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【第1部 書物の影で】8.クルト
カリーの店が面する路地はいつ来てもあまりそれほどの人通りはないらしい。
石畳を歩いていくと小鳥が数羽、あわてたように飛び立った。クルトは扉に刻まれたひらいた書物の形象の前にたち、昨日とおなじように扉を押した。
開かなかった。
クルトは一歩下がって扉を眺めた。中央にはめられた小さなノッカーに気づいて、二度叩いてみる。
何も反応はない。
店の正面に窓はなく、耳をすましてみても内側の気配はまったくわからなかった。もちろん魔力の気配もしない。だが昨夜、店主は「明日来てくれ」といったのだった。都合が悪くなったのだろうか。
出直した方がいいだろうか。クルトは迷ったが、何気なく、これでこの店に三日も続けて足を運んでいることになるのだと思い、可笑しくなった。最初の日は課題の必要と多少の好奇心から訪れて、腹を立てて帰った。昨日は謝罪しなければと焦りながら中に入り、とまどいながら帰った。そして今日は――と考え、もう一度扉を叩く。
日はすでに高いが、早すぎたのだろうか。しばらく待って開くのならいいが、どのくらい待つべきだろう。
――そう思ったとき、扉のむこうで鎖が鳴った。
「やはりきみか。すまない、待たせたな」
店主――ソールの声がきこえ、内側に扉が引かれる。鎖と鍵をもつ細い手が中へとまねく。
「いえ、そんな――早くから、申し訳ない」といいながら彼をみて、クルトはふと言葉をなくした。
ソールはひどく青い顔をして、両目の下に疲労の隈がはっきり浮かんでいた。うなずいてクルトに店の奥へ来るよう促す足取りもおぼつかなく、背中が揺れる。
店の中は暗かった。昼間の白い光は店の一番奥に切られた小さな窓からさしているだけで、ランプが書架の列を照らしている。ソールは本や紙束が積まれた作業机の前に行った。一番上に、手のひらにおさまるくらいの大きさで、ずっしりと厚みのある黒い革表紙の書物が置かれていた。その隣にはびっしり文字の書かれた紙が一枚。
クルトは紙を埋める几帳面な文字をみつめた。乾いたばかりのインクの匂いがする。
「これがロンスキーだ。それからこれは」ソールは書物をクルトに渡しながらいった。
「学院の図書室に行っただろう。あそこに収蔵されている注釈書からたどりつけない事件をあげておいた。審判の塔で探してみるといい。アーベルの事件を調べるには、たぶん役に立つ」
「どうして――」
クルトは意外に思いながらたずねた。
「本来は自分でこのリストを作るべきなんじゃないのか?」
「僕がたまたま知ったことだ。ヴェイユも文句はいわない」
ソールはさらりと学院の教授を呼び捨てる。「学院の図書室には抜けがあるんだ。終わったらアダマール師にきみから渡してほしい。図書室の管理長に伝えてくれるはずだ……失礼」
店主は軽くせきこみ、口を押えながら店の奥へ行った。クルトは小さなテーブルに放置された食事があるのに気づいた。コップの水を飲んだソールが口元をふいて戻ってくる。小さな窓から落ちる光に照らされたその些細なしぐさに目を奪われて、いつしかクルトは細い喉を凝視していた。隈のある目もとがいぶかしげにみているのに、我にかえる。
とりつくろうように「食事中だったとは、申し訳ない」といった。
ソールはクルトの言葉を聞いていなかったようだ。「今年はじめて、ヴェイユの講義をとったのか?」とたずねてくる。
「ヴェイユ……師は、ああ。そうだ」
ソールはひたいにおちてくる巻き毛をかきあげ、細い指であごをつまんだ。クルトはまたもそのしぐさを凝視していた。どうしてこんなに見てしまうのか自分でもわからなかった。目の前にいる魔力のない男には、クルトが始終やっているように、魔力の光輝を〈視る〉ことができない。だが彼の一挙手一投足が視線をひいてやまないのだ。意識して目をそらそうとしているのに、またみつめてしまう。
「いくらきみのような貴族の学生相手でも、稀覯本を手に入れてこいなんて課題を出すのははじめてじゃないか。無意味なことはしないはずだが、ミュラーの初版本には廉価版もある。理由はいわれなかったか?」
「とくに。課題はひとによって違う。たぶん俺なら買えるだろう、と……」
「買える、か。――そうか」
ソールの眸が啓示を得たようにきらめいた。クルトは自分の身分や経済力についての嫌味がとんでくるのかと身構えたが、何もいわれなかった。かわりに店主は書棚の前にいくと、クルトが最初にこの店に来たときのように据え付けられた梯子を上った。ポケットから手袋を取り出してはめ、大型の本を引き出す。下ってくる細い腰が揺れ、クルトは不安になった。大丈夫かと声をかけようとして、失礼かもしれないと思いなおす。だがそのとき梯子を下りる足がとまった。
クルトが駆け寄るのとソールの体がふわっと宙を舞うのがほぼ同時だった。大判の書物ごと骨ばった体を受けとめる。ソールの背中ごしに書物の革表紙に触れたとき、指先に魔力のしびれが走り、パチッと光が散った。
驚いてクルトは書物に触れた手を離した。手袋をはめた手が本をしっかり抱きかかえているのをたしかめ、梯子にもたれさせるようにして、ソールの体をささえる。
「立ちくらみだ。よく眠れなくてね。すまない」とかすれた声がいう。
「あんた……大丈夫か」
「商売物を落としそうになるなんて、失格だな」
ソールは自虐的な笑みをもらしながら肩を支えているクルトの手をどかし、体を離した。
「それより、きみはいま何か感じなかったか?」
「感じるって、何を」
クルトは距離の近い相手の顔をみた。鼓動がはやくなる。
ソールはていねいに書物を作業机に安置した。
「さっき、書物に触れただろう? ミュラーのこれは初版本で、ミュラーが自分で最後の仕上げをした。現存する数が比較的多いのにこれが稀覯本であるゆえんだ。だが誰もがその意味をわかるわけじゃない。きみは驚いていなかったか?」
「ああ、そういえば」クルトはかすかな落胆と期待を同時に感じながら、書物とソールを交互にみつめる。
「しびれたような……あれは魔力だった」
「そうだと思った。僕にはわからないがね」
ソールは棚に手をのばすと大きな眼鏡をとって顔にかけた。白い顔の半分が覆い隠され、色のついたレンズに眼の表情が隠される。またも奇妙な落胆を感じながらクルトは「それで?」と聞く。
「きみはまったく、豊かな魔力の持ち主だな。あきれるほどだ」
つぶやきながらソールは椅子に座り、書物のページを広げた。
突然〈力のみち〉が書物とクルトの間につながった。回路魔術のようなこみいった流れで、だが人工的な銀の匂いがしない。光の筋がクルトの手首に集まって、かすかに暖かい。よくわからない好意のようなものが届く。
「その書物はきみのものだ。金銭的な所有権の話じゃない。その本が備える魔力においてきみを持ち主と認め、きみの蔵書となった」
「――いったいそれは」
「まれにこういうことがあるんだ。本がみずから持ち主を選ぶ。ヴェイユが予想していたのかどうかは、僕にはわからん。それから本に選ばれたからといって、べつに特別なことがあるわけじゃない。いや――これについては諸説あるが……僕の場合は何もなかった」
最後の言葉は眼鏡をはずしながら、早口で小さく付け加えられた。クルトは今度は純粋な驚きをもってまじまじと店主をみつめた。
「あんたの本だったのか?」
「昔の話だ。それからいっておくが、金銭的な所有権は僕にあるからな。魔術的な所有権と金銭的な所有権は一緒じゃない」
「――ああ、そんなこと」
わかっている、といおうとして、クルトは見下ろした店主の肩が震えているのを知った。まばたきする目に光るものがなかったか?
クルトは適切な言葉をさがしたがわからなかった。魔力が通じればいいのに、とまたも思った。不自然なほど躊躇したあげく、あえてそっけなく、貴族らしい声を出す。
「売ってくれるんだろう? いくらだ? 言い値で買う」
「ロンスキーとあわせて――」
けっこうな金額だった。が、言い値で買うといった以上クルトに値切る気はなかった。
「請求書を送ってくれ。リストだけもらっていくから、本はあとで届けてくれ」
そういうと、ソールは顔をあげ「ああ」とつぶやいた。手袋をはめた手が書物をていねいに閉じて、愛撫するようにこすった。ふいにその肩を抱きしめたい衝動にかられ、クルトはまたもとまどった。どうしてこの人に自分はこんなにも気をひかれるのだろう。年上で何を感じているのか理解できない、砂色の髪の書店主に。
クルトは衝動的にたずねた。
「また来ていいか? その――困ったことがあったら……」
「客なら歓迎するよ」
ソールは手を振った。帰れといわれているのだとわかった。名残惜しい気がしてもう一度、クルトはランプの明かりに照らされた書架と、紙と書物の山と、その中に彫像のように座る痩せた男をみつめ、店を出た。
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