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【第3部 ギャラリー・ルクス】19.海の使者
ギャラリーの白い壁のあいだに立った男は、墓地ですれちがった時のような長いコートは着ていなかった。白髪まじりのまっすぐな長い髪を梳かし、首のうしろでひとつにまとめている。このギャラリーによく出入りする、みるからに裕福な階層の男女でも、アーティストらしい風体の人々とも違った。名族の会合で見かけるアルファの男たちのようでもない。
日焼けしてほとんど褐色にみえる手がゆっくり動いて、サングラスをはずした。指の節には細かい皺が寄り、目立つ傷がいくつかあった。爪はきれいに整えられて、そこだけ白かった。渡来と同じくらいの年齢だろうか。あらわれた目尻が俺をみて細められ、一瞬だけ藤野谷を思い出させた。奇妙な感じがしたのは、顔の造作がわずかにゆがんで左右対称でなかったせいだろう。整った顔立ちなのに鼻もわずかに曲がっていて、負傷したボクサーを思わせた。
気づくと俺は失礼なほど長く、魅入られたように男をみつめてしまっていた。男は特に表情も変えず俺を見返していた。墓地で互いを見たときのように、それはどのくらいの時間だったのだろう。ふいに浅黒い顔の中で、はっとするほど野性的な白い歯がこぼれた。
「レイ、だね。ランセンだ」
発音が奇妙だった。彼の方から差し出された手は大きく、がっしりして力強かった。
「佐枝零です。藤野谷藍閃さん――ですか?」
俺の問いかけにまた白く歯がこぼれた。
「その名前を聞くのはひさしぶりだ」と藍閃はいった。「何年もこの国の言葉を話さなかったよ」
藍閃の斜めうしろで加賀美が手持ち無沙汰な雰囲気で佇んでいた。いつものように上質なスーツを着こなして、このギャラリーにふさわしい落ちついた外見なのに、藍閃の雰囲気にのまれているようにもみえた。俺が会釈するとうなずきかえし、藍閃に「座って話しませんか」と声をかける。彼に誘導されるように俺は藍閃と向かい合って展示室の踊り場にしつらえられたテーブルについた。吹き抜けから階下がのぞく風景が、高い塔の上にいるような錯覚を覚えさせる。
座ったものの、いったい何を話せばいいのかわからなかった。俺たちはしばらく黙って、互いの眼と手を交互に眺めていた。ついさっきまで描いていた俺の指にはいくつかインクの染みがあり、日焼けした藍閃の指は関節がきわだち、手の甲には血管がくっきり浮きあがっていた。
「どうもありがとう」唐突に藍閃がいった。
「会ってくれて、という意味だ。だが……何から話せばいいのかと、困ってしまったよ」
沈黙が破れてほっとした。俺は逆にたずねた。
「何から聞けば――いいですか」
「何でも」
そういわれても、と俺は迷う。
「あなたは……亡霊じゃない。生きていますよね?」
自分は何を聞いているのだろうかと思った。生身の人間を前にして、ずいぶん間抜けなことを話しているものだ。だが藍閃は怪訝な顔もせず「ああ」と答えた。
「でも藤野谷家でも、佐井家でも、あなたは葉月が死んでから……空良と失踪して、そのまま亡くなったと思われています」
藍閃は言葉を選ぶように――それとも思い出すように?――ゆっくり話しはじめた。
「葉月の闘病生活は短かった。彼が死んだあと、私はしばらく放心状態で、父はそんな私に苛々していたが、それも気にならなかった。父や藤野谷家が本当にどうでもいいものだと最初に思ったのはそのときだったと思う」
いつの間にか加賀美の気配が消えていた。ギャラリーの半分ひらけたような空間で俺は藍閃とふたりきりだった。
「柳と引き離されていたあいだ、葉月はけっして私を許さなかった。今なら、彼を無理につがいにしようとしたことや、そもそも彼を手に入れる権利が私にあるという考えが間違っていたのだとわかるが……三十年も経つともう、記憶もあやふやだ」
この人は空良のことを苗字で呼ぶのだな、と俺はぼんやり思った。藍閃の口調はしだいに滑らかになったが、あまり大きく響く声ではなかった。周囲の壁に吸いこまれるように消える。
「葉月が死んだと、私から柳へ連絡したのは覚えている。葉月の持ち物をさがして国際電話をかけた。柳とじかに話したのは、そのときが初めてだった……不思議な気分だったよ。私は何年ものあいだ、いつもどこかで柳を気にしていたからね。だが柳は葉月が亡くなったと伝えても、そんなはずはない、というのだ。葉月は帰ってくる、と。何度いっても彼は信じなくて……やがて電話は混線で切れてしまった。その晩私は蝶の夢をみた。藤野谷家の墓地から白い蝶が――蝶の群れが飛び立って、海を渡る。気になって、海を渡る蝶のことを調べたが、そんな白い蝶などいなかった。柳が私を訪ねてきたのは一週間もしないうちだったと思う。彼も夢の話をした。蝶の夢だった」
「蝶の話なら、聞いたことがあります」俺は口を挟んだ。
「子供の頃に、どこかで。でも夢の話だとは聞かなかった。それにあなたが空良の――俺の父の家に行ったということになっていましたが」
「それは事実とは違っている」藍閃は穏やかにいった。
「もともと、ただの夢の話だよ。夢は現実とちがってつじつまがあわない。ただ、柳が蝶の話をしたせいだったと思う。私が柳を連れて葉月の墓へ行ったのは」
「散骨するために?」
藍閃は俺をみつめてうなずいた。
「ああ。たしか、散骨をいいだしたのは私で、ヨットを出すといったのは柳だった」
「どうして?」
「それが正しい行いのような気がしたんだ。葉月は……子供のころから藤野谷に出入りしていたのに、ここを嫌っていたからね」
俺は息を吐きだし、そのせいで自分がほとんど息を止めていたのに気がついた。緊張をほぐそうと首をふる。
「それで?」
「父は私が家業をそっちのけでふらふらしていると怒ったが、私は構わなかった。父に隠れて準備をして、柳と一緒に出国した。まるでスパイ映画の主人公になった気がしたよ。まず柳が葉月と暮らしていた町へ行って、そこからハーバーへドライブした。葉月の骨を持ってね。私はヨットなんてまるで無知だったが、柳は違っていた。その後、どういう話の流れだったか忘れたが、口論になったんだ」
藍閃は俺から眼をそらし、ぼんやりした眼つきになった。記憶の底をのぞいているようだった。
「私は用心深いたちだし、天候が怪しかったから、柳を止めようとしたのはたしかだ。他に何があったのか……私は名族の出で、柳はそうではなかった。私は父のいいなりで無気力だったが、柳は私より年上で世知に長けていた。私は何年も、葉月を通して柳を知っていた。葉月は私の隣にいるのに、なぜかいつも柳がすぐ近くにいるように思えたよ。当然のように私は柳に嫉妬していたが、むしろ私が妬んでいたのは彼らのあいだの絆だったのかもしれない」
俺の両親について、いまや外国人めいた風貌になった藤野谷家の男が話すのを聞くのはおかしな経験だった。藍閃は考えをまとめるように少し間を置いた。俺は待った。
「柳と私はおかしな二人連れだったよ――そうじゃないか? ひとりのオメガを何年も争ったアルファ、つねに自分の城で主導権をとるはずのアルファがふたりだ。だが私たちはいったい何を争っていたんだろうな? 柳といた時間は妙に落ち着くもので、私は長年ためこんでいた家や父への鬱屈を吐き出した。柳は黙って聞いてくれた。私ははじめて対等な友人を手に入れたような気がした。まあ、今思うと、そのとき気づくべきだったんだが――そうでなければ、柳が私を許すわけがないのに」
「許す?」
思わず繰り返した俺に藍閃は眉をあげる。
「ともあれ、嵐が来そうだった。海には無知だったが、いやな感じがして、私は柳を止めようとした。それがどういうわけか激しい争いになった。これこそ本当に思い出せないんだが、私は倒れて頭を打ったか、あるいは柳に殴られたのかもしれない。気がつくと病院にいたが、二、三日は一過性の記憶喪失になっていてね。やっと思い出したとき、柳はヨットごといなかった。葉月の骨もなかった。手紙と彼の家の鍵だけ残して、行ってしまったんだ」
「海に」と俺はつぶやいた。藍閃はうなずいた。
「それからどうしたんです」
「素直に国に帰ればよかったんだが、そのときふと……思った。魔がさしたとでもいうか。自分が誰かわからないふりをして、このまま戻らないでいることができるとね。ともあれ、留守をあずかった友人のふりをして柳の家に行き、葉月の遺品を整理した。そうするうちに考えがまとまって、欧州へ渡った。藤野谷家と無関係に私のものを置いておく場所が欲しくて、成人して初めていった欧州旅行で、秘密厳守で名高いプライベートバンクに口座を作ったことを思い出したんだ。処分しきれなかった荷物を貸金庫に封印して、行方をくらますことにした」
藍閃は楽しいことでも思い出したようにふっと笑った。
「当時は驚いたんだが、これが意外に簡単だった。まず金の万能さを思い知ったよ。それに国外で、藤野谷家と無関係になるだけでずいぶん――楽になるなんて想像もしなかった。時々調子に乗って危ういこともあったが、しまいに私は別の名前を手に入れた」
「……いまも?」
「ああ。その名前で生きている。おかしなもので、名族の特権と無関係な場所で私は自分の能力やアルファであることの意味を知ったんだ。何年か放浪してから柳の家があった町へもどり、自力でビジネスをはじめた。いまではそれなりに成功している。アルファであるというのは結局、そういうことだ」
俺は頭の中で藍閃の話をくりかえしたが、うっかり口いっぱいに食べ物をつめこんでしまった子供のように咀嚼するのに苦労していた。海。ヨット。藍閃を置いて消えた空良。葉月の遺品……
「どうして――今ここにいるんですか?」
「現地警察の要請で、部下に犯罪シンジゲートの調査をさせていた。アルファのエリートの生体認証を狙った犯罪にはどこも手を焼いていて、日本の事例も調べたんだが、そこで藤野谷家のニュースに行き当たった。そして……」
「俺の記事を見たんですね」
「そうだ。それに――運命のつがい、という言葉にまた出会うとは思わなかった」
俺の頭のなかでいくつかの問いがぐるぐるまわった。葉月の骨を持って家を出たとき、俺も藤野谷も一歳かそこらだっただろう。藍閃は甥のことを覚えているのだろうか。俺とあいつが運命のつがいだという話をいったいどう受け取ったのか。そして空良は俺をどう思っていたのか。そもそも俺の存在を知っていたのだろうか。
葉月は俺を産むために佐井家に戻ったが、その後まもなく藤野谷家に連れ戻されている。俺は藤野谷天青に所在を知られないよう、誘拐の恐れがあるオメガの保護プログラムにそって、生まれた直後に養子に出された。葉月ですら、俺がどこにいるのか知らなかっただろう。まして空良は、俺の存在を知っていたのかどうか。
問いは頭の中をくりかえし回ったが、いったいこれは眼のまえの人に訊くべきことなのか。俺はためらった。口から出たのは考えていたのとはまるで違うことだった。
「柳空良は……どんな人でしたか。俺の父親は……」
自分にいいわけするように俺は続ける。
「葉月については佐枝の母によく聞きました。空良のことは誰もよく知らないらしい」
藍閃は一瞬ふと目尻をゆるめた。憐れまれているのだろうかと俺は思ったが、嫌ではなかった。
「葉月が撮った写真をみるといい」と静かにいった。
「写真? でも……」
俺は葉月のポートフォリオを思い浮かべる。佐井家の誰かがまとめた葉月の写真にはたしかに空良のスナップが含まれているが、あまり出来のよいものではない。だが藍閃の話は終わっていなかったらしい。とまどう俺に向かって彼は続けた。
「一年前、プライベートバンクの口座を閉じることにした。年月というのは恐ろしいもので、私はもう、何をそこに預けていたのかもすっかり忘れていたんだ。葉月がカメラを持っていたことも忘れていた。そもそも私は生前、彼の写真に興味を持ったこともなかったから、ろくに見てもいなかった。金庫には袋に詰めた大量のネガと現像していないフィルム、プリント写真があった。捨てなかったのはたぶん、きみくらいの年齢だった当時の自分には、どうすればいいかわからなかったからだ。ありがたいことに年月というのは多少、教えることがあってね。私のビジネスは一部で証拠として映像や写真を扱う。ほぼ三十年ぶりに見返した写真は、人にみせるべき価値があるように思ったんだ」
俺は眉をひそめ、続きを待った。
「幸い、アートに明るい友人がいたから、彼を通じて専門家に見てもらうことにした。友人は加賀美家につてがあって、画商の紹介も受けられるという。日本の名族と聞いてどうしようかとは思ったが、藤野谷とはほとんど縁のない家だったし、試しに数点みせるとずいぶん乗り気だったので、プリントされたものだけ渡した。すぐに気に入られて、暖簾分けした息子の画廊で扱うという話になった」
「ルクス で?」
「そう。藤野谷家の事件を調べながら、偶然の一致に恐れ入ったよ。きみの動画の……作品もみた。あるフォトグラファーの言葉を知らないかね?『写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ』と。私も柳のことは結局たいして知らない。だが葉月は彼と運命のつがいだった。葉月の写真はきっと、たくさんのことを語ってくれると思う」
俺は長く息を吐いた。
「その写真――見たいんですが」
「オーナーに預けてある。実際、息子のきみが生きているなら私の取引は中止になる。権利はきみにあるからだ」
「ええと……そうですね……」
意識せずにひたいを揉む。一気にたくさんの情報を手に入れて、どう考えたらいいのか混乱しそうだ。藍閃は俺の様子を見守るように、微動だにしなかった。ぼそっといった。
「ありえない偶然が続くと、人は運命といいたがる」
「でも……」
俺は何かいいたかったが、うまく考えをまとめられなかった。藍閃は俺を待っていた。彼からは夏のグラウンドのような、乾いた土とスパイスの匂いがした。
「あなたが藤野谷家を去ったのも運命なんでしょうか? 葉月と空良という運命のつがいに関わったからと? あなたの不在で変わってしまった人々については、どうするんですか? あなたの身代わりだと思って――あの家にいる人たちは、どうなるんですか……?」
「藍晶か」
俺は首をふった。
「現当主だけじゃない。俺の天――藤野谷天藍も。これもみんな――運命のせいですか?」
たぶん俺は返事が欲しかったわけではなかった。藍閃は黙りこみ、俺も何もいわなかった。しばらくそのまま、俺は藍閃の手をみていた。日焼けしているだけでなく、優雅さに欠けた、名族らしからぬ手だった。
国を離れていたあいだこの人はどんな風に暮らしていたのだろう。俺は記憶にあるおぼろげな空良の顔を思い出そうとした。葉月の出来の良くないスナップに映った空良の顔を。葉月の顔の記憶も、佐枝の母が持っていた写真しかない。彼らが横に並んでいる様子を思い浮かべようとして、失敗した。それからやっと、もっとましなことをたずねた。
「これからどこへ?」
藍閃は俺を正面からみつめて答えた。
「弟に会いに行く」
藍閃はタクシーを呼んでいた。藤野谷家へ行くのだという。俺はギャラリーにそのままぼんやり座っていた。藍閃は思いがけない方向から吹いてきた突風のように俺の心をかき回したが、別に失望したわけでも傷ついたわけでもなかった。
「大丈夫か。零」
見上げると加賀美がいて、いたわるような表情を浮かべて俺をみていた。
「ええ」
「後悔している?」
何の前置きもなかったが、何を問われているのかはわかっていた。
「いいや。何も」
「そうか」
加賀美は眼を細め、ちいさくため息をついたようだった。
「だったら僕は……後悔しているよ。きみと最初に会った時に自分の直観を信じるべきだった。信じてきみを連れ去るべきだった。完璧に」
だが、そうはならなかったのだ。俺は首をふった。
「俺は選んだから」
「それを聞くのは二回目かな」
「もういわない」
加賀美はふっと唇のはしをゆるめて笑った。
「そのうちまたどこかで音楽の話でもしよう」
「天も一緒なら」
「藤野谷天藍? 彼とは趣味があうかどうか」
「合うよ」
反射的にそう返したものの、仏頂面の藤野谷と、余裕たっぷりの加賀美が隣り合わせるのを想像して、俺は吹き出しそうになった。ごまかすようにあわててたずねた。
「加賀美さんは……あの人が持ってきた写真、見た?」
「ああ。全部ではないが」
「どうだった?」
たずねるのは勇気がいった。俺は内心恐れていた。加賀美家の誰かが仲介したのならまったく価値のないものではないだろうが、かなり厳しい審美眼をもつ加賀美のことだ。そこそこだ、とか、まあそれなりだな、といった答えが返ってくるのを予想して。
だが加賀美はあっさりと「私は写真は専門じゃないが、かなりすぐれた写真家だと思う」といった。
「何しろフィルム時代のものだ。リプリントも一苦労だが、ここのオーナーが入れこむだけの価値はあるだろう」
「どんな写真? 風景?」
「いや、ストリートフォトだよ」
「ストリート?」
「年代も場所も特定できるから記録写真の趣もあるが。たいていは街中のスナップだ。特に人物がよく撮れているね」
俺は耳を疑った。葉月は風景しか撮らなかったはずだ。
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