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【2020/05 牢獄】③

《2019/5 第二週 水曜日 夜》 父の入っている療養型病棟を出て、タクシーでホテルに向かう。 到着し飯野課長の名前を出すと、案内を受けて一階奥のプライベートラウンジに通された。 個室はないが、品のいい調度品で整えられ、明るすぎず、席配置も存分な広さがあり他の客と接触せずに済む。 まだ飯野課長は来ていないので先に席に着いて、とりあえず飲み物を頼み、飲みながらメールで到着した旨を打っている間に飯野課長はやってきた。 「すまない、待たせたかな」 「いえ、大して」 声がしたので顔を上げると、課長はこちらをじっと見て突っ立ったまま暫く固まっていた。 「相変わらず、お美しいことで」 「やめてくださいよ、最後に会ったのいつでしたっけ?」 長谷の父が亡くなったとき以来なので、もう5年も経っていると言った。 そして察したとおり、長谷は、おれを【あの時】現場で発見し、救出したあの刑事さんの一人息子であることを吐いた。 長谷の父は膵炎で亡くなったことは知っていた、但し具体的な原因については知らない。 葬儀には母親は来なかったこと、父方の親類が中心となって執り行われたこと、周囲の大人が対応していたので当時長谷はおれとは会っていないのだということも語られた。 「膵炎とは聞いてたけど、やっぱ酒ですか」 「そう、もともと飲まない人だったのにさ」 そう言いながら、飯野はジャケットの内ポケットから一枚、色の褪せかけた写真を出した。 栗毛のゆるいウェイブヘアでそばかすのある可愛らしい若い外国人の女性と手を繋いで、手足が太い体格のいい男の子が海辺に立っている。 「これ、子供時代。隣が母親な。常にこれ奴のデスクに置いてあったのよ」 「あぁ、ハーフなんだ。なんか腑に落ちた」 そうだ、動画で見たとき気になってたから、近くで顔見たら、動画の通りちょっと目がカーキ色っぽくて少しそばかすがあった。 「このお母さんはなんで葬儀にはいなかったんですか?」 「国に帰っちゃっててな、父方の人間がご実家に連絡とって頼み込んでも断られた」 「原因は酒ですか」 「いや、それ以前」 そもそも、飲まない人が飲むようになったトリガーがあって、そこが原因ということか。 「じゃあ、酒飲むようになった原因ってなんですか」 「そりゃ嫁と子供が出て行ったことだろな。でもそれよか、出て行った原因が多分、先生が一番知りたいことに直結してる」 一番知りたいこと? 【長谷が何故水球辞めて警察官になったか】に、親が出ていったり酒に溺れるような要素があるのか。 「何があったんです?長谷、なんか問題でも起こしたんですか」 「起こしたというかな…なんというか、まあ最終的には被害者ということで実質お咎めなしになったけど、めでたしめでたしとはいかなかったんだわ」 脳裏に、検索したときに出た記事の内容が蘇る。 在籍していた学校名に、水泳部内で強制わいせつ事件、処分とあった。 やはりその件に関わりがあるのか。 「長谷、何があったんですか、被害者って」 「いやあ、それこそ個室で話したいんだが…しょうがない、ちょっと隣、もうちょい近く来てくれ」 席を立ち、飯野課長の左隣に座る。 「まあ、じゃあできるだけご内密に。これでどうです」 了承して飯野課長が反対側から小声で話し始める。 長谷はそもそも最初からゲイで、途中で何かあって指向が変わったわけではなく元々そうだったという。初恋は小学校低学年のとき、図書室で貸出係をしていた図書委員のやさしい上級生だったのだそうだ。 但、母親が非常に保守的な地域出身のキリスト教系のカルト集団の出身で、LBGTQへの理解は勿論全くなく、また性や恋愛や婚姻そのものについて大変に潔癖で、幼少時から常あれこれ口煩く言われており、自慰に気づかれた際には厳しく叱責されひどく折檻されるなど、精神的に追い詰められており、とてもじゃないが言い出せなかったと本人は言っていたそうだ。 母親は、普段はやさしく、むしろベッタリと全体的に甘かったが、その部分においてのみ何故か異常に神経を尖らせていて、激昂して人が変わってしまうのだという。 このため彼がゲイだということも、その事実を言うに言えずにいることも、全く母親は知らなかった。 但、自慰は行なっている様子はあり、度々繰り返し諭していたそうだが、異性に感心を示すことを表すものが彼の生活に存在しないことに疑問は持っていたらしい。 父親としてはあまり干渉すべきではない、母親が狂信的で正しい性の知識がなく無理解なことについても異を唱え、本人に判断基準がないうちに信仰を強要してはならないと言っていたため度々衝突があったという。 将来を慮り母親は信仰する教義を繙いて、熱心に繰り返して繁殖の意義、自慰や中絶の罪深さ、婚姻や純潔の重要性を一方的に説いたが長谷は徐々にそのような説教や干渉にうんざりするようになった。 母親の過剰な干渉から逃れるためにではあるが、普段から昼休み興じていて馴染みがあったバスケを部活で本格的にやるようになり、そこで頭角を著し、それがきっかけで不在がちだった父親も彼の教育に積極的に関わるようになったが、そこで更に教育方針の違いで夫婦が衝突することは増えたようだった。 やがて地区大会を観に来たプロチームの幹部からスカウトされユースチームに入り、そこでプレイするようになり、その実績を基に長谷は推薦で高校に入学した。学業成績も優秀だったため、学費や寮費の免除対象者として迎えられての入学だった。 尚、学校はアスリート育成に力を入れている有名校で近隣に系列の女子高もあるが、実質男子校という環境であった。 入学後、当然引き続きバスケをやる予定だったが、ユースで既に存分やりこんでいたため、学校での部活は他の競技に挑戦したいと考えていたらしく、暫くは様々な部に体験入部しており、直ぐには入部先が決まらなかった。 平均より背が高く強肩で手も大きいことから球技以外に水泳部と、その中の水球のチームからもアプローチがあり足を運んだ際、そこに指導に来ているOBに一目惚れしてしまったのだそうな。 「抑圧、矯正されてたものがそこで暴発したんですか」 「そのとおり」 なるほど、性的欲求に自制が効かないのはそこが原因か。 いや、自分も人のことは決して言えないが。 性欲と好意が一緒くたなのは、母親から性や恋愛や婚姻について整合性一貫性を追求する価値観を過度に刷り込まれてしまった結果なんだろうか。本人の指向や希望を無視して押し付けてしまえば、それはそれで虐待になってしまうんじゃなかろうか。 「で、暴発したことで何が起きたんです?」 飯野課長は頼んでいたドリンクをウェイターから受け取ってがぶりと飲み、溜息をついてから話し始めた。 「初対面のそのOBというか先輩を待ち伏せて呼び止めて迫ったんだとよ」 「…は?なんて…!?」 思わず言ってしまった。 何それ、子供って怖! 「先生、声」 改めて近づいて小声で話しかける。 「すみません、続きを…てか迫ったって…」 「あ、藤川先生もゲイでしたよね、聞いてて催したら抜きに行ってきていいですから」 いやいや、いくらおれだってそこまで人でなしじゃないし見境なくはない。そもそも猥談聞かされてるようなノリじゃないでしょうに。 「お気遣いなく」とだけ答えて続きを聞く。 そのOBというか先輩に一目惚れしてしまった長谷は、その日部活終わりまでその人に付いて手伝いをしながら見学し、その人が最後に施錠して出てくるのを待った。そして、この部に入って絶対に役に立つので付き合ってほしいと迫ったのだという。 通常なら先ず入部してもらえるのは有難く歓迎しても、いきなり一目惚れして一日みっちりくっついて好き好きアピールしてきて、帰り際まだ何も知らない相手に付き合ってほしいと告白してくる、好意を抱いた相手を疑うことも知らぬ距離ナシ後輩なんて地雷間違いないし、真っ当な大人なら諭して断る。 しかしところが、そのOBはその申し出を承諾して、一度施錠した更衣室の鍵を開けて、室内に引き込んだ。 言うことは必ず聞くこと。 この交際を口外しないこと。 水球チームに加入し実績を出すこと。 この3つを求めた。 そして長谷は、その要求を飲むと答えてしまった。 そのまま、その場で着衣をすべて脱ぐよう求められ、室内にある合皮のベンチの上に押し倒して全身を舐りあげられたという。 相手は長谷の上に跨りその内部に長谷の性器を埋めて腰を動かすなり、手で扱くなり、口に含むなりと繰り返し弄んで、燃え尽きて完全に脱力仕切るまで何度も射精させた。 同性にしか性的興味や好意を持てないにも拘らずそのことを言えず、自慰もままならない禁欲的生活を送っていた少年には衝撃が過ぎた。 好意を持った相手とはいえ、一方的に身体を弄ばれてショックを受けた長谷は水泳部には近づかないことに決め、バスケ部への入部の意思を固めたが、その晩のことでOBから強請られるようになり、結局逃げられなくなってしまった。 入部後も事ある毎、好意を盾にそのOBから強請られて性行為に応じざるを得ず、ズルズルと関係していたという。 しかし、長谷はすべての約束を果たすため全力で競技に取り組み、新人戦までにはレギュラー入りを果たし、期待に十分応える活躍を見せた。 しかも結果が出せたことで競技に集中したい欲が出てきて、バスケのプロユースを辞めて転向する旨を一旦父親に相談し、正式に申し出、受理されて退団。本格的に水球に打ち込んだ。 学業成績も維持しつつ、順調に実力を付け、チームでの信頼を得て、リーダーとして活躍するようになり、やがて強化選手や代表として選抜され、大人に混じって公式試合でもプレイするようになった。 やがて、もともと心身の強さに恵まれていた長谷は、OBがどんな性行為を強要しても全く動じなくなっていき、むしろ引き続きまだ成長が続いていた長谷は更に上背や筋肉量や体力がつくにつれてテストステロン優位な体質が強化され、より激しい性的欲求を持つようになり、それを夜毎相手に容赦なくぶつけるようになっていった。 長谷に実績とネームバリューが付いて、体力や気持ちの面でも完全に立場が逆転すると、今度は体を提供する対価としての金銭を要求されるようになった。 OBの彼は大学進学後も競技は続けていたものの、そこまで芽が出なかったため出戻って母校に指導員として採用された立場で、非正規で将来の生活に不安がある状態だったのだという。 しかしあくまでも相手に好意を持っている故の行為だった長谷は金銭の要求を断った。 断られたことで、OBの彼はこれまでの行為をあちこちにリークして回り、これにより長谷はゲイであることをアウティングされる形となった。 強要や金銭要求されていた被害者であったとはいえど、同意の上で校内で性行為を行なっていたことも露呈し、進学の推薦を取り消された。 ニッチな競技だけに噂はあっという間に広がり、競技自体を続けることが困難になった。 処分は特に言い渡されなかったが、出席日数や単位や活動実績は十分足りていたため自ら謹慎し、自宅にて学習やトレーニングに取り組んで、12月に年度最終の警察官採用試験を受験している。 警察官採用試験を受けたのは父親の勧めによるもので、これには学校側も協力的だったという。 試験合格後、民事で争っても相手から何も取れるものはないと踏んだ長谷の父親は相手のOBを名誉毀損にて刑事告訴するに踏み切った。結果的に不起訴にはなったが、相手は学校にも業界にも地域にも残ることはできなくなり完全に縁が切れ、その後脅かされるリスクは無くなった。 但、それは長谷本人も同じで、これまでの学校生活や活動で繋がりがあった人々とは関わることが難しくなった。 その後、長谷はゲイであること自体は特に隠しはしないものの、プライベートな付き合いは極力排するようになり、友人も作らず、特定の誰かに好意を寄せることや性的欲求を向けることは徹底的に避けるようになった。 また、実家を離れて都心で必要最低限のアイテムしかない環境に身を置き、プライベートはほぼ勉強とトレーニングにあて、昇進には食いつくように取り組んで、生じる性的欲求や侘しさは対価を払い都度性風俗で発散する生活を送るようになっていた。 実家を出てからは後ろめたさからか帰省などで戻ることも殆どなく、連絡も取ることさえあまりせず、父親が飲めない酒に頼るようになってしまっていたことを知らなかった。入院したことを知り面会に来たときにはもう父親は余命幾ばくもなく、手遅れだったという。 父親が亡くなって、長谷は父方の親類を頼って葬儀を出し、相続手続き等すべて終わったあと、実家の土地建物は売りに出し家財も処分して住宅ローンを完済、アルバム数冊分とお骨の一部だけを引き取って、あとは親類に託して、独り今の賃貸物件に入ったという。 偏った思想があり適切とは言い難いものの母親に可愛がられて育ち、影は薄いものの進路や部活動には協力を惜しまず支援した父親が居て、本人も意欲やリーダーシップにも恵まれてチームで信頼されていたのにも拘らず、性的抑圧やら赤の他人ひとりの性的振る舞いでこんなに歯車が狂うのか。 明るく、むしろ誰から見てもちょっと人が好い好青年というか、素直で好まれる人柄にしか見えないのに、そんなことがあったなんて、ましてやそんなストイックに自分を追い込んで孤立した生活しているなんて、俄には信じられない。 しかもそれが好意を盾に利用され搾取される苦しみとプライバシーを売られる辛酸を味わった結果だなんて、それこそ絶対に、おれのようなクソ野郎は関わっちゃいけないじゃないか。 なのに、なんでおれに。 欲求や好意に応えてしまえば、これまで通りおれも好意を盾に性的に利用して搾取して身も心もボロボロにしてしまう。 多分、ハルくんにしているみたいに。 「先生、すごい怖い顔してますよ、大丈夫ですか」 目の前に掌をひらひら翳すのが見える。 「飯野さん、なんでおれに託そうと思ったんですか」 「だってなんか似てないか。あと単純にこんな巡り合わせなかなかあるものじゃない」 「似てませんよ」 苛立ちを隠せずきつい口調で言ってしまった。 「てか将来を見据えてとかじゃなくて、そんなざっくりした理由で?」 「勿論それだけじゃない。検死官になるには今後どう駒を進めていけばいいですかって相談があってさ、鑑識経験したいのはあくまでもその為の前段階っぽいんだ。それだったらじゃあ、完全に技術系に行くか、それをステップに他の課目指すのかとかは取り合えす置いといて、本人の希望を前提でやるかと」 将来的に法医学やるなら先回りで、長谷の父親と縁のあるおれに頼んでみようとなったのか。 気が早いようにも思うが、やはり期待があるのか。 似てないかと言われたが、どこが似ていると判断したポイントなのかを尋ねた。 ゲイである。 陵辱され貞操を失っている。 性的逸脱が治らない。 生育環境が途中大きく変わっている。 家庭との縁が薄い。 当たりはいいがそれでガードしている。 ストイックで人を寄せ付けない。 なるほど、言われてみれば。 とは言えど、長谷とおれには決定的に違うところがあると思う。 それは【自分を信じているかどうか】のような気がする。 長谷は、自分が持っている能力を信じているからこそあの素直さや人の好さのようなものがベースにあるんだと思う。根底で人に対する信頼を疑ってたとしても、そういう面を感じさせない余裕がある。自身を押し出して率直に伝える気力がある。 おれは自分を信じるどころか、自分が何者なのかずっと不安で、人に手を借りては検証したり再構築したりを繰り返して、でも手は借りても相手を信頼し切れないから、試し行為やリトライを何度も繰り返す。気づかれたり近づかれると引いてしまう。 「うーん、そう言われると似ているというか、コインの裏表っぽい気もするな」 「まあ、かもしれないですね」 次に言うことは、ずっと話を聞いている間言うかどうか迷っていた。微妙な間が空いてしまったが、迷った末、言っておくことにした。 「てかコレ飯野さん口外しないで欲しいんですが、基本的に、全面的におれの日頃の行いが悪いんでそのせいもあんですけど、長谷、おれを抱きたいと思ってるっぽいです」 「わ、マジか…」 さすがに引くか。 「本気になるなってのは少しきつく言いました。あとうちの助教とか他の奴からも深入りすんなとか言われたっぽいんで、まあがんばるんじゃないですかね」 「先生、やめてくださいよ、そういうのは」 だめだ、即答できない。 「まあ、今は教育者としてがんばることにしますよ」

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