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【第3部 ギャラリー・ルクス】18.千の回廊
「靴、脱がなくていいから」
マスターが鍵をあけ中に一歩入ったとたん、音もなくやわらかな黄色の明かりがついた。
明るい灰色の壁はギャラリーのようにフラットに塗られていた。同じ色の床をまっすぐ進むと、そのままぐるりと薄茶の土間に囲まれた広い部屋に出た。白木の床にクッションが積まれ、内壁沿いにデスクと椅子があり、土間に接したガラス窓のむこうにバルコニーが続いている。
「ゲストルームなんだけど、黒崎がアーティスト・イン・レジデンス、目論んでてさ。遠方のアーティスト泊めたりするのにも使えるっていうんだけど、要はアトリエにもなるように土間を切ったんだ。あのドアが寝室。横に風呂がある。先日海外から客が来たんでタオルとかあるし、シャンプーのたぐいも彼が置いていったから、好きに使っていいよ。あ、ここで靴脱いで」
しゃべりながらマスターはスリッポンをほうりだすように脱ぎ捨て、白木の床をすたすたと進んで壁のスイッチを押した。バルコニーが明るくなる。ギャラリー・ルクスの最上階だ。日が暮れた空と公園の街灯、動いていく車のライト。
「はい」
ぼうっと突っ立っていると、巨大なクッションが俺の顔にぽすんと押しつけられる。
「――何?」
俺は驚いて両腕で受けとめた。マスターが真顔で「抱っこするんだよ」といった。
「は?」
「そういう顔しているときはね、柔らかくてぬくぬくしたもの抱っこするの。ほらほら、抱きしめて」
とろりとした肌触りのクッションからは陽の光の匂いがした。いいなりに抱きかかえると、マスターは別のクッションを尻にしいて座り、隣の床を叩く。ここに来いといわれているらしい。俺は両腕にクッションをかかえたまま尻もちをつくように座りこんだ。
「彼、知ってるの」とマスターがいう。
「え?」
「ゼロがここに来てるって」
「あ……いや……」
俺はもごもごと口のなかで答えた。
「その……いきなりだったから」
「知らせたくない?」
俺はクッションから顔をあげ、だらりと膝をのばして座るマスターをみた。
「――何があったとか、聞かないの?」
「あー」マスターは顔をしかめた。
「聞かれたい? だったら聞いてもいいけどさ、僕のなぜなに君が発動してたぶんうんざりすると思うけど。それとも僕の予想を聞きたい? 何があったかわからなくても、どうしてゼロがここにいるのかくらいは見当つけてるよ」
「どんな」と俺は聞いた。返事は速かった。
「スキスキ大好き愛してる、でも怖い」
俺はクッションに顔を埋めた。マスターはさらにいった。
「それにときどき納得できない」
俺は起き上がって座りなおし、クッションをもうひとつ重ねて抱きしめた。たしかにマスターは正しかった。柔らかいもので腕の中をいっぱいにするのは気持ちが落ち着く。クッションに顔を埋めるようにして声を出した。
「……あまりにもいろいろありすぎて、だから覚悟は決めたつもりだった。でもだめで……自分が変になっていく気がする」
マスターが足先をのばして、俺の抱えたクッションの端をつついた。
「一応いっておくけど、誰かと関わることで自分が変わるなんて、ふつうの話だよ」
「そうかもしれないけど……だいたい俺はあいつのせいでベータの偽装を続けたり、隠れたりしてきたから、あいつの家がややっこしいのもわかってたし……今日もっとわかったし……でも好きだって思って……それは前からだけど――だから家のためにどうとかいっていたのだって、仕方ないと思ってたはずなのに」
無意識に片手をあげ、首のうしろをさすると、マスターが眉をひそめた。
「ゼロ、そこ痛い?」
「ヒリヒリするだけ」
「見ても平気?」
「見てどうするの」
「変な傷になってたら洗っとかないと」
俺はあわてて首から手を離した。
「大丈夫だよ」
マスターはそんな俺をみつめながらわざとらしく鼻をこすった。
「――未遂でしょ。ちゃんと噛んでない」
「なんで? そんなのわかるもの?」
「きっちり噛まれるとね……たいていはしばらく動けないよ。それにゼロの匂い、変わってない」
俺はため息をついた。
「ふつうオメガって、そういうの知ってるもの? 常識で……」
マスターがなだめるように手を振る。
「ハウスあたりで何となく知るんだよ。近頃はこの手の教育プログラムを作っているハウスもあるんじゃないかな? 最近の若い子は情報も多いし……だけどゼロの環境は特殊だったんでしょ」
「たぶんね。でも……こういうの、よくある話?」
「どういうの」
「好きなのにこうなるって」
マスターは尻のクッションをずらして頭の下にあて、床に寝転がった。
「場合によるね。ゼロとはぜんぜん違うだろうけど、僕もいろいろあったよ。それにアルファとかベータとか関係なく、完璧な人間なんていない。ただ僕が許せる範囲を黒崎が越えていたらだめだったと思う」
「越えていなかったってこと」
「まあ、そうだね」
「で、いろいろあって、そのあとは」
「今に至る」
マスターは両腕をあげて伸びをした。
「ゼロにとってはどうなの、許せる範囲。そんなぎりぎりのところにいるわけ」
考えるまでもなく俺は即答した。
「そんなことはない」
「じゃあ、ゼロは混乱して飛び出してきただけで、本当は逃げたいわけじゃない」
「……うん」
「いちばん困っていることは何?」
「困っていること?」
「こんなはずじゃなかった、とか」
俺は考えた。
「……描けなくなったことかな。ずっと描きたかった――描いてきた対象がすぐ近くにいるのに、その気になれないのが」
「なんだよ」マスターはあきれた声をあげる。
「僕は問題の彼について、ゼロが感じてる不満だとか文句だとかを聞いたんだ。それじゃのろけだ」
「だって――これまではいろいろあっても、いま天に文句なんてないよ。あいつは……がんばってるし……大変だし……」
「わかった」
マスターは起き上がると俺の正面に座りなおした。
「ゼロ、とりあえず忠告。今日はここにいていいから、連絡はするんだ。そうでないともっとややこしいことになる。僕か黒崎が代わりにしてもいい。モバイルは?」
俺は首を振った。
「衝動的に出てきたからポケットに入っていた小銭しかない。ここまで来れたのもびっくりだ」
「だったらなおさらだね。黒崎が連絡先知ってるだろう」
「でも」
そんなことは頼めない、といおうとした俺から、マスターはぐいっとクッションを奪いとる。
「僕が連絡しておくよ。落ち着くまでここにいるって。ゼロが混乱してることがわからないくらい、向こうも馬鹿じゃないでしょ」
身も蓋もない口調に可笑しさがこみあげた。俺はうすく笑った。
「馬鹿かもしれないよ。俺も天も」
「じゃあ馬鹿でいいから勘違いはやめるんだ」
「勘違い?」
「みんなそんなところ、あるでしょ」
マスターはクッションを俺に投げつけた。
「ねえ、ゼロ。世の中、勘違いが好きだからさ。アルファとオメガをセットにして箱に入れておけばそのうちどうにかなるとか、世界を支配するアルファの欲望に他のは自動的に従うんだとか、ヒートが来たらオメガは快楽のとりこになるとか、すべては本能なんだとか、俗流心理学と俗流生物学と俗流……何でもいいけど、みんな勝手なことをいう。だけど相手あってのことだよ? むこうもこっちも誰でもいいわけじゃない。あっちに傾いたりこっちに傾いたり、いろいろやってみて、そして決めるんだ。運命のつがいなんていっても、そこは変わらないんじゃないの?」
俺は飛んできたクッションを受けとめてまた投げた。すぐにまた投げ返される。枕投げみたいだった。
「……そうだといいけど」
「まあそれにさ、この世界は時々とても住みにくいけれど、ひとりよりふたりの方が住みやすくなるときがある」
「――そうだといいな」
そのまま俺たちは何回かクッションを投げ合った。枕投げというよりキャッチボールだ、そう思った時マスターが立ち上がった。すたすた歩いてスリッポンをひっかける。
「店のまかない、食べる? それともバイトで入る?」
「まかない食べたい。バイトはいやだ」
俺はクッションを両腕に握りしめたまま答えた。
「わがままだな。じゃあ宿代はゼロの絵で払って」
「絵?」
「いったろ。この部屋はアトリエにもなるんだ。黒崎にいえば画材のたぐいも出してくれるさ」
そういうとマスターは軽快に土間を踏み、出ていった。
しばらくして黒崎さんがナポリタンとコーヒーを持ってきたとき、俺はバルコニーを動物のようにうろうろと歩き回っていた。ガラス戸を叩かれてやっと気がつき、あわてて礼をいったのだが、彼はうなずいただけで何もいわなかった。
きっとあきれられているのだろう。俺も俺自身にあきれているのだから。
ナポリタンは甘いケチャップにトマトの酸味がからみあった優しい味だったが、なぜか細切りのピーマンがてんこ盛りにされていた。ケチャップの赤とピーマンの緑で、まるでクリスマスだ。
食べ終わって手持ち無沙汰になり、俺は部屋の中を探検しはじめた。この部屋にはたしかに時々絵描きが泊っているらしい。ミニ冷蔵庫にはミネラルウォーターとチョコレート、そしてリンゴが入っていた。バルコニーを眺める位置に置かれた椅子の下に、鉛筆のけずりかすが吹き寄せられたようにたまっている。
俺は椅子に座って外を眺めた。それから紙をさがしはじめた。
デスクライトの白っぽい光の下で紙に浮かぶ影をなぞる。ペン先からのびた線が太くなり細くなり、影の中に影をつくりだしていく。ゴミ箱から拾ったくしゃくしゃの包装紙は土産物の菓子箱でも包んでいたものらしく、プリントされた商標が透けた。俺は皺と商標の文字をなぞり、白い紙を線で侵食させていく。
一度はじめると簡単なことだった。線と線がからみあうなかに見慣れた像がうかび、俺の頭の中でゆらゆらと揺れ、俺の指は勝手に動き出してその像をひろいあげる。まるで炙り出しでもやってるようだ。のびては交差し、つながっていく線は複雑でごちゃごちゃで解きようもない糸のからまりで、俺の手はそんな世界に閉じこめられた像を救い出そうと動く。
紙の表面にあらわれるのは俺がずっと求めていたものだ。けれど今の俺は以前よりはっきりそれをつかまえることができる。その像の芯にあるもの、奥のほうまでとらえることができる。
包装紙が破れ、穴があいた。もっとまともな紙が必要だ。
俺はペンを置いて立ち上がった。腰と肩がボキッと鳴り、その音に驚いた。こんなに静かだったなんて、たった今まで気がつかなかった。
俺はナポリタンの皿を片手に部屋を出て、ましな紙を手に入れるために黒崎さんをさがしに行った。
それからずっと描きつづけて、眠ったのは夜中の何時だろうか。その頃にはくたびれて眠ることしか考えられなくなり、俺は自動的に寝室へ入っていつのまにか寝ていた。それでも翌朝は早い時間に眼をさまし、冷蔵庫のリンゴとチョコレートをかじって作業を進めた。最初に包装紙の裏に描いた線は捨て、新しい紙に描いた。線のなかに藤野谷の肩や背中がみえ、彼のまとう空気がみえた。俺だけにみえるもの、俺が惹かれてやまない色と匂いと輝く夜の気配。
モノクロの点と線を重ねあわせて、俺は描き、描きつづけた。そしてやっと、わかったと思った。地上の色で再現なんてできないのだ。俺の頭の中にあるものをそっくり写しとろうとするのは意味がない。
「ゼロ?」
ドアがノックされたのに気づかなかった。みあげるとマスターがデスクのそばに立っていた。
「こんなときになんだけど……今、ゼロを探しているという人が来ている」
期待と恐れで一瞬背中がこわばった。俺は凝った肩をさすりながらたずねかえした。
「天?」
「いや、ちがう」マスターは困ったような顔をしていた。「黒崎の取引相手だ。ゼロの両親を知っていると」
「え?」俺は肩をさする手をとめた。
マスターは眉をひそめ、ますます困惑した表情になった。
「なんでも、海外のメディアで藤野谷家をめぐる騒動について読んだからって。下のギャラリーにいる。僕らはここにゼロがいるなんていってない。前にこのギャラリーでTEN-ZEROがプレス会見したときにプロモーション作品を発表したことは海外メディアに出てるから、うちに居場所を知らないかとたずねて来ているんだ。本人に聞くから連絡を待てっていうのは簡単なんだけど、海外からはるばる来たっていうし、黒崎との取引は加賀美家の紹介だから一応信用はある。第一、今は光央さんと来てるし、メディアの覆面じゃないとは思うけど……」
「加賀美さんの知り合いってこと?」
「いや、直接知ってるのは先代で、光央さんも今日が初対面らしい。心当たりある? 欧州ぽい名前だけど国籍は南米。すごく日焼けしてて……」
胸騒ぎがした。
「なんていう人?」
「ランセン。つづりはL-A-N-C-E-N」
俺は唾を飲みこんだ。まさか、そんなはずはない。亡霊はもう――たくさんだ。
「知らないって答えて帰ってもらおうか。こんなときだし」
マスターは俺の表情を眺めながらいった。
「あとで藤野谷家の方にも問い合わせがいくかもしれないけど、ゼロ、描いてるし」
俺はデスクの上を眺めた。
突然、膜が剥がれおちたように気分がすっきりしているのに気がついた。ぼんやりした夢の海を歩き回ったあげく、やっとしっかりした地面にたどりついたようだった。しばらく忘れていた感覚が戻ってきたのがわかった。俺は自分の指をみつめ、自分の描いたものをみた。きっと今なら大丈夫だ、と思った。この先に何が待っていても。
「いや、会うよ」と俺は答えた。
「それに俺、もしかしたらその人にはもう、一度会っているかもしれない」
「ほんとにいいの? 何かまずかったらすぐ警察呼ぶよ?」
俺はうなずいた。ランセン――藍閃。もちろん違うのかもしれない。俺の勘違いかも、あるいは偽物かもしれない。それでもかまわなかった。本物の人間なら答えられる問いには答えてくれるだろう。問いかけることすらできない葉月と空良の物語、運命のつがいの物語に、俺はとうの昔に飽きていたのだ。
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