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【1993/12 Can you kill me】⑤ (●)
部屋に戻ると、軽くのぼせそうな程に室温が上がっていた。ベッド手前のスペースに防水シートとタオルが敷かれ、此処に来いと暗に示している。体を拭いたタオルを軽く畳んでその傍らに置き、膝をついた。
「体勢はどうしますか」
「とりあえずそれでいい、座りなさい」
促されるまま敷かれたタオルの上で正座して膝に手を置く。直人さんは目の前までゆっくり歩み寄ってきて、そのまましゃがみ込むとおれの左手をそっと握って持ち上げた。内側の柔い膚には細い白い線がいくつも走っていて、中にはまだ治って間もない赤みを帯び瘡蓋が残っているものも、治りきらず腫れているものもある。
「さっき見て気になったんだ、これは自分でやったのか」
黙って頷くと、線の上を感触を確かめるように舌を這わせ、そのまま掌までなぞり指の先を咬んだ。最初甘咬み程度だったものが、徐々に力が加わって関節を潰すように強くなっていく。「食われている」と思った瞬間、体の芯を強烈な快感が突き抜けた。直人さんはその表情の変化を決して見落とさなかった。口角が片側だけ持ち上がり、形の良い犬歯がおれの指に食い込んでいるのが見えた。
加えこんでいた指を開放すると唇を離し、おれの手を握ったまま左の手で目元を覆うおれの濡れた髪を指で掻き分けた。
「じゃあ、こっちはどうした。目元隠してるのはこの傷のせいか」
暫く答えずにいると、容赦なく頬を張られた。鼻の奥がチリチリしてなにか伝い落ちてきそうな感触がした。あ、出血したなとは思ったが敢えてそれを拭わないととか、啜り上げようとは思わなかった。
「答えなさい玲」
「言いたくない」
もう一度頬を張られて、鼻先に溜まっていた紅い雫が衝撃で飛び散る。再度受けた打撃で本格的にダメージが入ったのか体温を帯びた紅い雫は次々と滴り落ちておれの脚を汚した。
直人さんは最初にあのようなことをさせたのは、行為の下準備と言うだけではなく、おそらくは辱めておれの尊厳を損なわせる目的があっただろう。しかし、おれはただ自分の体内にあるものが出ていくのは自分の中の悪い部分や余計な何かを捨てているような気分になる。指摘されたとおり、口先ではどう言っていようがそうさせられている自分に興奮もする。血を流すことも同じだ。
「そうか、お前躾け直してほしいんだったな」
一旦立ち上がって、テーブルに何か取りに戻ると、その上に並ぶ道具の中から革のベルトを手にとって振り返る。両端を揃えて握り、ループになった部分を斜め下から振るうと空を切る音がした。あんなので強く打たれたら間違いなく痕が残るし膚が切れる。やっぱり、さっきまでのはあくまでも”お試し”でしかなかったということか。
「先ずは訊かれたことはちゃんと答えられるようにしてあげないとな。玲、こちらに背を向けて尻を高くして床に伏せなさい」
言われるままに従い、肘をついて首を垂れ顔を床に伏せる。
「玲、今から尋ねることには全て答えなさい、嘘はだめだ」
重ねた爪先を踏みつけながら命じられ、おれは小さく「わかりました」と答えた。
「もう一度訊くぞ、その額の傷はどうした。何でそうなったんだ」
何から説明したらいいのだろう、なんでそうなったのかは知っている。但し、それは今も自分自身の身に起きたこととしての実感を取り戻せていない。あくまでも後から人に多分そういうことだったということで聞いたものでしかない。
考え倦ねていると鮮やかに空を切る音がして、臀部のやや下、腿との中間の力を込めても防御が効かない部分を横から強く叩かれ、皮膚が弾けんばかりの激しい鋭い痛みに襲われた。思わず声を漏らして呻いた。単純な痛みを通り越して灼けるように熱い。痛みで息が詰まる。タオルにはまだ止まらず滴り落ちる血液が滲んでいく。
「玲、黙ってちゃわからないよ」
「なんで、そうなったかは聞いてます、でも、憶えてないんです」
ベルトの革の冷たい感触が背中に触れる。
「じゃあ、その聞いた内容を言えばいい。言いなさい」
おれはあくまでも伝え聞いたこととして話した。
当時父は少し前に出張先で行方不明になっていて不在で、捜索願が出ていた。この怪我をした日は家に母がひとり家で残っていて、おれは遠足ででかけていた。帰宅したときには母は既に絶命しかかっていて、それを見つけたおれが助けを求めようと電話口に向かったところ、潜んでいた加害者に殴りかかられ気を失った。その時の傷である。
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