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【1993/12 Can you kill me】④
風呂が溜まったから入れと起こされるまでどのくらい眠ってたんだろう、夢も見なかった。大理石が惜しみ無く使われた広いきれいなバスルームの外は既に日が暮れて夜景が広がっている。そういえばいつの間にか部屋もカーテンが閉じられ間接照明と常夜灯がぼんやりと部屋を照らし、部屋に設えられたものの影が浮かび上がっていた。
かるくかけ湯をし、ひどく汚れていたであろう臀部を洗い流そうとすると、思うような感触はなかった。眠っている間に清拭してくれたのだろうか。ボディソープを手にとって軽く泡立てて脂汗をかいた背中や顔を洗い、流してから浴槽に浸り脚を伸ばす。体が冷えてしまっていたのか手足の先がじわりと痺れた。
訊いておきたいことってなんだろう、しかも、山程って。これはもう、この関係を一回きりで終わるつもりはないと宣言されたようなものだ。偉い立場にいるからには知れては分が悪い趣味とはいえ、たかだか性的嗜好を満たすための下僕を手を尽くして探し回って、こんなところに呼び出す時点で相当手が込んでいる。
初日から容赦なく尊厳を奪う仕打ちをしてテストして、尋問して、疑わしいところはないか、裏切るおそれはないか、余地のないよう徹底的に潰しておくつもりだろうか。正式に在籍で体を売るようになったのは最近だが、ウリ自体はそれが初めてじゃない。他人に体を任せることに妙に慣れていることに、向こうはおそらく気づいているはずだ。
今でこそおれは一介の学生でしかないフリはしているが、中学卒業を待たず一人住まいを始めてからずっと、幾度となくおれは誰とも知らぬ相手に体を預けてきた。自分の中にあるものに目を向けたら、考える余地を与えたら、いよいよ自分は記憶を再び失くすか狂ってしまうような気がして、空き時間をつくりたくなかった。切れ目なく目標を立て課題を架して、自分をひとりにして勉強漬けにするのも、結局は同じ動機でしかない。
危ない目に遭うことだって何度もあった。寧ろそれを期待してのことだったけど、誰もそれを叶えることはしなかった。ある時気を失ったときめちゃくちゃビビって逃げ帰ったやつがいて、いくら性癖拗らせてる人間でも後始末考えたらそんな安易にそこまでのプレイには踏み込まないもんなんだな、と気づいた。
今回この話に乗ろうと思ったのは、初見で明らかにカタギではなく、そういうリミッターを期待しなくて良さそうだったからだ。
運が良ければプレイ中の事故で、或いは最初からそれ目的であれば自死しなくて済む。死ぬときの苦しさなんてどうだっていい。
自死ではだめなんだ。そして、死んだ後下手に打ち捨てられて見つかるようじゃだめなんだ。
然るべき処理方法を持っている、或いは知っているであろう相手だからこの話に乗った。
その事自体は言えと言われてば正直に話したっていい。
でも、そう考えるに至った理由については言いたくない。問い詰められたらどう答えよう。
まだ醒めきらない頭で弁明を考えながら浴槽に浸ったまま眼下の夜景を望む。夜も更けたのに周辺の官庁街やオフィスビルにはまだ相当数の明かりが灯っている。
あの中にたくさんの誰かがいて、ひとりひとりがそれぞれに考えがあって、物事の見え方感じ方も違ってて、それが自分に直接関係あることかどうかはわからないけど、それぞれにやるべきことを持って回していて、誰かしら家族や待ってる人がいて、日々の楽しみがあって、それをまた飯の種にしている人がいて、切れ目のない網のように世界ができている。
夥しい数の人間が犇めいているこの世界さえ、たくさんある星のうちの一つのかたちでしかなくて、それさえ長い長い時間を経て今偶々その様になっている。そう思えば気が遠くなる。自分なんか塵みたいなもんだ。
勝手な言い分で家を出て、あちこちでトラブル起こしていたかと思えば、あれこれ受験していつの間にか勝手に学生になって、それでも親からは存分に援助されているのに連絡にも碌に応じず、態々街を徘徊して体を売って金を集めて回ってる。また、いつ救急や警察の厄介になるかわからない。
そんな自分の存在なんて、あってもなくても変わらないどころか、ないほうがいい。
それどころか、最初からおれさえいなかったら、誰もあんなことには。
「おい、物音一つしないな、大丈夫か」
いきなりノックもなくバスルームのドアが開けられ、驚いた反動で浴槽の中で滑って溺れかかった。
バスローブの袖が濡れるのも構わず駆け寄ってきて、おれを引き上げて大きな声で笑った。
「どうした、寝てたのか危ないぞ」
「そんなんじゃないですよ」
浴槽の縁に腰掛けて息をついていると、征谷は頭をバスタオルで覆い、その上から包むように撫でて髪の毛の水気を軽く吸わせた。
「部屋を暖かくしておいたから体拭いたら来なさい、そろそろ続きをしよう」
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