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新しくて古い庭
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(エピローグの前に位置するエピソード)
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午後の光のまぶしさに眼を細めた一瞬、夏空から雪の白色が落ちてきたような気がした。
「サエ? どうした?」
道端で立ち止まった俺に、先を行こうとしていた藤野谷がふりむき、不思議そうに声をかけた。
「ん? ああ……」
俺は斜め上をみつめたまま生返事をした。こぼれおちそうな真っ白の花房が石垣の上からせりだしている。透明な質感の青空に白い花が浮かび、真下のアスファルトに枝の影が濃く落ちる。梅雨が明けてまだ数日しか過ぎていないのに、もう満開の|百日紅《サルスベリ》だ。
つい誘われるように一歩二歩、坂をのぼった。石垣は苔むして古く、その上に煉瓦色のタイルを張った家が建っている。百日紅の幹は太く、敷地を囲む柵ぎりぎりの位置から、なめらかな明るい茶色の枝を真下の道路へ突き出している。
「空き家みたいだな」
すぐうしろで藤野谷がいい、俺を追い越して坂をのぼった。
玄関に通じる鉄の門扉は鎖と南京錠で閉じられていた。数羽の鳥と花を象った模様がめずらしい。だが藤野谷は管理、と書かれた小さな看板に興味があるようで、鳥など目もくれていない。
不思議なものだな、と俺は思った。藤野谷とふたりで歩いていると同じところにいるのに同じものを見ていないことによく気づく。俺が道路に落ちる影や、走り去る猫や、石塀の模様に気を取られてふらふらしているときも、藤野谷は看板の文字や道路が行きつく先だけを見ていてぶれない。
俺は柵にそってぐるりとまわった。カーゲートの奥にガレージと中庭らしきものがみえる。二階建て、そこそこ大きな家だ。建物はそれほど古くも見えなかったが、庭は荒れている。石垣からせりだしていた百日紅だけでなく、ぱっと目につく樹木は伸び放題で、こみあったところは雑木林めいている。剥がされたらしい花崗岩の石畳が角に積んであった。
「気になる?」
ぼうっと庭をみつめている俺のすぐうしろでまた藤野谷がささやき、俺ははっとして首を振った。
「いや……」
「石垣も基礎も古そうだが、外壁はきれいだな。外回りだけ施工が止まっているみたいだ。訳ありかもしれない」
藤野谷は首をのばしてガレージ周りをのぞきこみ、それから通りを一歩下がって全体を透かし見るようにした。
「このくらいの大きさの家なら、サエのアトリエも十分な広さがとれる?」
「え?」
俺はあわてた。
「いや、そんなのじゃない。ちょっと見たかっただけだ。行こう」
きびすをかえして坂道を下る。このあたりは大昔、名族の屋敷町として有名だった地区だ。一般向け住宅地として開発されてからは長く高級住宅街として知られていたが、最近はそうでもない。雰囲気のある街並みは海外のガイドブックでも紹介されているくらいだが、世代交代が進んだいまは空き家も目立つ。
古い街だけに入り組んだ狭い道も多く、そんなところが不便だと思われているのかもしれない。最初に設計された放射状の街路のあいだを路地がつなぎ、その奥でひっそりと、昔は名族の持ち物だったという屋敷が庭園ごと美術館になっていたりする。
俺たちはまさにその美術館へ行った帰りだった。メディアで都内の隠れ家的名所と紹介されるような、奥まった場所にある美術館なのだが、今はたまたま有名な古典画家の展覧会が開かれているおかげで、週末ともなると大盛況だった。広くもない駐車場が連日パンク状態だと聞いたので、俺たちは行きはタクシーを使ったが、帰りは電車に乗ることにして、駅まで歩いていたところだった。
「家を探すならこの辺りは悪くない」俺の横で藤野谷がいう。
「土地を買って設計して建てるとなると時間がかかるけど、それまで借りておくという手も……」
「いや、そんなのじゃないって」俺は藤野谷の前で腕をふる。
「それに俺の仕事場は急がなくていいから」
「でも狭いんじゃないか?」藤野谷は畳みかけた。「サエ、悩んだときはよく部屋の中をうろうろしてるだろう? 柱にぶつかったりしてる」
「それは天の思いちがいだろ」
俺は顔が火照るのを感じた。きっと梅雨明けの太陽のせいだ。
「あの家、売りに出てる」
次の日の夜、藤野谷は仕事から帰ってくると開口一番そういって、ぶ厚いファイルをリビングのテーブルに置いた。
「リノベ途中で相続が起きたせいで施工主の資金が切れて宙ぶらりんになっている物件だった。住むつもりでリノベーションしていたらしいが、結局手離すことにしたようだ。妙な債権もないし土地の履歴もきれいなものだ」
「なんでそんなの、調べてるんだ」
俺はリビングのソファに沈んだままスケッチブックを閉じた。藤野谷を見上げると、にやっと歯を見せて笑う。
「気に入ったんだろう? 少なくとも気になってる」
「べつに」
俺はそういったが、藤野谷はすばやく俺の上にかがんでスケッチブックを取り上げ、ページをめくる。
「ほら。やっぱり気になってる」
百日紅の花と、鳥と花を象った門扉。カーゲートからみえる庭の様子は記憶をたよりに描いたものだ。藤野谷は「サエは気に入ったものを描くからな」と追い打ちをかけるようにいった。俺はこれまでのスケッチブックを埋めている藤野谷自身の像のことを思い出した。急に顔が熱くなる。
「気に入ったって、単に外から見ただけで……」
「だから資料を手に入れた。内覧に行こう」
「おい、おまえまた渡来さんに面倒かけてんじゃ……」
半分ぼやきながら俺はファイルをめくった。中身は昨日の空き家の写真や図面などだ。庭の印象は昨日と変わらなかった。玉砂利を敷いた建物周りはともかく、他はろくに剪定されていない木々が茂っているだけだ。
一方屋内は部分的に改装してあり、特に水回りは新築同然だった。しかし床や壁紙には古い意匠がかなり残っている。アーチ型に切った壁や、いまではめったにみない型押しガラスを嵌めたあかりとりの写真を俺は眺め、間取り図をみつめる。中庭を囲む大きなLDKを中心にした一階と、同じく中庭を囲んで、すべての部屋に吹き抜けを見下ろす窓を切った二階。小さな階段が木目調のデッキを敷いた屋上へつながっている。
玄関の脇に土間で繋がった大きな洋間がある。小上がりになって、外は濡れ縁があるから、建てられたときは和室だったのだろうか。だがこれならアトリエに十分な広さだし、窓から直接大きな荷物の搬入もできる……
「間取り、どう?」
愉快そうな藤野谷の声に俺は我にかえった。
「――悪くないけど」
「じゃあ見に行こう」
「待てよ」俺は焦っていう。「これ、売りに出てるんだろう? 見に行くのはいいとしても、どうなるものでもないだろう」
「どうして?」藤野谷はきょとんとした顔をした。
「だって売りに出てるってことは誰かが買うってことで、貸してくれるわけじゃないだろうし……」
「だから買えばいい」
「天!」
俺は呆れて藤野谷をみつめたが、彼はごく当然の話をしているといわんばかりだった。これだから資産家の名族というのは。一緒に暮らしはじめて藤野谷の金銭感覚にはかなり慣れたが(そもそもふだんの生活では藤野谷は特に浪費するようなタイプではないのだ)こういう大きな金額の話になると、とたんについていけない気分になる。藤野谷は俺のとまどいに気づいているのかいないのか、平然と続けた。
「いいじゃないか。いつか家は必要になるから、新しく建てるまでのつなぎで。どうせここじゃ手狭なんだから、しばらく住むにしたって、サエが気に入った家を買うにこしたことはない」
「いや、でも……」
俺は何かいおうとして、口ごもる。
もともと藤野谷のマンションは男二人で暮らすくらいなら十分な広さのはずだった。それがここ二週間程度の間に「狭く」なっているとしたら、原因は俺にある。藤野谷が納戸代わりに使っていた空き部屋に俺の仕事用の機材を入れてからというもの、俺は徐々に社会復帰に取り掛かっていた。だが藤野谷のマンションはコンシェルジュつきで至れり尽くせりにもかかわらず、どうも何かが欠けていて――
そこまで考えたとき、俺は勘違いに気がついた。手狭だと感じているのは藤野谷ではないのだ。
「サエ」
藤野谷はするっと俺の隣に腰をおろし、脇腹をくっつけてくる。かすかな汗の匂いが藤野谷の匂いに混ざって俺を包む。
「仕事部屋、狭いんだろう? それにもっと明るい方が」
藤野谷は腕を俺の背中にまわした。
「いや、作業するのに狭いわけじゃないんだ。照明は十分だし……」
「高層マンションじゃ窓もろくに開けられないし、ちょっと外に出て散歩も面倒だからな」
俺の挙動をお見通しのような藤野谷の口調にまた顔が赤くなったのがわかった。平日の日中はほとんどいないくせに、どうしてわかるんだ。
「だけど、天……」
俺はどうにか言葉をさがす。
「そんな一足飛びに家を買うなんていうなよ」
「そうだよな。やっぱり建てないと。土地探しもだが、うまく設計して……」
「いやだから」
ますます違う、そういいかけた時だった。天啓のように、ネジがうまく嵌ったように、俺の中にすとんと納得が落ちてきて、そこで俺は戦略を変えた。
「天、買うなら中古がいい」
今度は藤野谷がとまどったような顔をした。思いがけないことを聞いたといった感じだった。
「どうして?」
「古い家の方が面白いから」
話しながら俺はずっと住んでいた郊外の家を思い浮かべる。
「これまで暮らした人の痕が残るくらいの方が好きなんだ。中古だと釘を打っても罪悪感がないし」
「でもサエ、一から設計すればそんなことしなくていい。アトリエだって好きなように作れるぞ」
藤野谷は俺の顔をしげしげと眺めた。その表情が妙に子供っぽくみえて、俺は思わず笑う。
「俺は暮らしながら自分に合うように作り変えるのが好きなの。おまえとはこれから長い人生があるんだから、新しい家が欲しくなったら、そのときいうよ」
ふいにぎゅっと抱きしめられた。藤野谷の胸のあたりに顔を押しつけられる。
「天?」
藤野谷は俺の頭を抱えこんでくしゃくしゃにかき回す。頭のてっぺんが藤野谷の吐息で温かくなり、声が降ってくる。
「わかった。じゃあいつ見に行く?」
スケッチブックがソファからずりおち、俺は藤野谷の腕のなかでもがいた。
「あのな天。あの家は……見るだけだぞ」
「わかってる。見るだけだ」
「へえ。それで結局スピード購入になるとは、お疲れ様です」
屋上で缶ビールのプルタブを引きながら三波がいった。
真昼は日射しが暑すぎたが、夕焼け空が広がるいまの時間はぬるい空気がちょうどいい。濃くなっていく薄闇のあいだで家々の門灯が点々と光り、街路樹と街路樹のあいだを車のライトが走っていく。
「いい家じゃないですか。眺めも悪くないし、趣もあって。庭はホラー映画みたいですけど」
三波らしい褒め方に俺は思わず吹き出す。
「庭はこれからゆっくりやるよ」
「荷ほどきは?」
「俺のアトリエ以外はおまかせパックってやつだから、とりあえず何もしない」
俺は柵に乗り出して、引越業者が家を出たり入ったりするのを確認する。荷物が多くて申し訳ないと内心で思う。藤野谷はまだTEN-ZEROで仕事中だろう。三波だってTEN-ZEROの社員なのだが、峡が様子を見に立ち寄った車から「引越見舞いにきました」といって、缶ビールの袋を片手にひょっこり現れたのだ。
俺としてはなぜ峡が三波を送っているのか問いただしたいところだったが、引越業者にさえぎられているあいだに峡は行ってしまったし、いざ三波を前にすると聞けるものでもない。第一今日はそれどころではなかった。この家を買う手続きは藤野谷にまかせたが、引越にともなう作業はすべて俺が受け持った。葉月の個展の準備もあって、今年の夏はいつになく濃密に詰まった毎日が過ぎていく。
「あの木、何ですか? 白い花の」
俺の横で三波が缶ビールを持った手を伸ばす。
「百日紅だ」
「へえ、あれがサルスベリなんだ。でもサルだったらあれくらい、登ってしまうんじゃないですか」
「三波って木登り得意だったりする?」
「よくわかりましたね」
ぬるい風が吹いて、白い花をつけた枝が揺れた。まるで誘われるようにこの家に来た、ふとそんなことを俺は思う。
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