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第3話

◇ 『ぉごっ!奥シぬ!ケツ壊れる!ケツ壊れる!おひぃぃぃぃ!ケツ壊れてるぅぅう!』  下品な言葉を乗せた濁声が優美にまとめられたクラウドユニコーンビルディングのエントランスに(こだま)した。 『ぉっ!ぉおっ!ケツやべ、ケツやべぇよ、おんんッ!』  繁華街の有名ホストクラブmilk silkの人気ナンバー3小嵐(こがらし)絵愛絽(えあろ)本名 浅間(せんげん)はロビーのソファーで頭を抱えていた。人語を話すクマがこの建物のどこかにいることだけでなく、言い争う声が咆哮の中に混ざっている。ここに居るということはこの大理石御殿の住民に違いない。近隣トラブルを起こしたくはないがかといって見て見ぬふりをするもできそうになかった。ホストクラブで働いているのだからスれた人間に違いないと繁華街を出れば白い目で見られるが、店を出てスーツを脱げば浅間もひとりの庶民でしかない。ファストフード店で飯も食えば、税金も払い、選挙にも行く。病に倒れた父親に代わり妹の学費も払わねばならないし、職歴のない母親に苦労もさせたくない。スーツも身に纏わず、髪もセットしていない浅間は多少美形で口の上手いただの小市民だ。  この建物には訳の分からない宗教の信者がいることだけ知っている。胡散臭い信仰なだけに話が通じるのかも謎なのだ。 『ひぎぃぃっ!んごほォ!イぐ!イぐっ!ケツまんこシぬ!ケツまんこシぬぅ!凶暴ちんぽにコロされるぅ!』  繁華街に勤めている以上目にしない日のないライトニングの一部のメンバーとすれ違ったことで今日の運は尽きたらしい。ライトニングの中で一番好きな矢並ハルカと握手した右手が今は髪を掻き、顔を覆っている。このまま部屋に帰るのが吉だ。浅間が結論を出したときエントランスの隅にある部屋が蹴破られた。出てきた者が全裸なのだから浅間は呆気にとられた。 「陰核(クリ)ちんぽはダメだ!ケツ穴破壊する気かこのタコ!」  たぷたぷとした胸を両腕で押さえ、薄紅色の陰茎を露出していることは厭わない。変態男は浅間のほうへ走ってくる。しかし恐怖に動けない。 「レイプされる!あの極太破壊ディルドにレイプされる前にこの精液穴塞いでくれぇ!」  露出狂は浅間に白い液体で汚れた尻穴を晒す。腰を高く掲げ、赤い濡肉が蠢くのと同時にとろとろと濁った粘液が氾濫する。milk silkのオリジナルメニューのシルクロードストロベリーミルクを思わせた。冷凍いちごでいっぱいにしたグラスにヨーグルトとストロベリージャム、牛乳とコンデンスミルクをミキサーに掛けた液体を注いだドリンクだ。浅間は高確率で腹を壊すためにオーダーされた際は常備薬が必要だった。しかしもう二度と飲めそうにない。 「いけません!私はそんな、暴行をしようだなんて……全然……」  変態男を追いかけてきたのはこれまた珍妙な風采の長身痩躯の若い男で、素朴ながら端正な顔立ちが目を引いた。そしてその後からもなかなか現代風な浅間と同年代くらいの軽率げな若者がやって来た。浅間は同じ匂いを感じた。それはホストクラブ勤務仲間という意味ではなく、やっと話の通じそうな、それでいて調子の合いそうな相手ということだ。 「どうなってんです?」  小嵐絵愛絽の皮を剥げば浅間は人見知りの傾向すらあった。しかしそれを悟られまいと居丈高になって訊ねた。 「なんか、貸し借りの問題?よく分かんないけど……」  同年代の若い男は首を捻って誤魔化した。優しげな雰囲気の珍奇な服装の美青年は露出狂に何か話している。 「いいか、おまはんみてぇな巨大な陰核(クリ)ちんぽはもうムリだ!こちとらケツまんこ売りにしとるがケツまんこいうても結局はケツだ。クソ穴なんだよ。女の赤ガキひり出すモノホンまんこじゃねぇんだ。え?赤ガキサイズのそんな巨ちんぽこがクソ穴に入るってか?えぇ?」  おかしな衣装の美青年は顔を両手で覆ってしまった。耳が真っ赤になっている。 「そんな下品な言葉を使うのはやめてくださいまし……」 「純情ぶんなカス!デカちん持ちに純情なヤツがいるってかい?いない。存在しない。巨ちんイコールろくでなし、おまはんイコールろくでなしってワケだぃ。巨~ち~ん!巨~ち~ん!ろくでなしがよぉ。シコってクソして寝ろ!」  毛の生えた指がなんとも不潔な手を打ち鳴らし、露出狂は巨根コールする。 「ひ、酷いです……私はろくでなしかもしれません。けれど……貴方のご指摘は私に対するご指摘ではなく、悪意があります」  自分はまるきり関係が無さそうだ。放っておいても害はないだろう。浅間はゆっくり横歩きで一歩ずつ大理石の床を踏み締め、何やら厄介な言い争いから距離を置こうとした。そのとき、管理人室から2人、出てくる者があった。彼等はライトニングのメンバーによく似ていた。髪型や服装を真似て自分の承認欲求を満たしたりファンを騙す「(もど)きファン」だと、もし本物の矢並ハルカに会っていなければ思っただろう。しかし実物の矢並ハルカに会っている。やって来るのは尾瀬ハルナと雨竜ハルヒに違いない。メインボーカルとメインダンサー兼サブボーカルだ。 「きゃはは、おでのおトイレがまたおちんぽ乞食してる!」  浅間の矢並ハルカに続き芸能人と会えた!という夢は呆気なく崩れ去った。 「あっあっ兄ちゃん!初めてちんぽぶち込んでくれ!この極太ディルドに(おか)されるッ!早く(ハメ)まんこ塞いでくれぇ!」  変態男は自分の尻を叩き蕾襞をくぽくぽと収縮させた。そのしとどに照る目は浅間を見ている。 「ハルナんもお初ちんぽ挿しなよ!おでたち穴っぽこ兄弟になったら、ハルカくんも喜ぶよ」 「はぁ?」  恋だのラブだの愛してるだの会いたいだの歌っている口が下卑たことを言っている。尾瀬ハルナもこれ以上ないほど眉間に皺を寄せ、テレビではまず聞かない怒気を込めた低音を出した。主に大多数を占める女性ファンに対し媚びた顔をして甘えた声で「君の瞳にライトニング」と言っていたはずだ。 「ああっ!早く!レイプされちまう!極太丸太ディルドにケツまん壊されるっ!」 「壊しませんし暴行しません!私はただ、話がしたいんです……!」 「あーしゃしたかねぇよ!ああ!ああ!」  白濁液を垂らしていた尻を下げ、変質者は逃げようとした。美青年が黒茂みを帯びた腕を掴む。 「誰なの、この人」  浅間はおそるおそる美青年と一緒にいた現代風の若者に訊ねた。彼も首を傾げる。 「なんか、このマンション専属のトイレだって」 「トイレ……?」 「あーしゃ、兄ちゃんたちの肉便所いうもんです。口まんこでも、ケツまんこにでも子種汁ぶちまけてくだせぇ」  変態男が会話に割り込み浅間は怯んだ。 「いけません。いけません!」  その後に妙な服装の美青年が浅間の前に踏み出してきた。 「この人のことは一度私に預けてください。この人と、大切な話がしたいんです……!どうか……」  泣きそうなほど必死な美青年の訴えに異議はまったくない。 「どうぞ……」  しかしそれを雨竜ハルヒが許さなかった。尾瀬ハルナを突き出す。 「ほらハルナん。ちゃんと言わなきゃ」 「ダメだよ。それはジョモーズがボクに雇った肉便器でしょ!奪っちゃダメ~」  ジョモーズはライトニングの所属する事務所だ。やいのやいの謎の美青年とライトニング尾瀬ハルナが言い争いを始めた。一生のうちで見たくないあらゆる物をまざまざと見せつけられた心地がした。浅間は手を叩く。ホールに響いた。おかしな風采の美青年と芸能人の自覚が無さそうなライトニング尾瀬ハルナが一斉に彼を見た。 「管理人に聞きません?ここはジョモーズの建物じゃないはずだし、こっちもいきなり人間トイレが設置されたとか、よく分かりませんし」 ◇  管理人の津嘉山は4人掛けのロビーのテーブルに住民たちを座らせ、大理石の床に跪いて説明をした。風貌同様に美しい声をしているが無表情で愛想笑いひとつしない。茂林はハンカチを揉んでいた。仕事の都合で遠方に出ている嬬恋(つまごい)とかいうふざけたアイドルは管理人のPCの中に閉じ込められてこの集まりに参加している。見た目の割りに情のある宮郷というフリーターは貧乏揺すりを止められず、ホストをしているらしい浅間とかいう若い男と顔を見合わせている。この場に住居者たちをかき回した張本人はいなかった。 『ンで、ボクが訊きたいのはさー、あのおっさんは何なの、誰なのって話なんだよな』  芸能界で揉まれているのか、それとも画面越しで緊張感がまるきり伝わらないのか尾瀬ハルナこと嬬恋は臆さず沈黙を破る。まだ簡単な自己紹介程度しかしなかった津嘉山が冷淡そうな薄い唇を開いた。 「私の父です」  ロビーに静かに沁み入っていく。宮郷の貧乏揺すりが止まる。 「ち、父って、お父さんってことです?」  浅間が訊ねる。津嘉山という男は頷いた。愛想は全く無い。 「じゃあ奥さんいるんすよね」  宮郷が前のめりになった。彼は茂林の訊きたいことを代わりに質問した。 「私の父の後夫です」  管理人の答えに茂林の手は汗でびっしょりと濡れている。目眩を覚えた。 「継父ってことすか」  無口で無愛想な管理人はまた頷いた。 『はぁ?じゃあ浮気じゃん。(ちな)さぁ、ボク、管理人(あんた)の父ちゃん口ファックしたから、あんたからみてボクも義理継父(パパ)だからそのつもりでね。他にボクの口穴兄弟いる?』  茂林は静かに手を挙げた。宮郷以外は驚いた。彼こそこの場に於いて最も候補から外れる雰囲気と印象を各々に与えていたからだ。 『はぁ~、マジか。広告とかに出てくるホモ漫画とかでヤられてそうなクセにやるじゃん、お兄さん』  機械を通した声がわずかに割れた。 『兄貴?ボクの弟?穴兄弟決議(こーゆーこと)はしっかりしておきたいんだよね、ボク。男は穴兄弟にも従わなきゃ廃るよ』  見る者も恥ずかしくなるほど茂林の頬に赤みが差す。管理人の厳かな目が彼にも向く。 「あの方が来た日だと思います……私があの方と結ばれたのは…………」  恥じらいながら語る姿は恋する乙女のようだ。本当に毛深くむちむちと贅肉をつけた汚らしい臭そうな男を抱いたのか、想像がつかない。色事や性欲という概念のある世界に住んでいるようには思えない。 『じゃあ兄貴じゃん?こういう場合って穴兄貴?竿兄貴?まぁいいや、よろしく兄貴』 「あんまり揶揄ってやるなよ」  顔を茹で蛸にした茂林を見かね、宮郷がうんざりとした様子で言った。尾瀬ハルナ―つまりアイドルでないときの彼は嬬恋(つまごい)ミソラ-御天-という美少年の面をしただけのろくでなしだ。二度とテレビでパフォーマンスを観ることはないだろう。半信半疑どころか関心も抱かなかったスキャンダルが一気に信憑性を帯びてくる。 「穴兄弟のことなんてどうでもいいでしょうが。そんなこと言ったら人類みな兄弟のほうとか、竿とか穴とか関係なくて本物の腹 同胞(きょうだい)をもっと大事にしろって話で。オレが訊きたいのはそんなことじゃない。管理人さん。アンタがどういう意図を持って、あのおっさんを置いていったかってことですよ」  イライラとしながら浅間は捲し立てた。管理人は茂林から緩い服装のホストに視線を移した。おそらく年上の、そして寡黙な管理人の男の眼差しに気圧(けお)される。 「終いにはジョモーズが手配したものとか言い出すし……」  浅間の声からは自信が消えていった。 「父は性獣(ケダモノ)です。あればあるだけ男を喰ってしまう。不特定多数の男に貪り喰われる姿を見ていたくなかった」 「耽美テロには遭っていないみたいですね」  浅間は両手を擦り合わせた。シルバーリングを嵌めていないときに親しくも無い相手と話すのは不安だ。指の空虚感が一種、彼のトリガーになっている。 「父は、十分美しいですから……」  管理人は突然ぼそぼそと喋った。寡黙ながら、話す時ははっきりしていた。 『はぁ~?送ってくるなら可愛い子にしてよ~。あのおっさん、美少女にしてよ。優生評議会ならできるでしょ』  人民社会美化優生評議会ならばあらゆる技術を駆使してあの男を美少女のように見せるのは可能だろう。 『あ~、でもそれだと肉便器にガチ恋こじらせちゃうか』  楽屋らしき背景で嬬恋は両腕を後頭部に回した。宮郷は膝の上で茂林の手が戦慄いていることに気付く。 「あの方とお話をさせてください」  管理人は神経質そうな眉を片方上げた。 「私はあの方と大切なお話があるんです」  ぶるぶると手を震わせ、茂林は今にも泣き出しそうだった。 「父は、久常(ひさつね)様とは会いたくないと申しております」 「どうしてですか……」 「結婚を迫ったそうですね」  キャハハと残酷な嘲笑が二つ折りの機械から聞こえた。浅間は周りの注目に乗り、宮郷はわずかに眉を顰めた。 「…………はい」  威圧するような管理人の眼差しと態度に茂林は哀れなほど縮み上がった。 「困ります。父を一個人とみられては」 「ですが……」 「父は既婚者です。既婚の上で飢えた肉体を差し出しているのです。好意は必要ありません」  凍氷のような管理人は茂林の口答えを許さない。そこには感情的な色が滲み出ていた。目付きも宮郷たちに向けるようなただ鋭いものではない。 「必要です……」 「久常様が何を父について語られることがあるのですか」  ぴしゃりと管理人は吐き捨てた。声音といい表情といい明らかな敵意を向けられ、びくりと茂林は身を固くする。悪趣味極まりない嬬恋はつまらなそうに腕を組んで姿勢を変えた。しかし画面越しだ。宮郷や浅間は毛穴をちくちく刺されるような険悪な空間にいる。黙れば黙るだけ息苦しい。身動きさえとるのが憚られる。 『継父(パパん)のコトよく知りもしないクセに知ったふうな口利くなと。ほいならあのおっさん箱にしまっとけよ』  コンピューターの中に押し込められた嬬恋が面倒臭そうに唸ったかと思うと挑戦的な物言いをした。宮郷も浅間も顔を顰めた。この場に居ないのをいいことに好き勝手言い、爆弾を投下されては堪らない。 「肉体が飢えているのは……人の温もりが足らないからです」 「そんなわけないでしょう。父に必要なのは男の身体です。それも若くて強壮な……」 『ちんぽだけよこせってさ。ちんぽとちんぽ汁か』  卑しい表現にもかかわらず、管理人は首肯する。 「肉体の契りを結んだら、相手を愛し、結婚しなくてはなりません。私はあの方を愛する義務があります。ですから、あの方が人肌を求めて彷徨うのなら、私はあの方に寄り添う必要があります。いつまでも肉業の虜囚ではいけません。性の欲望から魂は自由になるべきです」  胡散臭げな演説を茶化し嘲笑できるような雰囲気ではなかった。嬬恋はモザイクになりながらふざけたように鼻梁へ皺を寄せ、浅間も変なものを見るような目をくれた。管理人は相変わらず無表情だ。 「ま、まぁ、何しなきゃいけないとか、ああすべき・こうすべきとか、()き可き論は……やめようぜ」  宮郷はこのおかしな言い分をする者の正体を知っている。ゆえに何か決まり事やそれに縛られたようなことを口走る特異性に驚きはなかった。 「今の話を聞いていて、私はあの方が憐れに感じられました。あの方に必要なのはその都度欲を満たすことではありません。根本からの治療です。つまり、愛し愛されることのはず」 「久常様にはお強い信念がお有りのようですね。しかしそれは貴方の中の規則です。父は関係ないはずだ」 「無関係でありません」  浅間は根本の黒い髪を掻いた。 「管理人さん。不特定多数の人に晒したくないからって一部の人間にこうやってあのおっさんを使ってくれっ言った結果がこの有様ですよ。あのおっさんから色恋ってものに発展するとは管理人さんは思わなかったんでしょうが、一回ヤったら恋心持っちゃう人なんてごろごろいます。ヤるヤらないの場に色恋沙汰が連想されちまうのは無理もないと思うんですが、色恋を持ち込むなというのならそもそもあのおっさんをトイレとしてここに出すのは間違いでしたよ」  普通の大学生やフリーターならばまだまだ黒い根本を伸ばしていても差し障りが無さそうだったが、日常から外れ夢を売る身としてはそろそろ染め直さなければならない頭髪を撫で回しながら浅間は顔を伏せながら喋った。とりあえず甘い笑みを返す女性やホストを蔑む輩とも違い、反応の薄い管理人が怖い。 『ちんぽ持ちなのが不快(アレ)だけど、まぁ口腔(あな)(あな)だし、このまま置いておいてくれよ。そこの魂思想(スピ)ったメンヘラ恋愛脳だけ接近禁止にしてさ』  スピーカーから小さく音楽が聞こえる。ライトニングの新曲だ。歌っている本人が流しているものではないらしく、彼のいる空間に反響している。嬬恋は自身の歌であるくせムッとした。 「お継父(とう)様をください」  管理人は茂林から目を逸らし、他の3人の顔色を窺うように見回した。 「応じていただけないのなら美化評議会に密告いたします」  美青年は拳を震わせ強く出た。宮郷は彼を温厚柔和な人間だと思い込んで揺るがなかったために、脅迫めいた物言いにいくらか驚きを示す。 『え~、じゃあ密告してもらって!あんな汚らしい毛むくじゃらなおっさんイヤだもん。管理人さん、応じないで密告してもらおうよ!フルカスタムでちゃんと女性器(まんこ)にしてもらって!』  茂林は脅迫し慣れていないらしかった。コンピューターの画面を怯えるように一瞥する。 「父は貴方に靡きません」 「面倒臭いな!」  浅間はとうとうソファーから立ち上がった。 「こうなったのはあんたの落ち度ですよ、管理人。ほいとあの臭そうなおっさんを放り出して、こうなるとは思わなかったのは分かります。臭そうだし毛むくだしぶよぶよに脂ぎってるし。でもあんたの判断ミスだ。判断ミスしたら、その負債を負うのも当然でしょうが。あんたは潔く、完全にダークホースだったその人にあの汚らしいおっさんを任すのがいいと思いますけどね」  非常にどちらでもよい話だ。浅間にとっては無関係極まりない。しかし自分が管理人を呼んだ手前、引けなくなっている。 『ボクどっちでもいい~や。くだらな。あんなくっさいおっさん養うならボクのこと養ってよぉ、竿兄貴ぃ。こんな仕事辞めるからさ~』  国民的アイドルとは思えまじき嬬恋はモニターの奥で寝転んでしまった。膝下だけ見える。宮郷もこの話に飽いていた。自分は参加していないとばかりにソファーに背中を預け、姿勢を崩している。 『あ、そろそろレッスンだから。じゃあね。あとはテキトーにやってよ』  有無を言わせずモニターが黒くなる。ホールの残響は幻聴かも知れない。 「あの方を愛します。あの方との愛を誓います」  茂林は管理人を真っ直ぐに見つめる。 「ま、あのおっさん出して話すことですよ。いい歳こいたジジイが若い息子盾に何してんだか」  宮郷も話の終わりが見えたらしく、嬬恋が離脱したのをいいことにソファーから立ち上がった。茂林は悄然と目を伏せる。あざとさがあるが、彼にその自覚はないのだろう。恋愛対象外であっても甘やかしたくなるような、媚びたくなるような哀れっぽさを醸すのが上手い。 「父との結婚を真剣に考えておいでなのですか」 「はい」  宗教家の青年は食い気味に答えた。 「分かりました」  管理人は契約書の入っているらしきファイルをしまい、嬬恋のいたPCを鞄に押し込む。浅間はぼんやりそれを見ながら安堵した。 「あの……」 「あと父の決めることです」  浅間は茂林と2人きりになった。話は良いほうに向かっているはずだが、彼の様子は落胆に近い。泣きそうな表情は花でも月でも金剛石でも恥じらうほど麗しい。 「だいじょぶ?」  女性客を口説くような態度で訊ねる。現代的な容姿の良さを誇る浅間とは違い、歴史的な図画にありそうな儚げな美青年はこくりと首を縦に振った。 「ありがとうございました。元はといえば、私の不甲斐なさが招いた種でしたのに……」  相手はそう言うが、浅間からするとすべて尾瀬ハルナと雨竜ハルヒ、それから気持ちの悪いよく肥えた変態の中年男が発端で、彼の問題が付随していたのはたまたまに過ぎない。 「いや、いいよ。よく分かんないけど、結婚できるといいっすね」  しかし社交辞令だ。今浅間を悩ませているのは、陰気な管理人と妙な思想を持ち出す嗜好のおかしな恫喝下手の美青年、アイドルの皮を被った人格破綻者だ。比較的まともそうな住人が1人いたところで彼等には太刀打ちできない。何故今まで呑気に暮らせていたのだろう。

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