59 / 72

貝の口

 あっと思った時、俺はすでに追い抜かれていた。砂利が跳び、車輪が回る軽い音の先に藤野谷の背中が見える。さっきのカーブで横に並んでいた藤野谷を抜いてリードしたのに、直線になったとたんこれだ。その間にも藤野谷の背中は遠くなっていく――と思ったとたん、前の自転車は止まり、藤野谷の笑顔がこちらを向く。 「いちばん」  俺はムキになってペダルを踏んだ。湖に沿った自転車道は直線の先でまたS字に曲がっていた。ここは湖と海にはさまれたような土地で、丘の稜線に囲まれた水平線の先は海岸のすぐ近くまで広がっている。道は丘をすこし上がったところの隠れ里のような建物群につづき、俺は藤野谷をぎりぎりで追い越してその門へたどりついた。 「いちばん」  ふりむきざまにそう返すと、うしろに止まった藤野谷の眼が細められ、ついで破顔した。 「負けてやったなんていうなよ」 「まさか、サエ」  俺も思わず吹き出した。ふたりで笑いながら自転車を降り、ヘルメットを脱ぐ。湖の上から斜面をのぼって吹く風が汗で濡れた頭を冷やす。 「お帰りなさいませ」  宿のロビーでも支配人が笑顔で迎えてくれた。自転車はこの宿で借りたものだ。ついたのは午後も早い時間だったし、紅葉がはじまったばかりの秋の景色は美しく、先に自転車であたりをひとめぐりしたのだった。  宿のオーナーは藤野谷の大学時代の友人で、さびれた温泉地や古い旅館の再生事業に取り組んでいる起業家だ。この宿も地域の伝統をテーマとした高級旅館として最近生まれ変わったばかりで、俺たちはプレオープンに招かれたのだった。  藤野谷にとっては久しぶりの連休で、俺は展覧会へ出す絵を一枚仕上げたばかりだった。お互いちょうど一区切りの時期で、距離も小旅行にうってつけだった。  オーナーが藤野谷と大学での友人だということは、俺も会ったことはあるのかもしれないが、相手はこっちがわかるだろうか。何しろ俺は外見も含めてずいぶん変わってしまったし、今では藤野谷のパートナーのオメガとして――いまだにこれはすこし照れくさい――紹介されるようになっている。  顔を合わせたとき気まずくはないかと俺は多少不安だった。それに学生時代の友人といっても、藤野谷にとってはこの手の招待は半分仕事みたいなものだ。だが彼はこの旅行にはずいぶん乗り気で、車の運転中もずっと鼻唄まじりだった。そして俺の不安をよそに、到着したときオーナーのアルファは不在だった。ベータの支配人が、オーナーは夕方つくから夜の食事の際にでも挨拶をさせてくれ、という。なので俺たちは部屋に荷物だけ運んでもらって、湖の散策にくりだしたのだった。  旅館は丘の中腹にあり、湖を見下ろす段々畑のような階段状の庭園の中に建っている。庭園のあいだに離れが点在し、俺たちはロビーのある本館から離れのひとつへ案内された。一軒一軒が私邸のように造られた離れの玄関は、小さなせせらぎにかけられた橋を渡った先にある。一歩中に入ると壁の一輪挿しに早くも色づいた紅葉が飾られていた。続き間からのぞくテラスには露天風呂があるらしい。 「先に汗を流すから」  俺はそれだけ断って風呂にむかった。湯をなみなみとたたえた木製の大きな浴槽は針葉樹の匂いがした。ヒノキに似た香りで、藤野谷はちらりとのぞいて「ヒバだな」という。俺はTシャツとズボンを脱ぎすてる。いつのまにかロードバイクを乗りこなすようになった藤野谷の挑発にのせられて、汗びっしょりだった。 「サエ、待って」  うしろから声が聞こえるが、多少の嫉妬もあって俺は部屋を検分している藤野谷を置いてきぼりにする。ついこの前までロードバイク初心者だったくせに、まったくこの男ときたら。一方で俺は長い間、ベータの偽装がバレないよう、人前で汗をかくのを用心し続けてきた。もう用心する必要はないが、汗で濡れたTシャツをそのままにしているのは落ちつかない。 「俺は早く汗を流したいの」  ざっと体を洗って湯に足先をつっこむ。熱い湯が肌の上をすべったが、すぐに馴染んで、俺は心地よさに息をつく。手のひらで顔をぬぐい、眼をあけると藤野谷の裸の腰がすぐそばにあった。彼が浴槽に入ったとたん、あふれた湯が木の肌をつたって流れおちていく。 「アルキメデス」俺はつぶやく。 「ユリイカ?」と藤野谷がいい、俺は笑った。合言葉みたいだ。 「何が|わかった《ユリイカ》だよ」  夕食の時間が近かったので長湯するつもりはなかった。高級旅館だけあって、パウダールームに用意されたアメニティはどれもしゃれたデザインだ。俺は籐の籠に入った浴衣に袖を通したが、帯を眺めて困惑した。二種類ある。  俺のあとからきた藤野谷も浴衣を広げ、無造作にひとつをとって腰に巻いていく。と、俺の視線を感じたように顔をあげた。 「サエ? どうした?」 「おまえいま、どっちの使った?」 「ん?」 「帯だよ。ふたつあるだろう」 「ん? ああ、夕食もあるし、角帯にした。旅館だし、兵児帯でかまわないんだが、癖で」  話しながら藤野谷は慣れた手つきできれいな結び目をつくり、背中にまわして、浴衣の皺をのばした。彼が腕を動かすたびに湯上りの匂い、つがいになった今は俺にしか感じない匂いがたつ。スムーズな動きに俺は一瞬みとれていた。 「天って、もしかして着物に慣れてる?」 「たいして。渡来さんに教えられたんだ。このくらい知っていろって」  俺は藤野谷が使ったのと同じ帯をとった。濃紺に赤い縞が走った柄の固い感触の帯だ。さっき藤野谷がしたように巻こうとするが、要領がよくわからない。 「サエも貝の口に結ぶ?」 「貝の口?」 「帯の結び方」  藤野谷はするりと俺のうしろに立ち、左手をとった。 「こうするんだ」  藤野谷は背後から俺の手を導きながら腰骨のあたりをシュシュっと締めていく。立ったまま耳や首筋に藤野谷の息を感じる。意識したとたん、冷めてきたはずの皮膚がまたぱっと火照った。 「きつくない?」と藤野谷がたずねる。 「いや」 「結び目の真ん中の上下を持って、帯をうしろにまわして」  いつのまにかきれいな結び目ができている。藤野谷を見習って俺は結び目をうしろにまわし、浴衣の皺をのばす。安宿の浴衣は前がすぐ開いてしまって困ったが、ここのものはきちんと襟元がとじる。 「困った」ふいに耳元で藤野谷がつぶやいた。 「これから食事なのに」 「何が?」 「もう脱がせたい」  うなじに息をふきかけられる。背筋から腰にぞくっとふるえが走ったのを押し隠して、俺は藤野谷を押しのけた。 「馬鹿天」 「サエ、待って」 「待たない」  パウダールームを出る俺の背中をヒバの香りと藤野谷の匂いが追ってくる。  夕食は本館の個室に案内されての懐石で、二時間ほどかけた贅沢な食事だった。途中で挨拶にあらわれたオーナーがいうには、最近は旅館でも、部屋食よりこの方が好まれるらしい。オーナーは俺の名前を知っていたが顔は憶えていないようで、俺はなんとなくほっとした。だがそうなると、藤野谷のパートナーとして丁寧に扱われるのが逆にこそばゆい感触もある。  その時はたいした話もしなかったが、食後に藤野谷とロビーに出るとオーナーはまたあらわれて、よければ読書室やギャラリー、ミニバーを案内するといった。ギャラリーには地元作家の作品や伝統工芸品の展示があり、ミニバーでは地酒を出しているらしい。  藤野谷は俺の方をちらっとみて同意を求め、俺はうなずいた。壁にはところどころに伝統織物を現代的にアレンジしたタペストリーがかかっている。オーナーのうしろには黒服を着たオメガの男性がつき従い、休憩室をかねたミニバーに到着すると自然な様子でカウンターに入った。 「いい宿だな。うまくいくといい」  藤野谷はソファに腰を下ろし、バーメニューを開きながらオーナーに気楽な調子でいった。俺が隣に座るとぴったり肩を寄せてくる。美味い料理のせいか、このバーの雰囲気のせいか、向かいに座るオーナーが久しぶりに会った友人のせいか。藤野谷がリラックスしているのはわかるが、俺は逆に緊張した。他人の前で彼がこんな風にいちゃついてくることなどあまり経験がない。どぎまぎしている間にも「ここでは地酒を使ったカクテルも出しているが、どうかな」とオーナーが勧めてくる。 「サエ、飲む?」  俺は迷った。 「……食事のときに飲んだからな。やめておく」 「お酒が大丈夫なら、風味を生かしたほぼノンアルコールのものを何かおつくりしましょうか」  カウンターから穏やかな声が投げられ、全員がそちらを向いた。黒服のオメガは柔らかく微笑んでいる。俺はギャラリー・ルクスのマスターを連想した。 「――それなら、何かおすすめを」 「お好みの指定があるならそれを使いますが、なければ旬のフルーツをテーマにおつくりします」 「それでお願いします」  真っ白の布の上にてきぱきとシェイカーやグラスが並べられる。無駄のない的確な所作は美しい。オーナーはうなずいて藤野谷との会話に戻った。やがて俺に運ばれてきたのは昼間の湖のような、煙ったような深いブルーのカクテルだった。藤野谷は味見といって、地酒をワイングラスで飲んでいる。 「いかがです?」とオーナーが俺にたずねた。 「美味しいです」 「この事業をはじめて、最初に成功したホテルでバーテンダーとして彼を採用してからずっとうちにいてくれています。ここでの正式な担当はバーではないので、プレオープンの間だけの特別サービスです」  青いカクテルは唇では爽やかで、舌にのせると甘く、ほのかに日本酒の香りが漂った。  オーナーは藤野谷に「支配人のパートナーなんだ。ここを立ち上げるにあたってふたり一緒に異動してもらった」と声を落としていった。意外な言葉に俺はカクテルグラスからオーナーへ注意を戻した。支配人はベータだったはずだ。 「接客技術は最高なんだが……アルファの客とのトラブルが切れなくて、そのせいで同じセクションのベータにも敵意を持つ連中が出たりして、外さざるを得なかった。優秀だから何でもできるんだが……パートナーがいるといってもベータだとつがいになれないからな」  オメガはアルファとつがいになれば、他のアルファを惹きつける匂いが格段に減る。匂いがなくなることでそのオメガは誰かとつがいになっていると示せるのだ。実際俺にしても、藤野谷とつがいになってから、街中で向けられていた視線――意識的だろうと無意識にだろうと、無遠慮なアルファの視線――はほとんどなくなった。  しかしベータとオメガのカップルではそんなことは起きない。たとえ当人同士の絆がどのくらい強いとしても。 「TEN-ZEROのオーダーメイドを試してみるか?」藤野谷が低い声でいう。「香りでコントロールすると多少はそらせるかもしれない。医薬品ではないし、個人差もあるし、保証もできないが」 「ああ」オーナーはにやっと笑った。「実はその下心もあって、招待した」  藤野谷も口元をゆるめた。 「なんだ、そういうことか。これまで一度もこんなの送ってこなかったくせに、どうしたのかと思った」 「うまくいきそうなら福利厚生として社員に実費補助を出せないか検討する。これは彼だけの問題でもないし、匂いのせいでトラブルになるからといって俺から勧めるのもなかなか……難しいんだ。配慮しているつもりなんだが、裏にまわせば今度は俺の相手だと誤解される場合もある。これも難しい」 「接客用に強化したモデルを考える方がいいか」  藤野谷はうなずき、モバイルを取り出してメモをとった。 「すみません、ここまできてビジネスの話で」とオーナーが俺にむかっていう。  俺は青いカクテルを飲み干して首を振った。 「いや。とてもいい場所で、ここへ来られて嬉しいです」 「そうですか。明日は決まった予定が?」 「湖沿いに下って海の方へ行きたいと思っていますが、決めていません」 「このあたりは大袈裟な観光スポットこそありませんが、水際はどこも気持ちがいいですよ。海までいくなら貝の浜に立ち寄るといいでしょう。地元の人にとっては身近すぎて逆に忘れられていたのですが、こんな場所があったのかと思うような景色です。羽衣をまとった姫神の伝説がありましてね」  羽衣伝説か。そういえばロビーに飾られていた大きなタペストリーも羽衣のような模様がモチーフになっていた。  夜の湖が窓の下に広がっている。観光ボートの小屋や桟橋沿いの灯りがネックレスのように水のへりをつなぐ。オーナーと別れた俺たちはロビーのラウンジに飾られた地元の名産品を眺め、庭園を歩いて離れに戻った。離れの窓からも湖はみえる。段々畑のような地形を生かした敷地だけあって、全室レイクビューが売りなのだ。  藤野谷はロビーの売店のビニール袋を持っている。いつ買い物をしたのかと思ったが、ちょうど到着したのもあって中身を聞きそびれた。夕食のあいだに部屋の座卓には茶菓子が置かれ、続き間に寝る支度がされていた。ガラス戸ごしにテラスの露天風呂がみえる。  俺は脱いだ浴衣をテラスの長椅子に放り出して、今度は足からゆっくり湯につかった。夜になって風が冷え、湯がすこしぬるく感じられるのがちょうどよかった。湯船から眼をあげると夕方早風呂を使った時は気づかなかった、湖を囲む光が視界に入る。上をみるとテラスの軒の先に星が――ひとつふたつみっつ…… 「気持ちいい?」  藤野谷の笑顔が星を隠す。  湯のかさが増え、あふれて、浴槽のふちから流れていく。浴槽のあるテラスはほの暗い。なめらかな湯の感触と針葉樹の匂い、それに藤野谷の肌の匂いが俺を圧倒する。  藤野谷は俺の真横にならぶ。肩と肩がぶつかって湯がぴしゃんと顔まで跳ねる。俺たちは同時に笑い、藤野谷の指が俺の顔にかかったしずくをぬぐった。対抗するように俺は藤野谷の濡れた前髪を撫で、俺たちはいつのまにか腕と腕をからめ、唇を重ねている。湯でぬくもった体がちがう熱にゆっくりと火照る。  ピチャっとまた湯が跳んだ。 「サエ」 「ん?」 「あがろう。のぼせる」  テラスの長椅子からみえる湖は細長く湾曲して、ずっと先まで続いている。この湖の南端は海の近くまで広がっているのだ。風が火照った肌をなぞるのが気持ちがいい。俺と同時に湯を出た藤野谷が浴衣を羽織って長椅子のうしろに回る。 「天?」  問いかけた俺の口に冷たいものが触れた。 「半分ずつだ」  藤野谷は水色をしたアイスの棒を片手に持っている。いつの間に持ってきたのか、なんだか手品のようだ。ひと口齧って棒を俺に渡す。子供っぽい表情をしているのがおかしかった。冷たい甘い氷はなつかしいソーダの味がする。風呂上がりの熱に気持ちよくて、半分どころか全部食べてしまいそうになり、俺はあわてた。 「ごめん、おまえの分」 「いいよ」藤野谷はいたずらっ子のようにニヤっと笑う。 「俺はこれからサエごと食べるから」  この男はどうしてこんな気恥ずかしいことを平然といえるんだろう。そう思った隙をつくように正面にまわった藤野谷の唇が俺の吐息をふさぐ。俺はぬくもった肌に抱きしめられたまま、眼を閉じて舌をからませた。藤野谷の甘い息を耳たぶに感じ、首筋に感じる。体のあちこちが浴衣の布に擦られ、藤野谷のおかげですっかり敏感になった部分が彼を欲しがってしくしくと疼いた。 「あ――」  胸を弄られて声が出てしまい、俺は慌てて口を閉じた。 「我慢しなくていい」藤野谷がささやく。「いつもみたいに」 「だって……天、ここ、外――」 「どうせ聞こえない」 「でも……でも他にも、あ、あ」  クスッと笑うような声が胸の上で響いた。 「それなら我慢して」  とたんに胸と腰の奥に強い刺激をくわえられ、俺は藤野谷の首にしがみつくようにして声をこらえた。声を出せないと思うと快感が内側にこもるようで、藤野谷の舌も浴衣の布の肌触りも、テラスの長椅子の堅い感触までが刺激になって俺を追いあげようとするし、うしろをほぐす指の動きに勝手に腰がすすみたがる。 「天……」俺はうるんだ眼で藤野谷をみつめる。 「ん?」 「天……欲し……あ、」 「サエの声、聞かせてくれるなら」 「や……馬鹿……天」  涙がひとすじこぼれ、藤野谷の指がそれをたどる。彼の怒張が俺のそれと重なり、擦りあわされる快感もだが、うしろの疼きが耐えがたいほどだ。すすり泣きそうになるのをこらえているとふいに足と背中が宙に浮いた。藤野谷が俺を抱き上げたのだ。  あっという間にパウダールームに連れこまれ、ガラス戸に夜の風が締め出される。手を壁につかせられ、背中から覆いかぶさる藤野谷の怒張を感じてますます息が上がった。欲望のあまり俺はねだるように腰を揺らした。 「天、天……」  うなじに吐息がかかり、歯が立てられると同時に熱い楔が腰の奥へ打ち込まれる。俺の体はすっかり藤野谷に慣らされて、このごろはヒートでなくても、最初ですらあまり痛みも感じない。はしたないほどに藤野谷の熱を受け入れて、先端が快楽の中心を擦るたびにもっと奥へと誘おうとする。噛まれたうなじからは別の快感が襲ってきて、背筋を滴りおちるような甘さに脳髄の奥がしびれた。 「あ―――っ…」 「サエ……」  揺さぶられながら瞼をあけると涙でけむった視界にパウダールームの鏡がうつった。俺の顔は上気してだらしなく蕩けていた。自分の顔とも思いたくないくらい恥ずかしいのに、藤野谷の腰が自分にぴったりと重なって動く様子に、俺が内側で感じている快楽が同期して止まらない。  ふたりで一気にのぼりつめ、崩れかけた俺の足を藤野谷の腕が抱きとめた。彼の唇はまだうなじに触れていて、俺たちはふたりでひとつの脈の音を聞く。  それから布団の上でもさんざん絡み合って、俺たちの翌朝の目覚めは遅かった。  朝食は離れの玄関に届けられていた。俺は藤野谷よりかなり遅れて布団から這いだし、朝風呂でやっとけだるさを克服した。体を拭いていると藤野谷がのぞいて「朝飯の用意ができた」という。  座卓の上で、おひつの白飯はまだ温かかった。藤野谷はポットの味噌汁を椀によそって俺の分までネギを散らす。彩りよく盛られた朝食のおかずを前に俺は箸をとった。藤野谷の箸さばきはとてもきれいだった。昨日の浴衣の帯結びもそうだが、藤野谷の所作や身近なものの扱い方はときおり驚くほどきっちりと正確で、常識を一歩飛び越えた教養を感じさせるときがある。さすが育ちの良い名族だ、というべきなのか。 「サエ?」  藤野谷が怪訝な顔をしているので俺は我に返った。箸や帯結びの話をすると、藤野谷はたいして驚いた様子もなく「渡来さんのおかげだな」といった。 「子供の頃から教えられたり叱られたりしたのはあの人くらいだ。渡来さんがいてくれてよかったよ。もとは伯父が連れてきた人だし、藤野谷家に義理があるわけでもない」 「天にそういう人がいてよかった」 「そうだな」  藤野谷は箸を持ったまま急にニヤニヤ笑う。 「俺も昨夜は嬉しかった」 「なんで?」 「サエの帯を結んでやってさ……」 「天、変な笑いかたするなよ」 「そう?」 「顔がたるんでるぞ」 「それはサエの可愛い顔を思いだしたから――帯を前に迷ってるとこもだけど、夜中も――ああ、ちょっとやめてサエ! 足の裏をくすぐるのなし!」  俺は座卓の下で藤野谷の足を蹴飛ばした。 「馬鹿天が。渡来さんに叱られてろ」  午前のうちに俺たちは居心地のよい宿を出た。オーナーはもう発ったという。支配人の横に昨夜の黒服のオメガが立って見送ってくれた。湖の縁を車でしばらく走っていくと、丘を越えた先に別の水平線があらわれる。海だ。  オーナーが昨夜教えてくれた「貝の浜」は、地震と津波で被害にあった浜に姫神が恵みを取り戻したという伝説が残る場所だった。東の空から羽衣をなびかせてふたりの貝の神が舞い降り、水辺の浜砂をすくってまくと、まかれた砂はすべて赤貝や蛤になり、荒れた浜は貝が育つ浅瀬に生まれ変わった、というものだ。  姫神をまつる社が近くの高台にあるらしいが、浜は絶滅危惧種の生息地だとわかって以来、自然公園として整備されていた。白と金の砂にひたひたと潮がよせては引く。車道は遠く、波と風の音以外何も聞こえない。  水際に藤野谷とならんで立つとふたつの影が砂の上に落ちた。もうすぐ昼になる時刻で影の背は低い。 「サエ?」 「ん?」  藤野谷は静かにいった。 「ここにサエと来ることができて嬉しい」  俺は手を伸ばして藤野谷の指をつかんだ。ふたつの影がつながり、ひとつの複雑な輪郭になる。一瞬おいて藤野谷の指が俺の手を握りかえした。貝の口が閉じるようにつないだ影を重ねたまま、俺たちはしばらく黙っていた。水が去っていく砂の上では取り残された貝殻が白い光を放っている。

ともだちにシェアしよう!