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第3話

朝目覚めた時、隣にいる人が彼であればどれほど良かっただろうと思ったことがある。それも一度や二度ではなく、何度も夢に見た景色だ。それがたった今、叶った。 (ああ、ヤバい。感動で泣きそう……) 隣に並んで寝かせていたはずだが、眠っている間に距離が縮まって、ほとんど抱きつかれるような体勢になっていた。感極まりすぎて、最早目の前の旋毛ですら愛おしい。骨っぽさが目立つ身体を抱き締めて、素肌を擦り寄せる。 結局(はる)の方は最後まで服を着たままだったが、シャワーを浴びた後に服を着るのが面倒臭かったのと、初夜は裸で寝た方が雰囲気が出ると思ったのもある。現に、触れ合った肌がつるりと滑ってこの上なく心地いい。 「……ん、ぅ」 未だ昨夜の名残りが窺える艶っぽい吐息を零して、香介(こうすけ)が春の胸板に額を擦り付けた。「幸せ」を体現したかのような状況に、思わず涙が出てきそうだった。 「んん…………はょ」 「っふ、おはよ」 彼は眠たそうに唸りながら、半分も聞き取れない声で覚醒を告げる。 「いつから起きてた?」 「んー……さっき、いっかい起きて……お前、寝てたしもっかい、寝て…………いま、おきた」 まさかの二度寝だった。先に寝顔を見られていたのかと思うと恥ずかしいが、それよりも彼と共有する時間が少しでも減ってしまったことを惜しく感じた。 「そっか。ごめんな、先に起きられなくて」 「……お前、口開けて寝てた」 「うわ。恥ずかしいから言わないで」 「ふふ」 眦を下げて笑う彼の顔は花が咲いたような美しさで、思わず顔を近づける。触れる寸前、彼の手のひらが春の口元を勢いよく押さえ込んで、春の顔を仰け反らせた。首がちょっと痛い。 「やめろバカ」 「なんで」 今のは絶対にそういう流れだった。キスを拒まれたことに若干の不安を感じつつ、不服さを隠さずに抗議する。 「寝起きの口は雑菌やべぇんだぞ。歯磨きとは言わないから、せめてうがいしてからにしろ」 「ああなんだ、そういう……」 「あ?」 「すぐしてきます」 ベッドから出ると、部屋の温度は体温が恋しくなる肌寒さだったが、一刻も早くさっきの続きがしたい春は構わずに下着姿で洗面所へ向かった。 鏡に映るやに下がった自分の顔に、思わず苦笑する。 (まあ、しょうがないよな……) 悲願が遂に叶ったのだ、嬉しくて嬉しくて仕方がない。人生で一番と言っても差し支えないだろう。それだけ、香介は春にとって特別な存在だった。 顔を洗ってから口を濯いでいると、後ろから香介がトテトテと歩いてきたのが見えた。もう眠気は覚めたらしく、目はしっかりと開いていた。手には何か小さいボトルのような物を持っている。 「何それ」 「コンタクトの洗浄液」 「……コンタクトにしたんだ」 「こっちのが楽だし。でも着けたまま寝たから張りついて痛ぇし外す」 言いながら手を洗い、慣れた手つきでコンタクトを外して指で洗っている。視力が良い春には全く馴染みがない作業で、興味津々で一連の流れを見ていた。 「……ん、よし」 洗い終わったコンタクトを容器か何かにしまって、顔を洗うと、ポケットから見慣れた物を取り出す。やはり慣れた手つきでそれを掛けると、懐かしい顔が現れた。 「…………香介だぁ」 「何言ってんだ」 気の抜けた声に、眼鏡を掛けた彼が苦笑する。輪郭と目つきがシャープになっているが、それ以外はどこも変わらない、高校の頃の彼と同じ表情をしていた。 背中に手を回して抱き締めると、おずおずと腰に手を伸ばして抱き締め返してくる。 「香介……」 「ん」 「会いたかった……」 万感の思いを込めて囁く。今朝から何度も、彼に出会えた幸せを噛み締めていた。 「…………俺も、なんてどの面下げて言ってんだって感じだけど」 失踪した手前、バツが悪いのだろう。言い淀んではいたが、同じ気持ちだったと告げられて春の心は舞い上がった。 「本当?」 「嘘つかねぇよ、こんな時に」 一際優しい声音に心臓が跳ね上がった。今、このタイミングなら、行ける。両肩を掴んで体を離すと、彼の顔を見つめ直す。 「あのさ、香介」 大きな黒い瞳が春を見上げている。酒が入っていないせいか、昨日バーで言った時よりも緊張していた。 「俺、香介のこと」 タイミング悪くきゅうぅ、と間の抜けた音が響いて、春の告白を遮った。口を閉じて見つめ続けると、彼が気まずそうに目を逸らす。 「…………わるい」 「うん、いや……朝ご飯、作ろうか」 腹が減っては何とやら。そもそも二人ともパンイチだし、むしろ格好つかない告白を流してくれたのは良かったのかもしれない。 一度仕切り直すことにして、寝室へ戻って服を着る。新しく出した服に袖を通しながら、香介に朝食のリクエストを募る。 「何か食べたいものある?」 「あー…………」 インナーを頭から被った香介は、ごにょごにょと歯切れ悪く何か呟いた後、小さな声で「消化に良い物」とだけ言った。おや、と思わず心配になって尋ねる。 「お腹の調子悪いのか?」 「いや…………んー……多分」 「多分って。もしかして食欲無いとか?」 「んー……」 彼は困ったように頭に手をやって、春を上目でじっと見つめる。見つめ返すと、観念したように溜息をついて、濁すことなく理由を白状した。 「……最近、まともに固形のもの食ってねえから、いきなり食ったら胃に悪いかと思って」 「………………香介」 服の袖から伸びる細い手首に目をやりながら、低い声で呟く。香介は居心地悪そうに身動ぎして、手を体の後ろに回した。 「…………ごめんって」 あの痩せ過ぎた身体はそういうことかと合点が行く。そんな食生活をどれだけ続けていたのか分からないが、不健康にも程があるだろう。 「はあー………全く」 「食欲湧かねぇし、腹もそんな減らねぇし、別にいいかと思ったんだよ」 「良くないよ。じゃあお粥にしようかな……ちょっと待ってて」 冷蔵庫の中身と調理の段取りを考えながらキッチンに行こうとすると、ピッと袖を引かれて思わず振り返る。むぅ、と口を尖らせた香介が、何か言いたげにこちらを見上げていた。 「どうかした?お粥じゃない方がいい?」 「そうじゃなくて……」 煮え切らない態度に首を傾げると、はあ、とこれ見よがしに溜息をつかれる。「忘れてんならいいや」と残念そうに袖を離され、そこでようやく思い出した。同時に、彼の可愛すぎるおねだりの仕方に胸が苦しくなる。 「香介っ……!」 「わっ、朝からがっつくなバカ!」 香介が可愛すぎるのが悪い。チュッと音を立てて吸いつくと、拒むような言葉とは裏腹に、彼も満更でもなさそうに唇を擦り寄せて来る。 気を良くしてベッドに押し倒そうとすると、流石に背中を強めに叩かれた。すごすごと離れた春に向かって、王様の如く傲慢な口調で一言。 「腹減った」 「はい……」 彼に逆らえないのは今も昔も結局変わらない。食欲が無かったと言っていたし、腹が減るのはいいことだよな、と思い直して、今度こそ朝食を作るためにキッチンへと足を運んだ。 あらかた作り終わって、盛り付ける前に香介に知らせに行こうとリビングに顔を出すと、彼はソファの上で丸くなって眠っていた。小さく身体を丸めて寝息を立てている姿は、さながら小動物だ。点いているテレビからは、控えめな音量でニュースが流れていた。見ているうちに眠くなってしまったのだろう。 そのまま寝かせてやりたい気持ちもあったが、冷めないうちに食べてほしい気持ちの方が勝った。優しく肩を揺すって彼を起こす。 「香介、お粥できたよ」 「ん、うん……たべる」 目を開けた彼は浅い眠りからすぐに覚醒して、小さく伸びをする。テーブルに着くのを確認して、キッチンへと戻った。 小さめの器に粥をよそって、彩りに三葉を乗せる。麦茶を入れたコップとレンゲと一緒に盆に乗せて運ぶと、香介が興味深そうに中身を覗き込んだ。眼鏡がふわ、と湯気で曇る。彼の向かいに座り、よく見える表情を穏やかに見つめる。 「……いい匂いがする」 「卵粥だよ。まだ熱いから気をつけて」 「……いただきます」 どうぞ、と言うと香介は恐る恐るレンゲを手にして、粥を一口掬った。猫舌気味な彼は火傷をしないように、多めに吹いて熱を飛ばす。必死に冷ましている様子が何だか可愛くて、ニヤけそうになる口元を手で覆った。 「かわいい…………」 「食欲失せるんだけど」 「ごめん…………」 ギロ、と疎ましそうに睨みつけてくる顔さえも愛らしい。食べられそうな温度になったのか、ようやく彼が粥に口をつけた。はむ、とレンゲを口に入れて、しばし固まる。 「…………どう?」 「………………」 春の問い掛けに答えないまま、ぼやっとした表情で粥を噛み締めるようにゆっくりと咀嚼する。ごくん、と飲み込んで、無言のまま次の一口を掬って口に運ぶ。 (なんで何も言わないんだろう……) もしかして、不味かったのだろうか。味見は一応したのだが、彼の口には合わなかった可能性もある。昔の彼はよく食べる方だったし、食べ物を粗末にするのを嫌う所があるから、ちゃんと食べ切ろうとしてくれているのかもしれない。そういう気遣いをしてくるタイプなのだ、彼は。 「こ、香介、不味かったら無理して食べなくていいから」 二口目をやっと飲み込んだ彼は、どこか焦点の合わない目を此方に向けた。照明の加減なのかキラキラと輝いていて、綺麗な瞳だな、と何ともなしに思った瞬間だった。 ボロ、と彼の右目から大粒の涙がテーブルに零れ落ちた。 「……えっ、え!?」 堰が切れたようにボロボロと涙を流して、声もなく泣いていた。慌てて向かいの椅子から立ち上がり、彼の傍へ行く。 「ちょっ、あの、本当ごめん!そんなに不味かったか!?俺が責任持って食べるから、残して――」 器を下げようとすると、手に持ったレンゲを中に入れ込んでカツン、と止められる。意図が読めず、思わず彼の顔を見つめた。彼の潤んだ両目がゆっくりと瞬く。 「………………美味い」 ぽつ、と呟かれた言葉に、あんぐりと口が開いた。 「…………へ?」 「美味い。食べる」 「え、あ……うん……」 呆然とする春から奪うように器を抱え込んで、卵粥を黙々と、一心不乱に食べている。涙は相変わらず流したままだった。 (な、泣きながら食べてる……) とても美味しいようには見えないのだが、彼はお世辞を言うようなタイプでもない。表情とまるで一致しない感想に複雑な気分になったが、嘘ではないはずだ。素直に喜べないまま、彼が食べる所を見守り続けた。 10分ほどかけて完食した彼が、顔の前で手を合わせる。とても満足気な表情をしていた。 「ごちそうさまでした」 「お、お粗末さまでした……」 「久々にまともなモン食べた。美味かった」 「それなら、良かったけど……」 若干困惑したまま、空になった器を下げる。器を水に浸けながら、にこにこと幸せそうにしている彼を見ていると、だんだんと困惑も薄れていった。他でもない彼が美味しかったと言っているのだから、きっと美味しかったのだろう。 キッチンから戻り、改めて彼の目の前の椅子に腰を下ろす。これから、大事な話をしなければならない。尤も、結論はほぼ決まっているようなものだ。 「それでさ、香介」 「パートナーの話だろ」 「……うん」 雰囲気で察した彼が言葉を被せてくる。昨日今日と泣き続けて赤くなった目を見て頷いた。 「俺は、香介との相性、すごく良かったと思うんだけど」 「……まあ、悪くはなかったんじゃねーの」 素直じゃない。Sub spaceに2回も入っておきながら、まだ認めようとしない。そんな強情さも彼の可愛い所だった。 「俺と、パートナーになってくれる、ってことでいい?」 香介は瞼を閉じて何かに思いを馳せた後、徐に目を開けた。春を見つめる真っ直ぐな瞳に、迷いの色はもう浮かんでいなかった。 「……いいよ。なるか、パートナー」 「っ、うん!」 予想はしていたが、それでも嬉しくて思わず身を乗り出す。香介が苦笑してそれを手で制したので、怪訝に思いながらも身を引く。彼は苦笑を緩めて、ふと口を開いた。 「んで、パートナーになるのはいいんだけどさ。それだけでいい訳、お前」 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。自分に都合のいい言葉が聞こえている気がして、目をパチパチ瞬かせる。 「分かんねぇのかよ。聞いてんのか、おい」 「……き、聞いてる。え、本当に……?」 「……あのな。じゃなきゃあんなキスするかよ、普通」 「でっ、でも、え?」 状況を理解し切れていない春に、香介が呆れた表情になる。しかし、急過ぎて、というか予想外過ぎて思考が追いつかないのだ。まさか、香介の方から言い出してくれるとは。 「何だよ、本当に気づいてなかったのか?」 「いや、まさかそんな、積極的に来てくれると思わなくて……」 「あ?俺のこと舐めてんのかよ。……まあ確かに、逃げた奴から言われると思わねぇか」 「違、そんなつもりで言った訳じゃ」 「分かってるって」 コロコロと彼の掌の上で転がされている気分だ。春の心情を見透かしたような笑みを浮かべて、香介がつらつらと言葉を続ける。 「確かに俺は逃げた。けどな、お前とこうなりたくなかったからじゃない。……こうなった後に離れるのが怖くて、関係を変えたくなかった。だから変わる前に逃げた」 3年越しに答え合わせをされた。バーでも確かに、そんなことを言っていたはずだ。 『大事な友達だぞ。DomだのSubだの、そんな下らねえことで壊されてたまるかよ』 『……香、』 『SubにとってのDomは世界に腐るほどいるかもしんねえけどな、俺にとってのお前は一人しかいないんだよ。そんな陳腐な関係に成り下がるくらいなら、いっそ、って……思っ……』 思い返せばとても熱烈な告白だ。世界に一人だけ、なんて。春が胸をときめかせている傍ら、香介はどこか諦めたような顔をしていた。 「……でも、こうなっちまった以上、変わらないとか、無理だろ。色んな意味で」 変わる、変わらない。彼が気にしているそれが、春にはあまりピンと来なかった。 「そうかな」 「……あ?」 「変わらないよ。香介は香介だし、俺は俺だし。何があっても、親友なのも変わらない」 「……でも、」 「変わるにしても。俺は香介のこと、何があっても絶対離さないって決めたから」 言ってから「これは実質プロポーズなのでは?」と気づいたが、言ってしまったらもう取り消せない。何よりこれは本心からの言葉なのだから、後悔する必要はない。 「…………恥ずかしい奴」 顔を背けて、口元を覆う。刺々しい言い方の割に、喜びを隠せていなかった。流れが変わったのを感じ取って、ここぞとばかりに畳み掛ける。 「香介」 呼ばれた彼が目だけで此方を向く。積年の想いを、ようやく面と向かって伝えられる時が来た。深く息を吸って、声が震えないように言葉を紡ぐ。 「……俺、高校の時から……ずっと、香介のことが好きだった」 香介はもう何も言わなかった。言えなかった言葉を、やっとの思いで口にする。 「……俺と、付き合ってください」 香介が、口をきゅっと引き結んだ。また泣いちゃうかな、と思ったのも束の間、ガタンと音を立てて椅子から立ち上がると、春の方へ勢いよく飛び込んでくる。咄嗟に腕を広げて受け止めると、首に手を回してしがみつく――もとい、抱き締められた。 「……言うならもっと早く言え、バカ」 「ごめん。まさか、香介も同じ気持ちだとは思わなかったから」 「察しろよ」 「無理だよ……香介だって、人のこと言えない癖に」 「うるせぇ」 照れを隠すように香介がしがみつく力を強める。力を込めているつもりなのだろうが、全然痛くなかった。 「俺も……春のこと、好きだ」 「……うん」 「だから…………よろしく」 「うん……」 くぐもった声にきゅう、と胸が締め付けられる。やっと、やっとだ。これでようやく、晴れて彼と恋人になれたのだ。 それとなく身体を離して、身構えた香介に顔を近づけると――やはり顔を突っぱねられた。 「なんで!」 声を荒らげて意義を申し立てる。今のはキスしないとおかしいくらい良い雰囲気だったのに。 「お前どうせがっつくだろうが。朝っぱらからがっつくなって言ってんだろ」 「夜ならいいのかよ」 「いーよ」 「いっ……!?」 しれっと言われて思わず硬直する。腕の中から抜け出した香介は、洗面所の入口でくるりと振り返った。その顔は、してやったりとばかりに悪戯っぽく笑っていた。 「ばーか。お前も朝飯食え」 「あ、うん……」 言うだけ言って、すたすたと洗面所の中へ消えていく後姿を見送る。今の軽口の応酬は、高校時代を彷彿とさせた。じわじわと、込み上げてくる幸せを噛み締める。彼から言われた通り、朝食にすることにしてキッチンへと向かった。 彼のために作った卵粥は優しい味がして、涙が出る程ではなかったが、自画自賛できる程度には美味しかった。 朝食を摂り終え、ソファで寛いでいる彼の隣に座る。何やら携帯を弄っていた。 「何してんの」 「大学の友達に連絡」 「なんて?」 「今日の補講休むって」 つまりサボり宣言だ。ギョッとして顔を覗き込む。 「授業あったの!?昨日は休みって……」 「……そうでも言うしかねぇだろが」 千載一遇のチャンスを逃したくなかったのは、彼も同じだったのだろう。 「今度からは正直に言ってね。今日はもう離すつもりないけど」 「おー、気をつける」 気の無い返事は「行けたら行くわ」くらい信憑性に欠けるが、まあいい。逃がさない、と言わんばかりにぎゅっと彼の肩に両腕を回して抱き締める。仮に今から授業に出てくると言われても、離してやるのは到底無理そうだ。今はあまりにも、この温もりが惜しい。首筋に鼻先を擦り寄せて息を吸い込むと、少し汗の混じった彼の匂いがした。 「………………幸せ」 「そーかい」 スマホをテーブルに置いた彼が、身を任せるように身体の力を抜いた。ポンポンと脚の間を叩いて促すと、物言いたげに目を眇めてから、渋々春の身体の内側に収まった。サイズ感が堪らない。なんと肩に顎も乗せられる。ジャストフィットである。 「あ〜〜……」 「…………恥っず」 春の胸板と彼の背中がぴったりとくっついて、言いようのない多幸感が身体の隅々を満たしていく。この体勢は、流石に友達同士の頃には出来なかった。パートナーであっても、不必要だと拒まれる可能性はある。恋人同士の特権であると言えるだろう。腕の中に大人しく収まっている、インナー1枚の薄い身体に擦り寄る。最後の悪足掻きのように、彼が顎を乗せられている肩を小さく揺らした。 「つーか、何すんの今から」 「どうする?何かしたいことある?」 パートナーになることが決まったならば早速、契約書――パートナーになる為の手続きに必要な書類を取りに行ってもいい。と、提案する前に、彼の方から別の計画が提示された。 「……Collar、買いに行こうぜ」 Collarとは、パートナーがいるSubが着ける装具のことだ。一昔前までは首輪様の物しか存在しなかったが、最近では公共性に配慮して、一見すると分からないチョーカーやネックレス、リング等のアクセサリーもCollarとして登録することが認められている。Subが他のDomから脅かされないように守るための、大事な装備品だ。 「いいね。ついでに香介の洋服も見に行こうよ」 「服?別に、着られりゃ何でもいいんだけど」 昨日から着ていたのはツートンカラーのシャツにジーンズというラフな服で、どちらも着心地重視という感じが見受けられた。今のままでも似合ってはいるのだが、どうせならもっと自分好みに染めてしまいたいと思うのは我儘だろうか。 「俺が選びたいの。折角だからプレゼントさせてよ」 「まあ、お前がそう言うなら……」 そこまで乗り気でないように見えて、その実彼が否定しないのは、付き合ってやっても良いという分かりにくい意思表示である。長年の付き合いから、彼のそういう機微には敏かった。そうと決まれば善は急げだ。二人とも外へ出る支度にそこまで時間は掛からなかった。 再び駅に向かい、電車に乗ること約5分、街に出て店が立ち並ぶ通りを二人で並んで歩く。隣を歩く彼は、しげしげとショーウィンドウを眺めていた。 「ひっさびさに街まで来たかも」 「あー、俺も。最近なかなか買い物来られなかったから」 春も、街に出てくるのは随分と久しぶりだ。ここ数ヶ月は家と職場の往復で、精神が疲弊し切っていた。楽しい買い物などいつぶりだろうか。そこでふと気づく。 「これ、デートじゃん」 「今更かよ」 「え、香介は最初からそのつもりだった?」 「………………」 無言は肯定だ。どうやら気づいていなかったのは春だけだったらしい。鈍すぎる自分自身を恥じた。 「えっと、手でも繋ぐ?」 「外でイチャつくの好きじゃない」 「あ、うん、そうだよな」 言い出しておきながら、彼は何となくそうだろうという予感がしていた。返答は予想通りで、ジーンズのポケットに右手を突っ込んでガードされてしまう。少し残念な気持ちもありつつ、近くにあった店に足を踏み入れた。 「香介、これとこれと、これで着てみて」 「ん」 目を引いた服を選んで、彼に手渡す。試着室に消えた彼を待つ間、適当に店内をうろついて時間を潰した。考えるのは自分の着る服――ではなく、無論香介のことである。 (可愛い系も似合うけど、シンプルなのも良いよなぁ……アウトドア系も似合うし、香介ってもしかして何でも似合うんじゃないか?) 惚れた欲目かもしれないが、香介は男の中でもかなり「可愛い」部類に入る容姿をしている。平均より低い身長に、小さくて丸い形の良い頭、顔は目が大きめで童顔、手足もそこそこ長い方だ。今は痩せ過ぎて少し痛ましい姿だが、体型は服の形でカバーできる。そこは春の腕の見せ所だ。 「ほら、着替えたぞ」 「お、…………」 試着室から出てきた彼に、思わず数秒間見惚れてしまった。 「なんか言えよ」 「…………めっちゃ、良いです」 「あそ」 少しオーバーサイズ気味の紺のパーカーに、中には生成りの襟付きシャツ、下はベージュの少しゆったりとした幅のあるパンツで、全体的に緩くダボッとした印象がある。だがそこがいいのだ。大きめのシルエットで、細過ぎる体型も上手くカバーできている。狙い通りだ。 「お前センスあるんだな。知らなかった」 「あ、ありがとう……確かに、学生の頃は制服ばっかりだったもんな」 「今度からはお前に選んでもらおうかな」 「えっ、いいのか!?」 「なんでそこでテンション上がってんだ」 彼を自分色に染めるお許しが、本人から直々に出たも同然だからだ。選んだ服はその場でタグを切ってもらい、そのまま着ていくことにした。支払いは勿論、春持ちだ。 財布を鞄にしまっていると、おろしたての服に身を包んだ彼が眉を下げて此方を見ていた。 「……本当にいいのかよ。結構するぞ」 「いいんだって、気にしないで。俺が楽しいだけだから」 それに、服を贈る理由は自分好みに仕立て上げたいからだけではない。店員に見送られて店を出た後、彼の耳元でそっと周りに聞こえないよう耳打ちする。 「お返しは、夜にたっぷりしてもらうから」 目をまん丸に見開いて、次の瞬間バスン、と良い音を立てて肩を殴られた。骨が当たって地味に痛かった。 「っ……馬ッ鹿じゃねーのお前!」 服を贈るのは、それを自分が脱がせたいという意味も込められている。というのは誰が言ったのだったか。顔を赤くした香介が右耳を押さえて、小声で悪態をつく。 「よくこんな往来でそんな恥ずかしいこと言えるよな、マジで」 「誰も聞いてないだろ」 「聞こえてたらどうすんだっつーの!」 昼間で人通りは多いが、誰も彼も自分達の用事に夢中で他人の話に興味など持っていない。過剰に気を遣う必要もないだろう。 「あとは、Collarだね」 「そうだな。専門店、この辺あったっけ」 「あったと思う……あ、ほら。あそこ」 パッと見普通の外観だが、看板には「Collar専門店」と書かれている。その下には「一見さんお断り!」とも。これは、Nomalの人々が間違って入らないようにするための常套句なので、無視して中に入った。 中に店員の姿はなく、パートナーと思しき二人が三組、店内を見て回っていた。 「うわ、こんな感じなのか……」 仲睦まじそうに首輪の試着をしている二人を見て、香介が肩を竦める。ここに入ってくるのはDomやSubばかりだから、外よりも人目を憚る必要がないのだ。 「色々見てみようか。香介は、どんなのがいいとかある?」 「うーん……別に、ゴツいのじゃなきゃ何でもいい」 「じゃあ、普段から着けたい?それとも、家の中だけにする?」 「あー…………」 顎に手をやって、考える素振りを見せる。向かいのカップルが、指輪を嵌めて無邪気に笑いあっていた。 「……春はどっちのがいい?」 どっちでもいい、ではなくて、春の要望を聞いてくれるのが嬉しい。春の好みに合わせようとしてくれている、此方に歩み寄ってくれているのが何より愛されていると感じる。 「俺は勿論、普段から着けててほしいなと思うけど」 「じゃあ、普段から着けてても目立たないやつがいい」 「分かった。良いやつがないか探してみよう」 首輪は目立つので論外。チョーカーはいかにもっぽいので無し。ネックレスは着脱が面倒くさいという理由で除外。選択肢として最後に残ったのは、リングと―― 「……ピアスか」 ピアスのケースの前で、香介が足を止めた。赤、青、緑、白色の丸い石が一つだけ付いた、シンプルなデザインの物だ。香介は青の石のピアスを指して春を見た。 「これ、春に似合いそう」 「ん、俺?」 「うん。……あ、でも、Collarか」 じゃあダメだな、と少し残念そうに呟く彼を見て、先程のカップルを思い出す。彼女達はリングをお互いの指に嵌め合って、幸せそうに笑っていた。お互いに。 そうだ、片方だけしか身に着けてはいけないという決まりはないのだ。 「……これ、お揃いにする?」 香介は盲点だった、という風に目をぱちくりと瞬かせた。 「……そっか、そういうパターンもアリか」 「アリだね。そうする?」 「……ん、そうする」 無表情に見えるが、普段より僅かに口角が上がっているのが春には分かった。心の底ではとても喜んでくれているはずだ。 春は青、香介は赤の石を選んで、店の奥のレジで会計を済ませる。隣を見ると、彼の白い耳朶が目に入った。 「そういえば香介、ピアス開いてないよな」 「んー……」 何か言いたそうだが、店員のいる前では言いにくいのかもしれない。その場では追求せずにいると、店を出て歩きながら、香介が再び口を開いた。 「……春に」 「ん?」 「開けてもらえばいっかなって。ピアス」 手に提げた袋の中身を透かして見せる。会計は別だったので気がつかなかったが、その中にはピアッサーが入っていた。思わぬ行動にドキドキして彼を凝視する。 「……い、いいのか。俺で」 「大丈夫だろ。自分で開けたことあんだろ?」 「あるけど……」 ピアスを開けると言われて、何となく、耽美な絵面が浮かんでしまった。というか、実際にピアッシングというプレイが存在するのだ。彼は痛みを快いと感じる性質ではないが、それはそれで――いやいやいや。ブンブンと頭を振って不埒な思考を霧散させる。 「……何考えた、今」 「何も?」 「本当かよ」 正確には考える前にやめた。嘘ではない。疑うような眼差しを向けられながら帰途に就いた。 電車の中で、香介に今後の予定を尋ねる。 「今日は流石に帰るよね。お昼ご飯食べていかない?」 「……食べる」 「よし。お腹に優しい物がいいよな……まあ、あるもので作れそうだし、買い物はいいか」 今日の朝、冷蔵庫を見た時は材料がまだ残っていたし、ご馳走を作る訳でもないので、買い出しには行かなくていいだろう。頭の中で献立を練っていると、香介が隣で溜息をついた。 「……本当、何でも出来るな、お前」 「香介ほどじゃないよ」 「…………嫌味か?」 「え?」 本心だ。学生時代から、香介は勉強においては全教科――体育を除くが――隙無しだった。春が特に苦手な数学と化学の時は、よくお世話になっていたものだ。それ以外も大体要領良くこなしてしまうので、同級生や教師陣からは随分と頼りにされていた。春が出来るのは、体育と家庭科のみだ。 「だって高校の時とか、いっつも香介に助けてもらってたしさ。香介がいなかったら俺、卒業できてなかったかも」 「それは言い過ぎだろ」 「本当だって。悠がよく『春が赤点取らないのって絶対香介のお陰だよね。春ばっかりずるい』って文句言ってたし」 「っはは」 思わず、といった風に香介が声を出して笑った。あどけない子供のような笑顔だった。そんな顔、久しぶりに見た。 「悠、元気か。おばさん達も」 「うん。全然変わらないよ」 悠は春の双子の弟だ。春と違って頭が良くて、今は都会の大学に進学している。中学までは香介達と同じだったが、進路が早々に決まっていた悠は、高校から進学校に進んだ。香介とも仲が良くて、あまり遊べないのを悔しがっていた記憶がある。音信不通になってからも、春と同じくらい心配していた。家族ぐるみで交流があったから、家族は皆彼を案じていた。 『母さん、おばさんから何か聞いてないの!?』 切羽詰まった春が問い詰めても、母は静かに春を諭すだけだった。 『……話は聞いてるわ。でも、今はそっとしておいてあげなさい』 母は香介の母の親友で、何か相談されていたのかもしれない。何も話してはくれなかったが、何度か母親同士で電話しているのを見かけたことはあった。その表情はいつも悲しそうで、見ている此方が辛くなるほどだった。 「……俺からも連絡するけど、香介の方から一回、連絡してやってよ。みんな心配してたからさ」 「……そうだな。そうする」 香介は申し訳なさそうに、しかしどこか安堵した様子で眉を下げて笑った。 家に帰るとお昼過ぎだったので、今度はうどんを作った。香介は、流石にもう泣かなかったが、美味いと言ってこれも完食していた。 「ごちそうさまでした」 「お粗末さまでした」 綺麗に空になった器を下げて、食器を洗っている間、香介はぼんやりと何をするでもなくソファに座っていた。今日は少しばかり歩いたから、疲れていたのかもしれない。洗い終わって様子を見に行くと、彼は座った体勢のまま目を閉じていた。 「…………香介?」 「………………んー」 反応が著しく鈍い。試しに頬をつついてみても、何の反応も示さなかった。既に眠りに落ちかけている。わざわざ起こすのも忍びないので、頭を撫でてから寝室へ向かう。クローゼットの中からタオルケットを取り出して戻ると、寝顔が幾分か柔らかい表情になっていた。 身体が冷えてしまわないよう、タオルケットを肩から落ちないように掛けてやる。ついでに眼鏡を外してテーブルの上に置いた。 そっと起こさないよう隣に座って、力の抜けた手のひらをそっと握る。温かい体温に、泣き出しそうになるほどの幸せを感じた。 「……おやすみ」 愛しい彼の隣で目を閉じる。幸福な眠りに落ちるのに、さほど時間は掛からなかった。

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