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【1989/05 Salvation】④

《第二週 火曜日》 朝、いつもどおり通用口から入って職員玄関から保健室に向かう。アキくんは既に来ていて、扉を開けると「おはよう」と声をかけてくれた。机には授業で使ったと思われるプリントの束が置いてあって、アキくんはそれを体を何故か揺らしながら読んでいた。 「アキくんは、勉強好き?」 「勉強は嫌いだよ、面白いから見てるの」 普段なら、典子先生が朝から此処にいるはずなのに今日は居ない。やはりおれのことで何かまだ話し合いが続いているんだろうか。アキくんの背後に立って脇から地理のプリントを覗き見ていると、アキくんが振り返った。 「おーいしくんは勉強好き?」 「別に好きも嫌いもないなあ」 アキくんはまたちょっと首を傾げてから、目線をプリントに戻す。扉を二度ノックする音がして、アキくんのクラスの担任の先生が入ってきた。おれに「おはよう」と声をかけて、テーブルに置いたプリントは二人分あるよ、と言った。 言われて二枚ずつに重なっていることに気づいて、アキくんは自分の分とおれの分に分けて揃え直す。午前中はこのプリントとか教科書とか副教材を見ながらワークブックを進めてください、午後から答え合わせをするからやっておいてねと優しく指示して保健室を出ていった。 人の気配が遠ざかるのを確認して、アキくんは口を開いた。 「これ、かわりばんこに問題出しっこしよ」 「うん、いいよ」 一緒に過ごしていて気づいたことがいくつかあった。アキくんのフルネームの名前は藤川玲。おれと同じ2年生。クラスはD。 左利き。ペンの持ち方が変。人の気配や音に敏感で、直ぐに驚く。女性の声や気配があると動きが止まり、声を出さなくなる。やけに落ち着きがなくゆらゆら揺れたり、手足を常に動かしている。よく物を落としたり、直ぐ傍にあるのに探していたりする。自分の足に躓く。 でも、実にいろんなことを知っていて、教科書や教材がなくてもアキくんは出した問題を答えられる。昨日高校の数学や生物の教科書を見ていたくらいだから不思議はなかった。中学の勉強なんか簡単すぎて、つまらないんじゃないだろうか。 出された問題に答えるために副教材の資料集のカラーページをめくっていると、おれの体内から音が出た。乾物を齧って凌ぐと腹の中で膨れはするが、胃の負担は大きい。しかも念入りに噛んでいるとなにげに一緒に空気も飲み込んでしまうのか、そこまで空腹でなくとも内臓が大きく動く度に腹が鳴った。 「おーいしくんおなかすいた?」 「そうかもね」 ストレートに訊かれたのが恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言い方になってしまった。アキくんが困り顔になったのを見て「しまった」とは思ったけど、フォローするための言葉が出てこない。アキくんの横顔を見つめていると、アキくんは下を向いた。どうしよう、落ち込ませてしまった、と思った。 しかし、アキくんは床に置いていたリュックサックを持ち上げて膝に置き、チャックを少し開けて中をゴソゴソ探り始め、なにか取り出した。そして、保健室に人の気配が近づいてこないのを確認してから、おれの膝の上にラムネ菓子の容器を置いた。予想していない展開に頭が混乱した。 「あ、アキくん、学校って、お菓子持ってきちゃいけないんだよ」 「え?なんで?頭使ったらお腹すくのにおやつないの?へんなの」 続けて個包装の焼き菓子や水筒まで出して、カップになった蓋と内側に入った白いプラのカップを外してテーブルに置いて、温かい麦茶まで注いで出してくれた。 「脳はすごくエネルギー使うんだって、エネルギー全体の15~20%も使うんだよ。でも脳のエネルギーにできるのはブドウ糖だけなんだって。1日に120g必要だから、1時間あたり5gくらい要るんだけど、ラムネを1つ食べると0.9gブドウ糖摂れるからたまに食べるといいんだよ。あと炭水化物も体の中で分解されて糖になるんだよ」 説明するアキくんにはいつもの辿々しさがなく、しかもやけに熱く語るので、思わず勧められるままに焼き菓子を食べ、お茶を飲んだ。こんなバターの効いた、滋養がありそうな甘いもの、久しぶりだった。口の中で解けて、アキくんの言う通り脳まで染み渡るような感じがした。お茶を啜って、ラムネも2つ口に含んだ。あっという間に解けて消えた。 「でも、あったかい麦茶にはラムネあんまり合わないなあ」 呟くとアキくんも真似してラムネを口に入れて麦茶を啜り「ごめん、そうかも」と言って笑った。

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