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【第1部 書物の影で】4.クルト
書架のあいだから砂色の頭がのぞいたとき、つい最近似たようなことがあったとクルトは思った。
巻き毛の下にあらわれたのは細い首と薄い体だ。目にかかる前髪をかきあげもせず「何を探しているんだ?」という。
流れるような口調はまぎれもなく昨日の男だった。カリーの店の――ソール。
審判の塔の扉は御影石の段を上った先だった。切り出したままの岩が長い年月で黒ずみ、中央の、人々が踏んだ部分だけが磨かれたように光っている。
中に入るとクルトと同じ年頃の若者が書類を抱えて奥の廊下を行き来していた。絞った袖の上着をみたところ、書記にちがいない。
受付らしい高いカウンターで灰色の上着を着た男と大柄な騎士が向かいあって話している。クルトが用向きを伝えると、灰色の方が「どの師についている?」と聞く。
「アダマール師です。ここに来たのはヴェイユ師の講義で…」
「ああ、わかった」
手続きは事務的で簡潔だった。クルトが帳面に名前を記入すると灰色の男は「書庫はつきあたりだ。階段を降りなさい」と回廊の先を指さす。
「魔術関係の事件はたいてい三層目にある。持ち出しは禁止。すべて写すか記憶すること。閲覧禁止の区画に立ち入るのも厳禁だ。もし中で問題が起きた場合は隠さずにいいなさい。破損や紛失が判明したら学院へ連絡する」
審判の塔は王城でも独立した場所として扱われている。騎士団の警備隊が取り締まる犯罪や個人のあいだの訴訟、最終的に王の決裁を仰ぐ重大な事件も、この塔で調査され、審議され、記録される。そして地下の書庫に保管されるのだ。
頭ではわかっていたが、一歩中に入ったとたん、クルトはその規模に圧倒された。
それはどこまで続くともしれない、梯子と階段と書架の迷路だった。明るく照らされた三層構造で、数カ所に吹き抜けが切られている。
壁は幾何学図形で区分けされ、書類でびっしり埋められていた。吹き抜けから下層をのぞくとまるで崖か、縦穴のようだ。
人影は見えなかったが、閉ざされた空間だけあって魔力の気配は明瞭に感じられ、無人ではなかった。そこかしこで案内板や索引が目にとまるが、学院の図書室のように司書がいるわけでもない。番号が振られた棚にインデックスが付された書類の綴りが並び、クルトによそよそしい顔を見せている。
すぐにここが今の自分には手に負えない場所だとクルトは理解した。これまで自分が学院で勉強してきた精霊魔術の実地技術や、王国行政についての討論とはまったく異なる世界だ。
ようやく、ヴェイユの講義を受けるとアダマールに伝えたとき、警告された意味がわかった。
クルトが学院初年から師事してきたアダマールはもう老年に達する精霊魔術師で、魔術師としての能力は衰えかけていたが、王族も教えてきた老獪な教師である。
「かまわんが、手こずるぞ」とアダマールはいったのだった。
「ヴェイユは理論家としても精霊魔術師としても一級だが、若いからといって手加減はしてくれん。加えて魔力で強引に押し切れるような内容でもない。……まあ、うぬぼれがちなそなたにはちょうどいいともいえるが。しかし最終学年で彼の講義を落としでもしたら、そなたの野心は最初からつまづくことになる。覚悟をきめてかかれ」
「もちろん、わかっています」
と、クルトはそのとき殊勝に答えたのだが、やや見込みが甘かったかもしれない。手助けになりそうな級友を誘えばよかった、という思いがちらつく。
それこそアダマール師がいうように、あまりうぬぼれないようにと心がけてはいる。しかしクルトは魔力を行使する課目でつねに上位をとり、苦手な分野についても級友たちの協力をあてにできたから、つい甘いことを考えてしまうのだった。
強い魔力はひとを問答無用に魅了するが、人格を保証しない、と教師たちは語る。魔力で人は評価されるのではなく、行いが価値をきめるのだ。何度もくりかえされた教えをクルトの頭はそれなりに理解している。
しかしクルトの楽観的で驕りがちな性格は、これらの教えにふくまれた戒めを、自分の足にまとわりつくゆるくて邪魔な網のように考えがちだった。それに他人に対してはだいたいにおいて気前よくふるまい、意地が悪いわけでもなく、顔も成績も家名もよいから、ごく自然に周囲の人間から慕われている。昨日のようなことはめったにないのだ。となると、それなりに自分はたいしたものではないかと自負するのもいたしかたない。
魔力の強さにしたところで、たまたまこのように生まれついたのだ。過剰に謙遜する必要もないだろう。
加えて、クルトは学院生活を愛していた。クルトにとって学院は、家名ばかり気にする実家よりはるかに自由で、しかも自分の力を日々確認することができる場所だった。
王立学院は簡素だが優美な設計で、どの教室も明るく、光と風に恵まれている。王城の南側に位置し、城と同じ石の壁に囲まれていた。明るく広大な庭園には薬草園も含まれ、育てられた花や薬草は王宮でも使われている。
魔術を学ぶ学生には、治療師の道へ進みたい者、クルトのように政策に関わりたい者、回路魔術を習得したい者、理論家になりたい者などがいるが、能力のある者すべてに学院の扉は開かれていた。にもかかわらず、王立魔術団はもちろん、王族や古くから続く格上の貴族と学院の関係は古い。宮廷で影響力があるのに学院と縁がないのはレムニスケート家くらいだろう。
ヴェイユの講義は庭園に面した明るい部屋で行われた。教室はどこも、寄木の床をみがく蝋のかすかな花の香りがして、学生たちの話し声のさざめきや、念話の魔力が格子の天井にぼんやりと立ち上がる。
ここへ入学できるのは一定以上の魔力を持った若者だけだ。出身によって差はあっても、どの教室、どの講義にも、選ばれたものだけがもつ親密な雰囲気があった。新入生のころは理由もなく厳しいと感じた教師やよそよそしかった同級生も、おなじ空間で魔術の実践を練習し、念話による討論をくりかえすうちに親しくなり、共通のつよい絆を持つようになる。
ここで得た絆は生涯つづくだろう。
学院の最初の日、ひとりの教師がいった言葉をクルトが疑ったことはない。
しかしいま自分が立つ審判の塔には、クルトがなじんだ学院とはまったくちがう、峻厳で冷たい印象があった。実は、ヴェイユに写しを持ってくるよう指示された記録がここに保管されている保証はない。だがこのような経験が少ないクルトにとって、最初にあたる場所は他に考えられなかった。
「私の学生には二つの作業を並行して行ってもらう。ひとつは古典的な文献の精読を通して魔術の基礎概念を検討する作業。もうひとつは、実際にこの国で過去、魔力が行使された事件を細かく検討することだ。もっとも、私の講義をはじめて受ける諸君には事件記録に慣れることから始めてもらう必要があるが……」
ヴェイユの言葉を思い出しつつ、クルトは索引と首っ引きで書架と梯子と階段の迷路をさまよう。いくつもの棚から綴りを引き出し、中身を確認し、戻しながら、司書への相談なしに探索するのはとてもむずかしいのを思い知る。――ハズレだ。これも違う。これも――これじゃない。
「大丈夫?」
唐突にかけられた声に振り向くと、壁際の小机で作業していた女性が手をとめてこちらを見上げていた。
クルトは焦りを隠して笑顔を向けた。
「すみません、慣れていないものですから」
クルトよりいくつか年長らしい灰色の上着を羽織った女性はぱっと顔をあからめ――初対面の相手からよく受ける好意で、クルトは気にもしなかった――ついで「学生さん? 手伝いましょうか。何をさがしているの」という。
「ありがとうございます」クルトは礼儀正しく答えた。
「学院の課題なんです。精霊魔術と回路魔術が衝突した事件の記録をさがしているのですが」
「魔術関係ね。それなら彼が今日、来ていたはずだから」
おそらく塔の職員なのだろう。女性はクルトの前を歩き、壁に設置された伝声管を持ち上げる。それが魔力を使った増幅装置でないことにクルトはふと興味をひかれた。
「ソールさん、学生さんが――」
覚えのある名前にふと耳がざわつく。しかしこのときは、クルトはまだ予想もしていなかった。
女性はしばし伝声管に向かっていたが、やがてひとりごとのように「ああ、いたわ。来てくれるみたい」といった。ついでクルトに小声で「地下書庫の神様が来るから、待ってて。彼に頼めば万全だから。でも、魔術以外なら、私でも助けになる場合はあるかも」とささやき、微笑むと、元の場所へと戻っていく。
うしろ姿にクルトは笑顔で礼をいった。まもなく軽い足音が通路の奥からひびき、書架のあいだに人影がみえる。
そして砂色の髪があらわれたのだ。
――カリーの店の、ソール。
「あんた……」
驚いたクルトの声に相手は目をあげたが、暗い色の眸には何の感情も読みとれなかった。
「またきみか」とだけいった。
あっさりした口調に、なぜかクルトはカッとなった。
「どうしてあんたがいるんだ? ここは審判の塔で、あんたの店じゃないだろう」
相手は動じた様子もない。
「あいにくだが、ここで仕事をしているときもある」
「いったいここでどんな仕事を?」
「きみのような学生にはわからんだろうが」淡々とした声に多少苛立ちらしきものがまじった。
「記録は積んでおくだけでは使えないんだ。必要な人間の元に届けるための作業がつねにあるんだよ」
暗い眸が挑発するようにきらめいた。
突然、そこにひらめいた何かがクルトの胸のうちの、固い部分を揺さぶった。クルトは反射的に魔力の触手を伸ばしかけ――
そしてはっと自制した。いま、俺は何をしようとしたのか。
クルト自身にもわからなかった。困惑してみつめた相手は、今日も魔力の気配をほとんど発していなかった。白い顔の表情は読みがたく、ただ底意地の悪い口調ときらめく眸は、クルトの無知を笑っているようにも思える。
いったい俺は何かの不運にでも魅入られているのだろうか。
思わず「どうして二日も続けてこんな――」とつぶやきかけると、間髪入れず、「きみこそどうしてこんなところにいるんだ? 精霊魔術師――の卵どの」と返される。
思わず頬が熱くなった。
「俺は講義に必要な資料をさがしにきたんだ。あんたこそ、自分の店に閉じこもっていたらいいだろう」
「悪いな。僕のちっぽけな店だけではやっていけないこともあるんでね」
「さすが客に本を売らない本屋だな」
今度は相手の方が視線をそらす番だった。
「僕は売る相手を選ぶんだ」
「だからここで働いているのか?」
ソールの顔がかすかに赤らんだ。頬にゆがんだ笑みがうかぶ。
「ありがたいことに、魔力頼みのきみとちがって僕は多才でね。それより何か探しているんだろう。この書庫にある記録ならわかるから、さっさと教えてくれ」
そうまでいうなら、手っ取り早く片づけてもらおうじゃないか。
「一四〇〇年代の精霊魔術と回路魔術が衝突した事件のひとつで、魔術師アーベルの――」
勢いこんで説明しようとした言葉はたちまちさえぎられた。
「――それなら、ここにはない。いや、正確にいうなら、きみには閲覧できない場所にある」
クルトは鼻息も荒く、目の前に立つ白い顔をにらむ。「まだ最後までいってないぞ」
相手はわざとらしく吐息をついた。ソールの背丈はクルトと同じくらいで、向かいあうとちょうど目線があう。
「聞くまでもないんだ。アーベルが関与した事件記録は学生には閲覧できない。禁止区画にあって、写しはレムニスケートと回路魔術師団が保管している。きみは何年も王立学院で勉強してきたのに、魔術理論文献の基礎知識もないのか?」
「それならどう――」
「原本を調べることができなくても事件記録への接近方法はいくつかある。まずアーベル本人が書いた書物と注釈書だ。記録の多くはそこで引用されているし、関連事件についてもいくつかの注釈書に載っている。きみはここへ来る前に学院の図書室へ行くべきだった。最初は『回路と力の論理』と注釈書をいくつかあたるのがいい。ダランベールの注釈が有名だ。もっとも、きみの目的が最終的に魔術の概念検討にあるのなら、僕はロンスキーを勧めるね。アーベルの著作ならもちろん図書室に全巻そろっているだろう。注釈書はあるとはかぎらないが――」
「どうせあんたの書店にはすべてあるんだろう」
思わず言葉をさえぎりながら、クルトの胸の底は波立ち、経験したこともないくらい苛立っていた。目の前でなめらかにまくしたてる相手に腹が立ち、魅入られるようにそれを聞いていた自分に腹が立つ。なんだかわからないがとにかくすべてに腹が立った。
「もちろんだ」
いきおいよく喋ったせいかソールの顔はかすかに上気し、生き生きとしている。日光と縁のなさそうな肌はきめ細やかで、よくうごく唇がクルトの眼を釘づけにする。
わかった。こいつは書物狂の学者もどきだ。知識だけで生きているアマチュア学者なのだ。
内心にそういいきかせ、「でも、俺には売らないわけだ」とクルトはいった。
にらみつけるようにソールに眼をあわせる。いつもならクルトがこうすれば、相手の魔力が多少弱くとも、意思と意思の交錯がおきて共感がつうじるのだ。だがソールからはなにも返ってこなかった。ゆがんだ笑いがその頬にうかび、暗い眸がクルトからつとそらされる。
「――ああ、売りたくないね」
「俺も願いさげだよ。魔力もないただの頭でっかちから、世界の秘密に関わる書物を手に入れるなんて」
それは深く考えもせず出てしまった言葉だった。
しまった、と思う。いつもならこんな失言はしないのに、いったい俺はどうしたんだ?
しかしソールは無表情にクルトへ視線をやり、肩をすくめただけだった。黙ってふりむくと無言で来た通路をたどりはじめる。ひょろりと細い体が階段の下へ消えようとする。焦ったクルトは弁解とも謝罪ともつかない言葉をさがしたが、口の中はカラカラで、何もでてこなかった。念話なら――と思った。念話が通じればすぐに、少なくとも、いまの自分の発言は――本意ではないのだと、相手に伝えることはできるのに。
いまこの場所では、自分の魔力は何の役にも立たなかった。
うすい背中が視界から消えるのをクルトはまじろぎもせずみつめていた。
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