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1.最悪な再会

 初めて自分のカメラを手にしたのは、八つの頃だったと記憶している。  厳しい父に泣いてせがんで、使わなくなったフィルム式の一眼レフを譲り受けたのだ。手入れは最低限しかされておらずガタが来ていたけれど、子供には過ぎた代物だった。けれどあの時、写真を撮ることの楽しさに目覚めなければ、今の自分はいないだろう。  吹き抜ける潮風を全身で受けて、真新しいデジタル一眼の液晶パネル越しに、夕日の沈みかけて燃え盛る海を見詰める。周囲に広がる砂浜もほのかに赤みがさして、最高のロケーションだった。  ここ須子島(すじしま)は、本土からフェリーで三十分、県の最南端に位置している。黒潮の恩恵を受けた豊かな漁場から水揚げされる滋味のあふれる海産物と、手軽にマリンスポーツを楽しめることで首都圏の観光客に人気の風光明媚な離島である。  (すぐる)がこの土地に移住してから二年の歳月が過ぎた。高校を卒業後、勤めていた就職先がすぐにつぶれてしまい、あてもなくふらふらと旅をしたりして暮らしていた。たまたま流れ着いたこの島の観光協会に勤めている。  今日も仕事の側ら、島内を巡ってはシャッターを切る。  写真を撮ることが好きなのは確かだし、将来的には写真一本で食べていけたら、という願望もあるが、どうしてこんなにこの島の景色に心惹かれるのかは分からない。美しいのは事実だ。ただ、他にも海の綺麗な土地はたくさん見ている。にも拘わらず、ここに居ると、なぜか全てをフィルムに焼き付けておかなくてはならない、という気分にさせられる。  妙な郷愁さえ覚えていた。実家は町から車で四十分ほどかかる、山奥の日本家屋だったのだが。  広い庭に四季折々の花が咲き乱れること以外何もない、人も家も古いだけの、山村だった。  ――『秀さん、このツバキ、とても綺麗に撮れていますね』  小さな手のなかの一枚の写真。一面の銀世界。落ちた真っ赤な海石榴(つばき)。艶やかな黒髪に積もりたての雪のように白い肌。猫のように大きな瞳——そんな幼く可憐な少年の姿が、ノイズのようにちらついた。 「くそ、また思い出した……!」  秀は小さくかぶりを振った。どうして思い出すのだろう。陰気なだけの田舎のことなんて早く忘れてしまいたいのに。 「……そういやなんであの時、カメラ欲しがったんだっけ」  手元のカメラに視線を落として、ふと、浮かんだ疑問が口をついて出た。当時のことを忘れ去ろうとしすぎているのか大事な記憶まで欠落することが増えている。いつか売れっ子になってインタビューを受けたとき答えられないと困るな、と脳内で茶化しながら、しばし考え込んだ。  たまたま撮影した写真を褒められて調子に乗った、という子供にありがちなエピソードを想像してみたものの、そもそも親に褒められた記憶があまり無い。学校のテストは百点以外は見向きもされず、スポーツが得意だというと「それが何の役に立つ」と鼻で笑われる。 中学生を対象とした写真のコンテストで賞を貰ったことがあったけれど「ふうん」と一瞥して終わるような両親だった。祖父は地元の有力者、家はなまじ裕福で、常に優秀な兄二人だけが称賛され、家にも学校にも居場所の無い、非行少年まっしぐらな少年時代だったように思う。  それでも秀が寸でのところで道を踏み外さずに済んだのは、たった一人、絶対的な信頼を寄せる友が近くにいてくれたからだ。 『大丈夫です、秀さん。俺がずっと傍にいます』  ——結局、その唯一の心の()り所さえ失って逃げるように家を捨てたのだが。 「……ハァ」  今日は嫌なことばかり思い出す。  ちゃぷちゃぷと浅瀬に足を浸してみしゃがみこみ、水面を覗き込むと、疲労の滲んだ自分の顔が映り込んでいた。ライトブラウンの短髪に、実年齢より幼く見られがちな容貌は決して悪くはない。 右耳に六つ空いたピアスは、高校時代イキった時の名残だ。当時の先輩に、半端な吊り目が生意気で揶揄(からか)いたくなる、と言われたこともあった。今年で二十一歳だから、もう三年以上前の話であって、今は多少大人びたと信じたい。  空を見上げて、嘆息(たんそく)する。そろそろ帰らなくては上司が心配してしまう。立ち上がった秀は、ふいに、小さなカーブを描く波打ち際の対面に、秀のようにぽつんと孤独に佇む人影を見止め、目を奪われた。 「……」  思わずカメラを構えた。  逆光で顔立ちはよく見えないが、細身で長身のモデルのようにスタイルの良い男だった。フェリーの最終便が入港したばかりのはずだ。泊りの観光客なのかもしれない。  ――撮りたい。  カメラマンとしての自分が疼いた。先ほどまでの秀と同じように、ぼんやりと夕日を見詰めている。幸い秀の方には気づいていない。  一枚だけ。カメラに収めるだけ。  そう自分に言い聞かせ、指先に力を込めた瞬間、男がこちらを見て、秀は目を(みは)った。 「……(すぐる)、さん?」 「……は?」  なぜ自分の名を知っているのか。  男の姿を視認した瞬間、秀はぎくりと硬直した。封じられていた記憶の扉が、キィ、と悲鳴にも似た音を立ててこじ開けられてゆく。  (かげ)をはらんだアーモンド形の双眸。仰ぐようなすらりとした長身に、不愛想で何を考えているのか分からない、中性的で冷ややかな美貌(かお)。襟足が長めの艶やかな黒髪。  こんなところにいるはずがない。彼は自分より二つ年上の故郷に捨てて来た、親友で——。 「……ゆ、き?」  どうしてお前がここに——そんな言葉さえ出てこなかった。彼がこちらへ一歩踏み出した瞬間、秀は弾かれたように(きびす)を返し、全速力で駆け出していた。 「秀さん!」  懐かしい友の声に思わず足を止めそうになる。  背後から彼が追いかけてくる気配がした。捕まってはいけない。忘れたと思っていたはずの顏は以前と変わらぬままで、鮮明に思い浮かべられるほど、まだまだはっきりと自身の記憶に刻まれていることを思い知らされた。  純粋な驚きか焦燥か、異様なほど心臓が早鐘(はやがね)を打って息が上がる。 「来るな! ……ッあ」  砂にサンダルごと足をとられて(つまづ)く。なおも裸足で走り出そうとした秀の腕を、背後から伸びて来た手がぐっ、と強く引いた。 「どうして逃げるんですか!」 「っ」  彼の瞳を真っ向から見つめ返してしまう。怒気をはらんだ視線に射すくめられ、動揺のあまり目頭がじわっと熱くなった。  ああ、まるで変わっていない。責めるように冷たい無表情と、どこか機械的な涼しい声。  涙が出そうなほど懐かしくて愛おしい。 「……ッ、放せ、触んな!」  強引に腕を振り払い、よろめきながら距離を取る。掴まれた部分が妙に熱を持って疼いた。  秀は慌てて顔を背けると、サンダルを拾い上げて夕暮れ時の砂浜を疾走した。  ――最低最悪の日だ。  背後から聞こえたような気がした声は、彼の呟きだったのか、呼びかけだったのか、それとも(さざなみ)と潮風の生みだす幻聴だろうか。 「秀さん、なんで……」 「ッ、俺は————!」  お前に嫌われたくなかったから、ここまで逃げて来たのに。

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