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【第1部 書物の影で】7.ソール

 予想できたことだが、よい夜ではなかった。  あんなふうに友人を追い返していてなんだが、僕はラジアンが用意した夕食を無駄にしたくなかった。自慢することでもないが、僕は自他ともに認めるケチなのだ。赤字つづきの零細書店経営主とはそういうものだ。  やっと動けるようになって、食事に手をつけようとする。パンと惣菜。スープは冷めてしまっていた。火をおこすのが面倒で、冷たいまま飲んだ。意思に反して体が受けつけず、吐きそうになる。  結局一人前も食べられなかった。この季節なら明日まで大丈夫だろうと、僕は覆った皿を戸棚に入れた。  店の奥、作業台の向こうが僕のささやかな食事のための空間だ。その突きあたりの扉をあけるとせまい階段があり、横手に裏口の扉、反対側に水回り。階段を上った先が寝室。寝室はもはや名目だけで、実体はというと書物のあいだに寝台が埋もれているような部屋だが、僕にとっては城下でいちばん安らぐ場所だった。  今日はさっさと寝支度をして横になろう。夕方飲んだはずの薬の効き目はもう切れてしまったようだ。もう一度飲んでもいいかもしれなかった。誰とも会う必要がないから、安心だ。  おなじ分量を飲んで、何を読むか考える。ここしばらく寝る前の友だった大陸の地理と動物の博物誌はもう、読み終わってしまった。僕は文字ならなんでも読む。積んである山から適当に引き抜いた。表紙に黒のローブを着た魔術師と騎士が描かれていて、物語のようだった。恋愛ものだ――けしからん。  ……とは思わなかったが、読みはじめると落ちつかなくなった。  施療院の薬は気分が下がるのをとめてくれるものの、ときに僕をひどく酔わせる。酒に酔ったようにふらつく場合もあるが、僕がほんとうに恐れているのは別のことだった。薬は僕をリラックスさせ、開放的にさせる。あげくとても……人肌が欲しくなることがある。そんなときに誰かが近くにいたら――推して知るべしだ。  誰だってそんなもんだろう、とラジアンはいった。そうなのかもしれないが、今の僕が受け入れられるのは同性だけで、友人をセックスの相手にしてしまうのが僕は嫌だった。  不思議なことに魔力を失くす前は同性だけではなかったのだ――まあ、魔力がいっさいない今だからいえることだが、精霊魔術を扱う人間たちというのは少し変わっている。心と心で親密にふれあい、体と魔力を重ねるとき、性別はあまり関係がない。  それが魔力をなくしたとたん、僕は同性以外受け入れられなくなってしまった。ひょっとしたら僕はもともとそういう人間だったのかもしれない。魔術師になった者など先祖にも縁戚にもひとりもいない、田舎の商人の家でいきなり膨大な魔力を持って生まれ、おやじをはじめ家族みんなに「奇妙な子供」と思われていた僕だが、魔力と関係なく、少しひとと違っていたのかもしれなかった。王都は田舎にくらべればましだが、同性しか受けつけない者は少数派だ。  ラジアンとセックスしたのは一度だけにすぎない。騎士団の中にある友愛関係のおかげで彼には抵抗がなかったのだろう。僕が後悔するには十分だった。ほぼ唯一といっていい友人を、友人以上だと勘違いしはじめたら、終わりは目にみえている。しかも彼はもうすぐ結婚するというのだ。  嫌なら忘れればいいともラジアンはいったが、問題は嫌ではないことだった。しかも僕は忘れられないときている。こうしてすぐ、ありありと思い出せる。思い出すというよりも、心がその時間の中に戻っていく、という方がちかい。  ラジアンの武骨な指が僕の背中をたどっておりていき、腰をつかみ、尻をなでる。首筋に吐息がかかり、胸をいじられると、僕はたまらず声をあげてしまう。口づけをしたかったが、まちがっている気がしてできなかった。そのかわり僕はラジアンの指をなめ、彼自身を口に含み、愛撫して、しまいに僕の奥深くへ侵入させる。薬のおかげでふだんの僕には考えられないような声をあげて、もっと奥に来てほしいと彼にねだる。  かつて知っていたセックスは、体が接触するだけのものではなかった。そこには魔力を介した感情と感覚の触れあいがあり、体を重ねている相手がどこでどう快楽を感じているのか克明にわかるのだった。だからそれはすぐ、たがいに喜びをさがすゲームとなり、相手の快楽が自分の快楽となる。  今の僕にはそんなことはわからない。ラジアンが荒い息をつきながらうつぶせになった僕を押さえつけ、侵入すると、最初は苦痛で息がとまりそうだが、それでも背中にかぶさってくる肌の重みは僕を安堵させる。魔力という光がない、真っ暗闇の中でただ、僕を抱きとめている体があることがうれしい。後ろから押しこまれ、裂けるような痛みのなかで、僕自身を愛撫されて、苦痛がだんだんゆるんでくる。奥を突かれ、粘膜がこすれる感触に僕は大きな声をあげ、膝立ちになって尻を高くつきだす。 「くそ、そんなに締めるな…」とラジアンがつぶやき、いったん僕から出ると姿勢を変える。彼の指をしゃぶりながら僕は向かいあって彼の膝に腰をおとし、根元まで受け入れる。ラジアンは片手で僕の腰をささえながら胸の突起を唇でなぶり、手を前にずらして、堅くなった僕の先端を指でもてあそぶ。僕は息をのみ、するどい叫びをあげて腰を上下させ、彼をしめつける。下から激しく突き上げられると、翻弄されるままに叫びつづけるのをとめられない。ほかのときならけっして他人にみせない涙がこぼれ、ラジアンの汗の匂いをかぎ、大きな暖かい波に何度も襲われるように、僕は腰を振りながら何度も達する。  頭の芯が白くなり、とても、気持ちがいい……そのことだけで心がいっぱいになり、ほんの一時、僕の中の空虚が埋まる。  過去の時間をそのまま経験するのは、夢をみているのとすこし似ている。  夢とちがうのはそれがたしかに現実だったということだ。忘れられない、ということをひとは理解しない。なぜならみんな、忘れるからだ。時間が解決するとか、嫌なことは忘れてしまえばいいとか、みんな驚くほどあっさりいう。そしてみんな本当に、驚くほどあっさりと忘れてしまう。もちろんそれは恵みにほかならない。僕もいつかあっさりと忘れ去られるだろう。ラジアンも忘れてくれるにちがいない。僕が友人にこんな痴態をさらしたことを。  どちらかというと早くそうなりたかった。ひとりの寝台にねそべって、読み流していた物語の中では、魔術師と騎士が出会っては好きあい、運命の手によって引き離され、再会してまた愛しあっている。  物語はいいものだと僕は思う。やさしく、都合よくできていて、僕の知っているこの世界とはちがう。物語の中では、見捨てられた者は拾われ、別れたひとびとはまた出会い、失ったものはいつか、戻ってくるのだ。

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