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第4話

最近、食事をするのが楽しみになった。以前まではひたすら億劫で、ゼリー飲料やカロリーバー、おにぎりなど、簡単でなるべく口を動かさなくていいものを食べていた。そのせいか体型はどんどん細くなって、体力も元々無かった高校時代から輪をかけて衰えている。とは言え日々の運動量も通学のために外に出るくらいで、それ程困ってはいなかった、のだが。 「お、愛妻弁当」 「……ちげーわ、バカ」 学食の隅で一人、ひっそりと弁当箱の蓋を開けていた所に、空気の読めない男が一人現れた。同じ学部の須崎(すざき)だ。彼はSwitchで、実は一年の時に一度だけ寝たことがあるが、相性がそこまで良くなくてそれっきりになった。その後も何事も無かったかのように友人として続いている辺り、お互いに適当な性格なのだろう。後腐れがなくてこちらとしては有難い。相談、というより、愚痴も聞いてくれるので、友人としても良い奴だ。 だが、今はせっかくの楽しみを邪魔されて、正直鬱陶しいことこの上ない。 「すげー、和食じゃん。彩り豊かだし、料理上手いんだな、今度のご主人様は」 「変な呼び方すんな。あとジロジロ見んな。やんねえからな」 「ええー、ケチ」 須崎には既にパートナーが出来たことを伝えてあった。当然のように向かい側に座る彼を冷たくあしらい、人参の煮物を箸で摘む。これは昨日の夕飯の残り物だ。柔らかくて味が染みていて美味しい。ホクホクしながら白米を口に運ぶ。他のおかずも、香介(こうすけ)の弱った胃腸を気遣って、野菜や消化に良いものばかりだ。 黙々と咀嚼していると、須崎がAセットのハンバーグをつつく手を止めて、しんみりとした口調で呟いた。 「……良かったな」 「は? そんなに羨ましいか、手作り弁当」 「うん。いやそっちじゃなくて。愛妻弁当はめちゃくちゃ羨ましいけど」 真面目な話をする時、須崎は手を膝の上に置く。微妙な空気を察知して、香介も食べる手を止めて箸を置いた。 「今回は、ちゃんと幸せそうで良かったなって」 「……そんな分かりやすいか、俺」 「うーん、まあ。顔色良いし、表情も明るいし、俺の話もちゃんと聞いてるし」 「最後は関係ねえだろ」 「いやあるある。気づいて無かったかもしんねーけどお前、たまに俺の話全く聞いてない時あったからな。上の空っての? 何言っても生返事だし、ぼーっとしてんの。地味に悲しいんだからな、あれ」 「……そりゃあ、悪かったな」 全然気がつかなかった。言われてみれば、たまに妙な顔で見つめられている時があった気がする。恐らくは薬の副作用か、欲求不満の症状が出ていたのだろう。それも、かなり頻繁に。何に関してもいい加減な彼が、こうして文句を言うくらいには。 「ま、そんだけ余裕が無かったってことだろ。いっつも疲れた顔してたし」 「……そう、かもな」 不思議な感覚だ。少し前まで当たり前だった生活が、もう朧げにしか思い出せなくなっている。まるで悪い夢でも見ていたようだ。今の生活が普通で、あるべき形に戻ったような気さえした。 「あと、お前が飯食って『うめえ』って顔してんの、初めて見た」 「……だって、ちゃんと味すんだぞ、これ」 弁当を指差すと、須崎は一瞬へらりと笑みを浮かべて、即座にそれが冗談でないと分かると「はあ?」と盛大に顔を顰めた。 「逆に聞くけど、今まで味しなかったのかよ」 「うん。噛むのが苦痛になるレベルだった」 「マジで言ってんの? 本来なら病院行くレベルだぞそれ……今までよく耐えてたな」 「……別に、どうでもよかったし」 飯が不味かろうが、栄養失調で倒れようが、碌でもない男に傷つけられようが、本当に心の底からどうでもよかった。何をしても、満たされる気がしなかったからだ。原因は分かっていたが、どうすることも出来ないから諦めていた。 それなのに、何の因果かこうして巡り会って、叶ってしまった。伏せたはずの空の器に、ようやく水が注がれた所なのだ。手を伸ばして口をつけるのに少々、手間取ってはいるが。 「……初めてあいつの飯食った時、感動して泣いたもん、俺」 思い出しながら苦笑いする。ボロ、と自然に涙が零れ落ちたのだ。料理を食べて泣いたのは生まれて初めてだった。それを見た(はる)が驚いて、そんなに口に合わなかったかと大慌てしていた姿がまだ鮮明に蘇る。 「……本当にさ、良かったよ。やっと幸せになれそうでさ。これでも俺、結構心配してたんだからな、お前のこと」 「……悪かった、心配かけて」 「じゃなくて?」 「…………あ、りがと」 礼を言わせて、満足気に須崎が顔の横でピースサインをする。鬱陶しいそれを無視して、最後の煮物を口の中に放り込んだ。食べ終わってしまうのが惜しくて、じっくりと味わって咀嚼する。きっちり飲み込んでから、手を合わせた。 「ごちそうさまでした」 食べ終わると、今度は空の弁当箱の前にスマホを掲げ、カメラを起動する。シャッターを切った香介に、須崎が怪訝そうな表情を浮かべた。 「何撮ってんの?」 「弁当箱」 「なんで?」 「報告」 弁当を渡されるようになって数回目、春から「ちゃんと食べたかどうか確認したい」と言われて、この方法が編み出されたのだ。写真だけでは信憑性に欠けるので、メッセージで感想を書くのも忘れてはいけない。教えてやると、須崎は少し引いたような顔をしていた。 「それはまた、随分心配性っつーかソクバッキーっつーか……」 「まあな」 「嫌になんねーの? 毎回だろ?」 「別に」 確かに手間は掛かるが、香介は微塵もこの行為を嫌だとは感じていなかった。これは信頼されていないからではなく、コミュニケーションの一環、延いてはプレイの一部なのだ。Domに食生活を管理されるというのは、Subの香介にしてみれば喜ばしいことでしかない。きっと春も同じように感じていることだろう。 「なんか、お邪魔しました……」 「おー。邪魔邪魔」 「酷くね?」 パートナー間の事情に首を突っ込む奴は、馬に蹴られて何とやらである。Switchの須崎にはあまり感覚が分からないのかもしれない。 『ごちそうさま  人参甘くて美味かった  卵焼き甘くなってた』 彼が昼休憩の間にと、立て続けにメッセージを送信する。数秒も立たないうちに既読がついた。返信も即座に来る。 『良かった  残り物多くてごめんな  卵焼き気づいた?  この前と味付けどっちの方が好きだった?』 前回は出汁風味強めで、今回は甘めだった。少しだけ考えて、キーボードに指を乗せる。 『俺はしょっぱい方が好きだけど  どっちも美味しかったから、たまには甘い方も食べたい』 『分かった』 「あっっっっっま」 「うるせぇ覗くなバカ」 上から画面を覗いてきた須崎が、げんなりした顔で離れていく。やり取りの糖度にあてられたらしい。自分でも甘いのは分かっているのだから、一々騒がれると鬱陶しい。 「え……(つじ)ってツンデレの割合9:1じゃなかったっけ。どこ行ったの」 「誰に対してもその割合な訳ねぇだろ」 「え? 俺だけなの? 逆に愛されてる?」 そんな訳が無い。彼のこういう能天気で空気を読まない所が、長所であり短所でもあるとつくづく思う。これだから憎めないのだ。 「今見た感じさぁ、ツン成分0じゃん。0:10だよ。コールドゲームだよ。試合終了」 「少しは黙れねぇのかお前」 とは言え、自分がデレデレになっているのは自覚していた。3年近く会わずにいて、久しぶりに会えたものだから、感覚がおかしくなっているのかもしれない。彼に対して甘えても、以前に比べてさほど抵抗を感じていなかった。文章のやり取りになると余計にそう思う。 「表情も明るくなったし、服の趣味もちょっと変わってっし、そーんなピアスまで開けてさ。急に変わり過ぎ。女子が噂してんぞ」 「なんて?」 「辻くん、前は暗い感じだったけどぉ、明るくなったらカワイイ感じでイイよね〜って」 「『可愛い』かよ。嬉しくねぇな」 香介、というか男に対して「可愛い」は褒め言葉ではない。学生の頃からどちらかと言うと「かっこいい」よりは「可愛い」と評されることが多くて、正直うんざりしていた。 (…………でも) 彼からの「可愛い」は、それだけで宙に浮かんでしまえそうなほどに嬉しく感じる。どうしてか、なんてことは、悔しいが考えなくても分かり切っていることだった。我ながら単純だ。 『今日遅くなるかも  先に入って待ってて』 『分かった』 弁当箱をしまうついでに、鞄のポケットの中を確認する。目当ての物はチャリ、と金属の音を鳴らしてその存在を主張してきた。何の変哲もない普通の鍵だが、香介にとっては今一番大事な物と言っても過言ではない。 それは自宅ではなく、春の家の合鍵だった。 あの後、昼寝から目覚めた春に、帰るにはまだ早いだろうとごねられて、結局帰るのは夕飯の後になった。夕飯も春の手作りが食べられると決まって、内心喜んでいたのは内緒だ。 膝の上に乗せられて、重いだろうに満更でもなさそうな春が首筋を撫でてくる。手つきがいやらしい。 「香介、キスしていい?」 「……んで訊くんだよ」 「今日止められてばっかりだし。いい?」 「……訊かなくていいっつうの」 下から伸び上がるように口付けられて、仕方なくこちらから距離を詰めて隙間を埋める。昨日から何回もしているはずなのに、まだ緊張していた。閉じた唇を、春の舌がぬるりとなぞっていく。腰をがっちり抱えられて、温い快感から逃げ出すこともできなかった。 「……腰揺れてる」 「うるさい、ん」 もどかしい感覚に腰が揺らいだのを指摘され、思わず反発した隙をついて舌を捩じ込まれた。ぬるついた舌が、生き物みたいに香介の口の中を動き回る。溢れた唾液が唇を伝って春の口元を濡らした。 「ん、んぅ……っは、ん」 「……ん、は」 腰を押さえていた手が、シャツを潜って肌着越しに背中を撫でる。目を開けると、春が上目で此方を覗き込んでいた。口を離して、背中側に潜り込んだ手を掴む。彼は一瞬だけ残念そうな顔をしたが、香介の表情を見てすぐ思い違いに気がついたようだ。濡れて光る唇を、顔だけ近づけてぺろりと舐める。じらじらと瞳の奥で火種が燻っていた。 「……服、汚したくない」 春に買ってもらった物だから。パーカーを自ら頭から脱いで、シャツは脱ごうとする前に春がボタンに手を掛けた。急いた様子はなく、むしろ恭しく丁寧にボタンを全て外し、袖から腕を抜いて、パーカーと共に床の上へ置いた。インナーも剥ぎ取られて、部屋の空気が少し冷たい。 ソファに寝かされて、今度は春が自分で服を脱ぎ捨てた。シャツもセーターも雑に床へ放って、香介の上に覆い被さってくる。結構筋肉ついてるな、と見ているとまた唇を塞がれた。 「っ……ん、ぅ」 「……はっ、香介……」 上から食らいつくように貪られて、唾液を流し込まれる。息が苦しくなって背中を叩くと、口を離した流れで耳朶を食まれた。急な刺激にビクンと身体が跳ねる。 「んァ、は」 「やっぱり耳好きなんだ」 吐息混じりの低音に腰がぞわぞわと浮いた。 「ちが……ッ」 「嘘つき」 首を振って否定するが、大した抵抗にはなり得ない。笑みを含んだ腰に悪い声が鼓膜を震わせて、聴覚を丸ごと犯されている気分だ。耳介を軽く噛んだり、舐めて吸ったり、そのうち耳を食べられるのではないかと思うほど執拗に責められる。 「んんん、っしつこい、バカ」 「でも好きだろ? もう固くなってる」 「あっ、ぅ」 グリッと膝で股間を押されて、身体が反射で上に逃げる。そうしている間にベルトに手が掛かって、いとも簡単に外された。ズボンを脚から抜いて床に捨てると、下着越しに兆した中心を撫でる。 「……っ、焦らすな」 「はいはい」 下着のゴムを捲って、硬くなった性器を露出させる。するすると下から上に撫でられて、ぬるい刺激がくすぐったい。腕を叩いて急かすと、笑みを深めた彼の手が香介の陰茎をキュッと握り込んだ。 「ん、ふ……っんぅ」 「気持ちいい?」 答える訳がない。唇を噛んで顔を逸らす。こういう時の香介は、身体の方が余程素直だった。春はそれも見透かしたように笑うだけだった。 「……俺も一緒にしていい?」 言いながら、手は既に自分のベルトを外しに掛かっている。カチャカチャと音を立ててそれを外すと、ジッパーを下げて下着をずり下ろす。既に勃起した性器を香介のそれと重ねて、手のひらで包み込むと一緒に扱き始めた。 (これ、兜合わせってやつだ) 実際にしたことはなかったが、知識としては知っている。初めての体験に戸惑いながら、恐る恐る自分の手を添えると、上から纏めて握られて、びっくりする暇もなく手を動かされた。 「あっ、は、う」 「あー、ヤバ、気持ちいい……」 グチュグチュとお互いの先走りが混じり合って、滑る手のひらと欲望を擦り合わせる。裏筋同士が擦れる度に腰がゆらゆらと揺れた。 「香介、香介っ」 「んうぅ、そこ、喋んなぁっ」 首元に顔を埋めて、一心不乱に手を動かす傍ら、不意に名前を呼ばれて腹の奥がきゅんと疼いた。引き剥がそうと彼の肩に手を伸ばすが、逆に縋りつくような形になった。 「はっ、すき、好きだ、香介」 「ひぅ、ううぅう〜……っ!」 切羽詰まった声が頭の中に響いて、ガクガクと腰が震える。目の前が真っ白になって、気づけば射精していた。声でイった、という不甲斐なさに打ちひしがれる暇もなく、尚も止まらない責め苦に首を振って悶える。 「はる、うぅ、イった、イったからっ、やめ」 「はあっ、ごめん香介、もうちょっとだから……っ」 グリグリと敏感な先端を刺激され、快感よりも痛みが上回った。蹴飛ばそうにも脚は押さえ込まれていて動かせないし、手も力いっぱい掴まれていて離せない。何より、覚えのある感覚が込み上げてきていて焦っていた。何も出来ずに、しがみついた肩に爪を立てる。 「ああ、なぁ春ッ、ア、やだっ、やだやだやだ!」 ぷしゃっ、と透明な液体が吹き上がって香介の腹を濡らす。それにも構わず手を動かされ、動きに合わせて液体が鈴口から溢れた。キシキシとソファが軋む音がする。 「ひ、あ、あうぅ、うーっ」 「う、はぁ、あーイく……ッ」 ビクッと震えて春の精液が手にかかる。ようやく責め苦から解放されて、全身の力が一気に抜けた。春は何食わぬ顔でティッシュを取って、自分の手と香介の腹を拭っている。 涙目で睨みつけると「ん?」と首を傾げられた。満足気な顔にふつふつと怒りが込み上げてきて、自由になった足の踵を太腿に落とした。 「いって、何だよ」 「……っ何だよじゃねえこのバカ、遅漏、最低!」 「ちょ、遅漏は無いだろ。香介が早漏なだけじゃ……」 「はあ!?」 人がやめろと言っても聞かなかった癖に、よくも人のことを悪く言えたものだ。追撃してやろうかと思ったが、まだ身体に力が入らないので諦めざるを得なかった。 「ていうか香介、潮吹くの初めてじゃないんだ」 少し残念そうに春がぼやく。妙に確信を持った言い方に眉を顰めた。 「……なんで分かんだよ」 「だって、Sub spaceに入った時は『分かんない』ってちゃんと言ってたし」 「……俺は知らねぇんだけど、それ」 「あ、そっか」 分からないが、言いたいことは何となく分かる。未知の感覚に怯えるのと、既知の感覚に怯えるのとではまた反応も変わるはずだ。その違いを見事に把握されているのが悔しいやらむず痒いやら、とにかく癪に障るので、このことはしばらく根に持ってやることにした。 「まあいいや、香介の初めてはもう貰ってるし」 何気なくそう言って服を着だした春を見ながら、そういえばとぼんやり考える。春は香介の初めてを奪っておいて、自分の方は初めてを何も明け渡していないではないか、と。 それは、狡いのではないか、と。 「……俺だって春の初めてが欲しい」 思ってしまったら止まらない。言ってしまえばもう戻らない。口をついて出た言葉は、嫉妬に塗れた醜いものであったが、春は耳と尻尾が見えるくらい喜びを顕にした。 「本当? いくらでもあげる、全部あげるよ、何がいい?」 「俺が知るかよ」 「香介〜〜〜」 「鬱陶しい、離れろ」 大型犬のようにまとわりついてくる春を渋々受け止めて、犬にするように頭を撫でてやる。何がいいと言われても、春の経験など香介の知ったことではない。 「……じゃあ、こうしよう」 春が抱きついたまま、提案してきたことに頷く。気は進まないが、いずれやるつもりだったのだから、今からやっても変わらないだろう。 「先シャワー浴びていいか。ベタベタする」 「一緒に入る?」 「バカ」 すげなく返して風呂場に入ったが、案の定途中から入り込んできた彼と一悶着あったのはご愛嬌だ。 「俺と同じ所に開けるね」 「……おー」 左の耳朶を軽く引っ張って、ピアッサーをセットする。ひたりと皮膚に当たる部品の無機質な冷たさが、正直に言うと少し怖い。緊張しているのが伝わったのか、春が苦笑して香介の頬を撫でた。 「思ったより痛くないから。大丈夫」 「別にビビってねーよ」 「本当かな」 嘘だ。身体に穴を開けるのが怖くない訳がない。汗で手のひらがじっとりと湿っていた。Subだとはいえ、香介はプレイ外の痛みに悦ぶ人間ではなかった。 「……香介、俺の好きな所ってどんな所?」 「は、何だよそれ」 「いいじゃん、教えてよ」 唐突に問いかけられて、恐怖に固まった思考を必死に総動員する。目の前の顔が楽しそうに笑っていた。 (優しい、無理強いしない、料理が上手い、細かい部分に気が利く、声がいい、意外といい体してる、ちょっとバカだけど意地を張らない所……俺のことが好きな所) 自分でも引くぐらいポンポンと思い浮かんでしまって、一人で勝手に恥ずかしくなってしまった。そんなこと、面と向かって言えるわけがない。なるべく一言で済ませられるのは――と考えて、黙って此方を見つめている彼と目を合わせる。 鼻筋が通っていて、眉の形も綺麗で、目は切れ長、頬骨の高さもちょうどいい。香介は小さな頃から見ていて慣れているから分からないが、世間一般的にはこういう顔を「整っている」と評するのだろう。確かに、この顔が笑いかけてきた時の幸福感は、言葉にし難いものがある。 「………………顔」 答えた瞬間、耳の辺りでバチンと音が鳴って、衝撃が走った。遅れて鈍い痛みがじわじわと耳を侵食していく。春がぺろ、と舌を出した。 「てめえ、やりやがったな……?」 「気が逸れてた方が楽かと思って……」 これで冷やしてね、とジェルタイプの保冷剤を渡される。患部を冷却しながら、彼をじとっと睨みつけた。 「春の癖に、騙し討ちみてぇなことしやがって……」 「ごめんごめん。でも香介、『顔』って言ったよね。俺の顔好きだったの?」 「考えても思いつかなかったから、捻り出したんだっつーの」 「なんだ、残念」 口ではそう言いつつ、全て見透かしたような顔で笑っているのがムカつく。耳に穴が開いていなければ蹴っているところだ。口角を上げたまま、春の手が香介の頭に伸びてくる。 「痛いのに我慢できたな。偉い偉い」 子供をあやすような口調に、馬鹿にしてるのかと食ってかかりたいところだが、意思とは裏腹に頭の中はぼやっと霞が掛かっていた。これはただのスキンシップではない。DomからSubに施される、所謂After careだった。 「んぅ……急に、何だよ」 「痛いの苦手だろ?怖いのも。頑張ったな」 「ん〜……」 生え際をさり、と撫でられて急速に意識が蕩けていく。流石にSub spaceにまでは行かないが、かなり癒されているのを実感した。思っていた以上に、ピアッシングは自分にとってストレスだったらしい。痛いのは怖い。 力の抜けた身体を支えられて、また彼に背後から覆われるような姿勢になる。指の間から落ちた保冷剤を春が拾い上げて、香介の顔の横に当てた。臍の上に片腕が回される。 「可愛い。香介、本当に褒められるの好きなんだな」 可愛いと言われることさえ、今の頭は快感に変換してしまうのだからどうしようもない。褒められるのは嬉しい。怒られるよりずっと良い。胸板に片頬を擦り寄せると、彼の呼吸に合わせて上下するのが分かった。 春はここまで、香介の地雷を上手く避けて通っていた。本当に扱いが上手い。それは多分、幼馴染なのも関係しているのだろう。 幼い頃から、春は香介の感情を受け止めるのが得意だった。行き場の無い激情を受け止めて、穏やかに流して、傷ついた香介を柔らかく包み込んでくれた。そんな彼をいつしか、同性の垣根を越えて、好きになっていた。 「…………春」 「ん?」 好きになったきっかけなど忘れてしまった。そもそも、そんなもの無かったのかもしれない。紆余曲折を経て、こうして再び巡り会うことができたのだから、もうどうでもいいことだ。 「これで春の初めて、俺が貰ったからな」 「うん」 これからたくさん、二人で初めてを作っていける。そのことが、今はこんなにも嬉しい。彼が心底幸せそうに笑ったので、香介もつられて笑みを溢れさせた。 まだ帰したくない、とハッキリ顔に書いてある春を後目に、しゃがみこんでスニーカーの紐を結ぶ。香介の方は春と違ってサッパリしているので、帰り際に寂しさを顕にしたりはしない。また会えばいいだけの話だ。既に次の約束もしていた。 「じゃ、また荷物取りに来るから」 「うん……あ、そうだ」 ドアに手を掛けた所で、春が何やら思い出したように部屋の中へと駆けていく。棚を漁っているような物音がして、戻ってきた彼の手には鈍色に光る物体が握られていた。手を掴まれて、手のひらの上にそれをポンと載せられる。 何の変哲もない、鍵だった。 「うちの合鍵。好きな時に来ていいから。連絡はあったら嬉しいけど、無くても全然いいし」 「……んな簡単に渡していいのかよ」 「だって香介だし」 「はあ……」 昔はよくお互いの家を行き来していたし、その感覚が抜けていないのだろうか。もしくは本当に、香介だから特別に――無駄に浮かれてしまうので、それ以上は考えないことにした。 「……ま、貰っといてやるよ」 「うん。持ってるだけでもいいから」 つれない返事にも嫌そうな顔ひとつ見せず、近づいて抱き締めてくる。別れを惜しむような、少し長い間があって、仕方なくといった風にゆっくりと身体を離す。あまりにも寂しそうにしていたので、慰める意味で軽くキスしてやると「余計帰したくなくなるだろ〜……」と悲壮感たっぷりに嘆かれた。面倒臭い奴だ。 「またすぐ会うだろ」 「そうだけど……やっぱ駅まで」 「まだ明るいから帰れるっつーの。じゃあな」 「――ッ、待って!」 突然腕を掴まれて、咄嗟に身が竦む。春は気づいているのかいないのか、少し力を緩めて香介を凝視した。心なしか、顔色が少し悪いように見える。 「…………また、来るよな?」 気づいていないのは、自分の方だった。彼は寂しがっていたのではなく、怖がっていたのだ。香介と、再び別れることを。あの日のように、また会えなくなってしまうことを、恐れていたのだ。 「……来るよ。当たり前だろ」 傷を負ったのは何も自分だけではなかったのだ。そのことに気づくのに、かなり時間を要した。彼をこうしてしまった責任は、間違いなく香介にある。 何か、今ここで安心させる手段は。思いついた方法は心許ないが、何もしないよりはマシだろうと携帯を取り出す。 「……香介?」 住所と、建物名、部屋番号、それから最寄り駅を打ち込んで送信する。向こうに通知が行ったのを確認して、再び携帯をしまった。 「俺の家の住所とか、諸々送っといた。暇な時にでも確認しに来いよ」 「え……」 「出鱈目じゃねぇからな。ちゃんとそこに住んでる」 ぐっと唇を噛んで、泣きそうになりながらまた抱きついてくる。多分、ここ二日間だけで今までの人生でしてきたハグの累計回数を軽く超えたと思う。ここで突き放すのは流石に可哀想な気がしたので、甘んじて受け入れてやった。 「……幻じゃないよな」 「お前、この二日間無かったことにする気かよ」 「そうじゃないけど……本当に」 夢みたい、と涙声で頬を擦り寄せる。こんなに涙脆い奴だったか、と怪訝に感じたが、それだけ感情が昂っているということなのだろう。 「行ってもいなかったら実家に電話するからな……」 「おー……その前に俺に連絡しろよ、留守にしてるだけかもしんねえだろ」 「連絡先もさっき交換したばっかじゃん……また繋がらなくなったら死んじゃうよ、俺」 「怖ぇこと言うなよ……」 このテンションだと本当に死んでしまいそうで、少し不安だ。そんなことはないと思うが、何かの間違いで繋がらなくなってしまわないように祈っておいた。 「……ほら、そんな顔じゃ表出れねぇだろ。もう帰るからな」 「…………うん。またな、香介」 「おう、またな」 目元を赤くした春に、今度こそ別れを告げる。今度はもう、引き留められることはなかった。 駅までの道のりで、今の彼の様子について思索する。学生の頃は安心できる拠り所のイメージがあったが、今は深い愛情の中にどこか不安定さを感じた。香介と同じように、何か――と言ってもほとんど見当はついているが――トラウマを抱えているのかもしれない。彼の不安や苦しみを想像すると、ギュッと胸が痛んだ。 (……大丈夫だよな、きっと) 彼と二人なら、乗り越えていけるはずだ。ポケットの中の鍵を握り締めると、根拠もなくそんな勇気が湧いてくるのだ。沈みかけた夕日に照らされる街の通りを、一人歩いて帰途に就いた。

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