6 / 59

【第1部 書物の影で】6.クルト

 切り替えが早いのは自分の長所だ。  そうクルトは思っている。まずいことをしでかしたと気づけば、いさぎよく認めてやり直しや修正をすればいい。アレクはそんなクルトをよく、単純だとか脳天気だといって笑うが、クルトにいわせれば、自分の失敗だとわかっていることについてぐずぐずと思いなやむのは馬鹿げているというものだ。  これは子供のころからの癖、いわば反射運動のようなものだった。多少みっともなくてもいい、とにかく何か行動をおこせば、結果はどうあれ少なくともその「何か」はやったことになるわけで、しかもそんなふうにすばやく対処した自分を自分で褒められる。  他人に褒められるのはもちろんうれしい。だが、自分で自分を誇らしく思えないようでは、お話にならない。    そんなわけで、痩せた古書店主がひんやりした地下書庫の下層へ消えていくのを茫然と見送ったクルトだったが、しばらくしていつもの自分を取り戻した。  まずは先ほどの失言を謝罪するため、あとを追うことを考えた。だがこの広い書庫のどこへあの男が消えたのか見当もつかない上、ただでさえこの場に不案内な自分が追いかけても、それこそ時間の無駄だと思い直した。いつまでここにいるのかはわからないが、書庫が閉まる夕方には城下の書店へ帰るだろうから、そこまで足を運べばいいのだ。  それに彼は有益な情報もくれた。もともとクルトがここへ来たのは間違いだったということだ。まず学院の図書室へ行って、彼が教えてくれたように文献をあたればいいのである。図書室にはなじみの司書もいるのだから、みつけるのもたやすいはずだ。  これも子供の頃からの癖で、気分を変えるため頭の中で陽気な音楽を鳴らし、というよりむしろ鼻唄を歌いつつクルトは学院へ戻ると、さっそく図書室へ行った。書店主がいったように、アーベルの全集はもちろん、ダランベールの注釈書もすぐにみつかったが、肝心のロンスキーが見あたらない。ともあれ手に入る注釈書からめぼしい事件のリストを作る作業に没頭していると、アレクから念話が届いた。 『クルト、どこにいるんだ?』 『図書室だが、どうした』 『勉強中か。ずいぶんご機嫌だな』 『ん? なぜ?』 『おまえの歌、ずっと〈放送〉されてるぜ。ここまで聴こえるぞ』  ひさしぶりじゃないか、とアレクが笑っている。向こうもご機嫌だから問題はなさそうだが、そんなに漏れていたのか、とクルトは驚いた。 『そうか。まったく気づいてなかった』 『入学したての頃はおまえの歌で授業が台無しになったりしてひどかったが、最近はなかったのにな』 『それ、もう忘れてくれ』  魔力量の多い者はみな、奇妙な癖を持っている。それは魔力が無意識に放散されるときにあらわれるもので、たとえば気分が高揚すると鳥や動物を呼んでしまったり、太陽さながらの光を放ったり、植物の成長を早めたりする。クルトのそれは「歌」だった。頭の中だけに留めているはずの音楽や鼻唄を周囲の者に聴かせてしまうのだ。もっともそれが聴こえるのは、念話ができるくらい魔力がある人間だけだ。  もともと、子供のころのクルトには大きな声で鼻唄を歌う癖があった。家庭教師にやめるようにいわれてから頭の中だけで歌うようになったのだが、次第にそれが魔力を放散する癖に変わったらしい。学院に入る前は周囲に念話ができる者があまりいなかったので、自分の鼻唄が吟遊詩人さながら周囲に鑑賞されているなど、クルトは思いもしていなかった。集中しているときにきまって出てくる癖だから、なおさらだ。  教室で自分以外の全員がいぶかしげな顔をしてこちらを見ていたときのことを思い出すと、今でも恥ずかしい。 『まあ、いいじゃないか。歌のおかげで頭痛がとれたよ』とアレクがいう。『クルトはやっぱり治療師の方が向いているんじゃないか』 『馬鹿をいわないでくれ。施療院にこもって病人だけを相手にするなんて、ごめんだよ』 『それなら歌う政策顧問になるしかないね。想像しただけでおもしろい』 『やめろって』  どうやら無意識に発せられた自分の「歌」には癒しの効果があるらしい。少なくともこの歌が「聴こえる」人間には効き目があるらしく、連中はアレクのように頭痛がとれたとか、怪我の痛みが一時的にひいた、気分が晴れた、などという。  これは学院に入ってからクルトが敵を作らなかった理由のひとつだった。なにしろ自分がいい気分で鼻唄を歌っているだけで、まわりの人間までいい気分になってしまうのだから。  しかし意識せずにやっていることでもあり、クルトにとってこの「歌」はちょっとした余技にすぎなかった。最終学年となった今年、卒業後治療師にならないかという誘いが施療院からきたときは、驚いて即座に断ったくらいだ。  クルトがめざしているのは最初から宮廷で、それ以外のゴールなど想像もしていなかった。 『それにしても、ちゃんとやっているんだな。最終学年で新しい講義をとるなんて、どうするんだと思ったが』 『ヴェイユ師は厳しいからな。だがここでうまくやらないと、そもそも学院に来た目的が潰える』 『それ、まだしばらくかかるのか? このあとの予定は? 』 『予定――』クルトはすこし考えた。『夜になる前に、城下へ行く用がある』 『ラウラがしばらくおまえに会ってないってぼやいてた。話してないのか』 『ああ……ラウラね』  その名前を聞いたとたん、クルトの意識がそれた。いきなりアレクとの会話が面倒になる。 『どうせ家に帰れば会えるんだし、いいだろう』  アレクからため息のような気配が伝わってくる。 『おまえ、正直すぎるな』 『念話で嘘をつくなんて高等技術、俺はもってない』 『ラウラはおまえが好きなんだよ』 『幼馴染で、親が決めた相手なのにな』  幼い頃から付き合いのあるラウラはアニージ家の娘だ。家名が釣りあうという父の意向で昔から許嫁として扱われている。なにしろアレクより付き合いは長いから、クルトにとっては妹のようだった。アレクと親しくなってからはよく三人で出かけるようになり、今に至る。  本音をいえば、クルトはこの家同士の約束はいずれ反故になるだろうと思っていた。なぜならクルト自身がまったく興味を持てなかったからだ。王立魔術団の精霊魔術師は、魔術師同士で婚姻することが多い。念話を介した親密なつながりを経験すると、それができない普通の者との結婚は考えにくかった。  とはいっても、いまだにクルトは誰とも深いつきあいはしていない。もちろん誘いはひきもきらず、短い交際なら男女問わず山ほど経験している。おかげで「たらしのハスケル」とアレクにはからかわれるが、長く続いた相手はいなかった。  だいたい、世間のイメージとちがって精霊魔術師には奔放な者が多いのだ。嘘だと思うなら、体をつなげながら魔力も交換するようなセックスを経験してみるといい。  ふと、魔力の気配がほぼ感じられないあの男の姿が思い出された。白い顔の中で不思議なほど惹きつけられた、よく動く唇が脳裏にうかぶ。  そのぼんやりした夢想をアレクの声が断ち切った。 『そんなことをいうならクルト、俺がもらうぞ』  そこには冗談めかしていたが、真剣な響きも含まれているのがわかった。 『本気か? 一族あげて喧々諤々になるぞ』 『だがな、クルト。おまえは魔術師として宮廷に仕えるだろうが、俺は領主を継ぐ。ラウラにとって、どっちがいいと思う』 『――おまえかもな』 『だろう』  アレクは笑っていて、伝わってくる明るい調子にクルトは安心する。自分の意思と無縁なところで父が決めた約束のために、友人を失うつもりなどなかった。  図書室を離れたのは夕暮れになるころだった。アダマール師の居室に寄って簡単に報告をする。文献を探しているというと、師は白い眉毛をよせて「カリーの店には行ったか」と聞いた。  クルトは正直に答えた。 「昨日行って、店主に追い返されました」  アダマールは表情も変えなかった。「で?」 「じつは今日の昼、審判の塔の書庫で会って……」 「それで?」 「また追い返されました」  くわしい話はしなかった。呆れられるだけだろう。だがアダマールはクルトの顔をみて、おもしろいものでもみつけたかのように眼をきらめかせた。 「そなたよほど、驚いたな」 「え?」 「ソールは魔力がない。だが知識は一級だ。この学院の教師に匹敵するだろう。学生の頃もとても優秀だったが、カリーを継いでからというもの、知識については我々も超えるかもしれん」  クルトはぽかんとした。 「あの……店主は、ここの学生だったんですか?」 「ああ。すぐれた精霊魔術の使い手だった」 「でも、魔力がないと……」 「事故で魔力を失ったんだ。昔の彼はいまのそなたのように、いつも抑えられない魔力を放散させていた。視る能力、それに洞察力で突出していた。何事もなければ、これまでこの国にいなかったような魔術師になれたかもしれん」 「……何があったんです?」 「事故だよ。不幸な事故だ。あのとき我々は他にも学生を失ったが、幸いにもソールは失わずにすんだ。魔力がなくても学院に留まってほしかったのだが、カリーの店を継ぐといわれてね。とめられなかった。――クルト、口を閉じたほうがいいぞ。男前が台無しだ」  クルトはあわてて口を閉じ、またひらき、また閉じた。 「どうした?」 「あ、いや、その。ヴェイユ師の授業のためにカリーの店主の力を借りないといけないんです」 「なのに追い返されたのか」 「俺――謝ってきます!」  あまり考えもせずクルトは師の前を辞した。急ぎ足で学院を出て城下へ回る。夕暮れが濃くなり、昨日とおなじように商店街の明かりがきらめいていた。奥まった路地にあるカリーの店の扉、ひらいた書物の形象を押すと、蝶つがいがぎいっときしんだ音を立てた。 「いいから、触るな…!」怒鳴るような声が聞こえた。 「友人だっていうなら、もうすぐ婚約するくせに妙なことをいうな。だいたいおまえこそ忘れたのか? 僕は何も――忘れられないんだ!」  何が起きているんだ? 理解できずに棒立ちになったクルトの前に、騎士服を着た大柄な男と店主が向かいあっている。書棚に背をつけ、追いつめられたように立つ店主の顔のすぐ横に男が手をついていて、――どうみてもとてもプライヴェートな争いの最中だった。  まずい、立ち去れ、という道理の声が頭の隅に聞こえる。なのにクルトは動けなかった。そのかわりゴホっという妙な音を立ててしまい、とたんに争っていた二人がクルトの方をみた。  あまりにも間が抜けすぎている、と地団太を踏みたい気持ちで、クルトはモゴモゴと声を発した。 「あの……すまない。またあとで――」  そのままふりむいて帰ろうとしたとき「帰るな」という店主の言葉がかかった。強い口調だった。 「いやその……」  店主はすばやくクルトの方へ回り、彼の名を呼んだ。「用件をいってくれ」  店主の声はクルトに奇妙な効果をもたらした。ざわざわと胸が騒いだのだ。店主は昼間と同じ簡素な服装だった。争ったせいかシャツが少し乱れ、白い顔をふちどる巻き毛があちこちへ流れている。暗い色の眸は昼間より大きく、すこしうるんでいた。襟元からのぞく首筋、繊細なあごの線から唇へ、惹きつけられるように視線が流れる。  クルトは思わず唾をのみこんだ。自分の中で欲望がうごめくのを意識し、それを押し殺そうとあわてて口をひらく。 「つまりその……謝罪に来た。昼間の塔でのことで……それから、参考文献を相談に……」  いつもの自分とは真逆で、きちんと話せず、自信なさげな口調になってしまう。だが店主はクルトをみて緊張をゆるめた。そして驚いたことに――かすかに笑った。  それはたしかに微笑みだった。皮肉も意地悪さもない、でもひどく、はかなげな笑みだった。 「わかった。申し訳ないが、いまは取り込み中だ。明日また来てもらえないか?」 「ああ、その……いいのか?」  また胸がざわつくのを感じながらクルトは言葉を返す。すると店主はクルトの眼をみながら、きっぱりといった。 「昼間のことは僕も悪かった」  さらりと出された謝罪の言葉にクルトは内心ひどく驚いていた。さらに、続けられた言葉にも。 「きみがほしい文献の見当はついてる。用意しておくから、明日また来てくれ」 「わかった。その――」 「今度は売らないなんていわないさ」  これは和解なのだ。クルトは嬉しくなって、今度は本当に安堵の笑いをもらした。  とたんに相手はクルトの顔をまじまじとみて、つぎに楽しそうな表情になった。 「ありがとう。カリーの……」  どう呼べばいいのかとためらったクルトに「ソールでいい。ただのソールだ」と店主はいう。  クルトは迷った。いまや学院の先輩で、師ですら一目をおく相手とわかったのに、呼び捨てていいものだろうか。それにかなり年上のはずだ。しかし向こうがそう呼べというからには……。 「ソール」  思い切って口に出すと、なかなかいい響きの名だった。きれいな歌がうたえそうだ。すると突然、体の奥でさっき感じた欲望がよみがえり、今度こそクルトはあわてた。ろくに目もあわせずに店を辞し、扉を閉める。  歩きながら、いったい今起きたことは何だったのだろうか、とクルトは考えた。魔力の少ない相手に欲情したり、興味をもつことなんて、これまでただ一度もなかった。だいたい、魔力が少ないどころではない。アダマール師のせいだろうか。かつて強力な魔力の持ち主だったときいたから、そのせいか。  下種な興味を持つなど、失礼な話だ。  クルトは思わず自分を叱った。店にいた騎士は友人か、恋人か――とにかく店主にとって親密な相手にちがいなく、思いがけずプライヴェートな会話にふみこんでしまったから、それにあてられたのだろう。  明日またここに来るにしても、今晩のことは忘れなければ、と思う。  そしてふと思い出した。  口論のさなかの店主の言葉――忘れられないとは、どういうことだろう?

ともだちにシェアしよう!