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第2話 王子様と俺(2)

 ところがその後しばらくして、雲行きがあやしくなったらしい。というのも、スタイルイケメンが待ちぼうけするようになったからである。  仕事はまったく暇ではないのだが、残業後の屋上の息抜きは貴重なもので、俺はあいかわらずスタイルイケメンの逢瀬をときどき眺めていた。向こうは外から見られているとはまったく思っていないらしいが、俺はあいにく眼がいいのである。  気候のせいか、最近のスタイルイケメンはスーツの上を着ずにシャツ姿だったりもして、またそのシャツの裾がぴしっとしていないこともあったりして(くりかえすが俺は眼がいいのだ、学生の頃はアフリカのサバンナで狩りができるといわれていた)そんなとき俺は洗面所にあらわれる前の彼についてついついゲスな想像もしていたのだが、そんなスタイルイケメンが、ひとりでガラス窓から外を(つまり俺がいる屋上の方を)眺めたあげく、いなくなる、ということが何度かくりかえされた。  これは――と俺は思った。このころの俺は完全に、恋愛ドラマでも鑑賞するような気分で高層ビルのトイレを眺めていた。さては新しい展開がはじまったのか――と思ったのである。  それにしても、ガラス窓からこちらをみているスタイルイケメンは、顔も相当なイケメンのようだった。そう気づいた俺は心の中で彼を「不幸な王子様」と呼びはじめた。悪口のつもりはない。イケメンの主人公には多少不幸な雰囲気があるくらいがドラマとしては面白い。とはいえ、あのガタイのいい彼氏はどうなったんだろう――と思っていたある日、急展開が起きた。  その日、俺はいつもと同じように暗い屋上で缶コーヒーをちびちび飲みながらぼうっとしていた(残業のあとはいつもそうなのだ)。眼をあげて向かいのビルを眺め、明るい場所にいつもの王子様がいるのをみつける。彼はガラスの方向をみて、俺と同様ぼうっとしているようだった。今日も待ちぼうけなのだろうか。  と、その時王子様がふりかえった。肩幅の広い男の影があらわれる。  おお、復縁したか――と俺は完全な野次馬根性で眺めていた。良かったなぁ。やっぱり不幸な王子様よりも幸福な王子様の方がいいからなぁ、人間。  と思ったとき、王子様と肩幅の男は向かい合った。ふたりとも距離をとっている。  俺は眉をしかめた。実をいうと個人的にこういうシチュエーションにはなじみがあった。だいたいはまあ、口論だ。ネチネチと続き、不毛でどちらも納得しないタイプの。王子様はやっぱり不幸なままか……ため息をつきそうになったとき、イケメンの背中が揺れた。  え?  俺は我知らず缶コーヒーを握りしめた。あいにく眼がいいので、見えてしまったのである。肩幅の広い男の手があがったのを。王子様の背中がガラスにあたっている。ガラスにもたれているのか、どうなのか。見ているうちに肩幅の男は俺の見える範囲から消えていった。  おい、おい!  俺は思わず立ち上がった。暴力はいかん! いけませんよ!  立ち上がって見ても、向かいのビルの窓の中でスタイルイケメンはガラスに背中をくっつけたまま動かない。しかもその頭の位置が変だ。彼は立っているのではなく、床にいるんじゃないか? 俺は不安になった。大丈夫なのか? 警察に通報するべきか? でも……?  迷っていたのは一瞬だった。俺は屋上を駆けだした。幸い俺の会社のエレベーターは俺が屋上へ来たときのまま最上階に止まっていた。俺は待たずに地上へ下りると裏通りを横切り、隣のビルの正面へ回った。この手の新しいオフィスビルはIDカードがないと入れなかったりするものだが、天の采配か、ビルを出る数人のグループのおかげでタイミングよく自動ドアがひらいた。俺はエレベーターをさがす。九階。  エレベーターの中で一瞬正気にもどった。俺はいったい何をしているんだろう。まあでも――と考え直す。王子様がトイレにいなければ問題はなかったということだ。用を足して帰ればいい。こんなオフィスビルのトイレに入る機会もなかなかない。  ビル内のレイアウトはオフィススペースの周囲をぐるりと廊下が囲むもので、俺はぐるぐる回ってトイレに駆けこんだ。個室と便器の横手に明るい空間がひらけている。つきあたりのガラスのところに王子様がへたりこんでいる。 「おい、あんた」  俺は王子様の横にしゃがみこんだ。 「大丈夫か? 気分が悪いのか?」 「……あ……」  王子様はぼうっとした眼つきで俺をみている。王子様なんて冗談で呼んでいたが、ほんとうに王子顔だな、と俺は思った。特撮の俳優や、アイドルタレントを思わせる造作だ。 「――すいません。大丈夫です」  王子様は小さな声でいった。立ち上がろうとしているのがわかったので俺は後ろに下がった。よろよろしている。 「何かあった? 怪我してない? 救急車とか警察――」 「いえ、大丈夫です」  よろめいている王子様は今度はもっと強い声でいい、俺は出しかけた手をひっこめた。肩でも支えた方がいいんじゃないかと思ったのだが、王子様にとっての俺は突然トイレにあらわれた通行人Aみたいなものだ。王子たるもの、通行人に支えられるわけにはいかないだろう。 「あんた、具合悪いなら病院行けよ」 「すみません。ありがとうございます」  王子様はまっすぐ俺をみつめていった。俺はうなずいたものの、いささか大げさすぎたな、と反省していた。わざわざ隣の屋上から走ってくるようなことではなかったのだ。まあ、王子様は気づいていないのだろうが。  俺はうしろに下がりながら、なんとなく王子様ごしにガラスの向こうを見た。蛍光灯のちっぽけな明かりに見覚えがあると思ったら、俺の辛気臭い休憩場所だった。そうか、ここからはこんな風にみえるのか。 「じゃあ、気をつけて」  俺はそういってトイレを出た。まっすぐエレベーターに向かった俺のあとを王子様はついてこなかった。

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