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第1話 王子様と俺(1)

 あの明るい空間はいったい何だろう。当初、職場のトイレの窓から向かいの高層ビルを眺めるたびに俺が思っていたのはそんなことだった。  俺の仕事場は雑居ビルの七階にある。社長は一応自社ビルなのを誇っている。要するに本業が思わしくないときはテナント料でどうにかやりくりしている中小企業――いや零細企業だろう。実際、立地は悪くない。おかげで周囲にあった小さな雑居ビルはいつの間にか再開発され、建て直されて、高層ビルばかりになってしまった。  七階のトイレからは裏通りをはさんで昨年建った高層ビルがよくみえる――というか、俺の会社の方がその、新しくて外壁もガラス張りのピカピカしているそのビルに見下ろされている。一方こちらから見えるのはスクリーンで隠されているオフィスの窓ばかりだが、数階おきのビルの角のところには、夜になると黄色い電灯に輝かしく照らされた、スクリーンもブラインドもない空間があらわれる。  輝かしい。大げさかもしれないが、こっちのトイレは青白い蛍光灯に照らされた辛気臭い場所だから、なおさらそう思うのだった。何しろ残業明けにうっかり鏡を見ようものなら、ゾンビのようにげっそりやつれた自分が見返しているのである。  その明るい空間の謎はしばらくあとに解けた。消防署の指導が入って会社の屋上にあった喫煙所が撤去され、残業のあと俺がそこでコーヒーを飲むようになってからのことである。  そこからだと道路をへだてた高層ビルはもっとよく見えた。明るい空間は三階ごとに設置されている。たまにひとがガラスのすぐそばに立っていることがあるので、休憩所か喫煙所だろうかと俺は想像していた。どちらにしても、暗い屋上のこちらとはたいしたちがいだ。  ある日そのビルの、俺のいる屋上からいちばん近い階にある「明るい場所」に、ひとの姿が見えた。人間がいるのをめったにみないのもあり、俺は缶コーヒー片手にガン見してしまった。いたのはスーツの男である。後ろ姿だけでも、なんというかシュッとした立ち姿だった。  とはいえ最初は「こいつ何をしているんだ?」と思ったのである。俺には背を向けていたとはいえ、両腕を広げたりする仕草に最初、ラジオ体操でもしているのかと思った。俺は好奇心のままにしばらく観察し、やっとその場所が「トイレ」だと気づいた。トイレの洗面所だったのだ。スーツの男は鏡に向かっていたのである。  へええ、すごいなあ――と俺は思った。一面がすべてガラス張りとはずいぶん眺めのいいトイレ、というか洗面所だ。俺は立ち上がって階数を数え、ふむふむ、九階かな、などと思った。ここから見える人の姿はスーツの背中だけとはいえ、腰回りや背中など、スタイルが全面的にイケメンだ。そう思ったときイケメンが方向を変えた。もうひとりあらわれたのだ。今度もスーツだ。イケメンよりでかい。  ん?  俺はまたもガン見した。何をやっているんだ、あのふたり?  実をいうと俺は眼がいい。かなりいい。なのでよく見えてしまった。スーツの男――スーツの男がふたり――あれはその――抱擁していないか? その――顔が重なってて――  それが最初だった。  断っておきたいのだが、俺はわざわざ見ようとしたわけではない。たまたまなのだ。たまたま見てしまう。その向かいのビルのトイレに出没するスーツの生活リズムというか、休憩リズムというか、何かが俺と一致しているのかもしれない。翌週も残業上がりに屋上で休憩しているとき、俺は同じ男――スーツのスタイルイケメン――ともうひとりをみた。その翌週も。最初はスタイルイケメンが明るい空間にいて、鏡の前や窓の近くをうろうろしている。つぎに肩幅のひろいスーツがやってきて、スタイルイケメンと抱擁する。  スタイルイケメンは俺より若い男だ。あれはきっと二十代だな、と俺は思った。背中や腰回りが細くて締まっているからだ。たとえ若いころはやせ型であっても、三十代も半ばをすぎたおっさんになってくると肩から背中にかけてよけいなぜい肉がついてくるのが常というものである(ソースは俺)。一方もうひとりのでかい方は、もともとスポーツでもやっていてガタイがいいのかもしれないが、年齢は測りかねた。  ともあれこの二人組はこのトイレで定期的に――週二回ほど?――逢瀬を重ねているらしいのだった。俺と同様に残業後の逢瀬らしい。  独身のおっさんというのは困ったものである。何しろ暇なものだから、くだらないことを考えてしまう。彼らがトイレでひっそり会っているのは、男同士というのもあるだろうが、もっとましな場所で会えない理由があるのかもしれない。たとえば片方が既婚者とか……? などと俺は勝手に想像し、他人事ながら大変だなあ、などと思った。女性との不倫も大変だろうが、男同士となるともっと障害が大きいだろう。  まあでも、いいんじゃないの。これも人生よ。  最近そっち方面にすっかりお留守の俺はそんなことを思いつつ、ずずっと缶コーヒーをすすった。男同士が抱擁していようがキッスしていようが俺には関係ないことだ。だからどうということもなかった。

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