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【Ἔρως(Erōs)】②
《第二週 土曜日 夜》
「てか長谷さあ、何のためにうち呼んだと思ってんの、ごはん食べて勉強するんじゃなくていいの?」
先生はワーキングデスクに移動して、パソコンを起動しながらからかうように言った、
そうです、そうでした。
そう思ってファミレスで買ってきたお弁当と、コンビニで仕入れてきた飲み物をテーブルに出して食べ始めるも、その様子を机から興味深そうにじっと先生が見ている。食べづらい。
「先生、本当はおなかすいてるんじゃないですか?ちょこっと分けましょうか?食べます?」
ホイコーローと海老春巻の弁当を見せると首を左右に振った。
「さっきフレンチトースト半分だけど一緒に食べる羽目になって結構大変だったんだよ」
フレンチトースト?はんぶんこ?いっしょ?どうしよう、もしかしてデート帰りだったのかな。余韻ぶち破るようなことしてしまった。てか、そんなだったらショックすぎるんですけど。
「誰かとお茶してたんですか?」
「うちの母親」
一気に脱力した。よかった、違った。
「なぁんだお母さんかあ」
「なんだじゃないよ、おれが木の股から生まれたとでも思ってたか?…まあ育ての母親だけどさ」
育ての?と思っていたら先生が察したのか「おれ、養子だからね」と補足した。
再び事件のことが頭をよぎる。実のご両親が殺害されて、今の藤川家、それが藤川英一郎さん宅というなら、話は完全につながる。しかしここで唐突に親御さんの名前を訊くのは不自然すぎる。
「そうなんですか、時々会われるんですか?」
「まあ、不義理な息子で申し訳ないけどね、たまには会うよ」
そう言うと、先生は起動したパソコンで何かしらのファイルを開いて、入力を始めた。テレビの音を小さくして、できるだけ静かに食事を進めることにした。
ある程度水気が取れたのか、途中で床にタオルを丸めて捨て置いて、後ろの棚からマットな質感の紺色のぱっちんどめを出して、先生は前髪を上げた。額の大きな傷痕が顕になる。
もうおれが既に見て知っているからか、先生はおれがその様子を見ていることについてはさして気にしていないようだった、
食べ終えた弁当殻を捨てに、先生の後ろを通ってキッチンに行くと、使用感のないきれいな空間が広がっていた。しかし、キッチンと高さを合わせた腰の高さの横長い業務用の冷凍冷蔵庫があり、その上にはオーブン、レンジ、炊飯器、ポットと必要最低限のものは揃っており、戸棚も昔作られたものであろう頑丈そうな木製の型ガラスの入ったものがあり、中には4人位分ずつ食器が揃えてある様子だった、
あまり食べない人が一人で暮らす空間なのに、アンバランスで不思議な感じがした。本当は誰か出入りしているんじゃないだろうか、ほんのりとした嫉妬で胸が騒ぐ。
戻るついでに先生が置いたタオルを手にして、トイレを貸してもらうことを告げた。脱衣所を挟んで風呂トイレが独立しており、廊下を挟んで向かいの部屋が書庫だと教えてくれた。洗濯籠にタオルを放って、トイレを借りに入ると、洋式便座の他に壁に埋め込む形で男性用の小便器もついていた。今時珍しいが床や壁を汚さないためには本来必要だし、ありがたい。但し、おれにはちょっと位置が低い。
用をなんとか足して出て、自由に見ていいと言われていたので、手を洗って水気を切って消毒してから書庫に入ってみる。装飾はまったくなく、窓もパネルで塞いであって真っ暗だ。灯りをつけると本当に部屋をぐるりと囲むように天井までびっしりと本が並んでいて、平行に胸の高さくらいの書棚が2列置いてありそこも満杯、収まりきらない分は上に重ねたり床に積んであったり、とにかく凄まじい量だった。
詳しく言うと本だけではなくて、DVDやCDやゲームソフトなんかもめちゃくちゃある。本の種類も別に学術書だけではなくて、図録やら漫画やら小説やら、雑誌のバックナンバーなんかもそのまま積んであったりもした。先生、オタクっぽい趣味ではなさそうだけど、興味の守備範囲が凄まじく広いんじゃないか。鉱物や昆虫の標本のようなものまである。
クローゼットの扉も開いたままになってて、段ボール箱が積んであったり、はたまた衣装ケースに季節ものの衣料や寝具の替えカバーなどのストックが入れてあったり、結構雑然としている。読みたい内容の本を探すだけで一晩かかってしまいそうだ。先生に直接こういう本を読みたいと言って出してもらうしかないのか。でも、仕事中の手を煩わせるのもなあ。
積んである本の中には先生自身の著書や、寄稿した雑誌の献本と思しきものなんかもあって、そういうのは複数冊あるのでくださいって言ったらくれないだろうか。単純にどういう内容の仕事をしているのか、読んでみたい。
「長谷、なんか探してる?」
「うわぁ!」
気がつくとすぐ傍に先生が居た。いつの間に?何の気配も感じなかった。
「おれだったらこの中何がどこにあるかだいたい分かるけど、普通に一見しただけじゃわかんないでしょ」
いや、そうですけども。びっくりしすぎて言葉が出ない。
「あぁ、おれの書いたやつ見てたの?いいよ、余分にもらってるから持って帰っても。長谷の仕事にはあんま関係ないと思うけど、ハイ」
何冊か手にまとめて、おれに手渡した。
「あとは?文字ばっかりになっちゃうけど、学生向けの教科書っぽいやつとかハンドブックくらいだったら調べながら読むと頭に入れやすいかも、これとかこれかな」
更に数冊分厚い本を手にとって、おれの手に載せた自著の上から更にドカンと載せた。紙質がいいやつのせいか、単純にページ数が多いからか、一般的なコミックスのような本よりめちゃくちゃ重い。
「と、とりあえずこれだけあれば、おれ読むの早くはないんで週末いっぱい大丈夫です」
「あっそ、じゃあ戻るか」
書庫の灯りを消して、廊下を歩いてリビングに戻る姿を後ろから眺める。授業中や外を歩いていたときとは全然違う、足音を立てないようにした歩き方は、猫みたいで見えてかわいい。けどその姿は華奢さと線の細さと相俟って、そのまますうっと消えてしまいそうですらある。
「あ、本読むとき部屋の明かり明るくしていいからな、色もいじれるから昼白色にしてもいいし」
部屋に入ると机の上のリモコンで照度を上げて、色を少し青みのある色に寄せて「このくらいでもだいぶ違うでしょ、これでいい?」と振り返った。衝動に任せて抱きしめたいけど本が重くて何もできない。せめて一旦置きたい。
ソファ前のテーブルに置いてから先生の方を向き直ると、もう先生は仕事に戻っていた。タイミングよ…。
「そういや長谷ってなんかゲームとかやる?疲れたり飽きたら別に遊んでもいいしテレビ視てもいいし、おれのこと気にしないで好きにしていいからな」
椅子と机の間に埋もれるように座り、机の下のスツールに脚を伸ばして載せて、時々タブレットで何か確認したり本を捲ったりしつつ、ひたすらタイピングしている。
気がつくと先生の傍らに茶色い真空容器の水筒が置いてあり、何か温かいものを飲みながら作業していた。中身が気になって訊いたら「もう夜だから白湯だよ、刺激物摂ると割とすぐ寝れなくなる」と言って、ピルケースから出した錠剤を口に含んでその白湯で流し込んだ。
テーブルに戻って、ソファとの間に胡座をかいて座る。出してもらった学生向けの本を広げて、時間を確認するためにスマートフォンを置いた。よく考えたらこの部屋、時計がないのだ。あと、さっきトイレ行ったときドアが開いてたから覗いたけど、この家、風呂場に鏡というものがなかった。脱衣所のシャンプードレッサーにも。玄関にも。
寝室は見ていないから、もしかしたら向こうには姿見くらいはあるのかもしれないけど、目覚まし時計くらい置いているのかもしれないけど、なんか直感的に、ない感じがする。そんな気がする。
わからない用語をちまちま検索しながら、本を読んで気になる箇所や知らなかったことに細いフィルムの付箋を貼って、方眼ノートに書き出して整理していく。
先生がキーボードを叩く音と、おれがページを捲っては書いたり消したりする音だけが聞こえている。先生はおれが書庫にいる間やったのか、プラ段の内窓もミラーカーテンもコーティングカーテンも隙間ができないよう閉じて、透明なポリカーボネートのピンチで3箇所くらいしっかり留めてあって、外からあまり音が入ってこない状態になっていた。
「先生、いつもおうちではこんななんですか」
90分ほど経ったところで、一旦休憩することにして、先生に話しかけてみる。
「まあ、最近居るときは仕事してるか寝てるか二択かなあ」
ディスプレイを見つめて眉根を寄せたまま指でなにか追っている。ちらっとでいいから、おれを見てくれないかなあ。眼鏡かけてる顔なんかいいんだよなあ。
「こんなにいっぱいゲームあるし、視るものも読むものも聴くものもいっぱいあるのに、もったいなくないですか」
そう言うと、先生はこちらを向いてニヤッと笑った。
「なんだ、長谷、おれに遊んでほしいの?」
スツールから脚を下ろして、椅子を引いて立ち上がってこちらに歩いてくる。しゃがんだと思ったら、胡座をかいてたおれの腿の上に頭を載せてゴロンと転がって、下からおれの顔を見上げて「何して遊びたい?」と目を爛々とさせた。
接近が急すぎる。先生、距離感が微妙に遠いか、めちゃくちゃ密接の二択しか無い。心の準備とか心構えをさせてもらえない。おれのこと警戒してるの?なんとも思ってないの?弄んでるの?甘えたいの?どうなの?
「せ、せっかくならリフレッシュに、誰でもできてちょっとサクッとやって終われそうなゲームでもやりません?」
寝転ぶ先生の頬をつついてみる。特に抵抗しないのでそっと摘んでみた。皮膚が薄くてやわらかい。間近で見ると多少年齢なりの粗はあるが、すべすべとして髭などが見当たらない。されるがままになっている先生がちょっと面白い。
「ゲームかぁ、おれ正直ひとりでやりたい人なんだよね」
「え、なんで?今ってオンラインで繋がれるし、人集めて遊んだりしないんです?」
耳朶を見ると、以前ピアスホールがあったと思しき小さな傷痕や、着用していないだけでホールが残っている部分が複数ある。首に残る痕も自然と目に入ってくる。目にする度にどうしようもない嫉妬が胸を灼く。
「しないよお、おれゲーム好きだけど下手の横好きで基本すぐ死ぬし」
「おれと二人だったらよくないですか?慣れてないからおれ弱いですし」
でも、今は先生の部屋で、おれだけが先生を独占している。その事実にゾクゾクしている。
「ん~、じゃあちょっとだけやるか、ちょっとだけだからな?そこそこでやめて仕事に戻るからね。長谷、そのテーブル一旦ソファに寄せちゃって。クッション持ってって前座ってやろ」
体を起こして、先生はソファに置いてあったクッションを両手に抱えて行き、テレビの前にポイと投げ置いた。右側のクッションに横座りで座って、左隣に置いたクッションをポンポン叩いておれを呼ぶ。
「長谷、どんなやつだったらやれる?やっぱ何かの競技とかがいいの?」
「先生がやりたいやつでいいですよ、サクッとやれるやつで」
開始から30分、先生は再び床に…白いふわふわのラグの上で不貞腐れて転がっていた。
とにかく先生は弱かった。普段ゲームをしないおれにすらあっさり負ける。
例えるなら、アクションゲームなら最初の敵に自ら突撃して死んだり、なにか飛んできたら驚いてコントローラーから手を離したり、車運転させるとハンドルの動きごと体が傾いたり、格ゲーだと技出すコマンド憶えてなくて手数で勝とうとするとか…最早ゲームが上手いとか下手だとか、そういう話じゃないのだ。
そしてそれが大変申し訳無いが、見ている分には面白い。ごめん、先生、面白いです。しかも普段そんな無駄に喋らないのに平気でわーとかぎゃーとか言う。面白くないわけがない。でも反面、だから人とやるの嫌なんだな…ってのがすごいわかってめちゃくちゃおかしい。
先生はさっき一回戦目で負けてからずっとゴロゴロしているのだ。
「もぉやだぁ、長谷ばっかずるいおれも遊ぶ…」
起き上がってズルズル膝を擦っておれの後ろに這い寄って、肩に顔を載せて、脇から腕を回して横っ腹をソフトタッチで撫でて擽る。首筋には先生の吐息がかかって、頬と頬が触れる。耳の傍で甘えた声で「長谷~そろそろ代わってよぉ~」と呟いている。この上ない妨害方法だ。胡座かいたままなので先生からは勃ってるのも見えているはず。クソ恥ずかしい。どういうプレイなのこれ。
「だめですよ、これクリアするまで待ってくださいってば、次の決勝はやらせてあげますから」
必死に宥め賺してミッションに取り組むも、先生が今度は裾から手を入れて、人の乳首を指の腹で転がしたり、爪の先で擽ったりしながら、首筋にキスして、舌で下からぞろっと舐めあげて、耳介に犬歯を軽く当てるようにして甘咬みする。
「あ、」
タイミングを逸して、障害物にぶつかってしまった。負けた。決勝進出ならず。
「んもお、先生ってば!そういう事するなら抑制効かなくなる前におれ帰らせていただきますよ?」
徐ろに先生の頭を手で掴む。おれの手がでかいのもあるけど、本当に顔が小さい。
「いたたたた、でも長谷さあ、おれのこともうそういう目で見てるでしょ?はっきり言ってしたいでしょ?」
耳元で普段とは違う声色で甘く囁かれて、再び脚の間のものが息づく。
「したいですよ、したいですけど、見学期間中はまずいですって」
先生の手がおれの口元を探る。薄い小指が唇を割って、舌先や歯を確かめるように触る。
「ふぅん、でもさあ、おれは終わってからじゃ遅いよ?今はやばいって思ってる、その、今じゃないとダメなの、おれはそういう人なの」
手首を上に返して上顎を探られ、声が漏れた。
「長谷、理性捨ててよ。捨てられないならおれをめちゃくちゃにして。それ以外の方法で、どうにでもしてよ」
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