1 / 4
第1話
数週間ぶりに訪れたバーの隅っこで小さく丸まった背中に、少し癖のある柔らかそうな黒髪に、どうしようもなく惹かれてしまった。誰かに彼を重ねるなんてことは、彼にも目の前の誰かにも失礼だと分かっていながら、目で追うのを止められずにいる。客数は少なくなかったが、彼の隣は幸いにも空いていた。
「あの……隣、いいですか?」
しかし、だ。何だか似ているな、と思って声を掛けたらまさか本人だった、なんて偶然があるだろうか。パッと振り返った顔は、少し鋭くなった目つき以外、あの頃と何も変わっていなかった。目が合った瞬間、その場の時が止まる。
「………………香介 ?」
「…………あー…………」
驚愕に立ち尽くす春 から目を逸らし、気まずそうに手の中のグラスを見つめる。氷の溶けきったそれを彼がカウンターから持ち上げると、集まった水滴が大きな雫となってぼたりと垂れ落ちた。
「……久しぶり」
まあ、座れば。ぶっきらぼうに隣の席を勧められ、恐る恐るスツールに腰を下ろした。
マスターに甘口のカクテルを注文しながら、チラリと横顔を盗み見る。バーの仄暗い照明の下で、彼の表情はどこか儚げで闇を抱えたような憂いを帯びていた。
「久しぶり、だな……本当に」
「……そうだな」
「……卒業してから全然、誰とも連絡とってないって、聞いた……から、心配した」
「…………悪かったよ」
此方を見向きもせず俯き加減で、過去の彼からは想像もつかないような、自信なさげにぼそぼそと呟く喋り方をする。昔の他人を突き放すような刺々しい口調は、ともすると彼なりの虚勢だったのかもしれない。彼の尖った悪態を一番聞いていた身としては、少し、いやかなり、寂しいものがあった。何が彼をそうさせてしまったのかなんて、考える必要も無いほど簡単なことだった。
スッとカウンターの陰に隠された左手首に目を落とす。春が着けている物と同じ、細いリストバンドが所在無げに存在していた。春は赤色、香介の物は青。彼はきっと赤の方が好きだろうな、とどうにもならない感想が浮かんだ。
「……Sub、だったんだ」
やっぱり、という副詞は飲み込んで、感情が籠らないよう慎重に発音する。ぴく、と隣の肩が揺れた。
「……まあな」
「……言ってくれれば良かったのに」
「Domのお前にか?」
間髪入れずに返ってきた言葉は、春が覚悟していた以上の威力を持っていた。喉が引き攣って空気の漏れる妙な音が鳴った。聞こえたのか、罰の悪そうな声で「……悪い」と香介が呟く。
「無神経だった。お前は何も悪くないのに」
「俺の方こそ、ごめん……でも、隠されてたのは、ショックだった」
「………………悪い」
「……いや…………」
二の句が継げなくなり、彼に倣って春もカウンターの木目に視線を落とす。
丁度よくカクテルが運ばれてきたので、誤魔化すように口をつけた。女性受けしそうな薄桃色のカクテルだ。甘い、ような気がする。味なんて1ミリも分からなかった。
正直、焦っていた。これでは前から気づいていたと言外に言ったも同然だ。それに、悪態をつく彼への対応は慣れていても、こんな風にしおらしい彼への対処法など全く知らなかった。
どうすればいい。どうすれば彼の興味を惹ける。
気まずい沈黙を破ったのは、意外にも香介の方だった。
「……お前は薄々気づいてんだろうなって、思ってたよ」
「え……」
衝撃的な告白に思わず顔を上げると、ようやく香介と目が合った。彼は初めて苦笑いを浮かべて、また視線を外す。そういえば眼鏡を掛けていないな、とどうでもいいことに気がついた。
「気づいてて知らないフリしてくれてんだろうなって。だから、言わなかった。誰にも……お前にも」
ぽつぽつと、懺悔するように言葉を紡ぐ彼の横顔を呆然と見つめる。
そうだ。彼は、頭が良くて、口が悪くて、笑い方が可愛くて、泣き顔を見られるのが嫌いで、察しが良過ぎて、少し臆病な人だった。嫌われたくなくて、好かれるのを怖がるような、そういう人だった。
「けどまあ、隠してたって結局こんな所でこうして出会っちまうんだから、世話ねえよな」
乾いた笑みを零す彼は、全てを諦めたような顔をしていた。
「……もし俺が訊いてたら、香介は答えてくれたの」
「…………」
「本当はSubだって、言ってくれたのか……?」
「…………さあな」
このやり取りに何の生産性もないことは分かっていて、それでも聞かずにはいられなかった。そして案の定、はぐらかされた。
所詮、過去の出来事だ。今さらどうこうしたって何も変えられない。
でも、これからを変えることは出来る。引き下がるわけにはいかない。
「言ってくれてたら、俺は……」
「――言う訳ねえだろ」
刺す前に刀を抜かれた。間合いもスピードも圧倒的にあちら側が上だった。
「大事な友達だぞ。DomだのSubだの、そんな下らねえことで壊されてたまるかよ」
「……香、」
「SubにとってのDomは世界に腐るほどいるかもしんねえけどな、俺にとってのお前は一人しかいないんだよ。そんな陳腐な関係に成り下がるくらいなら、いっそ、って……思っ……」
「……………………」
一太刀でバッサリかと思いきや、返す刀で十数回切り刻まれた気分だ。致命傷を受けたのは、どういう訳か切り掛かってきた方のようだが。ダメージの大きさを示すかのように、ゴンと鈍い音を立ててバーカウンターに両肘を突く。顔を隠されてしまって表情は見えない。
「…………お前は何も聞かなかった。いいな」
「いや……それは流石に、無理かな」
「……クソが。酒なんか飲むんじゃなかった」
彼の目の前に鎮座している温そうなグラスは、来た時と比べると3分の2程度中身が減っている。これが3杯目か4杯目でもない限り、彼はアルコールへの耐性が相当低いということになるだろう。耳から首筋まで真っ赤なのは、アルコールと羞恥が半々だろうか。そういうことにしておこうと思う。
「……俺も、香介のことは大事な友達だと思ってるけど」
「やめろバカ。追い討ちかけてくんじゃねえ」
「そんなつもりじゃなくて。本心なんだけど」
「余計やめろ」
「……最後まで聞いてくれよ。大事な友達だと思ってるけどさ」
抜き身で持っていた刀を構え直す。刺さらないかもしれない、という不安は最早欠片もなかった。反撃されても、今は確実に向かい撃てる自信があった。
「友達と、パートナー……とか、恋人って、両立出来ると思うんだ」
「………………だから?」
「俺と、パートナーになってくれないか。……ひとまずは」
「ひとまずって何だよ。他に何かあんのか……ああいやいい、言うな。恥ずかしさで耳が千切れる」
返事になっていない。しかし、反応からして彼がどう思っているかは一目瞭然だった。今は照れ隠しに爪を立てているだけだ。可愛くて仕方がない。嗜虐心がじりじりと疼き出す。少し意地悪するくらいなら、良いだろうか。
「……さっきのより恥ずかしいことってあるのか?」
「はあぁ!?」
思った通り、噛みつかんばかりの勢いで睨まれてほくそ笑む。眇めた目が微かに潤んでいる、と気づいた途端。二人の間にコトン、と静かに置かれたグラスに嫌な予感がした。
カウンターの向こうを見ると、マスターが穏やかな、しかし圧のある笑顔を二人に向けていた。
「……お二人さん、ここバーなんだよね」
コトン、とノールックで2つ目のチェイサーを置き、小銭受けの中に5と書かれた丸いプレートのついた鍵を入れてカウンターに差し出してくる。要するにもう注文するなということだ。
「うちはさぁ、今日は独り身のお客さん向けに営業してるんだよ。だからまあ、今ここでカップルが成立する分には全然、なぁんにも問題ないわけ」
おめでとう、と唐突に祝われて「ありがとうございます」と咄嗟に返す。香介は「まだだろ」と言いたげな目を向けてきたが、口に出すほど空気が読めない性格ではなかった。
「でも、ほら。うちって結構落ち着いた雰囲気で売ってるんだよね。普段、一般社会で肩身の狭い思いをしているダイナミクスの人達が、ゆっくり落ち着いて過ごせる隠れ家、ってコンセプトでさ」
だから、と語気を強めるマスターは、Switchであるということに納得がいく迫力だった。
普段は恭しく客に仕えるSubのような振る舞いで、ひとたび怒らせるとDomのGlareにも劣らない威圧感を放つ。流石にトラブルの多いダイナミクスバーで働いているだけのことはある。
「痴話喧嘩、もといプレイなら、専用の部屋があるからそっちでやってくれる?」
「……プレイじゃな」
「すみませんでした」
急いで諸々の会計を済ませて鍵を受け取り、どさくさに紛れて香介の手を取る。文句を言われる前にすたすたと歩き出した。握り締めた手は熱かった。
かくして春と香介は、マスターに背中を蹴り飛ばされた形で、店の奥に併設されたプレイルームへ足早に向かった。
そういえば、店に通うようになって以来、プレイルームに来たのは初めてだ。香介もそうだといいのに、と思いつつ、聞いた所でダメージを受ける確率の方が高いので大人しく部屋の鍵を開けて中に入る。トラブル防止のため内鍵は掛からず、防音性もあまり無い。あくまでお試し、といった用途らしい。
中にはテーブルと椅子が2脚、人がギリギリ二人寝られそうなベッドが端に置かれ、柔らかそうなラグがベッドの足元に敷いてある。ちゃんとトイレと狭いシャワーブースもついていた。
「へえ……結構綺麗だな。一晩くらいなら泊まれそう」
「そうだな」
物珍しそうに部屋を見回す様子からして、彼もここには初めて入ったようだ。バレないように小さくガッツポーズをする。
実際、酔っ払って動かしようのない客を緊急措置として寝かせておくことはあるらしい。お人好しのマスターが、正体をなくした男を渋々担ぎこんでいたのを見たことがある。後日割増で料金を取ってやる、と眉間に皺を寄せていた。
「ま、ホテル行った方が早いけどな」
「……そうだな」
一瞬で浮き上がった気持ちが即座に萎んでいく。それはそうだ、香介とてもう大人である。経験があって当たり前だ。春だって当然ある。何もおかしいことなどない。非常に残念ではあるが。
「とりあえず、NGの確認だけしとくか」
「えっ、あ、そう、だな」
手慣れた様子で机の上のチェックシートに手を伸ばす彼に思わずどぎまぎしてしまう。もう少し心の準備をする時間が欲しかった。あと返事がまだだ。
「何を今さら狼狽えてんだよ。童貞か?」
「いやっ、違うけど、そういう問題じゃなくて……」
返事……と控えめに呟くと香介はああ、と思い出したように頷いた。
「……パートナーって、何よりも相性が大事だろ。Domと、Subとしての」
「まあそれは、うん」
「だから、今やってみて、擦り合わせが出来そうだったら、考える」
「うん……?」
つまり?と理解力に乏しい春が首を傾げると、不本意そうに顔を顰めながらさらに言葉を付け足した。
「……今ここで試してみて、相性が良かったら、パートナーになっても、いい」
「……分かった」
思ったことがすぐ顔に出たらしい。香介が春の顔を見て片眉を上げた。
「どうかした?」
「なんだその『勝ち確』みてえなツラは。自惚れやがって」
「え……いやだって、俺めちゃくちゃ香介と相性良い自信あるよ」
「は?どっから湧いてくるんだその根拠の無い自信は」
カツンッとボールペンを乱暴に放り出す音と共に、NG項目の書かれた紙が眼前に突きつけられた。
急いで自分の分のシートを書き込み、彼へ渡してから受け取った方を読む。痛みの伴う行為全般にペケがつけられていた。その辺りは春も同じだ。それは別に良い。
問題は、その他の欄に書かれた部分だ。
「この、コマンド使用っていうのは」
「そのまんまだけど」
「……コマンドって、あのコマンド?」
「そうだな。DomがSubに出す『Kneel』とか『Stay』とかのコマンドだな」
「…………嫌、なんだ?」
珍しい、というか聞いたことがない。見ず知らずの相手からならともかく、プレイの内容としてコマンドをNGに指定するSubとは流石に出会ったことがない。
「嫌っていうか……気に食わん」
「気に食わん」
「Domに命令されるのが嫌って訳じゃない。コマンドを使われるのが嫌ってだけだ」
「それって、違うのか?」
「俺にとってはな。座ってほしいなら座れ、脱いでほしいなら脱げ、でいい。わざわざコマンドなんてカッコつけた物を使う必要はない。って知り合いのSubに言ったら正気を疑われた」
「そりゃそうだろうな……」
大抵のSubは、信頼しているDomにコマンドを使われれば喜んで従うだろう。
DomはSubを信じてコマンドを使い、SubはDomを信じてコマンドに従う。いわば信頼の証である。それを「気に食わん」の一言で片付けてしまう香介は、普通のSubからすれば正気とは思えないだろう。春からしてもコマンドを出せた方が満足感は得やすい。だが、彼が嫌だと言うのなら仕方がない。
「まあ、香介が嫌なら使わないよ」
「……そう、か」
「で、もう一つ、『挿入』……って、あー、本番はしないってこと、だよな。それは今日限り?それともパートナーになっても?」
「基本的には、パートナーになってからも、だな」
これには流石にしばらく考えた。Domとして云々以前に、春は香介に対して劣情を抱えている。それこそ高校時代からだ。運良くこうして再会できたからには、最後までしたい、身体を繋げたいと思ってしまうのは、ごくごく自然なことだと思いたい。
「……誤解の無いように言っておくと、俺は、香介とそういうことをしたいと思ってるし、ゆくゆくは抱きたいな、と思ってるんだけど」
「……おう。まあ、普通だな」
「けど。香介が嫌がることはしたくない。し、もし香介が望むのであれば、俺が抱かれる側になっても」
「や、それは別にない」
「…………そう」
「なんでちょっと残念そうなんだよ」
抱かれる側に、というのは半ば冗談で言ってみたのだが、拒否されたらされたで少し傷つく。男同士の場合、Sub側で抱きたい、という層もいることにはいるが少数派だ。
「えっと……だから、いいよ。香介が嫌だって言うなら、しなくていい」
ぱちぱち、と音が聞こえそうなくらい、香介が驚いたように目を瞬かせた。大きな瞳がこぼれ落ちそうだ。
「……本当にいいのか?よく考えろよ。パートナーだぞ?セックスしてなんぼなんじゃねえのか、パートナーって」
「言い方……いや、それは人によるだろ。嫌なことも人それぞれ違うように、パートナーに何を求めるかも人それぞれだろうし」
「ああ……まあ、確かにそうかもな……けど、お前は俺としたいんだろ?」
「うん。でも、香介と出来ないからって香介以外の人としたいとは思わないよ」
変な生き物を見るような目で見られた。心外だ。単純に好きな人以外とはしたくない、というだけの話だ。香介のコマンド嫌いよりは一般的な感覚だと思うのだが。と、そこで一つ言っておかなければならないことに気がつく。
「そうだ、俺のNG読んでくれるか。この話とも関係あるんだけど」
「ん……ああ。この、『浮気』ってやつか」
「うん。俺、パートナーと恋人は同じ人が良いんだ。ていうか同じじゃないと嫌だ」
「見かけによらず独占欲強いもんな、お前」
見かけによるかどうかはともかく、恋人及びパートナーに対する独占欲は、自分でも強い方だという自覚があった。褒められたことではないが、過去のパートナー達からは主に「束縛が酷い」「愛が重い」という理由で振られてきていた。春としては自分のDomとしての欲求を満たそうとした結果なので、必然的にいつも欲求不満のまま終わっている。
「香介は、パートナーと恋人は別で考える方?」
「そうだな。面倒くさいし」
「めんど……」
「あーいや違……それは、ちょっと違うんだよなニュアンスが。説明させてくれ」
曰く、香介と身体の相性が良いパートナーは性格に難がある人物が多く、恋人としてやっていくには適していないことが多いのだという。
そして、香介は誰かと付き合うにしても身体の相性から入る場合がほとんどであり、欲求が満たされている間は恋人を作る気にもなれず、ここ数年はパートナーのみを取っかえ引っ変えしている、という状態らしい。
「だから、パートナーを恋人にする気はないけど、わざわざ別に恋人作る必要もないと思ってる。それだけだ」
「まあ、そういうことなら……少なくとも俺がパートナーとしている間は、他の人と付き合ったりしないってことだよな?」
そういうことなら一安心だ。春がパートナーでいる限り、香介が他の誰かの物になる心配は全くない。それが分かっただけで大収穫だ。
「ああ。あとまあ、それに……」
「それに?」
「……やっぱ、いい。後で」
「そうか?」
NGが他にあるなら早めに言ってもらった方が安全だ。プレイ中の事故を気にして聞き出そうかと思ったが、彼がいいと言うので気に留めないことにした。もしかしたらまた罵倒される所だったのかもしれないし。
「…………えっと、じゃあ、確認はそんな所で」
「そうだな。先シャワー浴びていいか」
「う、うん、どうぞ」
「何緊張してんだよ。やっぱ童貞か?」
「いや違うけど……緊張するだろ、やっぱり」
「ふーん?」
「…………そっち、出口だけど」
「っ……分かってるつうの!!」
物凄い勢いで方向転換して浴室に消える香介を見送り、深く息を吐き出した。
「そっちだって緊張してるじゃないか……」
ベッドの縁に腰掛けたまま、扉の向こうから響いてくる水音をただぼんやりと聞いていた。
「お待たせ。お前も浴びてこいよ」
「ああ、うん…………」
十数分後、湯上がりの香介を何となく直視できず、入れ替わりでそそくさと浴室に逃げ込む。
「……一応、ちゃんと“準備”しといたからな」
「え゙っ」
すれ違いざま、耳元に囁かれた言葉に振り返るが、意味ありげな笑みを浮かべるだけでそれ以上は何も言ってこなかった。
上気した頬を見て、思わず視線を下げると今度は開いた襟元から鎖骨が覗いている。困ったことに目のやり場がない。パタン、と浴室のドアが目の前で閉まった。
服を脱ぎながら、考えるのは彼の発した一言についてのみだ。
“準備”とは、所謂後ろの洗浄のことだろうか。この状況で、それ以外にはあまり考えられない。香介が、自分とするために、わざわざ。
「挿入は無し」と言うからてっきり触れるのも駄目なのかと思い込んでいたが、確かに指を入れるのが駄目だとは一言も言っていない。盲点だった。というか、良いのか。良いのか?
シャワーのぬるま湯を浴びながら、働かない頭をどうにか動かそうと必死になっていた。
結論から言うと、元から酷かった緊張がピークに達しただけだった。逆上せる程長時間浴びていたつもりもなかったが、湯あたりしたかのように気分が優れない。
「……お待たせしました……」
「おう。なんで死にそうになってんだよ。まだこれからだぞ」
「分かってるよ……」
「一回水飲め。ほら」
ベッドに腰を下ろすと、呆れ顔の香介から外の自販機で買ってきたらしいペットボトルを手渡される。冷たい水を喉に流し込むと、少しは気分が落ち着いたような気がした。
いつもはどうやって始めてたっけ、とようやく思考が正常に回り始め、重要なことを忘れていたのに気づいて思わず声を上げる。
「あっ」
「っ、なん、だよびっくりした」
「ごめん。セーフワード、決めてないと思って」
「……ああ、そういやそうか」
何にすっかな、と考え込む香介に違和感を覚えた。何だか、そこだけ妙に慣れていないように見えたのだ。
緊張しているにしたって、NG項目を書き上げるのは早かったし、シャワーを浴びた後は腹を括ったのか落ち着いているように見えた。第一、行きずりのプレイに慣れているSubはセーフワードを使い回したりすることもしょっちゅうだ。『Help』でも『Red』でも、ありきたりなワードをひとまずは使ってしまえばいい。過去に春が相手をしてきた中には、一つのワードに固定してしまえば忘れずに済むから楽だ、と言うSubもいた。香介もてっきりそのタイプだと踏んでいたのだが。
「英語だとコマンドみたいで嫌だしなぁ……」
「香介、あのさ」
「うん?今考えてるから待てって」
「……もしかして、セーフワード決めたことないんじゃないのか?」
ぴし、と表情が固まったのが答えだった。取り繕おうとした彼が口を開くより早く、春の声が低く地を這う。
「許せない…………セーフワードを決めないままプレイに入るなんて、一方的な暴力と何も変わらないだろ……今までの相手、ずっとそうだったのか?」
「い、いや……最近はそういや決めないことが多かったかなって……始めの頃はちゃんと決めてくれる人の方が多かったし」
「何言ってるんだ?セーフワードを決めるのは当たり前のことだろ……?しない奴がおかしいんだ。Domとして不適格にも程がある」
「っ、俺も、ちゃんと言わなかったし」
「SubがDomに逆らうのは難しいだろ?そんな誰でも分かるような弱みにつけ込んで好き勝手するなんて最低だ。犯罪者と変わらない」
春が湧き上がる怒りに任せて香介の歴代Domを論うと、段々と香介の顔色が悪くなっていく。呼吸が短く浅くなり、苦痛を堪えるように表情は険しい。
「……っはぁ、春、苦しい……」
「――っ、ご、ごめん!」
ハッとして春が謝った途端、張り詰めていた空気が急に緩む。糸が切れたように、香介がふらりと春の肩にもたれかかった。呼吸が酷く辛そうだ。冷や汗で襟足が首筋に張りついている。
春が感情の昂りによって無意識下に発した威圧感――GlareにあてられたSubの典型的な症状だ。もう少し気づくのが遅かったら、Sub dropしてしまっていたかもしれない。
「香介ごめん、俺、無意識にGlareが……そんなつもりじゃなかったんだ、本当にごめん」
「は、分かってる……っから、ちょっと、はぁっ、休ませろ」
「大丈夫、ごめんな、香介は悪くないよ。香介のこと叱ったわけじゃないから、怖がらせるようなことしてごめん……」
「はぁ……くそ、その言い方、ムカつく……っは、ふ」
肩に彼の頭を乗せ、大丈夫と言い聞かせながらゆっくりと背中を摩っていると徐々に呼吸が落ち着いてきた。
彼の容態が良くなっていくのと反比例するように、春は焦りから回復して今度は自己嫌悪に苛まれていく。
「……落ち着いた?本当にごめん、俺の不注意で辛い目に遭わせて……こんなんじゃ、今まで香介のこと大事にしてこなかったDomと同じだ……」
何が「セーフワードを決めないDomは不適格」だ。数分前の自分を殴り飛ばしてやりたい。今の自分の方が余程不適格じゃないか。己の未熟さに反吐が出そうだ。
「…………なあ、今のって、After careだろ?」
「え、うん……Sub dropしかけてて危なかったから、どうにかして安心させなきゃと思って。戻ってきてくれて本当に良かった……」
普通はお仕置きの後にご褒美として施すのだが、今のようにSubがストレスを感じてBad tripしかけている場合に宥めて安心させてやることもある。どちらにせよ、Domなら必ずしなくてはならないことだ。
「……お前なら『After careはDomの義務だ』とか何とか言いそうだけどさ」
実際そうだろ、と迂闊に口に出すとまたGlareを発してしまいそうで押し黙る。
香介は春の肩に額を押し付けたまま、ややくぐもった声で話し続けた。
「俺はあんまりしてもらったことなかったから……すごく安心した、ありがとな」
「そんな、お礼言われるようなことじゃ……あれ?」
何か、おかしい。もうGlareの余波からは快復したはずなのに、彼の身体には全然力が入っていない。極度の緊張から弛緩、まさかとは思うが。次々にいろんなことが起きて、そろそろ頭がパンクしそうだ。
そもそも今日このバーに来てから、春にとって予想外のことしか起こっていない。
「ちょっと待って。もしかして香介、今度はSub spaceに入りかけてる……?」
「んー……?分かんねえ、これが、そうなのか……入ったことないから、知らない」
「……えーっと、ちょっと体勢変えるぞ、ごめんな」
「んっ、ぅ」
全く力の入っていない身体を抱き抱え、ベッドへ仰向けに寝転がす。
ついさっきまで苦悶の表情を浮かべていたはずの顔が、今や頬は薄く色づき、うっとりと目を細め、唇は緩く半開きで感じ入ったような吐息が時折溢れていた。
この様子は、既にSub spaceに入っているか、少なくとも入りかけているのは間違いない。
両極端だが、全く無いケースでもないのだ。要はゼロの状態からご褒美でspaceに入るか、マイナスの状態でケアを通してspaceに入るかの違いしかない。
極度の緊張状態から突然解き放たれると、反動で反対側まで飛んでしまうことは稀にあるらしい。どちらの方が難しいかで言うと、勿論後者に違いないのだが。
「あー……春、頭ふわふわする……酔ったかなぁ……」
「うん、完全にspaceに入ってるな……上手に入れたな、香介。“Good boy”、いっぱい気持ち良くなっていいよ」
頭を優しく撫でながら、試しに軽く褒めてみる。コマンドは使うなと言っていたが、褒めるニュアンスなら大丈夫だろう。
思った通り、香介は堪らないように鼻に掛かった声を上げて、全身をビクビクと震わせた。両膝をもじもじと擦り合わせて、触れてもいない股間が張り詰めてズボンにじわりと染みを作っている。脳イキに近いのだろうか。
「んァあ、あっ、はる、はるっ、ぁあ」
「ふふ、ああ、可愛い……香介、気持ち良い?イくの止まんないね……」
可愛い、もっと見たい、気持ち良くしてあげたい、虐めたい。Domとしての欲求が体の中で渦巻いて暴れている。
耳の中に息を吹き込むように囁くと、面白いくらいに身体が跳ねて嬌声が耳元で反響する。
「ひゃぅんっ、あっひ、やら、やらぁっ、とまんない、とまんないぃ……っ!うぁ、は……あー、はあーっ」
「ああ、駄目だ……俺も止まれなくなりそう、可愛い、香介、可愛い……上手にイけて偉いな、偉い、良い子」
春の言葉に反応して香介が快楽に堕ちていく様に、Domとしての欲求が瞬く間に満たされていくのを感じる。Sub spaceに自らの手で導いた達成感と支配感は、これほどまでに凄まじいのか。ゾクゾクと背筋が震えた。今はただ目の前のSubが愛おしくて堪らない。
「あッ、やら、しんじゃうっ、イキっぱなしでしぬ、うぅぅ」
死ぬ。ふと耳に入ったその一言で、またしても春は我に返る。
「待……って、香介、セーフワードまだ決めてない。香介!?」
必死に意識の曖昧な彼に話し掛けるが、時既に遅し。蕩けきった顔のまま、泥濘の眠りに深く沈んでしまった。またしても、Dom失格である。
しかし、今の一連の流れはプレイに入るのだろうか。命令も一切せず、ただひたすら甘やかして可愛がっただけのような気がする。
そんな行為も春は別に嫌いではないのだが、一般的に甘やかすだけの行為をプレイとは呼ばないだろう。命令もしくは仕置きと褒美がセットになって、初めてプレイが成立するのだ。
では、今まで春と香介が行っていた事は、果たして何と呼ぶべきものだったのだろうか。
嗜虐心を刺激する寝顔から目を逸らし、彼が目覚めるまでに全ての後始末を終えなければと立ち上がる。
取り敢えず最寄りのコンビニ――へ行く前に、痛みを感じるほど張り詰めた自身を慰めるために、シャワーブースへ駆け込んだ。
30分後、目を覚ました香介の第一声は「……ごめん」だった。
「体はすっげーダルいのに、やけにスッキリしてるっつーか……何だこれ、変な感じ」
「……どの辺まで記憶残ってる?」
「あー……なんか、お前のGlare食らってAfter careされてから、頭ん中がふわーっとし始めて……その後からは、ぼんやりとしか」
つまり、Sub spaceに入ってからはよく覚えていないということだ。安心したような、残念なような、複雑な心境だ。
「Sub space入るの、初めてだったのか?」
「ああ、うん……そっか、あんな感じなんだな」
薄い掛け布団に包まりながら、思い出すように目を閉じる。
「こう、宙に浮かんでる感じっていうか……夢の中にいるみたいだった……」
「……良かった」
安心しきった表情にほっと胸を撫で下ろす。ずっと心の奥底に蟠り続けていた後悔が、ほんの少しだけ解けた気がした。
「…………なあ」
布団の中でもぞもぞと動いていた香介が、突如表情を硬くして春の方を見る。
「……なんで俺、下履いてねえの」
「あー……えっと、それは、その……」
疑うような眼差しを向けてくる彼に、しどろもどろになりながら事の次第を説明する。
香介が気絶した後、汚れてどうにもならなかった下着を脱がせ、濡れた下肢を拭い、コンビニで買ってきた換えの下着を履かせたこと。それ以外には一切手を出していないこと。少し濡れていたズボンは干してあったから、もう乾いているであろうということ。
全て説明し終わる頃になると、香介は羞恥と情けなさから真っ赤に染まった顔を両手で覆っていた。
「………………本当、悪い」
「いや、気にしないでくれ、本当に」
むしろ申し訳ないのはこちらの方だ。香介の体力の限界を顧みずに甘やかした挙句、気を失わせてしまったのだから。
「……だって、俺ばっかりしてもらってるし、割に合わないだろ」
「そんなことないよ。俺、お世話したり甘やかしたりするの好きだし」
完全に善意で言ったつもりが、香介は顰め面で黙り込んでしまった。難しい。どう答えるのが正解だったのだろうか。扱いかねて頭を捻っていると、当人から思わぬ助け舟が出される。
「……割に合わないって言っとけよ」
「え?」
「無くなんだろ……口実が」
「口実?」
一体何の事だろう。のそりとベッドから半身を起こした彼を見返すと、顰めたままの顔が上目遣いで春を覗き込んだ。
すぐに分かった。これは、素直じゃない時の顔だ。数年ぶりに見る、よく知った表情だった。
「……俺は別に全然、割に合わないなんて思ってないんだけど」
空気読めよバカ、と今にも罵倒してきそうな香介を目で宥める。必死なのがお互いにバレバレで少し可笑しくなった。こんな所で、こんなことで嫌われたくはないが、逃がしたくもない。
「……もう少し一緒にいたいな。折角、久しぶりに会えたんだし」
「!」
今度は正解を引いたらしい。ほんの一瞬だけ、花が咲いたようにパッと顔が明るくなって、またすぐに気難しい表情に戻る。分かりやすくて可愛い。
ここからはどうすればいいだろう。選択肢は幾らでもあるが、どうせなら最善手を選びたい。時計をチラリと見遣ると、いつの間にか23時を回っていた。電車はまだ辛うじて出ている。
「俺の家、ここから結構近いんだけど」
流石にそこまでは想定しきれなかったのか、目を丸くした香介を期待の眼差しで見つめる。
「……もう遅いし、今日は泊まってく?」
たっぷり一呼吸の間を置いて返ってきた言葉に、平静を装って頷く。
ろくに信じたことの無い神様に、今だけは感謝したい気分だった。
人物設定
・東海林春(しょうじはる)/Dom
社会人3年目の会社員。高校を卒業した辺りで急激にDomとしての欲求が強まり始め、抑制剤を飲んでやり過ごしていた。パートナーに対して束縛が激しいタイプで、重たがられて別れを切り出されることが多い。
・辻香介(つじこうすけ)/Sub
文系大学の3年生。春の元親友。高校時代からずっとNormalと偽って生きてきたSub。コマンドで屈服させられるのがあまり得意でない珍しいタイプのSubで、過去のトラウマからプレイ自体に抵抗を持っている。抑制剤を常用し、体調を崩しかける度に無理矢理野良のDomを引っ掛けては心身共にズタズタになるのを繰り返している。
ともだちにシェアしよう!