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【1989/05 Salvation】⑤

出された課題はクイズ形式で交互に解いていたら思ったよりかなり早く終わってしまった。 アキくんはリュックサックから図鑑を出して開いている。大きな分厚い図鑑には見たことがない生物が載っていて、お気に入りの動物には付箋を付けたり名前をマーカーで囲んであったりした。おれはもう少しで給食の時間なのでそれを心待ちにしながら、アキくんの様子と図鑑の内容を眺め、話しかけてくる度に応じていた。 そこに、人の気配が近づいてきて、扉を3回ノックした。先生方のように一方的に入ってくる様子がないので「どなたですか」と声をかけると、ようやく扉が開いた。そして扉を開いた途端、アキくんはいきなり席を立って、現れた人物に駆け寄って行きその勢いのまま飛びついた。 「お父さん!」 そこには、アキくんより少し背が高い程度の、白髪交じりの天然パーマが特徴的な、銀縁眼鏡をかけた穏やかそうな男性が立っていた。手には小さな手提げの紙袋を持っている。 「今日からお弁当なのに、玄関に忘れていったでしょう。お薬も入ってるからねって言ったのに」 アキくんは「忘れた事自体忘れてた」と言って笑っているが、その人、アキくんのお父さんはそれに対しても困った顔はしつつも強く叱ったりする様子はない。随分出来た人だな、と思うと同時に、やはりアキくんは何かワケアリの子なのだろうかと思って見ていた。 やがて、アキくんのお父さんはアキくんを少し宥めて、アキくんと手をつないだままおれに近づいてきた。 「こんにちは。きみも保健室登校なんだね。アキくんちょっと変わってるでしょう、困ったこと言われなかった?」 「困らせてないもん」 横から突っ込んでくるアキくんが面白くてちょっと笑ってしまった。 「いえ…むしろ、さっきおれが腹空かせてたらお菓子くれました」 「えっ、お弁当は忘れたのに、お菓子は持ってきたの?」 お父さんがアキくんの顔を覗き込むと、アキくんは含み笑いを浮かべてお父さんから顔を逸らした。そのアキくんの様子を見て、アキくんのお父さんと顔を見合わせて笑った。 「まあ、この通りちょっと変わった子なんだけど、仲良くしてもらえてよかったよ。よかったら今度うちに遊びにおいで。クリニックが入ってる建物の上のマンションに住んでるんだ」 お父さんはそっと紺色のブレザーの内ポケットから名刺入れを出して、一枚名刺をくれた。そこにはクリニックの名前と、精神科(児童精神科・思春期外来)・心療内科・神経内科という文字が入っていた。 「あ、ぼくね、子供の悩みとか、脳や神経の問題の専門のお医者さんなんだ、困ってることがあったら相談に乗るし、秘密は守るよ」 この人がおれの今の状況を知っているわけじゃないし、おれは今の状況じゃ病院にかかることもできないけど、遊びにおいでと言われたことも含めて、単純に嬉しかった。反面、もしかしてアキくんはやはり何かしら問題があって普通学級には行けない子なのだろうかと気にかかった。でも、いきなりそんなこと訊く勇気は出なかった。 「じゃあアキくん、お父さん帰るからね」 「え、帰っちゃうの?」 そりゃあ届けに来ただけだから帰るよなあ、お父さん貴重な休みの日なんだしと思いつつ見ていると、アキくんがつま先立ちになって背伸びして、お父さんの頬の奥、耳元に近いところにキスした。驚いて一瞬息が止まった。アメリカのホームドラマでしか見たことのない光景だ。 「こら、おうち以外でそういうことしないの」 お父さんがアキくんのほっぺたをつまんで言い聞かせると、アキくんは「えへへ」と笑って誤魔化した。でもその表情は、同級生の女の子なんかが好きな人に向ける表情によく似ていて、この年頃の男子が親に向けてする表情ではなかった。おれは何か心の中でモヤモヤする感覚が生じているのを感じた。

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