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【1989/05 komm tanz mit mir】⑦

思えば、これまでアキくんは制服にせよ私服にせよ、必ず少し高い襟があるものを着用していた。アキくんの喉にはかなりしっかり喉仏があって、そしてその下に抉れたような大きな傷跡があった。 傷跡はそれだけではない。首の横、胸や肩口、腕のあちこち、腿にまで切りつけたような傷跡が残っている。それは白い線のようになっているものもあれば、赤黒く盛り上がっているものもある。治ってはいるものの、そこまで古い傷でもなさそうだ。 そして、自分より少し背が高くて、その割に痩せている印象ではあったけど、想像していたよりひどく痩せているというか、窶れている。関節部や肋骨、骨盤の辺りの骨格が生々しくわかるほどに。全体が薄く、手足の細さが華奢を通り越して痛々しい。 頭の中に嫌な考えが浮かぶ。 退行した理由は本当は他にあるのでは。 アキくんが受けた被害は性的なものだけじゃないのでは。 「ハルくん、どうしたの?」 呼びかけられてはっと我に返る。 「あ、ごめんなんでもない。アキくん部屋から何持ってきたの」 「ベビーオイルと毛抜きだよ、一応お風呂入るときお父さんやってくれるんだけど、でも朝になるとまた出てくるからおひげ気になるからあたためてぬくの」 そう言うと一旦シャワーを止めて、洗面器を持って出て、湯沸かし器のパネルを操作してから洗面所のシンクから洗面器に温度の高いお湯を溜めて持ってきた。 「アキくん、温度上げたでしょ、戻した?」 「あっ、戻してない」 声をかけると再び出て、湯沸かし器のパネルを操作してから戻ってきた。危なかった、火傷するところだった。 浴槽の横の高くなっているところに持ってきた洗面器を置いて、乾いたガーゼを浸す。温度は高いけど今朝顔を拭くときよりはアキくんは頑張って絞って、顔に当てた。 「そんなにいっぱい生えてないのに気になる?」 「なるよーへんなかんじするんだもん」 暫く温めて、指で触って気になるところにベビーオイルを塗って、膚を押さえながら先の細い毛抜で抜いていく。見ていると手付きが危なっかしいし刺さりそうで心配になる。せめて鏡を見ればいいのに、と思ってふと見渡して気づいた。 鏡がない。 よく考えたら、この家に入って鏡というものを見た記憶がない。凡その家庭は玄関なりそれぞれの部屋に姿見があったり、お母さんの部屋にドレッサーがあったり、洗面台に鏡がセットされている。この家にはそういうものがない。何故だ。 アキくんは理由を知っているんだろうか。訊きたい気持ちはあったが注意が逸れて怪我してもいけないので黙って待った。アキくんも黙って、ひたすら抜き取った髭をガーゼにとっては改めて気になるところを触って確かめて抜いている。 やがて気が済んだのか、ガーゼを反対に折り返して畳み、洗面器のお湯を空の浴槽に流した。洗面器に冷水を溜め直して、ガーゼを浸して軽く絞って顔に当てて冷やす。 「アキくん、アキくんのおうちなんで鏡がないの?」 「えっ、だって鏡こわいんだもん」 ひとことで疑問は解消した。アキくん、本当に、本当は、何か人間以外の小動物が人間に化けている姿だったりするのでは。実はもとは人間の女性に飼われてて様々な酷い目に遭わされて、脱走でもしてきて保護されたのでは。…たぬきだったりしない?

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