段を降りた。電車を乗りついで地上にあがる。公園も茂った緑の葉におおわれている。その先にのぞくギャラリー・ルクスの壁はさらに色合いの異なる白の組み合わせで、白い曇り空の下にあるとなぜか城砦を連想させた。
そのまましばらく立ち止まっていた。藤野谷のところに帰らなければ、と俺の一部はつぶやいたが、足が動かない。道に迷って途方に暮れたべつの俺がその横でうずくまっているからだ。
ようやく動き出した俺にできたのは、|CAFE NUIT《カフェ ニュイ》の扉をあけてカウンターに座ることだった。マスターが内側からぬっと頭をあげる。俺の顔をみるなり顔をしかめた。
「ゼロ」
俺は唇をなめ、いつものように話そうとしたが、あまりうまくいかなかった。喉がひきつれたように痙攣して一瞬声が出なかったのだ。すこし腫れた下唇が痛い。笑いかけたつもりが、泣き笑いのようになった。
「マスター……コーヒー、飲みたいんだけど」
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