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【第1部 書物の影で】9.ソール
クルト・ハスケルに本を売ってから十日間ほど、僕はどこにも出かけなかった。
もちろん近所へ身の回りの買い物には出たし、路地の散歩くらいはした。最近になくゆったりした気分だったのは予定外の売上のおかげだろう。暮らしに余裕があると気分も楽になったし、食欲も出た。
そんなわけで僕は請求書の束やツケ払いを片づけ、郊外の古い屋敷を解体中に発見されたという、中身が不明な本の箱を仕入れ、ぜいたく品の果物や、いつもならあきらめる値段の酒を買った。たまにしか飲まないのでどうせならいいものがほしかった。
この十日間は店を訪れる者も多かった。金はめったに落とさないが、来店回数は多いなじみの学生たちの質問に答え、貴族の仲介業者と交渉し、修理職人に連絡をとった。亡夫の蔵書を調べてほしいという女性の相手や、魔術書の鑑定依頼もあり、客が来ないときは仕入れた本の手入れやカタログ作りについやした。休日は手近の書物を乱読してすごした。
仕事に疲れると作業机の前で目をとじて、波が浜辺にうちよせる様子を思いうかべる。以前一度だけ訪れた海辺の町でみた風景だった。
水ぎわにはだしで立てば、かかとが流れる砂に埋もれ、つぎの引き波でくずれて紋様をつくる。海鳥の鳴く声、波の音。水平線の上の雲。
僕の最良の記憶のひとつだ。気分がいいとき、よく思い出すのだった。
店にこもっていたあいだ、騎士団からは何度か調査依頼があったが、気持ちと暮らしに余裕ができたので、適当に言い訳をつけて先のばしにしていた。心の奥底に、ラジアンと顔をあわせたくないという理由があるのはわかっていたが、僕はあえて意識しないようにしていた。考えてどうにもならないことは、考えないにかぎる。
気持ちに余裕があると、魔力がなく学者でもない今の立場は悪くない、と思えるのだった。ミュラーの本にクルト・ハスケルが触れたときのような、〈力のみち〉を隠した書物と交感する特別な経験を僕は二度ともてないが、そのかわり知識を駆使して仮説を組み立て、思考で遊ぶ自由なら持っている。
ミュラーの初版を手放したのは残念だったが、本を配達してすぐに代金を届けてくれたハスケルには感謝していた。金持ちの貴族でも、値切りもせずに言い値で買う者などめったにいない。彼は多少傲慢かもしれないが、若さと能力と外見を思えば相当まともな部類だろう。ひょっとしたら、今後もたまに大金を落としてくれるかもしれない。
もっとも本気でそう期待していたわけではなかった。数人の例外をのぞき、僕は精霊魔術師とはできるだけ関わらないようにしていた。彼らがどれほど強大な魔力をもっていようとも眼鏡なしの僕には感知できない。向こうは向こうで、僕に出くわすと居心地が悪くなるらしい。
そういえばクルトは僕に対してそんな気配を出さなかったな、と僕は思い出す。逆にまじまじと見られていた感触があった。それほど彼にとって魔力欠如者が珍しかったのだろうか。
学院の最終学年なら僕より少なくとも八歳か、場合によっては十歳は年下のはずだが、治療の訓練のために施療院で行われる実習には参加しているだろうし、はじめて見るものでもあるまいに。
まあ、僕は多少イレギュラーなケースではある。
そしてクルトの美貌はたしかに印象深かった。立ちくらみを起こしたとき、僕ですら顔の近さに鼓動が速くなったくらいで、魔力など関係なくもはや特技の部類だと、あとで思った。
身分と財力があって魅力的なら彼の未来は安泰だろう。ヴェイユの講義を最終学年でとる目的が推薦とコネにあるのは明らかだったが、王宮政治に関わりたい人間なら当然ともいえる。
それは僕が魔力を失わなかったとしても、興味も接点もなさそうな人生だった。クルト・ハスケルにとっての僕も、そんなものだろう。はたして彼がこの店にもう一度現れることがあるか、あやしいものだ。
生涯に一度も出会わないような人物とのただ一度の接点に、書物があると思うと悪い気はしなかった。彼はミュラーの本の「所有者」となったから、いずれ学院を卒業し内容に興味を失ったとしても手放すことはないだろう。彼が二度とこの書店に現れなくても、それで十分というものだ。
そのとき僕はほんとうにそう思っていた。
「ソールさん! やっとお会いできました……いったい何があったかと……」
「そんなに大げさな」
「だってソールさんがいないって、地下書庫の主がいないってことですよ? 俺たちはどうしたらいいんです?」
「そうはいっても僕はただの臨時雇いだし、そもそも今日は塔の要請で来たわけでもないんだが……」
「ねえ、どうしてソールさんはここに棲んでないんです? ヌシなんだからもう棲んでくださいよ」
「おい、おまえら! 今日は騎士団の用事で来てもらったんだ、邪魔するな。ソール、すまんが――」
審判の塔は相変わらずだった。十日が過ぎ、その翌日の午後になって、とうとう僕は王城へおもむいた。騎士団からほとんど懇願に近い要請が来て、断われなかったのだ。
騎士団の依頼といっても、行けば行ったでついでに塔の連中の頼みごとも聞いてしまう。頼まれる仕事は様々で、中には書記の見習いでも十分足りるものだってある。僕がここでむやみに重宝されるのは、呪いのような記憶力のおかげで作業が早いからにすぎない。ただ僕としても、金銭以外の報酬――お茶をごちそうになったり、ちょっとした贈り物だったり――もありがたく頂戴しているので、文句はない。
二層目の奥の棚のまえで、ある貴族の屋敷をねらった歴代窃盗犯の記録を読んでいると、うしろで足音がきこえた。僕は気にせずそのまま記録を読みふけっていた。どのくらい時間が過ぎたあとだろうか、もう一度足音がひびき、今度は咳ばらいもきこえた。
ふりむくと白髭、白髪のよく知った顔があった。
「あいかわらずたいした集中力だな、ソール」
かつて僕の指導者だった、アダマール師だった。
師の導きで数年ぶりに足を踏み入れた学院は、寄木の床をみがく蝋の匂いと、庭園から届く花の香りがした。
アダマール師の居室は教室をいくつか通りすぎた先にある。
「教え子が世話になったようだから、礼をいわせてほしい」
恩師にそういわれては、誘いを拒絶することはできなかった。講義は終わった時刻で、学生はほとんどみあたらず、教師たちも各自の居室に入っているようだ。
その点にほっとしながら僕はアダマール師のあとをついて歩いた。誰もいない夕刻の教室はならんだ机の影が濃く、長く落ち、静かだった。
「クルトからリストを受け取ったよ」
居室について、おもむろにアダマール師がいう。
「室長へ預けておいた。学院を代表して礼をいう」
「大げさなことはやめてください」
「いや。図書室から欠けた書物について、そなたが責任を感じているのはわかっている」
僕はあわてて口をはさんだ。
「今回はそんなつもりではありませんでした。たまたまあの学生が来たので、思い出しただけです」
「そうかね?」
アダマール師の居室と廊下をへだてる扉には、幾何学模様の格子がはめられたアーチ状の窓が切られ、曇りガラスがはめられていた。地下書庫の棚を連想させる格子だ。
「クルトはすこし、昔のきみに似ていると思わないかね?」
奥の肘掛け椅子にすわり、僕にも着席をうながしながら、師は何気ない様子でいう。
「僕はあれほど――」
傲慢ではありませんよ、と口走りそうになって、僕は思い直した。「彼のような身分もないし、あんな豪華な外見だったこともありません」
何がおかしいのか、師は髭をふるわせて笑った。笑うと同じく白い眉毛が垂れる。毛足の長い犬を連想させて、失礼な話だが、学院にいたころの僕はそれがおもしろくて仕方なかった。
「いや、才能の話だ。そなたを連想することがある」楽しげな口調で師はいう。
「それは大変だ。僕のように馬鹿な真似をしでかさないよう、監督しなければいけませんね」
間髪入れず師はいった。「そなただけが馬鹿な真似をしたのではない。そなたは運が悪かったのだ」
僕は黙った。
「たしかに、すこし彼に似ていたかもしれません。学院が――教室が、ずっと僕のためにあると思いこんでいるくらいは傲慢でした」
「ソール。前もいったが、ここに戻ってくることだってできるのだよ。司書職なら――」
「魔術書の魔力も感知できない司書として? ご冗談を」
僕は苦笑してさえぎる。
「それに僕がいなくなっても教室はここにあるんだ。新しい才能が国中からやってくる。田舎の子供にとっては、ここは希望ですよ」
そのときアダマール師が顔をあげた。「噂をすれば、だな」とつぶやく。
「今日も楽しそうだな。歌っておる」
「歌?」
「魔力を歌で放散する癖はさすがにめずらしいと思わないかね? しかもこの歌には癒しの効果がある」
「なるほど、それは――」
聴いてみたいものだ、といいかけたとき、前触れなく扉がひらいた。
「アダマール師、わかったんですが……」興奮したように話す声とともに踏み出された足が敷居のあたりでとまる。そのまま僕に向けられた視線が動かない。
クルト・ハスケルが僕をみていた。
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