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【αγάπη (agape)】⑤
《第二週 土曜日 夜》
先生の住むマンションは東新宿と若松河田の間、少し奥に入ったところにあって思ったほど高い建物ではなく、特別景観が良いわけでも新しいわけでもなく、思ったより地味な建物だった。
バブル期に分譲された物件で持ち主は、先生の師匠である、こないだ見学に行った多摩の法医学の教授先生らしく、家賃は相場の半分以下どころか心付け程度、通常なら郊外の1K程度の金額なのだとか。
転向するとき既に多摩に転居していた師匠が「きみ多摩に来るんだよね?だったらここ住みなよ、このまま遊ばせとくのもアレだけど補修面倒だし、でもほっとくと借り手つかないし。好きにカスタムしていいから住まない?知らんやつに貸すのも嫌だし。今の部屋から通うの不便でしょ?」と貸し出してくれたのだと教えてくれた。
部屋は当初結構大変な状態だったものの、とりあえずクリーニングしてほぼ何もない状態で入居して、徐々にリフォームしたり、家具を買い足したりして、以来ずっと住んでいるのだと。
「家賃は安いけどその代わりクリーニングとかリフォームでめっちゃカネかかったし郊外に家買ったのと変わんないよ、してやられたわ。親にもそういうとこお人好しすぎるって笑われたしさ」
エントランスのロックを交通icカードで解除してエレベーターホールに入り、エレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押す。エレベーターを降りてすぐ目の前の部屋が先生の部屋だった。日照権の関係でこの階は部屋数が少ないようだ。
先生の部屋だけ、他の部屋とは違う立派なスライドドアに付け替えられていて、暗証番号でロック解除する電子キーになっている。入るとすぐ左に縦長のシューズラックと傘置き、いつぞやネットで見て絶対手が出ないと思った電動スタイラー、小さい手洗い場があった。
「長谷も上着入れておいていいよ。手洗ってうがいしてな」
先生は上着を脱いでスタイラーの中に入れて、玄関の手洗い場は俺に譲って自分はその先の洗面台や洗濯機置場のある脱衣所で手洗いうがいをしていた。覗き見る限り、めちゃくちゃどれも立派できれいにしている。モデルルームか此処は。(大学の部屋もそんなだった)
足元を見ると、三和土と廊下に段差がない。脱衣所の入口も段差はない。徹底してバリアフリーにしてある。そりゃあカネかかりますよ先生。老後の準備早すぎません?
ジャケットのポケットに入れていたものを取り出して、スタイラーの中のハンガーに掛けた。指示されたとおり手洗いうがいをし、水回りと手をホルダーに入っているペーパータオルで拭いてから、横にあるポンプから消毒液を出して手を消毒した。
「洗った?真っ直ぐ突き当りリビングだから適当に休んでていいよ、着替えるからもう少ししたら行く」
浴室の扉を開けて靴下を脱ぐのが見えた。ああ、帰ったらすぐシャワー浴びて着替える人なのか。
そう思いながら廊下の奥のスライドドアを開けると、サラサラとした紐のような暖簾的なものが顔にかかった。くぐって手探りで電灯のスイッチを探す。
入ってすぐ左にワーキングデスクにノートパソコンとタブレットが置いてあり、エアコンと照明のリモコンが並んでいる。机のすぐ上には木の枝で編んだような繊細な丸い照明が下がっている。
灯りを点けると、天井には全面的に薄い布がかかっていて直接光が当たらないようになっており、尚且つ色は電球色で通常の今の照明としてはかなり暗い。
立派なワークチェアとその後ろにスピーカーや電子機器や充電機器の並んだ棚とキャビネット。窓側には通常コーナー置くような立派なソファとカフェテーブルとスツール。その前にはバカでかいテレビ、ロールスクリーン、天井にプロジェクタ、ありとあらゆるゲーム機器と録画再生機器。ホームシアターシステム。
正直こんだけ充実していたら家から出なくていいというか、出たくなくなりそうな充実ぶりだ。
窓は白のプラ段で作った内窓に凝った飾り枠をつけてあり、やはり外からは直接中が見えないようになっている。それでなおかつミラーカーテンとコーティングカーテンもつけてある。防音断熱のため?厳重すぎる。
入口横には空気清浄機や加湿器や除湿機と並べてあって、右側には凝った形に入口を開けてあってそこにはカーテンが掛かっている、その向こうは寝室だろうか。
ソファの脇に買ってきた荷物を置いて振り返ると、ワークチェアの奥にキッチンらしき空間が見える。タッセルで留めてはあるが、そこにも丈の短めのレースカーテンとコーティングカーテンがあって閉じられるようになっている。生活感を徹底して殺しにかかってる。
「何突っ立ってんの?座っていいよ面接に来た人じゃないんだから」
部屋着に着替えて、頭にまるでベールのようにバスタオルを載せたまま先生が入ってきた。
今まで見たことがなかった黒縁の眼鏡を掛けている。
薄手の紺色の7分袖の襟ぐりの広いTシャツと淡い青みがかったグレーのタンクトップを重ねていて、細い肩が際立って悩ましい。下は膝下がリブになった白っぽい更に淡いグレーのカーゴパンツ。黒のフットカバー。
「え、かわいい…」
更に呆然としていると、先にソファの中央に座って自分の左隣をポンポン叩いた。
「四十がらみのおじさんが可愛いわけないでしょう、いいから座んなさい」
示された場所に腰掛けて、横目で先生を見る。
片脚だけ胡座をかくように折って座り直して、何やらスマホで返信をしている。覗くのは悪いと思い、カフェテーブルの上のテレビのリモコンを手にとった。
「先生、テレビ観てていいですか」
「ん、いいよ。BSもCSも入ってるし、NetflixもHuluもYouTubeも観れるからそれ」
起動すると、めちゃくちゃいい音質で放送が流れていた。CSでスポーツ中継をしているチャンネルを流し見る。いい、良すぎる、先生の子になりたい。
浮かれて暫く独り言を言いながら観戦していると、返信が終わったのか先生がじっとこちらを見ていた。
「長谷、めちゃくちゃ楽しそう」
「そりゃ楽しいですよ、もうここに住みたいです」
先生は吹き出してから「そういうのよくないよ、チョロすぎるでしょ」と笑い転げた。
「そんなすぐ喜んじゃってさあ、悪い人に利用されちゃうよ、おまわりさんなのに」
利用されちゃう…そうだね、そうなんだよ先生。利用されてたんだよ、おれ。
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