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【αγάπη (agape)】②

《第二週 土曜日 昼》 母のいるサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)に来た。基本的には住宅部分については賃貸借契約、生活支援サービスを提供する場合は、別途サービス利用契約を締結するものだ。 母の場合は、特にどこが悪いというわけでもなく、生活の規模を縮小して父がいる病院の近くに住みたいという選択で入居したので、単に「食事が出て、何かあったら対応してくれるフロントがある賃貸物件」に住む人だ。ホテル住まいに近いものがある。 前回会ったとき、一旦父の付添は休んで外出したい、気晴らしに付き合ってほしいと言われていたので、途中呼び出される可能性があるけどそれでもよければと了承し、慣れない街に呼び出すのも心配なので一応迎えに来た。 駅までの道すがら、コンビニに寄ってコーヒーを買って、飲みながら歩いた。 「何か別にほしいわけでもないんだけどぶらぶら見て歩きたいの、新宿なら玲くん詳しいでしょ」 「まあね、帰りはうちに寄る?晩ごはんはお付き合いできないけど、お茶するくらいなら」 「それはいいかな、プライバシーもあるでしょ、仕事のお邪魔になるといけないし」 使い慣れないicカードにチャージして改札を抜ける。母はベンチに腰掛けると「玲くんとでかけるなんていつぶりかしら、中学の時みんなでホテルでお食事したの憶えてる?アレ以来じゃない?」とこちらを見上げて言う。 「どっちかの入学のとき内祝買いにデパートに行かなかった?お父さんめちゃくちゃ張り切ってたのに、うちだってもらったもの余してるんだから消えものでいいでしょってお母さんが言ってさ」 「…あ~…あった…だって同じ予算で家庭用品だと結局似たりよったりなんだもの、商品券か消え物がいいでしょう。今みたいになんでも好きなことに使えるカードがあったらよかったけど昔だもの」 やはり、こうやって、父を挟まなければ、二人だけで話している分には別にどうということもない。 藤川の家に入ってからのおれの父との関わり方がまずかったために関係がおかしくなっただけで。 但、当時、俺が何故関わり方を間違えたのか、その辺りは今もよくわからない。 ハルくんと関係を持つようになって、そういう関係を脱してから「仕方がない部分はある」と、大学に入ってからは「転移に付き合うべきではなかった、わたしもよくなかった、玲だけ責めるべきじゃない」と話していたことはあった。 速度を上げて駅を飛ばす快速列車の車内に機動音が響く。混んだ車内で声量を上げて話すのもよくないので、母は黙って流れる景色を見ている。おれがスマートフォンでゲームをしているとどんなゲームなのか気になってちょっと覗き込んできたりもしつつ。 新宿に着いて、新南口側に出た。今日の予定はあてのないウィンドウショッピングなので、無駄に往復して消耗しなくて良いように、新南口から出て新宿三丁目を経由して東口から西口へ抜けて再び南口か甲州街道口の辺りで見送りということで合意した。 「ねえ、わたしアレ食べてみたいわ、有名なフレンチトーストのお店があるってテレビでやってたの」 「ああ、あれ三丁目の交差点の辺りだよ。あれならおれも食べられると思うしいいよ」 改札を出て、百貨店の店内に入って、婦人雑貨のフロアを回ってあれこれ手にとって見ているのを一歩後ろから眺めていると、なにか思いつめた顔で母が振り向いた。 「そうそう、玲くん、今日少しだけお願いがあるの」 「どうしたの?」 なんだろう、財布でも忘れてきたんだろうか。 「ほんと恥ずかしいんだけど、さっき改札出るまでの間にちょっとはぐれそうになったから、人の流れが早くて混んでるとこ通るとき、袖でも裾でも鞄の紐でもいいけど掴まらせて…」 拍子抜けして吹き出してしまった。 「ひどい、さっき姿が見えなくなって怖かったんだから!玲さん背も高くないのに歩くの早いし、服も目立たない色だし」 「えぇ…髪型でわかんないかなあ…」 「わかんなかったから恥を忍んでお願いしてるんじゃないの」 小さい女の子みたいに頬をぷうっと膨らませてみせる。それがまた面白くて尚更笑ってしまった。 「いいですよ、別に袖とか裾じゃなくて、腕でも手でも掴んで」 そう言うと今度はきょとんと目を丸くしてパチクリ瞬きした。 「え、平気なの?」 「うん、今のお母さんだったら多分」 右手を差し出すと、年相応に薄くなって皺の寄った手で、そっと握る。 「おばあちゃんになったからかしら、年取るのも悪くないものね」

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