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25.哀しきあの夏の思い出よさらば

 寄せては返す細波を聞きながら、朝焼けの浜辺を、秀と雪彦は静かに並んで歩く。  ぽつぽつと星々の散らばった紫色の朝空は、やがて澄んだ青へと変わるだろう。  まだ薄闇のけぶる時刻に集会所を出た二人は、海へと足を運んだ。  二人が再会した浜辺だった。 「お前さあ……加減しろよ……すっげー腰いてえ……」 「俺は最初に忠告しましたけど」 「限度ってもんがあるだろ!」 「煽りまくる秀さんが悪いんじゃないですか。自分が何を言ったか覚えてます? 忘れたなら教えましょうか」 「や、やめろ! 思い出したくない!」  真っ赤な顔を両手で覆った秀を見て、雪彦がふっと口もとを歪めた。  本当に意地の悪い男だな、と思う。惚れた弱味かどれだけひどい目に遭っても嫌いになれそうにない。 「……ねえ秀さん、結局、どうして俺を捨てたんですか?」 「あ?」 「色々と勘違いを拗らせてたのは分かったんですが、それはそれで腑に落ちなくて。別に秀さんが家を出なくても俺を追い出せば良かったじゃないですか。っていうか半年も待てば俺はあの家を出たわけですけど」 「捨てたっていうか、逃げたっていう方が正しいんだけどな」 「……逃げた?」  雪彦がふいに足を止めた。斜め後方を見やると、神妙な面持ちでこちらを見据える彼と視線が交差した。もう、どちらも、互いから目をそらさない。 「……俺と居ない方が、お前、幸せになれると思ったから?」 「……ちょっとまだ訳がわからないです」 「だよな、俺もどこからどう説明したらいいのかわかんねー」  雪彦に向き直り、秀は腕を組んで言葉を探す。 「あの家じゃあさ、俺よりお前の方が大事にされてた。お前もなんだかんだあの家に馴染んでたし、ずっと俺の方がいらない存在だよなって思ってた。で、あんなことされて、お前から離れようとしたわけだけど……お前を追い出して、お前の幸せとか平和な生活ってやつを奪うのは嫌だった。お前に嫌われるような真似したのは俺だし、全面的に悪いのは俺だし」 「……へえ、つまりあの頃から秀さんも俺に惚れてたんですね」 「たぶんな」  平然と笑って返すと、雪彦は虚を突かれたようにたじろいだ。  少しずつ、今になってやっとこの男の扱い方が分かってきた気がする。  秀は足元の砂を蹴散らしながら口元がにやけそうになるのをこらえた。 「ずっと気づかないフリしてたけど……まあ自覚したから余計に離れなきゃって思ったんだよな。言ったら流石にお前でもキモがるだろうし、っていうかもし流されて受け入れられたらヤバイなって」 「俺、そんなに色々と緩そうに見えますか?」 「緩いっていうか……俺限定でホイホイなんでも言うこと聞くじゃん。なんか昔から無条件に俺を甘やかすだろ? その甘さにずるずる依存して、お前の将来とか自由とか、全部俺が奪って、縛り付けちゃうのを想像したらもう色々無理だった」 「……否定は、できないです」 「だろ?」  秀のためなら嫌いな食べ物も好きなフリをして食べる。エイプリルフールの分かりやすい嘘に引っかかる。色違いの物を買い与えられたら秀が好きじゃない色の方を選ぶ。  こういった雪彦の自然な振る舞いは、傍から見れば己を殺して主人を立てる従順な僕のそれだ。  でも実際は違う。雪彦自身の好意による忠誠の賜物だった。  思い当たる節が多々存在したのだろう、雪彦は顎に手をやって「なるほどな」と呟いた。  緩やかな風が二人の間を吹き抜けた。遥か向こうの水平線の果てから、鮮やかなオレンジ色の太陽が姿を見せ始める。 「俺はさ、アホだから、お前が親父たちの後継いで、綺麗な女の子と結婚して子供作って、そういう未来の方が幸せなんだろうなって思って」  ——でも結局、全部、俺の早とちりだったな。  秀がきまり悪そうに言うと、雪彦は「本当に」と苦笑した。 「ああもう、ずっとすれ違ってたんですか、俺たちは」 「そうだな……意地張らずに全部話してたら、こんな色々こじれなかったな」  雪彦の将来、実家との確執、不安は消えないが、今ほど互いに寂しい思いをすることはなかっただろう。 「あの、秀さん」 「ん?」 「また、俺を傍に置いてくださいますか?」  神妙な面持ちの雪彦が、上ずった声で問いかけてくる。  当たり前のこと過ぎて、でももし違う意味だったらと思うと簡単には答えを返せずに、秀は問い返す。  誤解が溶けても互いに言葉が足らないままだった。 「傍に、って」 「こうしてあなたに再会できて、確信しました。俺はあなたと共にありたい。俺は、あの会社には入りません。あなたのいない場所に何の未練もない。手に職をつけてあなたを養って、あなたの夢を応援します。だから——どうか俺を傍においてくださいませんか」  どこまでも、あくまで下手に、これまでに見たことないぐらい不安そうな呟きが、|潮騒《しおさい》に溶けて消え入る。  許可なんてとらなくてもいいだろうに。  これまでのツケだろうか、どうしても言わせたいらしい。  秀は頬を撫でさすって、照れ隠し混じりに答えるしかない。 「そんなの……当然に決まってるだろ」 「……本当に?」 「……なんだよ」 「いえ、……まるで、夢を見ているような気分で」  感極まって緩んだ口元を引き締めた雪彦の真剣な眼差しが、再び秀を射る。その鋭さと重さに、秀は思わず身を引いた。 「どんなことがあろうとも、もう簡単に離れたり、逃げたりしません。言い訳せずにあなたに真摯に向き合います。だからあなたも、どうか俺を放さないで」 「……ああ」 「裏切ったら、殺してくださっても構いませんよ?」 「物騒なこと言うな」  どうやったらそこまで思考が飛躍するのだろう、と困惑を隠せないでいると、 「いえ、わかってます……色々と確かめたくて意地悪を、つい。やっぱりその反応って照れてるんですよね、不機嫌なんじゃなくて。素直じゃないのは相変わらずですね」 「うっせーな」  久しぶりにはにかんだ雪彦を見て、思わずシャッターを切る。そこでふと、これまでに見てきた様々な光景が瞼の裏側で弾けた。  一面の銀世界に慎ましく色を添える真っ赤な海石榴。  燦燦と降り注ぐ日差しを受けて揺れるひまわり畑。  レンガ造りの建物。漁港。エメラルドブルーの湖面。濁った温泉  パンをかじる白鳥。真っ赤に熟れたさくらんぼ。  渓谷の水面を漂う紅葉。ダブルピースで微笑む稔と理。  小さな雪だるまを手のひらにのせた雪彦。 「……ああ、そうか」 「?」 「写真を撮り始めた理由を思い出した気がする」 「へえ?」 「俺が目にしてきた色んなものを、お前にも見せてやりたかったんだよな」  遠い眼をしてはにかむ秀を、雪彦が眩いものを見るような眼で見て、微笑みを返してくれる。  ずっと一人で留守番だった雪彦。この町が気にかかったのも必然で、地元を離れて過ごす彼に、母親の故郷を彼自身に見せたいと思ったからなのかもしれない。  でも、もう、雪彦のためだけの写真は要らない。二人で共に見た景色を、それぞれの記憶と瞼に焼き付けていけばいいのだ。  今なら、彼と一緒なら、自分の思い描くままの写真を撮ることが出来る気がする。 「今度は俺自身を連れて行ってください。あなたが俺に見せたかった景色のある場所に」 「ああ、一緒に行こうな!」  夜明けが来て、砂浜がほのかに赤く染め上げられてゆく。  伸ばされた雪彦の腕にとらわれながら、幸せを目いっぱい噛み締めて頷いた。  実家のこと、雪彦と自分の将来のこと、不安はまだ少し拭えない。  でも、これから先はずっと雪彦が共にいてくれる。それだけで何もかも、どうにか乗り越えていける気がする。  ここに至るまでがそうであったように。  もうきっと、あの夏の日を思い起こして、後悔して、自己嫌悪に陥るようなことはない。  雪彦の顔も実家のことも、大事な思い出の一つとして受け入れていける。  少しずつ夜が明けていく。  二年の時を経て再会した二人は、今度はどちらも逃げ出すことなく、並んで同じ速度で歩み始める。  再会の地で、二人の明るくて前途多難な”これから”が、始まる。  

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