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【2020/05 業】⑨
《第二週 金曜日 午後》
小曽川さんは先生に代わって調べ物をしたり、メールを返信したり、静かに地道に仕事をこなす。
おれはおれで午前中行なったことから気づいた点や反省点をまとめたり、報告書作成したり、細々とやることがあったので進めていた。
「ん~、1時間経ちましたね。長谷くん、先生のガラホにかけて起こしてください。いつもかけてるおれがかけるより効きそうだし、長谷くん体力あるから大きい声も出せるでしょ」
「え、寝起きの先生の声なんか聞いたら、おれの体がどうにかなっちゃう気がするんですが」
それまで下を向いて印刷した文書を見ていた小曽川さんが顔を上げる。
「なんでそんな二人揃ってドスケベなんですか?ゲイの方ってそんななんです?」
違います、人によります。そんなことないです。それは偏見ですよ偏見。
なんでって言われましても。寧ろそれは俺も知りたい。どうしたら体の欲求に気持ちが引っ張られずに済むんでしょう。
「とにかくかけてみてください、ダメだったらあっちの部屋のドア蹴破ってもいいですよ、あの人自腹で修理費くらい払えるでしょうし」
「はは、そんなことしませんよ、器物損壊でおれがお縄になっちゃいますって」
スマートフォンを出して、先生の業務用のガラホの番号を表示して呼び出す。隣の部屋からデフォルトで入っているふわふわした電子音の音楽が流れているのが聞こえる。しかし、応答しない。
「大丈夫ですよ、切らないでそのまま待ってたらそのうち取りますから怒鳴りつけてやってください」
そんなことおれの立場でやって、見学打ち切られちゃったら傷心でおれの心が死ぬ。
「あの、小曽川さん、先生のこともしかして嫌いだったりします?」
「仕事については尊敬しますが生活能力がなくて乱れててめちゃくちゃ軽蔑しているところが一部あってちょっと苦手なだけです」
それは嫌いなのでは?と思いつつ、応答を待つ。鳴らし始めてから3分ほど経ったところで、呼び出し音が消えた。切られたか!?と思い画面を見ると、通話中になっている。
「ぁい…藤川です…」
「先生!長谷です!一時間経っちゃいましたよ?起きてください!」
返事がない。それどころか電話越しに深くゆっくりと気持ちよさそうに寝息を立てている。まるで起きる気配がない。
「先生!」
「んだよ…起きてるって…」
ようやく体を起こしたのか、ソファのスプリングとフレームが軋む音がして、そのあと「ん~~~~~」と声を出して伸びをしている様子が聞こえてきた。
「はあ…なんで長谷がかけてんの…南の仕事じゃん…」
「いや、小曽川さん、おれがかけるより効きそうだし、長谷くん体力あるから大きい声も出せるでしょって…」
ふーっと溜息をつくのが聞こえる。座ったまままた寝たりしないだろうな。
「今鍵開けるから、長谷だけちょっとおいで」
「え、でも、」
「いいから、適当に理由つけて来なよ」
そこまでで通話は切れた。仕方ない、なんとか先生のところに行かないと。
「小曽川さん、先生起きたみたいなんでコーヒーでも差し入れしてきます」
「あ~、長谷くんやさしいね…おれそんなことしたことないですよ」
よかった、無難に済みそうだ。
「あ、変なことされそうになったら言ってくださいねほんとに」
先生、本当に仕事以外信用されてないし、やはり嫌われてるのでは。
一旦建物を出て、カフェテリア横のコンビニでカフェラテを買ってから先生の部屋に向かう。ノックすると、まだ眠そうなくぐもった小さい声で「ふぁい…」と返ってきた。
引き戸をそっと開けると、室内が暗い。社交性の高いカーテンできっちり窓が覆われている。ソファの上に毛布を被った長い塊があり、そこから白い華奢な素足がのぞいている。
「先生、やっぱまだ起きてないじゃないですか」
笑いを堪えながら、足音を忍ばせて静かに近づいて、顔のあるほう方に回り込み、毛布を捲った。先生は寝ていた。スクラブのままで、ずり下がって首筋から肩のラインと、様々な痕が顕になっている。
「な!?」
一瞬大きな声を出しそうになって、自分の口を塞いだ。声を小さくして耳元で「先生、服どうしたんですか」と言うと、「ろっかー…とってきて…1126だから…」と言い、まだウトウトしている。もしかしてそのために呼んだのか。
「わかりました。じゃあ、カフェラテ置いとくんで、それ飲んでちゃんと目を覚ましておいてくださいね、絶対ですよ」
「…ん…」
本当かなあ。しかし、寝れないと言ってたの、重傷なんじゃないだろうか。なかなか眠れないというよりは、寝ると数時間で覚醒して起きると寝付けなくて疲れてくると電池が切れたように寝てしまうタイプっぽいな。学生時代にも居たなあそういうヤツ。
先生はちゃんと治療は受けているんだろうか。ご実家病院で勤め先も医大で、心理学からの精神医学分野からの、って人だから、受けていないってことはないか。
解剖室横のロッカールームへ行き、藤川先生のロッカーを開く。ダイヤルキーの番号まで教えて取りに行かせるなんて、おれを職業で信用し過ぎでは。警察官だからって悪意がないとは限らないじゃないか。
服は皺にならないよう、それぞれ滑り止めが効いたハンガーにきれいに掛けてあり、細かいものも畳んで上の網棚の籠に収めてある。その籠の中で、私用のスマートフォンの通知LEDが光っている。一緒に持っていってあげなくては。
他に持って戻らないといけなさそうなものがないか、かかっている衣類の下、下段の網棚やその下を覗く。革靴も置きっぱなしだ。明日の網棚には小さいボトルに詰め替えたハンドクリームやボディローション、シャンプーリンス、携帯歯磨きセットなどが並んでおり、その脇に未使用のスクラブが包装に入ったまま立ててある。
しかし、更にその奥にさらに同じサイズの籠があり、何かストックしてある。そっと前のかごを少し引き出して中を覗いた。その中身を見た瞬間、驚いて前の籠を落としそうになった。そこに入っていたのは、シャワー管長用のノズル、直径のあまり大きくないプラグ、ラミネートチューブに入った青いローション。
いや、そういうもの、シャワーがあるからってそこに置きます?職場ですよ?先生?これは見なかったことにして、さっさと戻らないと。
ハンガーに掛かっていた服を目立つシワができないよう畳んで腕にかけて、革靴を持って、スマートフォンやネクタイや靴下はポケットに突っ込んで、ロッカーを施錠して先生の部屋に戻る。
ノックすると、今度は普段どおりのはっきりした声で「どうぞ」と返ってきた。
中に入るとカーテンが開けられて部屋全体がやんわりと明るくなっており、先生も毛布やクッションを片付けてソファの上で片脚だけ胡座をかいた状態で座っていた。さっき置いていったカフェオレは飲んでいる途中だった。
先生の傍ら、ソファの背凭れ部分に持ってきた服をかけて、スマートフォンを手渡す。
「先生、置いてあったんでこれも持ってきましたよ」
「おつかれ、ありがとう助かった。カフェオレももらっちゃったし、何かお礼しようか。長谷は何がいい?」
最初口元は笑っていなかったのに、今は笑ってくれている。この人、もしかして、最初はおれのことかなり警戒してたんだろうか。
寧ろもしかして今って、信頼してるとかじゃなくて、甘えている?15も年下のおれに?いや、そんないきなり。極端な。
でも、だったら今だったら言えるかも。
「じゃあ、見学期間終わったらでいいので、おれと外で会ってください」
先生が真顔に戻る。
「え、やだよ。期間終わったらやらせてくださいとかしゃぶってくださいならいいけど」
「基準おかしくないですか?いきなりそんな図々しいこと言わないですよ!」
言うに事欠いて、職場でそんな事言う?首から耳元まで熱くなって、じわじわ汗が出る。
その様子を見て、先生はニヤッと意地悪く笑った。
「あれ?あんなにちんこ勃ってたのに?」
ひどい。いや、それについてはもう、何も言い返せない。
「じゃあ何がいいの?飯でもおごる?」
今此処でできそうなお礼、と思ったら1つしか浮かばない。
「いえ、じゃあ、今ここで、頭撫でてください」
「えー、長谷こないだ撫でたときも勃ってたじゃん、性的サービスじゃん」
「いやいやいやいや、性的な意図ヌキで、ですよ!」
「嘘だあ、長谷のえっち」
先生はおれのことをからかいながら、ソファから立ち上がって徐にスクラブを脱ごうとする。
「じゃあね、そこで好きなだけおれが着替えるの見てていいよ、着替え終わったらナデナデしてやるよ」
…先生…それは…おれにとっては十分ガチの性的サービスです。
小曽川さんこの会話聞こえてるんじゃないかな、また怒られますよ先生。
等々こちらが動揺するのを意にも介さず淡々とスクラブを脱ぎ着替え始めている。
よく見ると、先生の体は細いけど意外と前は鳩尾から下、背面も背中の下半分から臀部にかけて筋肉がついている。反面デスクワークが多いせいか、二の腕や前腕、内腿は思ったより柔らかそうだ。胸や膝上の皮膚は年相応にやや下がり、膝から下は細い。
体中の痕が痛々しくも艶かしく、乳頭に揺れるカフスバーベルはよく見ると細かなレース模様に鳴っており、真ん中にオパールが埋め込まれている。
「ねえ、長谷はさあ、いつ自分がゲイだって気がついたの?小さい頃からそうなの?」
「あ、はい、そうですね…よく遊んでくれた近所のお兄さんが好きでした」
そういえば、そういうこと誰かと話したことってなかった。そういう知り合い自体作ったことがないからだけど。
「そのころもおれみたいなガリガリの性悪そうなのが好きだったの?」
「いえ、結構やっぱ瞬発力が要る感じの運動系の部活とかやってるそうな短髪で押しが強目の人が好きで」
「ふーん」
シャツを着たあと、腿にシャツガーターを着けてシャツの裾を留めて、靴下を履いて、ソックスガーターでそれを留めてから、スラックスを履き、ベルトを締めて、ジレを羽織った。ネクタイを締めて、袖を折ってフレンチカフスを留める。
暗い紺色から黒のグラデーションになっているきれいに磨かれた革靴に履き替えると、先程の気崩れたスクラブでしどけない表情をしていた先生から、一部の隙もなさそうなスンとした顔のいつもの先生の姿に戻った。
先生はいつから男の人が好きなんだろう。その痕をつけた相手はどんな人なんだろう。
「長谷、おいで、ここに座りなよ撫でてあげるから。」
手を引かれて、ソファに座るよう促されて腰掛けると、目の前に立った先生がおれの頭を両腕で包んで、おなかに抱えるようにして抱き寄せて、恭しい手付きで髪の毛の根本を逆撫でるように撫でた。指先が時折耳介を掠め、駆り立ててくる。
「先生、まって、ダメ、ストップ」
「何がダメ?性的な意図はないよ」
こんなの生殺しだ。
脚の間にあるものが息づいて、脈打って、俺に訴えかけてくる。
先生の手が耳元からエラ、顎の下の薄い皮膚をなぞって、おれの口元に触れる。次の瞬間には無意識にその指を甘咬みしていた。
その指を引き抜いて舐めて先生が言った。
「躾がなってないなあ」
おれは先生の細い腰にきつく抱きついた。
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