57 / 72
浮遊する果実の国
「わ、近い」
車を降りたとたん、青空に浮かぶ熱気球に俺は声をあげていた。しずくをさかさまにしたような形の下に吊られたバスケットまで、ここからよくみえる。バルーンの色は虹色のグラデーションのパッチワークで、その上にひょうきんな仕草のクマのキャラクターが描いてある。
「明日からむこうの河川敷でバルーンフェスティバルがある。その主催の協力で、こっちでも搭乗体験イベントをするんだ。晴れると毎年やっているようだ」
続いて車を降りた藤野谷が同じ方向をみあげていった。
「あれに乗れるんだ」
「係留飛行だけど。ロープで留めてあるから、一定の範囲までしか上がれないらしい」
藤野谷と並んで歩いていくあいだも気球は少し高度を上げたようだった。空は真っ青で、雲のかけらも見えない。駐車場の先には大学の文化祭を思わせるゲートが立ち「おひさま祭り」と大きく書いてある。陽気な音楽がかすかに聞こえている。
「あれ、どのくらい上がるんだろう」
ゲートをくぐりながら何気なく俺はいった。藤野谷はまたちらっと上をみる。
「三十メートルくらいじゃないか。乗りたい?」
答えようとしたとき、スーツ姿の男が小走りにこちらへ寄ってきて、俺は黙った。男は藤野谷のまえで「TEN-ZEROの藤野谷社長ですね? 私は今回の……」と挨拶をはじめる。
前方に広がる芝生の公園の先には医療センターの建物が並んでいた。都心から高速で三時間ほどのこの地方都市には、藤野谷グループが公共セクターと協力しながら運営している医療センターがある。隣接する広い公園の一角が役所や図書館などの公共エリアとなって、医療センターには一般外来からこども病院、リハビリセンターやシニア向け医療施設までそろう。
ここで年に一回大掛かりなイベントを開催するのは地域との関係を深めるためらしい。藤野谷が俺を誘ったのは半分遊び、半分仕事だったが、それは彼が藤野谷グループの総元締めである藤野谷家の人間だからではなく、藤野谷の会社、TEN-ZEROが今年、このお祭りに協賛していたからだ。
まだ昼前なのに会場は賑わっていた。駐車場も混雑していたし、ここに来るまでの道路も渋滞気味だったくらいで、お祭りは毎年の行事として定着しているのだろう。芝生の上にテントがいくつも立ち、子供たちが走り回っている。公園は広く、縁日のような屋台が並んだ一角もあれば、洒落たテントのオープンカフェエリアもあった。簡易ステージで音楽が演奏されている。気球が係留されているのは芝生のむこうの広いグラウンドらしい。
ゲート付近で藤野谷を迎えた男に案内されるまま、来賓用らしいテントの下へ入ると、中央付近のテーブルに藤野谷の両親がそろって座っていた。屋外でも藤野谷の母、紫 はエレガントな装いだった。裾がふわっと広がったスカートも、ジャケットも白で、つばの狭い帽子に囲まれた顔は年齢を感じさせず美しい。
一方でその隣にいる父の藍晶 は俺がみてもわかるほど居心地が悪そうで、落ち着きがなかった。藤野谷の説明では、最近彼の父は妻に任せきりだったこの手の会へ時々出席するようになったのだが、チャリティ関連の行事は本家のビジネスとはかなり勝手がちがい、慣れないのだそうだ。そんなことがあるのだろうか。
「零さん、しばらくね」
「お久しぶりです」
俺は緊張しながら頭をさげてもごもごと挨拶をする。いまだに藤野谷の両親とはなめらかに話せない。とはいえ藤野谷家の総帥とその妻に用事がある人なら、ここには俺たち以外にたくさんいるようだった。すぐに渡来がすたすたとテントを横切ってきて、藍晶に「――家の方が……」と小声でささやき、近くには名族らしい身なりの男女が人待ち顔で待機していた。それがむしろありがたいとばかり、話をさっさと切り上げて俺と藤野谷は退散する。
縁日エリアにはトウモロコシやたこ焼き、射的や綿あめの屋台が並んでいる。綿あめの機械にわりばしをつっこみ、できるだけ雲を大きくしようと必死な子供を別の子が茶化している。すべての屋台にアレルギー物質の表示がされているのが俺にはめずらしかった。さすが医療センターのお祭りだ。お面をかぶって走り回る子もいれば車椅子で射的を狙う子もいた。
「何か食べる?」と藤野谷が聞く。
「いや。まだ腹は空いてない」
「飴とか」
藤野谷はリンゴ飴の屋台をさす。俺は真っ赤な姫リンゴを物欲しそうに眺めている小学生をみつめて首をふった。
「いいよ。それにリンゴ飴って実際に食べるとたいてい、やめとけばよかったって思うから」
「そうなのか」
どういうわけか藤野谷は笑いをこらえているような顔をした。
「天、俺なんか変なこといった?」
「いや。じゃあ昼はこの先のテントでいいか。カフェがあるらしい」
すたすたと屋台のあいだを抜けようとする藤野谷を俺は呼びとめる。
「天、待って。あれやりたい」
「何」
「風船ヨーヨー釣り」
やったことがないといったくせに藤野谷は上手かった。俺が釣ったあとの針で自分も一個釣りあげたのだ。風船を指から下げてぽんぽん叩きながら縁日エリアを抜けるとき、熱気球搭乗体験のチラシをもらった。『熱気球体験搭乗会 係留飛行による空中散歩をお楽しみいただけます』とある。気球と地上のアンカーをロープでつなぎ、二十メートルから三十メートルのあいだをいったりきたりするらしい。
『小さなお子さんやお年寄り、車椅子でも搭乗していただけるバリアフリーバスケットをご用意しています。定員に達し次第終了』
「気球、乗りたい?」
チラシをじろじろみつめている俺に藤野谷がまた聞いた。
「まあ、乗りたいといえば乗りたいけど」
芝生の先のグラウンドには順番待ちの列ができていた。近づくと最後尾に「一般の方は終了」という札がすでに出ている。
「こども病院の子を優先で乗せるらしいな」と藤野谷がいう。
俺は気球の原理を説明する立て看板を眺めた。
「熱気球教室も開かれたみたいだ」
体験搭乗の虹色の気球からすこし離れたところにはディスプレイ用らしいクマの形をしたバルーンがふわふわしていた。本物の気球を間近でみるのははじめてだった。
「天、気球に乗ったことある?」
「ないな」
「河川敷の方では今晩、夜間係留イベントがあるってさ。見たことは?」
「これもない。夜になったら行こう。どうせ泊まりだ」
藤野谷と芝生のうえを歩いていると、乾いた風には草とかすかな花が香り、藤野谷の匂いがそれにまじった。気球で飛んだときもこんなふうに風は匂うのだろうか、俺はふとそんなことを思う。
オープンカフェのテントでは意外な顔に出会った。昼食に注文したパスタとサンドイッチのプレートが到着した時、祖父の友人である名族の鷲尾崎家当主がテーブルのすぐそばを通りかかったのだ。俺はあわてて立ち、声をかけた。藤野谷家との因縁や俺の両親の話がマスコミに暴露されたとき、祖父の避難先を提供したのが鷲尾崎で、祖父とは古くからのつきあいらしい。
「やあ、零君」
彼は満面の笑みで俺を見て、次に横にいる藤野谷に視線を投げてニコニコした。銀星の近況を話すと彼はまた俺と藤野谷とテーブルの端に置いた二個の風船ヨーヨーを眺めてニコニコし、ゆっくり歩いて去っていく。
こんな表情をした彼はアルファであっても無害なオジサンにみえるのだが、実は名族の社交界では隠れた策士なのだという。俺にこの話をしたのは叔父の峡で、それは今年の春から夏にかけての藤野谷家と佐井家、それに俺の両親をめぐる騒動のあとのことだった。
そういえば、その峡に俺は今日のお祭りの話をして、以前悩んでいたデート先にどうかとさりげなく提案したのだが、はっきりしない返事しか戻ってこなかった。今頃どうしているのやら。
ランチを終わってコーヒーを飲んでいるとき、今度は数人のグループに藤野谷が声をかけられた。話しぶりからして名族ではなく藤野谷のビジネス絡みらしい。テーブルを立ち上がりかけた彼に俺も続こうとすると、藤野谷は目顔で制して「ごめん、ここで待ってて」という。
コーヒーもデザートも終わって手持ち無沙汰だった。俺はいつも持ち歩いているクロッキー帳を取り出した。膝の上で鉛筆で空に浮かぶ気球をスケッチしていると、みょうに視線を感じる。顔をあげるとテーブルに頭が届くか届かないかくらいの男の子がじっと俺を――というより、俺の手元をみていた。
そうか。
「あげようか?」
俺はざっと気球を仕上げてクロッキー帳を差し出したが、男の子は首をふった。ふりむいて人差し指で空に浮かんでいる気球をさす。
「あれ描いて」
「気球?」
「あれ」
「あれって――ああ、あのクマか」
男の子の指先と気球をみつめ、俺はやっと理解した。クマのキャラクターを描きはじめると男の子は俺ににじり寄るように近づいて、それで俺はクマの横にデフォルメしたその子の似顔絵を描いた。
「ほら」
「――あ、あ、あ…リガトウ…」
蚊の鳴くような声で礼をいうその子にクロッキー帳を破って渡したとき、俺はすっかりどこからかあらわれた子供たちに囲まれていた。ひと目みて兄弟とわかる二人連れ以外は保護者があらわれて連行したが、残った兄弟は俺の前でしばらくのあいだ熱気球教室の話をしていた。紙で小さいモデル気球を作って飛ばしたらしい。
俺は彼らに命令されるまま、彼らが作ったという気球の絵を描いたが、しまいには気球ではなくて未来の乗り物のようになった。
「気球に空気が入っているとき、さわるとあたたかいんだよ。中の空気があたたかいから」
「ぺらぺらの紙でも飛ぶんだ」
「手があつかった」
「それはおまえが下手だから!」
「僕はおまえより先にあれに乗るの!」
「こら! おまえたち――すみません、ありがとうございます……」
急に兄弟げんかになりかけたところにあらわれたのはオメガのまだ若い男だった。彼らの父親なのだろう。俺に何度も頭を下げると両手に兄弟をひとりずつぶら下げるようにして歩いて行く。兄弟のひとりがふりむいて俺が渡したクロッキー帳の切れ端を振り、俺は手を振って見送った。
加賀美の長身が視界に入ったのはそのときだった。
たしかに加賀美だと思ったのに、一瞬別人のようにも感じた。スーツではなく、俺がはじめてみるカジュアルな服装のせいだ。向こうも俺に気づいてこちらを向き、それでやっと俺は彼の横に車椅子に乗った人がいるのに気がつく。
「零――どうしてここに?」
と加賀美がいった。屋外でもよく響く、深い声だ。
「お久しぶりです」
車椅子は電動らしい。軽いモーターの音と共に、加賀美と並んでまっすぐに俺の方へ来る。座っているのは少年で、色白で細面の顔だちは加賀美の彫りの深い顔と対照的だった。握手すると加賀美はふいに悟ったように「そうか、このセンターは藤野谷グループだから」という。
「ええ。天と一緒です」
「こちらはイツキ君だ。私の昔からの友人でね」加賀美は自然にそういった。
「彼が二歳の時からのつきあいだ。イツキ、彼は佐枝零さん。アーティストだ」
「はじめまして」
少年は生真面目な声でいい、俺は差し出された手を握った。ひんやりしていたが大きな手で、力強かった。
「あの気球にこれからイツキと乗るんだ」と加賀美は空を指さした。
「ああ、バリアフリーだっていう……」
「バスケットの側面がドアみたいに開けられるんです」少年が突然はきはきとした声でいった。
「目が粗くなっているところがあって、そこから外の景色がみえます。すごいんです。飛べるんです」
「去年も乗ったんでね」
加賀美は俺も何度かみたことのある優しい微笑を浮かべて少年をみた。
「零は乗らないの?」
「もう定員だそうです。俺たちはまたそのうち」
「そうだな。我々は順番が来るから、じゃあ」
「――お、光央君。これから気球かね」
ふりむくとまた鷲尾崎だった。隣に藤野谷が並んで怪訝な表情をしている。加賀美は動じたふうもなかった。鷲尾崎と藤野谷に会釈すると車椅子に軽く手をかける。またジーっというモーター音が鳴り、車椅子は芝生の上を加賀美と並んで進んでいく。
さっき握手した大きな手があげられたのをみて、俺も手を振った。
「彼はずっとあの子を気にかけているな」
うしろ姿に鷲尾崎がつぶやいた。しみじみとしたその口調にひっかかるものを感じ、俺はたずねた。
「彼は――加賀美さんの親戚の方ですか?」
「いや。昔、彼のパートナーが巻き込まれた事故にまだ幼児だったイツキ君も遭ったらしい。それから時々会っているのだと、以前聞いたことがある」
「例の停電の時の……」
「そうだな」
だから「二歳の時からのつきあい」だといったのか。
芝生の上をいくふたりの背中はどんどん遠くなる。「じゃあな、お二人さん。またどこかで」と鷲尾崎が立ち去ったあとも、俺たちはしばらく黙ったまま、気球と地面を交互にみていた。
暗闇の中、岸辺にずらりと大きなバルーンが並んでいる。
明日から河川敷で開かれるバルーンフェスティバルの前夜祭だ。ごく低い位置につながれた気球が燃える巨大なバーナーの炎で照らし出されている。川のおもてにも並んだ気球が映り、流れにそってゆらゆら揺れる。夜空もあいかわらず快晴で、雲もなければ月もない。ところどころに星を散らした大きな黒い布を広げたようで、その下でオレンジ色に光る気球たちはどこか現実離れしてみえた。
観客は川のこちらがわで賛嘆のためいきをもらしながらせっせと写真を撮っている。俺と藤野谷は堤防の上にいた。俺の肩にぴったり藤野谷がくっついてくる。夜の空気の中ではその温度が気持ちよかった。
「明日から競技大会だって」
モバイルの光を頼りに俺はパンフレットを読み上げる。
「気球ってほんとに風まかせなんだな。それにめちゃくちゃ高く上がれるんだ」
「乗りたかった?」
似たような質問が、今日これで三度目だ。俺はなんだか笑いそうになる。
「また機会があるさ。風まかせで」
そういったとたんにくしゃみが出た。寒いわけではなかった。でも藤野谷の腕が背中にまわると、温かくてほっとした。
「サエ、今日何枚描いた?」いきなり藤野谷がいった。
「え?」
「子供にスケッチ、あげただろう」
「見てたのか? 気球についていたクマのキャラクターとか、似顔絵とかだ。それほど描いてない」
「サエ、子供好き?」
さりげない問いだった。ふと、この質問にはどのくらいの意味がこめられているのだろうかと思った。
俺は小さな声でいう。「――俺たちの子供ってこと?」
藤野谷は黙っていた。俺の背中にまわされた腕の力が強くなり、脇腹をぎゅっとつかまれる。
「天、子供が好きとか嫌いとか、俺は思ったこともないよ。だから」
「いや、サエ――いいんだ」
藤野谷の息が首筋にかかり、髪が俺の耳のあたりをくすぐった。
「そんなの、風まかせでいい。サエがここにいれば」
背中を抱く腕は温かいのに、俺の全身にさざなみのようなふるえが走る。ふと藤野谷にキスしたいと思う。とてもとても、キスしたかった。
「天、あのさ……」
「なに?」
「やっぱり今度乗ろうよ」
「気球?」
「そう」
俺たちは堤防に立ったままだ。眼を閉じてもまぶたの裏にまだオレンジ色の光がみえる。
ともだちにシェアしよう!