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【第1部 書物の影で】5.ソール

 一枚一枚、ページをめくる。  一冊一冊、綴じのほころびや虫食い、汚れを調べ、記録する。破損の度合いがひどければ、職人に相談するためによけておく。それ以外は僕が自分で直す。羽根ぼうきでほこりを丹念にはらい、革表紙を磨き、廉価版の印刷本も寿命が長くなるようにできるだけの補修をほどこす。書誌を小さなカードと台帳にそれぞれ書き記し、カードを整理箱へ格納する。  終わるとようやく店に並べる番となる。分野によってはどこへ収納するか頭を悩ませることもある。仕入れてみたはいいが売り物にならなかった屑本は、入口近くのカゴへほうりこんでおく。好奇心旺盛な客――たいていは平民出の学生たちだ――が拾っていくだろう。僕も先代のカリーの「屑カゴ」から本をもらったものだった。カリーの眼には屑本でも、当時の僕にはそうではなかった。  僕は書店の仕事が好きだった。作業机の裏側には請求書の束があり、雑務が数年分の層になっているとしても、仕事に集中すればたいていの雑念を払うことができる。この店では「魔術」に関するものをなんでも扱っているから、本の内容は魔術師が活躍する物語から、魔術装置のための銀の精錬法まで様々だ。  客は常連がほとんどで、その中には定期的に大金を落としてくれるコレクターもいる。だが、店にやってきては背表紙だけ眺め、屑本のカゴをかきまわし、年に一、二度、とぼしい食費をやりくりして書物を買うような貧乏学生も僕には大事な客だった。  どんな本のページをめくっても、その文字には力が宿るのだ、と僕は思う。  魔力などなくても、書物にはひとを救う力がある。  ――そのはずだったが、今日はうまくいかなかった。  台帳に書き損じやインクのしみをいくつか落としたあげく、僕は作業をあきらめた。何をしていても塔の書庫で会った学生のことを思い出してしまう。  自業自得なのだとわかっていた。単に僕がむけた敵意を返されただけなのだ。きっと彼には僕の言葉や態度、すべてが理不尽に感じられたことだろう。  だいたい昨日にしても、この店からあんな無碍に追い返す必要はなかった。もしかしたら上客になったかもしれないのだ。偶然、書庫でかちあうなんて事があるならなおさらだ。  まったく僕は商売に向いていない。おやじのいう通りだ。肘をついた手に顔を埋めて、僕は自嘲の笑いをもらす。  それに、もっとうんざりすることに、僕が彼に対してそんな態度をとった理由もわかっていた。  妬ましいのだ。  彼が持っているすべてのものが妬ましかった。力や身分や容姿だけじゃない。はしばしから伝わるあの明るさ、未来への無邪気な信頼、なにもかもが腹立たしく、苛立ったという、それだけだ。そしてそう感じてしまう自分が嫌だった。  気にするな。ただの子供じゃないか。  沼の中へ足を踏み入れたように気分がしずんでいく。頭の奥でくりかえし今日の出来事が再生され、さらに昔の記憶へさかのぼる。よくない兆候だった。  客も来ないし、もうじき閉店だ。かまわないだろうと僕は立ちあがり、施療院の薬を探した。棚の奥に押しやられていた青いガラスの瓶と丸薬の壺をひっぱりだし、指の先ほどの量をグラスに注ぐ。丸薬といっしょに飲みこむ。  すぐに効くのを期待して、あとまわしにしていた高所の棚の整理をすることにした。先代のカリーが薬草学の図版類を雑につめこんで放置していた棚だ。はしごの上で紙束を引き出しては並びかえ、インデックスのないものを発見すると作業机へもどす。上下を往復するうちたしかに薬は効いたようで、気分が落ち着いてきた。こういってはなんだが、先代の仕事は雑だった。コレクターや仲介業者が喜ぶ緻密なカタログは、僕がこの店を手伝いはじめてから生まれたものだ。 「ソール?」  ふいに下で聞きなれた声が呼んだ。僕は朝ラジアンが寄るといっていたのを思い出した。しまった、薬を飲んでしまった。彼の前でおかしな具合に酔っぱらわなければいいが。  ともあれ、はしごの上から僕は手を振った。 「ラジアン。ここだ」 「何をしているんだ」 「ちょっと、たまっていた整理を」 「飯を買ってきたぞ。今日はちゃんと食ったか?」 「ああ――」食べた、といおうとして僕はためらった。「まあな」  実際は例の学生と話したあと、昼食をとらずに最下層にこもっていたのだった。塔を出るとき、知人に菓子とお茶をごちそうにはなったが。  ラジアンは聞き逃さなかった。 「食ってないだろう」 「大丈夫だよ」 「それ以上薄くなったらどうするんだ。飯にするぞ」 「わかったから、待ってくれ」  勝手知ったる様子で歩きまわる音が聞こえる。ラジアンとは僕が魔力を失った事故の直後に知り合った。まだ新米騎士だった彼が担当で、最初に会話したのは尋問のときだった。だが僕が施療院で療養していた頃も訪ねてきて、いつの間にか友人になっていた。知り合ってもう十年だ。  騎士になる者は生まれつき魔力が少ない場合が多く、ほとんどは魔力そのものに鈍感だ。ラジアンも魔力が少なく、当然念話をあやつることもできなかった。昔の僕はそんな彼らが苦手だったが、今ではむしろそれがありがたい。  突然魔力を失くした僕は、事故のあとしばらくのあいだ、精霊魔術を使うかつての友人たちとまともに会話ができなかった。あまりにも長いあいだ、魔力を使って親密に意思を通じあわせることに慣れていて、口に出す言葉だけでなにかを伝えることが――あのときはことさら――できなかったのだ。  いったい想像がつくだろうか、ふつうのひとは会話をするとき、言葉だけで話しているわけじゃない。指先や姿勢のかすかな動き、顔の筋肉のわずかな緊張、視線の移動、これらを受け取ったり、投げたりしながら、意思や気持ちを通じさせている。相手は自分の話を聞いているか? 自分についてどう感じているか? この相手は信用できそうか? 快活で元気か、疲れて憂鬱か? たくさんの情報を、ひとは言葉以外のしるしでうけとるのだ。  だが念話ができるほど魔力のある者にとっては、事情は変わってくる。念話はとても「親密な会話」だ。その内容は「言葉として」相手につながる。けれど念話では同時に感情、気持ちの機敏も伝わるのだ。このときひとは、嘘がつけない。  ――いや、これは正確じゃない。できる者もいる。だが多くの精霊魔術師はそう考えていないし、僕も特殊なケースだと思っている。  そして何年も念話という「親密な会話」をあたりまえだと思っていた僕にとって、かつての友人とのやりとりは耐えがたかった。  なにしろ僕にはまったく、完全にまったくわからなかったからだ。彼らが何を考えているのか、何を感じているのか。 「ふつうの人間」としての会話に慣れるまで相当な時間が必要だった。そんな時にラジアンと知りあい、彼を通じて騎士仲間や、その他の念話を使えない人びとと交流できたのは幸運だったと思う。ラジアンは辛抱強かった。ときおり僕がひどい状態になったときも、焦らず、離れずにいてくれた。念話など使わずとも僕らは親しくなれたと思っていたし、実際すこし親しすぎた。だからこそ…… 「ソール? まだか」 「ああ、今いく――うわっ」  すでに薬の副作用が出ていたのだろう。はしごの段を踏む足がすべり、空を切る。あわてて伸ばした腕のあいだから抱えていた紙束が舞いおちる。みっともなく数段分ずりおちたあと、僕は鈍い音を立てて床におち、うつぶせに転がっていた。足音が響き「大丈夫か?」という声がする。 「ああ、大丈夫…」  力強い手が肩にまわり、抱きおこされる。ぬくもりに僕の全身が安堵し、そのままもたれかかろうとして――次の瞬間、僕は体をねじってラジアンの腕を払った。 「大丈夫だ。立てるから」  うつむいたまま上着をのばし、彼の方を見ないようにする。まだ体に彼の腕の感触が残っている気がするのは、薬のせいだ。 「今日は調子が悪くて、さっき薬を飲んだ。そのせいだから」 「……何かあったのか?」 「べつに。たいしたことじゃない」 「ソール……」 「頼む、触らないでくれ」  ふりむくとラジアンは眉をよせていて、僕を気遣っているにちがいない表情が逆に癪に触った。 「大丈夫だっていっただろう」  僕はそういって床に落ちた図版をひろいあつめる。ほとんどは細密に描かれた植物だ。 「――なあ、ソール」とラジアンがいう。 「あの晩のことは……いつまでも気にするな。友人同士でというのは、騎士団ではよくあることだ」 「そうなんだろうな」僕はうつむいて図版の上の塵をはらった。 「おまえのその……状態で、人肌が恋しくなるなんて当たり前のことだ。誰だってそんなもんだろう。俺にとっておまえが大事な友人だということに変わりはない」 「そうだな。ありがとう」 「ソール、こっちを向け」  突然両肩をつかまれ、引き寄せられた。僕はもがき、振りほどこうとした。ラジアンの腕が背中にまわり、革と汗の匂いがして、体が熱くなる。 「ラジアン、離せ。頼むから……」 「ソール、怖がらなくていい。おまえが大事だっていっただろう」 「ラジアン――」 「起きたことはしかたないし、嫌なら忘れていいんだ」 「いいから、触るな……!」僕が怒鳴るのと同時に、店の扉がきしむ音がした。 「友人だっていうなら、もうすぐ婚約するくせに妙なことをいうな。だいたいおまえこそ忘れたのか? 僕は何も――忘れられないんだ!」  驚いたラジアンの腕がゆるみ、僕は一歩下がる。風が吹きこんで床に散らばった紙をはためかせたが、僕は気にとめていなかった。ラジアンが触れていた場所がまだ熱く、心臓がどきどきする。もう一歩下がって、書棚に背中があたった。 「どうして知ってる?」 「どうしてもなにも、噂でもちきりじゃないか」 「俺は直接いうつもりで――」 「僕だって直接いうつもりだったさ。おめでとう。相手はあの子だろう、王宮づとめの女官で」 「ああ……そうなんだが……」 「だったら誤解をうけそうなことはやめてくれ。僕は……もう、噂のネタになるのはごめんだ」  ラジアンは腕を引いて、後ろに下がった。 「すまない。悪かった」  ゴホっという音が聞こえたのはそのときだった。僕らはいっせいにとびあがり、音のする方をみた。外はもう真っ暗で、扉のかたちに闇が切り取られた中に居心地悪そうに立っているのは、もはや見覚えてしまった姿だった。  なんてこった、と僕は思った。いったいなんなんだ。 「あの……すまない。またあとで――」  戸口から、昼間にあったときの勢いとは似ても似つかない、ためらいがちの声が聞こえる。  そのままきびすをかえそうとした学生に、僕は反射的に声をかけていた。 「帰るな」 「いやその……」  僕はいそいで相手の正面にまわった。「いいから――クルト」名前を声に出すとおかしな感じがした。「用件をいってくれ」  クルト・ハスケルは驚いたように目をみひらいて、まばたきした。よく表情の変わる男だな、と僕は思った。最初に会ったときにも同じようなことを思わなかっただろうか。 「つまりその……謝罪に来た。昼間の審判の塔のことで……それと、参考文献を相談に……」 「わかった。申し訳ないが、いまは取り込み中だ。明日また来てもらえないか?」 「ああ、その……いいのか?」 「昼間のことは僕も悪かった」  視界のすみでラジアンのいぶかしげな視線を感じながら、僕は言葉を続けた。 「きみがほしい文献の見当はついてる。用意しておくから、明日また来てくれ」 「わかった。その――」 「今度は売らないなんていわないさ」  僕がそういうと学生はふいに笑った。まるで子犬のようだった。人好きのする、警戒心をゆるめさせる笑顔。彼に敵は少ないにちがいない。きっと魔力の量とは関係がない。 「ありがとう。カリーの……」 「ソールでいい。ただのソールだ」 「ソール」  学生は僕の名をくりかえした。声には奇妙な響きがあった。秘密の贈り物をもらったような、期待にみちた響きだ。 「じゃあ、明日」  そういってクルトは退き、扉が閉まった。  外の足音が消えたのをたしかめると、僕はそのまま扉にもたれて、ずるずると床に座りこんだ。またラジアンが気遣わしげにみているのを感じたが、近づいてはこなかった。 「誰だ?」と聞く。 「王立学院の学生だよ」 「ハスケル家の者だな」 「ああ。知ってるか?」 「息子についてはよく知らないが、父親なら。息子の優秀さをよく王宮で宣伝しているらしい」 「まあ、実際に優秀なんだろうさ」  僕は疲れ切っていた。 「すまない。帰ってくれないか」 「ソール――」 「僕たちは友達だろう。それで十分だ」  ラジアンは僕の顔をみて、うなずいた。僕は立ち上がり、いましがた閉めたばかりの扉をあける。ラジアンが出ていくと扉をしめ、鍵をかけた。扉の錠前と、鎖と、つっかい棒と。  店の奥へ行くと、ラジアンが持ってきた食べ物がテーブルに並べてあった。  ――ああ、もうだめだ。  僕は椅子に崩れおちた。そのまましばらく、動けなかった。

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