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【第1部 書物の影で】2.クルト

「いったい何なんだあいつは!」  店の扉を叩きつけるように閉め、クルトは顔をしかめながら吐き捨てた。  路地脇のベンチでパイプを片手にくつろいでいた老婆がぎょっとした表情で眼をそらす。困惑がじかに伝わってクルトは感情的な自分の反応を恥じた。だが出てきたばかりの店内の出来事を思いかえすと、ふたたび胸のうちがかっと熱くなる。 『クルト、首尾はどうだ?』  唐突に学友のアレクから念話が届き、クルトは我にかえって歯噛みしたくなる。本がなかったのならまだいいが…… 『まずい』  しぶい声――念話の〈声〉は口に出す音よりも表情が豊かだ――に、アレクはクルトの苛立ちを正確にうけとめたようだ。気安さと苦笑が入り混じった感覚が流れてくる。 『なんだそれ? なかったのか?』  正直にいうべきか、ごまかすか。  念話でごまかしをするのは面倒だった。しかも、クルトが書店に来る原因となった教師のせいでバレるかもしれない。葛藤は一瞬で消えた。王都の精霊魔術師のきずなは嘘の上には築かれない。 『なかったんじゃない。売ってくれなかった』 『なんだよそれ』 『俺がお気に召さなかったらしい』 『なにかやらかしたのか?』 『最初はたぶんその……昔の悪い癖が出たんだと思う』  アレクから小さな笑いが伝わってくる。 『昔の癖? ハスケルのお貴族様調ってやつか? 城下でご法度の』 『ああ……少なくとも最初は。だがその後は――わからん。確実なのは、俺はあの店主に嫌われているということだ。こともあろうに――おやじに買ってもらえだと』  またふつふつと胸のうちが熱くなる。自分にとって、家名と父の名こそが最大の弱点だとクルトはよく自覚していた。何をしようとも父の名が関わる状況から自由になるには、持って生まれた自分の力だけで精霊魔術師になるしかない。  それも優れた精霊魔術師でなければだめだ。王立魔術団へ入り、政策助言者として、王宮の顧問の一員まで上りつめなければ。 『たらしのハスケルが嫌われるなんて、マジかよ』  アレクはあきらかにクルトの困惑と怒りを楽しんでいた。アレクサンドルは幼馴染で、長年の親友で、クルトと同じように強い魔力をもっているが、クルトのような野心はない。学院を修了して精霊魔術師になるのは、アレクにとって将来自領を統治する手段のひとつでしかない。とはいえ、アレクは長年心をわかちあった友である。気遣いの念とともに響く声は同情的だった。 『だが、その本がないと課題が達成できないんだろう? どうする』 『さあな。どうにかするさ。それにしても、どうして誰も――カリーの店の店主があんなだと教えなかったんだ?』 『なにを』  答えようとしてクルトはふとつまった。アレクに届ける言葉を慎重に選ぶ。 『店主は……魔力――欠如者だった』  この世に生きるもので、魔力をわずかしか持たない。  たしかにこれは、声高に人に教えるような事柄ではないかもしれない。  しかしそれ以前にクルトは、店主があんなに若いとは予想していなかった。恰幅の良い壮年の男か、いっそ白髭の老人を想像していた。なにしろ「カリーの店」は伝説的な書店で、その伝説にふさわしい重み――といっても、いま思い返すとただの型にはまった思い込みにすぎないのだが、魔術の祖のような者が対応するのだと信じていた。  なのに、店に入っても誰もみあたらず、自分の魔力の感覚にもまったく触れる気配がなかったから、とりあえず声をかけてみたのだが、雑多に積まれた書類の下から物音が聞こえたときはぎょっとした。  その反動か、あらわれた店主に対し思いがけず居丈高で苛立った声を出したのはたしかだ。貴族づら、と呼ばれる威圧的な響きは城下では評判が悪く、ろくなことが起きないのは数年間の学院生活でよく知っていたのに、下の方から這いでてきた相手を目にした瞬間、虚をつかれて止められなかった。  店内は、明るくはなかった。そろそろ店が閉まる時刻で、外に夕闇がせまっているのに、窓のない、四方をすべて書棚で覆われた店のなかは、天井からつるされたランプで照らされているだけだった。古い革と紙と虫よけらしいつんとするハーブの香りがまざりあっている。  紙切れを手に顔をあげた男は、クルトが最初に一瞥したとき、ひどく若く見えた。自分と同じ年頃かと思ったくらいだ。そして次の一瞥で、若いというよりも、清潔できれいな顔だと思った。整っているがゆえに年齢不詳の顔立ちだった。砂色の巻き毛が額に垂れかかり、眸は暗い色をしている。  だがそんな特徴より圧倒的だったのは、男からほとんど魔力の気配が感じられなかったことだ。  生まれてこのかた、生きとし生けるものすべてに流れる魔力で他人や生き物を〈視て〉きたクルトにとって、男はまるで、空気に透けているように感じた。魔力がまったくないわけではない。魔力なしで生きられる存在などこの世界にいるはずがないからだ。だが力の気配はごくかすかで、まるで、以前授業で訪問した施療院で暮らす死に際の老人たちのようだった。  衝撃をうけたクルトは無意識のうちに魔力の触手をのばしていた。魔力の少ない存在は、ベンチに座る老婆のように簡単にクルトに感情の動きを悟らせてしまう。同じ要領で、許可を得ないまま男の心に触れようとしたのだ。  そしてさらに驚いたことに――強固な砂色の防壁に、一瞬で跳ねかえされた。  こんな状態でどうしてこんなに強い防壁をもてるんだ?  クルトの疑問をよそに、気がつくと男は大きな黒い眼鏡のようなものをかけて顔の半分を覆い隠し、なめらかな声で淡々と「僕はほとんど魔力がないんでね」という。  動揺を隠すように「それは大変だな」と返しながら、クルトはさらに混乱していた。めまいがしそうなほど奇妙なのは、こんなに魔力を持たない存在がなぜ魔術の稀覯本を扱っているのかということだ。魔力なくして魔術書の意味がわかるとは到底思えない。さらにその後のやりとりときたら―― 『それでどうするんだ?』  また我にかえると、アレクの念話が続いている。 『なんでも、貧乏な学生にはタダで貸してくれることもあるって話だぜ。この店をよく使う学生に頼むか? おまえの魅力をもってすれば、本を一冊買うくらい誰か引き受けてくれるさ』  彼の提案は簡単で、不法でもなかった。いつものクルトならあっさり乗るところだ。それなのに今回はその気になれなかった。 『……すこし、考える。課題はほかにもあるからな。明日学院で会おう』 『そうか?』  親友はいぶかしげな気配を送ってくる。  何が気にかかっているのか、クルト自身にもわからなかった。 『めずらしいな。ともあれ、明日また』  アレクの声が脳裏から消えると、世界がクルトの周囲に戻ってくる。  いまや夕暮れの闇に覆われようとしている石畳の街路のそこここに、いくつもの明かりがおちていた。その多くは回路魔術を使って増幅された光だ。生き物が近寄ると放射される余分な魔力を吸収し、周囲を照らす。  クルトの周囲はつねに明るかった。余分な魔力を放散しないように子供の頃から訓練しても、圧倒的な量はどうしようもなく、光はいつもクルトにつきまとう。魔術師になる存在とはそういうものだ。世界はつねに光を呼びこむ。恐れを克服し、〈力のみち〉を正しくとらえて視るものが、この世界を正しく導く。  いささか子供じみた考えだった。王宮政治の現実を父や学院でかいま見ているクルトには、いまではこれが幼稚で一面的な思想だとわかっている。  立ち去ろうとして未練を感じ、クルトはもう一度ふりむいた。背後にある書店の扉にはひらいた書物の形象が浮き彫りにされていた。この店をよく使う学生や教師のあいだでは通称「カリーの書店」、または単に「カリー」と呼ばれている。教科書を手に入れるのも苦労する平民の学生の多くは、学院に入学した直後に上級生にこの店を教わり、必要な書物をそろえる。さらに魔術の理論家をめざす少数の学生は、在学中どころか卒業後も折にふれて通うという。  加えてこの店は、気に入らない相手にはいくら対価を積んでも書物を渡さないという点でも、伝説的だった。話に聞く分にはいいが、自分相手にそれをやられてしまうと、腹立たしさしか感じない。  ――たかが商人のくせに、なんだっていうんだ。  そうはいっても、今はその「たかが商人」から書物を手に入れることが、クルトの将来を左右する可能性もあった。これまでの学院生活でまったくカリーの店に興味を持たなかったクルトやほかの貴族の学生に対し、きっかけを作ったのは、理論家として名を馳せている精霊魔術師だった。学院史上最年少で教授となったヴェイユだ。 「政策顧問をめざすきみたちにとっては無意味に思えるだろうが――」が口癖の彼の講義を、クルトは最終学年になった今年はじめて受講した。ヴェイユの講義は修了に必須ではない一方で、クルトにとって卒業までの暇つぶしでもなかった。しかし内容に確たる興味があるかというと、そうでもない。  すべては学院修了後のため、王立魔術団の推薦を得る足掛かりにすぎなかった。同様の学生はクルト以外にもいて、ヴェイユの方も承知らしい。  教師は皮肉な態度を崩さなかったが、クルトのように推薦のために自分の講義をとる学生を否定もしなかった。ヴェイユは王都を支える古い一族の出身で、権勢を広げるクルトの一族よりさらに位が高い。短いあいだでもヴェイユを師とあおぐのは、今後長きにわたって強力なつながりとなる。  その教師がクルトに示した最初の課題が、くだんの書物を探し、手に入れることだった。学生にそれぞれ異なる課題が与えられているのは、個人の特性を買われた結果だろう。手に入れた書物は今後、ヴェイユの講義で必要になるはずだ。  砂色の髪と暗い眸がクルトの脳裏によみがえる。男は手袋をはめた手でそっと書物に触れていた。宝石でも扱うような手つきだった。  あれほど魔力をもたないなら、どれだけ魔術書をためこんでもなにひとつ役に立たないだろう。必要な者に渡さないで、いったいどうするというんだ?  怒りをこらえてクルトは街路へ足を向けた。今の時点で思い悩んでも無駄というものだ。書物については別の手段を考えよう。ヴェイユにはほかの課題も与えられている。 「たしか、審判の塔だったな」  つぶやいて歩けば、光がついていく。

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