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【第1部 書物の影で】3.ソール
朝市の呼び売りで街路は騒がしかった。
日はそれほど高くのぼっていない。道端で警備隊員が立ったまま屋台の具入りパンをほおばっている。僕は馬の横を慎重に通りすぎる。さまざまな種類の人びとでにぎわう城下は毎朝ちがうことが起きる。うっかりすると妙なものを踏んだり、時には側溝にはまる。
よく行き合う警備隊の騎士たちは僕の事情を察しているが、初対面の人間はとろいやつだと思うだろう。昨日の夕刻、店にやってきたあの学生のように。
「おはよう、ソール。今日は城へ?」
「ああ。いい天気だな」
「この季節はありがたいよ。そのうち雨ばかりになるからなあ」
荷馬車や物売りでごった返す中、顔見知りの騎士が道をゆずってくれて、僕はありがたく彼のうしろを通った。他人にとろいと思われるのは癪だが、事実なのでどうしようもない。認めなかったからといって不可能が可能になるわけじゃない。
眼鏡が鼻と耳に食いこんで重かった。空はぬけるような青色で湿り気のない風が吹き、石造りの壁は街路にゆれない影を落とすが、レンズごしの僕の視界ではその上をとぎれとぎれに虹色の線が横切る。
道行く人々の間や、石の壁や街路の舗装、店の看板。あらゆるところに二重写しに虹色の金属光沢が重なる。この色は魔力の線だった。ほとんどは回路魔術で増幅され、誘導された〈力のみち〉だ。
王城への近道となるせまい路地を曲がると朝市の喧騒は多少やわらぐ。僕は小さな通用門に立つ騎士に会釈する。彼も顔見知りだ。以前たまたま泥棒の調書取りに居合わせて即席で書記をしてやったことがあり、それから誰何もされなくなった。それまでは騎士の友人とふたりでいるのに出くわすたび、うさんくさそうにみつめられていたのだが。
王城警備隊の連中は実利的だから、役に立つ人間だとわかると扱いが変わるのだ。
「よう、今日も審判の塔か?」
「ああ。調査を頼まれている」
「あんたのおかげでうちは助かってるらしいな。今日はラジアンがいるぜ」
通用門の脇からこちらへやってくる友人の姿がみえた。王城で会うのは珍しい。長身のひきしまった体が騎士団の制服に映える。王城警備隊の中はきわだった容姿で、おまけに三十歳を超えても独身だから、審判の塔にも彼のファンがいるくらいだ。なにしろ娯楽はかぎられていて、美形は話のネタにちょうどいい。
僕は眼鏡をはずしてラジアンに手をあげる。とたんに横にいたもうひとりの騎士が居心地悪そうに視線をそらせた。よくある反応なのだが、理由がわからない。貧相な素顔とごつい眼鏡にギャップがありすぎるのかもしれない。
「ソール、早いな」
ラジアンがいう。僕が魔力をなくした後に得た、数少ない友人のひとりだった。大柄な彼をみると僕はいつも防波堤を思いうかべる。防波堤。一度だけ訪れた海の町でみたことがある、巨大な壁。
「午後まで審判の塔で仕事をする予定でね」
そう答えるとラジアンは眉をあげ、あきれたような顔をした。
「おい、いいのかそんなことで。書店の方は?」
「魔術教本はほぼ売り切ったから、こっちで稼がないと」
「また買い手のあてもない本を仕入れていないな? さもなければ客を追い返すとか」
僕は昨日の学生を思い出して苦笑いする。高値で売りつけていれば、しばらくはランプ油の請求書など気にしなくてもすんだかもしれない。
「書物は正当な持ち主のもとにあるべきなんだ。おかしな奴には売れないよ」
ラジアンは鼻を鳴らした。
「気に入らない、の間違いだろう。ほどほどにしておけよ。食い詰めるぞ。今だってたいして食えてないくせに」
ラジアンは僕の事情をかなり知っている。親しくなってから何年も経ち、単なる友人というにはたぶん踏み込みすぎていた。とはいえ最近は、ひところのように毎日つるんでいるわけでもない。
「今晩店に寄るか?」と僕はきく。
ラジアンは一瞬返事を迷ったようにみえたが、すぐに何事もない顔で「ああ」と答えた。
「非番になったらな」
ふたたび眼鏡をかけて、めざす審判の塔は、王城中心部の王宮と城壁の中間あたりに位置していた。城といっても内部は広く、まるで小さな町のようだ。城内の道は上から眺めると、ゆるいらせんか、ひらきかけたバラの花びらのような形をしている。昔一度だけ、王宮の尖塔からこの目で見た。
そして城壁の内側には、城下とくらべものにならないくらい〈力のみち〉が張りめぐらされていた。たいていは回路魔術の防御の網だ。
精霊魔術師を例外として、ほとんどの人間や生き物は周囲に利益あるいは害をおよぼすほどの魔力は持たないが、一般人がもつたいしたことのない力を有益に使う技術として、回路魔術というものがある。鉛と銀で描かれた回路が魔力を増幅したり、制御したりする。
この回路で人工的に誘導された〈力のみち〉も、精霊魔術師が使う力も、僕のレンズ越しには同じ色だ。かすかに金属がかった虹色をおびて、ひそやかに共鳴している。
ふつうなら人はこれらの力の線を意識せずに避けたり、逆に利用したりできる。しかし魔力を無意識に感知できる程度の魔力すら持たない僕にとってはときに命取りだった。他人が動かした魔術装置に気づかず、怪我や事故を起こすことがあったからだ。
それでこのぶあついレンズをはめた装置の出番、というわけだった。回路魔術師は「防護眼鏡」と呼ぶが、実際は眼鏡のような形をした魔術装置だ。僕に残されたほんとうにかすかな魔力を増幅し、この世界を行きかう〈力のみち〉を知覚するための道具で、肌に触れる部分にびっしりと回路が刻まれている。王城の回路魔術師団が僕だけのために調整している特注品だ。
このレンズを通すと視界は二重になり、魔力の線が物体の影にかぶさってちらちらと虹色にまたたく。美しい線でもあり、呪わしい線でもある。回路の多くは建物の意匠に隠されているが、レンズを通して見える力のみちを僕はすべて記憶していた。だから城内の方が、城下より自在に動ける――はずなのだが。
王城の中心に近づくにつれて、喧騒がどんどん大きくなるような気がする。城内だろうが城下だろうが、僕は街の音が苦手だった。まれに、音だけでほとんど苦痛といえるほどになり、めまいや吐き気がすることもある。眼鏡を通して魔力の虹色が強く見えすぎる日は特にそうだった。
治療師が診ても肉体的な異常はとくにないという。恒常的な魔力の欠如があるとしても、つまりは僕の心的不調があらわれているのに過ぎないのだろう。施療院は定期的にハーブを調合した薬をくれるが、これは不快を和らげる一方、副作用でひどく酔う。うっかり昼間に使うことができない。
手っ取り早い対策は、壁に囲まれ、魔力を遮断できる静かな空間へ入ることだ。たとえば僕の店のような。あるいは、審判の塔の地下にある巨大な書庫のような。
「すみませんソールさん、三四イのオ二五号ってどこに入ってたかわかります?」
「それなら二層五八棚三の五だよ。宝石盗難案件?」
「そうです、さすが生き字引! 昨日警備隊がとっつかまえたやつが吐いたらしいんですよー」
「ソール、ハワード家の相続でもめたやつ、あれ全部で何件だったか覚えてるか? 前に作った索引が間違っているらしくてな……」
「二十四年三ヶ月にわたって骨肉の争いをやっていた家ですね。五十四件です。以前三層一〇八棚に全部の記録をまとめたはずですが?」
「新入りのトンチキが動かしたらしいんだ。すまん」
「ソールさーん、お願いなんだけど……」
やっと審判の塔につくと別の意味で騒々しく、僕は地下書庫の入口で待ち受けていた数人に捕まえられる。外では単にとろいやつだが、審判の塔で僕は笑ってしまうくらい人気者だ。なにしろ見聞きした事柄をすべて憶えているからだ。
経験したあらゆる出来事、読んだ書物、見たものきいたもの、これらを記憶する能力は、魔力とひきかえにしたかのように、いつの間にか僕に備わっていた。これを生かして審判の塔で回してもらう臨時の仕事は書庫整理や騎士団に依頼された調査といったささいなものだが、赤字に転落しがちな書店経営を補うのにちょうどよかった。
それに塔の地下は静かだ。眼鏡をかける必要もなく、古い紙の匂いは僕を落ちつかせる。
書庫で仕事をしているとよく、僕自身がこの空間いっぱいに拡大していくような気分におちいる。ここに収められ、記述された物事のあいだを、精神が自在にさまよい、遠くへ飛んでいく。
僕自身の肉体には不可能なことを僕の精神がなしとげる。
遠くの国には象という動物が存在するのだと、以前ある書物で読んだ。巨大で、切り株のような太い脚をもち、長命で、すべてを記憶する生き物だと。
象は忘れない。僕も忘れない。
いつものように没頭していたので、昼食をとるのも忘れて午後になっていた。日が差さないから時間の感覚がおかしくなる。
「ソールさん、ちょっといい? 学生さんが何か探しているんだけど、手伝ってあげて」
何度か呼んでいたらしい声にやっと気がついて、僕は書庫の下層から這い出ていった。狭い階段と書架のあいだを通りぬけ、明るい通路へ出ると、まぶしさに目がくらむ。
「何を探しているんだ?」
ろくに前を見ずにそういう。
とたん、目の前の人物が驚いたように体をこわばらせるのがわかった。
「あんた……」
その声を僕は知っていた。昨日の学生だ。クルト・ハスケル。
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