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真昼の水がにじむ夜

 子どものころ使っていた部屋は懐かしい匂いがした。日に焼けた畳と木製の桟、変質した塗料やふるい紙の匂い。 「ここ、サエの部屋?」  藤野谷はペンダントライトの下に突っ立ち、ものめずらしそうにあたりを見まわした。柱にかけられた古めかしい扇風機の風が前髪を揺らしている。風呂あがりで濡れた頭のてっぺんがライトの笠に触れ、白と黄色の光が動くと、笠の影も一緒になってゆらゆら揺れた。 「中学までは。高校に入ってからは峡と同居だったから、たまに帰った時に寝るだけだった」  俺は古いエアコンの温度を下げながら答えたが、いくらリモコンをいじっても意味はなさそうだった。南西に向いたこの部屋はあまり冷房が効かないのだ。まだ梅雨明けの発表はないが、ここ数日は快晴で、夏日に十分照らされているからなおさらだった。 「天、暑くないか? やっぱり母屋の方がよかったかな。父さんも母さんも今は佐井の母屋で暮らしているから、こっちの家はあまりちゃんとしてないんだ」 「いや、ここでいい。汗は流させてもらったし。むしろここがいい」 「どうして」  藤野谷は俺が何を聞いているのかわからない、という顔をした。 「だってサエの部屋なんだろう?」  俺の部屋といってもずっと前のことだし、むかし壁に貼っていたポスターのたぐいはもうない。それでも古い勉強机はそのままで、図工の授業で作ったブロンズ粘土の手の彫刻も、机のすみに置いたままだった。緑と黄色のチェックのカーテンは色が褪せている。窓は葉っぱの模様が浮き出している型押しガラスの嵌めこみで、外の景色はぼやけてほとんど見えない。シングルベッドの足元の方で押し入れの戸が開けっ放しになっていて、客用の布団と座布団が積まれていた。  俺はリモコンを放り出してマットレスに腰をおろした。藤野谷は勉強机をじろじろ眺め、椅子を引き出して座った。キャスターがきしみ、藤野谷が座るとずいぶん机は小さくみえた。机の棚には子どものころ使っていた本がまだ並んでいる。漢字やことわざの辞典のたぐい、歴史マンガ、世界の七不思議といったトリビアもの。藤野谷は順番に眺めていき、それから予想通りブロンズ粘土で作られた手に眼をとめ、指さしてたずねた。 「触っていい?」 「いいよ」 「サエが作ったのか?」 「授業でね。自分の手をモデルにした」  藤野谷は彫刻の手に自分の手を重ねた。「意外だったな」という。 「何が?」 「鰹節削りであんなに消耗するとは思わなかった」 「父さんの? 母さんにこき使われた方がひどかったんじゃないか」 「それもある。今日はめずらしく汗をかいた」  そういいながら首をふり、肩を回した。上腕の筋肉がうねり、母屋のシャンプーの香りにまじって藤野谷の匂いが濃くただよった。俺は内心どきりとして、それを隠すように軽くいった。 「そういえば天、朝から緊張していたな」 「サエは気楽でいい」 「だって俺の実家だし」  扇風機のモーターがかすかにブーンという音を立てている。外からは虫の鳴く声がきこえる。佐枝の実家は竹の生垣に囲まれた佐井家の敷地の隣にあるが、すぐ裏手に菜園を控えているし、反対側には雑木の木立がある。虫の音は風流を通りこして時にうるさいほどで、庭先にはタヌキもやってくる。 「サエ、楽しそうだな」  ぼやくように藤野谷がいい、それで俺は自分の頬がゆるんでいるのに気づく。それもこれも、今朝ここに来る前のことを思い出したせいだ。 「天、どうしてそんなに緊張しているんだ?」 「そう見えるか?」  マンションの駐車場、藤野谷の車の横で俺は首をかしげていた。たしかに見た目はいつも通りの藤野谷だ。休日なのでカジュアルなジャケットだが、すっと着こなして格好がいい。もともと身長が高く、腰の位置も高く、くわえて締まった体型だから何を着ても似合うのだが――いや、こんなことを考えている場合ではなかった。 「うん、落ち着きがないな。珍しい」  俺は手をのばし、藤野谷の肘に触れた。藤野谷は不満そうな眼つきをした。 「佐井家に招かれるのは初めてなんだ。当然だろう」 「だけど佐枝の母さんには俺が拉致されたあとで、病院で会ってるだろう? じいちゃんとも初めて話すわけじゃないし、峡だって……」 「それとこれとは別だ」  藤野谷は首をふる。そして俺の顔をみて眉をあげる。 「もしかしてサエ、楽しんでる?」  俺は思わず笑った。「わかった?」  藤野谷の目尻がさがり、あきれたような、情けないような声が響いた。 「ひどいな。サエの実家訪問だぜ? 俺でも緊張くらいする……」 「大丈夫だって。佐井家は藤野谷家みたいな立派なところじゃないし、佐枝の両親は気楽な人たちだ。峡もいるし。しかも泊まっていくんだ。すぐに慣れるさ」 「簡単にいうな」  藤野谷は俺の指をとり、俺たちは自然に手を握った。藤野谷の手のひらはめずらしく冷たく、ぺたぺたした肌触りだった。 「天、おまえ手に汗かいてない?」 「俺が緊張しているっていったの、サエだろう」 「悪い。そうだった」 「まったく」  藤野谷はそうつぶやきながら、優しくて、すこし困っているようにもみえる、そんな眼つきで俺をみつめた。最近何度か俺は藤野谷にこのまなざしをみている気がする。それとも俺が最近ようやく、気がつくようになったのだろうか。 「まあいい。出発するぞ」 「天、汗ひいた?」 「今はな」  俺たちは車に乗り込んだ。今日の音楽は俺が選ぶ番だった。最近の俺たちは、車で流す音楽を交代で決めるようになっている。  佐井家につくと、佐枝の母の明るい声に迎えられるのはいつも同じだ。父は例によって黙ってうなずいただけだった。もともと無口な人なのだが、今日はエプロンをかけているだけでなく袖口に粉までつけていた。 「あの人最近うどん打ちに凝ってるのよ」  母が挨拶もそこそこに大きな声でいい、藤野谷は引き気味にうなずいている。俺は峡もいると思いこんでいたが、祖父の銀星が友人に招かれていて、遠方まで送りにいったとのことだった。 「あなたたち、泊まっていくでしょう? 峡は夜に用事があるらしいから、来るなら明日にすればっていったの」  母がしゃべっているあいだに玄関にいたはずの父は素早くキッチンにひっこんで粉をこねていた。昼食用の仕込みらしい。黙々と手を動かす彼を戸口に立った藤野谷が気圧されたように眺めているうしろで、俺はまた母につかまり、最近のDIYの成果を披露された。  家具のオイルステイン仕上げの功罪について聞かされたあとでキッチンへ戻ってくると、ちょうど父が藤野谷に「鰹節は削れるかね」といっているところだった。俺はびっくりして、黙って戸口から廊下に下がった。鰹節削りは台座つきのカンナのような木製の道具だが、ここに木っ端のような堅い鰹節を滑らせて削るのだ。俺はうまく使えたためしがないが、父は藤野谷に珍しく言葉を発してレクチャーしている。そっと首をひっこめてふりむくと、うしろで母がにこにこしていた。  うどんは美味しかった。佐枝の父の料理は何でも美味しいので、意外ではなかった。デザートにお手製のシャーベットを食べてから、俺が父と並んで皿を片づけていると、今度は母が藤野谷を促して、どこかへ連れていこうとしている。 「あの……母さん?」 「あらごめんなさい。零、悪いけど天藍さんしばらく借りるわよ」 「やってほしいことがあるんだそうだ。背が高いので都合がいいと」  父が横でぼそっといった。似たような話を以前もどこかで聞いたような気がする。  かなり時間が経って藤野谷が戻ってきたとき、彼はびっしょり汗をかいて、手には母愛用の農作業用ボンネットを持っていた。ピンクの花柄である。申し訳ないが俺は爆笑した。 「天、それかぶってたの?」 「あら、これいいのよ日焼けしないから。それにしてもアルファの方は背が高くて便利ねえ」  母の口調に俺はまた笑ってしまい、横で藤野谷は憮然とした顔をしたが、紳士的な身振りで帽子を返した。腕をあげたとたん彼の匂いが濃くただよう。俺の背筋は不意打ちにぞくぞくした。父も母も平然としているのは、ベータの彼らは俺のようには感じないからだ。  藤野谷から漂ってきたそれは、熱い汗と夏の日射しと、毛づくろいしている獣を連想させる匂いだった。俺はすこしほっとして、すこし嬉しかった。朝、車に乗りこんだときの藤野谷からはこんなにリラックスした匂いはしなかった。  日が傾いてくると、俺たちは今度は庭の手入れを手伝い、夕食は父の手料理に加えて寿司をとった。これは来客があるときの佐枝家のパターンで、このころは藤野谷はすっかり慣れた様子だった。ふたりで母屋を出たとき外はもうまっくらで、飛行機のライトが点滅しながら空を横切っていく。俺が中学生まですごした離れの子供部屋は峡が大学に入るまで使っていた部屋でもあって、柱には俺の身長を刻んだ傷のほかに、峡の落書きも残っている。ここに藤野谷とふたりでいるのは、奇妙な感じもしたし、当たり前のことのような気もした。 「サエはさ、入れてくれなかっただろう」  キャスターをきしませて藤野谷は立ち上がると、ベッドの俺の横に座る。 「どこに?」 「大学のとき。俺はサエのアパートに行きたかった」 「それは……だって」 「わかってる。そうじゃなくて、今が嬉しいっていいたかっただけだ」  話しながら腰に腕をまわしてくるので、俺は体をずらした。 「天、ダメ」 「なんで」 「なんでって……」  俺の顔が自然と赤くなる。風呂上がりでそんな匂いをさせて、くっつかないでほしいのだ。 「ここじゃできないからさ……」 「しないよ。肩を抱いてるだけじゃないか」 「だからやめろって」  したくなるから、なんて口が裂けてもいうつもりはなかった。なのに藤野谷の唇がうなじに触れてくる。やめろというのに。  おまけにそのまま囁いてくるから、息が首筋にあたってどきどきするのだ。 「サエ、キスは?」 「天のキスはたちがわるい」 「なんだよそれ」 「最初にヒートが来たの、おまえがしてきた後で……」  つぶやくと藤野谷は一瞬だまりこみ、それから俺の耳に唇をよせてきた。 「停電のとき?」 「そう」 「サエ」 「なに」 「あれ――最初だった?」  俺は顔をそむけようとして失敗した。 「当たり前だろ。天はどうだか――知らないけど……」 「俺だって……」 「嘘に決まってる」 「嘘じゃない」  やはりこの部屋はすこし暑いのだろう。たがいの肌ににじむ水の匂いを嗅ぎながら、俺はゆっくり眼をとじる。扇風機の回る音と虫の声が伴奏のように響いている。

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