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【1989/05 Salvation】⑧
午後の授業開始を知らせるチャイムが鳴って、アキくんの担任の先生が入ってきた。
「あれ?藤川くんは?」
思わず小声で囁くように答えた。
「…寝てますね…」
先生はカーテンの隙間から顔を突っ込んで「あら~」と呟いてからこちらに戻ってきた。
「どうしようか、先に答え合わせしちゃう?」
答えが印刷された紙を机に置いて、アキくんが座っていた椅子に先生が腰を下ろした。アキくんはまだ寝息を立てている。
「あの、アキくんのことで、ちょっといいですか」
「ん?何かあった?」
特に何があったわけではないですが、と前置きして、アキくんがどうして保健室登校しているのかを尋ねてみた。すると先生は腕組みして考え込んだ。余程の事情がある様子だ。
「何処から何処まで話していいのかなあ、すごくね、複雑なんだ。藤川くん、今の親御さんのところに来る前に、随分と酷い目に遭っていてね。ショックで記憶がなくなったり、精神状態が子供に戻ってしまっているんだ。お父さんの話だと、社会生活を送るうちにある程度回復するとは思われるとは仰っているんだけど」
ああ、なんか腑に落ちた。妙に幼く感じるのは気のせいじゃなくて、本当に幼いんだ。酷い目ってどういうことだろう。寝ているとはいえ、アキくんがいる部屋じゃ訊かないほうが良さそうだ。
「あとね、そのときに食べられない状態が長く続いてしまったこともあって、体のあちこちが良くないそうなんだ」
薬を飲んでいた理由も、その酷い目が原因なのか。アキくん、今のおうちに来る前に何があったんだろう。
「大石くんは、自閉症って言葉は聞いたことあるかな」
「はい。まあ、でも、どういうものかまでは知らないです」
続けて先生は、アキくんはこうなる以前から、先天的に想像力の質の問題やこだわりの強さで、対人関係やコミュニケーションに問題を抱えた状態にあったとみられていること、他者よりも動物や物や知識に対する関心が強く、社会的場面に合わせたコミュニケーションや同年代の他者との交流が難しいという話をした。
そしてそれに伴って、注意力が散漫だったり、逆に強いこだわりを持って執着したり、音や視界の刺激に過敏に反応したりして、落ち着いて座っていられなくなったり、パニックを起こしてしまうことがある。この障害が原因でいじめに遭うこともあるとも言った。聞けば聞くほどに、納得のできる話だった。
「そういう訳で、アキくんは普通の元気な生徒と一緒の教室で過ごすのは難しいと判断したんだ」
概ねの疑問は解決できた。でも、あと一つ気になることがあった。
「アキくん、女の人の声や姿があると動かなくなっちゃうみたいなんだけど、それも病気なんですか?」
尋ねると、それもその、例の「酷い目」が原因だと先生は言った。そして「それについては、詳しく話せないんだ」と力なく呟いた。
「そうですか…でも、記憶がなくなるって、でも、アキくん随分物知りみたいなんですけど、それまで覚えたことが全部なくなったわけじゃないんですか?」
「いや、それがね。なくなってるのは自分に関する記憶だけなんだって。だから、それまで覚えた知識とか習慣は失われていないんだってさ。不思議だよね」
そのとき、ベッドのあるほうから衣擦れする音がして、影が揺れた。アキくんが目を覚まして、布団の中で寝返りを打って蠢いているのが見える。
「先生、おれ起こしてきますね」
「うん、ありがとう頼むよ」
気取られないようにカーテンの隙間からそっと忍び込んで、一気に布団を剥いだ。
アキくんは、詰襟を着たまま寝てしまっていて、生地に細かな埃が纏わりついてそれがきらきら光っていた。そして、アキくん自身は妙に汗をかいて、首筋や頬が紅潮し、目が水面のように潤んでいた。それがどういう状態か、このときまだおれは理解できていなかった。
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