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【第1部 書物の影で】10.クルト
「クルト、扉の向こうに誰がいるかわかる?」
「うん。お父様とおじい様。それに知らないひとがふたり。それから、セト!」
やがて匂いを嗅ぎつけた犬の鳴き声がして、扉があき、跳ねながら飛びだしてくる。はしゃいでクルトの足にじゃれつく。
扉の向こうに誰がいるのか。
子供のころよくそんなゲームをした。物陰にいるひとや動物について、クルトが間違えたことは一度もなかった。生き物が発する力のみちが、クルトの放射する魔力に反射するからだ。
大きな動物ではなく、虫や植物ならどうだろうか? ゲームでそこまでの追及はしなかった。だが、クルトは眼をつぶっていてもつまずかずに森を歩くことができる。
精霊魔術を介した知覚はとても単純で、クルトにとっては眼をひらけばみえる物や、無意識に耳でききとる音とおなじだ。魔力の触手をのばして他者の意識を探知するような高度な技術とも、まったくちがう。
だから扉があろうとなかろうと、クルトには関係がない――はずなのだが。
アダマール師だけがいると信じていた場所に砂色の頭が見え、それが誰か理解したとたん、クルトは硬直した。カリーの店主は師の前の椅子にすわっていた。ひたいに垂れた巻き毛をかきあげ、暗い色の眸がクルトを見やる。襟もとからみえる白い喉ぼとけや骨ばった細い肩、その下の体の線をぶしつけなほどみつめていた自分に焦って目をそらす。
『すみません、失礼を』
反射的に師へ念話を送っていた。即座に戻ってきたのは叱責ではなかったが、苦笑まじりの判別しがたい思念だ。
『ここは扉をあける際の礼儀を教える場所ではないのだがね』
『申し訳ありません。師以外に誰かいるとは知らなくて』
『知らないと認められるのであればまだいいが、予想外の出来事に対処できなくてどうする、クルト』
クルトは頭を下げた。
「申し訳ありません」
ぷっと吹き出す音がした。
「何がわかったんだ?」
楽しげな声だった。クルトは顔をあげ、カリーの店主が笑うのをみた。なめらかな頬にえくぼができ、目じりに数本しわが寄る。ととのっているが、どちらかというと冷たい印象をあたえる顔立ちが一瞬でやわらかくなった。
「大発見でもしたのか」と店主はいい、あごを指でつまむ。
そのしぐさにクルトは見覚えがあった。なぜなのかわからないが、この年上の男の一挙手一投足を自分は覚えているようだ。
細い指のかたちに心が騒ぐのをおぼえながら、突然クルトは直前に師と念話で会話したことを恥じた。もちろん、師に苦言を呈されているのを彼に聞かせたいわけではない。けれど自分がなにか――ずるい行為をしてしまったようで、気が咎めたのだ。
どれだけ師と自分の間で話が交わされようと、この男にはまったくわからないのだ。会話が行われたことすら知らない。
「いや、その……」
「いじめるな、ソール」アダマール師がなだめるようにまた苦笑した。
「クルト、今は急ぎの用だったのか?」
「いえ。違います。単なる報告のつもりだったのですが、ヴェイユ師の課題を調べていたら興味深いことがわかりまして」
「それなら明日でいいな。ちょうどよかった。ソールをカリーの店まで送ってやってくれ」
はい、というクルトの返事といりません、という声が重なった。アダマール師は座ったままの書店主を見やる。
「ソール。もう暗くなる。そなたも昔は教師の客人を送るくらい、していただろう」
店主は微笑んだ。
「あなたは学生を使い走りになんて、されませんでしたよ」
「私だってたまに教師の特典を行使したいさ」
「僕は客というほどの者ではないし、送られるほど歳はとっていません」
「そういうな。こうみえても彼は有望な学生だ。将来誰かに自慢できるかもしれんよ」
「自慢ってなんですか。あなたときたら、今日も地下書庫まで……」
店主はさらに文句をいったが、アダマール師はのらくらした調子で話をつなげ、ついに説得に成功したらしい。師の声が突然クルトの頭に入ってきた。
『クルト、帰りはソールの眼鏡に気をつけてやってくれ』
『眼鏡?』
『調子が悪そうだ』
アダマール師が何の話をしているのかよく理解しないまま、クルトは了解した。
学院を出るときソールは大きな眼鏡をかけた。歩きながら「アダマール師はああいったが、王城で騎士団の詰所に寄るから、そこまでつきあってくれたのでかまわないさ」という。
「駄目だ。師に直接頼まれたのに」
クルトはあわてて答えた。
自分でもうまく説明できなかったが、この男に向かうたびに感じる心の波立ちを整理するのに、絶好の機会となる気がしていた。ソールが隣で歩いている様子そのものが、とても新鮮だったというのもある。いつも人と隣りあわせで歩くときに感じる過剰な魔力の反射がいっさいなく、ただその細い姿の気配だけがあるのが、心地よい。
「それなら、いいが……どうしてそんなに見るんだ?」
「え! あ、ああ……失礼した。申し訳ない」
またもぶしつけにみつめていたのかと、怪訝そうに眉をひそめるソールからクルトは顔をそらす。
「まあ、きみは見られることに慣れてるんだろうが。僕など見ても、おもしろくないだろう」
店主はぽつりとそうつぶやき、それきりこの話は終わりになった。
ソールの歩調は遅かった。石畳を一枚一枚調べながら歩いているかのようだ。背丈はほとんど変わらないのにクルトはすぐに前に出がちになり、歩幅を小さくする。
「遅くてすまない」小さな声で店主がつぶやいた。「よくつまずくんだ。気にしないでくれ」
だがそういったそばから、彼はぶら下がった看板――最近はやりの回路魔術で光る装飾がほどこされたものだが、うまくいかず極彩色がまたたいている――にぶつかっていこうとしている。クルトは思わずその前に出て、ソールの肩をつかんだ。
「あぶない」
以前、カリーの店で梯子から落ちた彼を受けとめたときと同様、その体は細く、骨ばっていて、クルトの指のしたで一瞬緊張した。
「――申し訳ない」とつぶやきながらつかまれた手をほどこうとするのをゆるく押しとどめて、クルトは「腕に手をかけていいか?」とたずねる。
「そうしたら、おかしな方向へ行くのをとめられる」
眼鏡をかけた顔がクルトに向けられたが、どんな表情をしているのかまったくわからなかった。さっきと同様小さな声が「みえないわけじゃないんだ。足がおかしいわけでもない」とつぶやく。
「魔力の反射がないんだろう?」
相手の事情にどこまで踏み込んでいいのか迷いながら、クルトはいった。
「ああ。眼鏡を通せばみえるが、魔力そのものを感じているわけじゃないから、どうしても反応が遅くなる」
「俺にもあんたの魔力を感じることはできない。でも腕を持っていれば実用的だろう」
「――そうだな」
許可を得られたと思い、クルトはソールの左腕をゆるくつかんだ。シャツの布ごしに、意外なほど筋肉質の硬い感触があった。
「そんなにひよわじゃない。書物というのは重いのでね」
クルトの心を読んだかのようにソールがいう。
続けて「きみの表情はわかりやすいんだ」と付け加えた。クルトの頬がかっと熱くなる。
「精霊魔術師志望にしては珍しいタイプだな」
学生の困惑を知ってか知らずか、ソールは淡々と続けた。
「いいじゃないか。魔術師がとっつきにくい者ばかりではお偉方も困るだろう」
なぜかまたクルトの頬は熱くなった。
城門に近い騎士団の詰所まできて、ソールは眼鏡をかけたまま入口に立ち、小さな包みをうけとっていた。クルトがうしろで見ているうちに、奥から彼の名を呼ぶ声がきこえ、大柄な騎士が急いた足取りであらわれる。クルトはその顔と気配に見覚えがあった。
――あの夜、カリーの店にいた男だ。
「ソール、」
呼びかける声しか聞こえなかったが、クルトはその騎士が気に入らなかった。正確にいえば騎士だけでなく、店主の騎士に対する姿勢が、かもしれない。騎士はあきらかにソールを気にかけていたが、その身振りは厚かましく大げさで、一方ソールは半歩足をひき、奇妙に居心地が悪そうだった。しかし拒絶するでもなく、ふたりで話す姿はやはりとても親密な気配だ。
なぜか苛立たしい感情がわきおこり、クルトは思わず詰所に近づいた。
「これから城下へ帰るのか? 俺もそろそろ上がるから、送ろう」
「いや、大丈夫だ。誤解されないようにといったろう」
「ソール、でも――」
「ラジアン、いいかげん自分の立場を考えろ。それに僕は大丈夫だ」
クルトはすかさず口をはさんだ。
「騎士殿、ご安心を。俺が師より、城下まで送るよう頼まれました」
突然の闖入者に、騎士はあきらかにとまどったようだった。
「なんだ、おまえ――」
「クルト・ハスケル。アダマール師に師事する者です。師からソール殿をカリーの店まで送るように頼まれましたから」
騎士はじろじろとクルトをみつめた。値踏みするような目つきだった。
「ハスケル家の嫡男殿か?」
「はい」
「それなら……」
緊張に耐えられなくなったように、ソールが動いた。
「行こう、クルト」
クルトの手首をつかむと歩き出す。
なぜか小躍りしたくなるほどの喜びを感じながら、クルトはソールに手首をとられたまま歩き出した。触れたところから自身の魔力が流れ出すのを感じ、ふと魔力の触手をのばしそうになる。すんでのところで前に感じた防壁を思い出して自制した。
しかし歩きながらも、あの騎士はソールの恋人なのではないかという考えがうかんだ。だとすれば、かなり愚かな真似をしたことになる。
ソールの腕を支えるようにそっと持ち、城下を歩いていく。街灯がオレンジ色の光を落としていた。居酒屋や宿屋は開いているが、それ以外の商店はもう閉まる時刻だった。
「あの……騎士だが……」
ためらいがちに声を出すと、ソールは何事もなかったかのように「なんだ?」といった。
「その……恋人だったなら、余計なことをしたかと思ったんだが」
「ただの友人だ」
言下にソールは答えた。
「気を遣わせたなら悪かった。べつにそんなのじゃないんだ」
その口調には自身を投げ出したかのような、自暴自棄な印象があった。クルトはまたも隣を歩く男の顔をしげしげとみつめていた。眼鏡に覆われたそれは実際よりも小さくみえ、表情は読めなかった。
「その眼鏡だが、魔力を探知するのか?」
アダマール師の話を思い出し、話題を変えるにはちょうどよいとばかりに持ち出す。
「ああ。回路魔術師団の特注品だ」
「アダマール師が、調子が悪そうだといっていた」
ふっとソールから吐息が吐き出された。
「さすがだな。たしかに最近、よくないかもしれない。調整する必要があるな。明日にでも師団の塔へいくか」
カリーの店につくとソールは眼鏡をはずし、鍵をとりだした。複雑な手順で扉の鍵を開けている。
「ありがとう。すまなかった」と小さな声でいった。
「何もないが、もし良かったら……」
ソールはためらうように言葉を切った。わずかにうつむいて小さく「寄っていくか?」と問いかける。
クルトの胸のうちに暖かなものが広がった。
「良ければ」
即座に答えると、店主は軽く肩をすくめる。
「悪いが、たいした飲み物もない」
「いや、その……」クルトは言葉をさがした。
「書物について話を聞かせてもらえれば、ありがたいんだ」
とたん、街灯に照らされたソールの表情が明るくなった――ように思えた。
「そうか。それなら、歓迎だ」
そういって暗い店の中へクルトを手招いた。
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